提案のあっけない結末2007年03月01日

 1週間後の手術に向けて検査が始まった。
 10時前に1階麻酔科を訪ねる。待つほどもなく診察室に入ると女医さんが待ち受けていた。型通りの問診が行われたが、現在歯が1本ぐらついている事が問題となった。「次の手術では全身麻酔が必要。麻酔処置の過程でぐらついている歯が抜け落ちる懸念がある。意識があればそれを自分で排除できるが、麻酔中の無意識状態の場合は、最悪の場合は抜け落ちた歯が気管支に入り込むという危険性もないではない。できれば事前にかかりつけの歯科医で抜歯や固定化の措置を薦めたい」とのこと。
 なるほど全身麻酔ともなれば様々のリスクがあるものだ。ましてや高齢の身に処置するとなると既往症への影響も多くなる。患者本人の自主的なリスク回避の努力も必要と納得した。
 診察後すぐにかかりつけの職場近くの歯科医院に連絡した。「手元のレントゲン写真が2年前のものしかなく正確な診断が難しい。できれば来診してもらい、現状を確認して判断したい」とのこと。明日10時30分の診察予約をした。
 13時過ぎ執刀医の来訪があり、足指の移植手術の病院側の協議結果が伝えられた。形成外科と皮膚科の打合せ会議での以下の結論が、患者側の家族も巻き込んだ賛否を巡る論議にあっけなく終止符を打った。①指先患部の悪性腫瘍切除手術を最優先すべき②切除部分の大きさによる不便さはあるものの患部への連続接合手術のリスクは大きい③患部からの再発の懸念が皆無ではない中での接合は、再発の場合手術自体が無意味になる④接合手術を行うにしても患部の完治が確認される半年後以降が妥当。
 要は今回は患部腫瘍切除に止め、必要なら患部完治後に接合手術を実施することが望ましいということだった。一件落着。

久々の職場訪問2007年03月02日

 慌ただしい1日だった。
 朝食を済ませ一息ついてから、外出の準備にかかる。職場近くの歯医者に10時30分の予約をしている。通り道に職場がある。折角だから顔を出しておこうと少し早目に病院を出た。入院前にも職場からウォーキングを兼ねて通院した徒歩20分のみちのりである。10時前に職場に着いた。大病で入院しているはずの同僚の突然の来訪に、誰もが驚きの表情で向かえてくれた。加えて20日近く伸ばすに任せた髭面がダブルで驚きを与えた筈だ。20分ばかり雑談し最寄りの歯医者に向かった。
 歯医者での診察目的は、麻酔措置で金具を口から挿入する際にぐらついている歯が抜け落ちる懸念がないかという点だった。歯科医の判断はぐらついている歯自体が、隣接している3本の歯と結合された刺し歯であり単独での脱落の懸念はないとのこと。その旨の所見を記した診断書を貰い歯医者を後にした。
 帰路についたのは12時前だった。事前に病院食はキャンセルしている。久々に外食を味わうつもりだった。何にしようか思案しながらハタと気が付いた。箸の持てない境遇になっている。握ったフォークでなんとか食事をこなしている状態だった。結局、コンビ二弁当を調達しベッドの横でマイフォークによる昼食を終えた。これからこうしてそのつど新たな境遇での様々の不自由さを味わうことになるという現実をあらためて教えられた。
 夕食を済ませた直後に勤務を終えた娘がやってきた。今週半ばに来訪できなかった妻に代って着替えを持参してくれた。話しの端々で父の病状を気遣う気持が伝わってくる。父と娘だけの何年ぶりかひとときだった。1時間ばかりを病室ですごして娘は帰宅した。

通天閣2007年03月03日

 朝起きた時から今日のウォーキングコースを通天閣と決めていた。朝食を済ませ病院を後にする。至近距離と言ってよい徒歩10分のみちのりである。1階からエレベーターに乗り込むと若者とおばさんの会話が耳に入る。「上はどげんなっとるんや」「俺も初めてやけん」初めて大阪見物にでてきた母親を案内しているにちがいないほのぼのとさせられる光景だった。ここはまぎれもなく大阪のお上りさん御用達の名所だった。いったん2階に出て600円の展望券を購入する。専用エレベーターで5階の展望台にでると360度のパノラマが広がっている。エレベーター出入口のすぐそばには名物のビリケン像が安置されている。案内板でこの像がアメリカの女流作家の想像物であることを初めて知った。数え切れない人達の撫ぜあとでビリケン像は黒ずんでいた。天王寺公園経由で60分ばかりの散歩を終えた。通天閣のエレベーター内での「通天閣とは天に通じるの意味です」という案内ガイドがなぜか心に残った。
 昼食後、メールと知人のブログチェックをした。私とほぼ同時期に脳梗塞の病を得た知人のブログに発病直後の心境が綴られていた。共感を込めて以下のコメントの書き込みをした。 
      
昨年12月に医師から深刻な病の指摘を受けた直後、私も「死の恐怖と向き合う」体験を味わいました。『結局最後は自分独り』の実感もよく分かります。孤独な入院生活のもとでの死の恐怖は想像を絶するものがあったでしょう。私の場合、その後通常どおりの日常生活を過ごしながら検査結果を待つ身であったことが救いだったかもしれません。
 とはいえベッドについた途端に押し寄せる恐怖に悩ませられながら眠れぬ夜が続きました。幾日かを経てようやく到達した心境は、『どんなに悩もうが与えられる現実はひとつであり、たんたんと受け入れるしかない。その現実をどれだけポジティブに受け止められるかということこそが私ができる唯一の努力ではないか』というものでした。そのことを通してはじめて私を気遣ってくれる周囲の人達と与えられた現実をより意味あるものとして共有できると思いました。

 「天に通じる」という通天閣に登った日の心境だった。

幼い夫婦と病の赤ちゃん物語2007年03月04日

 朝6時過ぎに目が覚める。洗顔の後、少し歩くことにした。早朝の談話室の片隅にひとりの女性の姿があった。鼻に管を通した赤ちゃんを左手に抱え右手で携帯メールを操作している。二十歳前後の若い母親である。
 昨日の深夜、赤ん坊の泣き声に私の眠りが奪われた。生まれてまもない赤ちゃんらしいか細い泣き声が途切れることなく続いていた。赤ちゃん同伴の入院が許されるはずはない。泣き声は患者自身のものだろう。眠りを覚まされた苛立ち以上に、付き添いの恐らく母親だろう女性の切なさを想った。誰もが寝静まった深夜の病棟である。病を得た赤ん坊は、そんな事情は知る由もなくいつまでも泣き続けている。周囲の迷惑に気遣いながら必死であやしている若い母親の姿を想像しながらいつの間にか眠りに落ちた。
 今談話室で目にしたのは、昨夜の泣き続けた赤ちゃんとその母親にちがいない。必死で操作している携帯メールは若い母親には手に余る状況の身内への助けを求めるものなのだろうか。
 朝食後のウォーキング途中で私の部屋に間近い部屋から昨夜と同じ泣き声を耳にした。同じフロアを何度か周回した時、廊下の先の窓際で先程の母親が再び泣き続ける赤ん坊をあやしていた。泣き声が聞こえていた部屋では若い男の子が室内の洗面台で洗い物をしている。妻のSOSメールに応えてやってきた赤ん坊の父親にちがいない。授かったばかりの我が子の病に必死で立ち向かう幼い夫婦の姿は、自分自身の病を忘れさせる勇気をもたらすものだった。
 昼前に妻が着替えと好物を持参してやってきた。そのありがたさをかみしめながら、私の想像もまじえて「幼い夫婦と病の赤ちゃんの物語」を話さずにはおれなかった。

石田三成の強さ2007年03月05日

 朝7時過ぎ、血液検査用の採血があった。入院直前の職場の健康診断で高脂血症の診断と精密検査を促す医師への紹介状が渡された。担当医に紹介状を渡した結果、今回の血液検査となった。検査結果は昼食後間もなく担当医から伝えられた。総コレステロール値、血糖値ともに基準値をわずかに上回る程度で懸念するほどでないとのこと。良かったと思いながら、悪性腫瘍の大手術の直前に、健康診断の精密検査結果を気にしていることのおかしさに苦笑した。関が原の戦いに敗れ捕らわれて処刑場に向かう石田三成が、柿を勧められ「腹をこわすから」と断ったという古事をふと思い出した。どんな状況になっても生きることをあきらめなかった三成の強さを想った。
 今日の大きな出来事は昼食後にやってきた。リンパ節切除の手術に向けて切除部位を特定する臨床検査が行われた。12時半に地下1階の核医学という危険な匂いがする名前の検査室に入る。前回手術の際の指導教官だった担当医が、指先患部のすぐ下周囲4カ所に検査用の注射をした。かって味わったことのない痛みを伴う注射だった。注射液の特殊な色素が患部から右脇下リンパ節に向かうリンパの流れを明らかにするとのこと。色素の流れが還流するまで数時間かかるため一度病室に戻る。
 16時に再び検査室に戻り検査台に横たわる。3名の担当医と核医学検査室の技術者4名という物々しい布陣である。レントゲンの断面写真撮影用の検査台につながれた4台のモニターを眺めながら関係者の確認作業が続いている。最後に右脇の切除部分の肌にマジックペンで9カ所にマーキングが行われ1時間余りの検査が終了した。病室に戻ってすぐに近くの処置室でマーキングが消えないよう薄い皮膜状のシールが貼られた。この検査の実施で執刀前の切除部位の特定精度が大幅に向上したという。不要な執刀や切除は患者にとっても大歓迎だ。医療技術の進歩に感謝したい。

家族の絆2007年03月06日

 当初の予想を越える入院期間が避け難いことが明らかになった。長びく入院生活を老後のライフワークの準備に充てようと思った。
 妻に連絡し先日「山口村史」という郷土誌を持参してもらった。個人HP「にしのみや山口風土記」の執筆をリタイヤ後のテーマにしている。山口村史は、昭和26年に西宮市と合併して消滅した旧・有馬郡山口村の歴史、伝承、自然、風物を伝える西宮市発行の書籍だ。豊富な資料を駆使した700頁にも及ぶこの書籍は、昭和48年に発行され、地域住民に配布されたものの市販はされなかった。私の住む住宅街は旧山口村の一角にあり、地域紹介サイトである「風土記」執筆には、山口村史は貴重な書籍だった。つてを頼りに入手を試みたがかなわなかった。結局、古書籍売買のネット検索で入手した。
 昨日から山口村史を読み返し始めた。2月初めに住宅街の中の小学校で子供たちにHP「風土記」を教材に山口の歴史や自然を伝える機会に恵まれた。そのことがライフワーク取り組みの意欲を加速させた。入院生活のあらたな励みにしようと思う。
 19時に担当医から明後日の手術について本人と家族への説明があった。18時30分までに妻と子供達が自宅や職場からそれぞれに駆けつけてくれた。病棟談話室が、家族全員の久々の懇談の場となった。19時に談話室横の小会議室で担当医3名の治療説明が始まった。主治医の説明と指導教官の補足説明が続く。手術の内容やそのリスク、術後の合併症の懸念等が明示される。術後の何回かに分けて実施される抗ガン剤投与に伴う副作用も話題となる。あらためて我が身に降りかかかっている災厄の苛酷さを知らされる。前回同様、息子が私に代って気になる点をいくつか質問してくれた。冷静に確認しておくべき点をきちんと尋ねてくれる頼もしさが心強い。40分ばかりの懇談を終えた。後は担当医に全てを委ねるほかはない。
 再び談話室でしばらく家族でテーブルを囲む。弾んだ会話は望むべくもないが、家族たちの気遣いはひしひしと感じられる。「家族の絆」という言葉が身に滲みるひとときでもあった。20時前に自宅に戻る家族たちを見送った。

折返し点2007年03月07日

 手術の前日である。昨日の医師の治療説明を聞き終え自分なりに整理してみるうちにあるイメージが浮かんできた。今私は大病を得て退院というゴールに向けてマラソンコースを駆けている。12月20日にこの病を初めて知らされて以降2カ月半が経過した。この間数多くの検査を受け最終的にようやく病名と症状と病期が確定した。20日前の指先切除の手術さえ病理検査のための検査だった。その意味では明日の手術は初めての本格的な治療のスタートといえる。手術という外科的治療の後には抗ガン剤投与の化学療法も控えている。マラソンコースで言えばようやく折り返し点を迎えたというところか。退院後も何回かに分けた化学療法が待っており、完治に向けた新たなレースも始まる。治療後5年間は再発に留意する期間と考えておく必要がある。息の長いレースである。レースのコースガイドは用意されている。とはいえゴールに至るレース展開はランナーの体力や気力に委ねられている。タイムにこだわればリタイヤのリスクも大きくなる。何よりも完走を目指した粘り強さが肝要と心掛けよう。
 朝から麻酔科の医師の問診があり、担当医の腋下リンパ節の触診があった。看護師に執刀部分である脇毛も剃ってもらった。手術に向けた準備が着実に進められている。
 夕方、気分を和ませる出来事もあった。エレベーターホールであの病の赤ちゃんを抱えた幼い夫婦の主人を見かけた。両手に余るスーツケースやボストンバックを抱えている。明らかに退院モードである。「退院ですか?良かったですね。大変だったでしょう」と思わず声をかけた。「ありがとうございます。夜は迷惑をかけました」と少年が父親らしいきちんとした言葉を返してくれる。「お若いのによく頑張りましたね。ところでお幾つなのですか?」私のぶしつけな質問にも明るく答えてくれる。「二人とも15歳なんです」。予想を越えた若さに驚きを隠せなかった。「これからも子育て頑張って・・」ごく自然について出た言葉だった。

手術の日2007年03月08日

 手術の当日を迎えた。ここ数日寝つけない夜が続いており睡眠剤のお世話になっている。昨晩も早目に睡眠剤を服用し22時過ぎには眠りについた。今朝は5時過ぎに目覚め7時間ほどをぐっすり眠った。
 12時過ぎに使用しているベッドのまま手術室に運ばれ13時過から手術が始まる予定だ。今回の4時間前後と思われる手術は、局所麻酔だった前回と異なり全身麻酔で行われる。体力面では負担があるものの精神的な負担は少ない。特に問題が起こらなければ手術直後に目覚め、夕方には病室で家族たちと顔を合わせていることだろう。
 入院以来かたくなに続けてきた1万歩以上のウォーキングも今日ばかりは難しそうだ。とはいえできる範囲でこなしておこうと9時過ぎまでに7千歩ばかりを稼いでおいた。今朝の朝食から絶食が始まった
。入院中の規則正しい食生活のもとでわずか1回食事を抜いただけで空腹感がしみわたる。
 11時頃、妻が休暇を取っていた息子とともにやってきた。

 以上が本日の手術前のコメントである。今日の夜には手術後の後半のコメントを更新できる筈だ。

手術を終えた2007年03月09日

 昨日の5時半に病室に戻った。4時間に及ぶ手術だった。昨晩の手術後のブログ更新などとなんと甘い見通しを記したものだ。病室に戻って以降、あちこちに術後のチューブを挿入し、一晩痛みで眠れぬ夜を過ごしたのだから。とは言え現在は回復した。ブログを更新できているぐらいなのだから。主治医の「術後の経過も良好です」との言葉もあった。
 昨日の中途半端なブログのとりあえずの報告である。

術後二日目、完全回復2007年03月10日

 朝6時、爽やかな目覚めだった。
 手術直後の1昨晩は痛みと仰臥姿勢の維持という環境でまんじりともできない悲痛な夜を過ごした。昨日一日は腰の痛みと術後の体力低下ダメージの残った寝たきりに近い状態だった。それでも普通食を食べ術後の初回診療を受けトイレに行き数行のブログを書き込むという最低限の日常生活を取り戻したのだから良しとしなければならない。
 丸二日眠っていない手術翌日の夜を迎えた。通常ならば安眠を貪れる筈である。駄目押しの睡眠剤を服用し21時過ぎに床に就いた。9時間ばかりの快眠を得た体は前日と打って変わった回復ぶりだった。
 この回復ぶりに気をよくして、手術日の空白の時間のブログを忘れないうちに埋めておこうと思う。
 一昨日の12時前、前開きのゆかたとT字帯(ふんどし)に着替え、両足に弾性ストッキングなるものをはかされる。手術中の足への血流不足による血栓防止の用具だ。12時10分、いつも使用しているベッドに寝たまま手術室に向かう。入口前まで妻と息子が見送ってくれる。前回と同じ手術室に運ばれる。心音や血圧等のチェック環境が整えられた後、麻酔科医の「それじゃ点滴に眠くなる薬をいれますネ」という声を最後に聞いた。その後の手術室内の記憶は全くない。全身麻酔の威力が、その後の私の肉体に加えられた筈の残酷な一切の場面を私の意識から奪っていた。
 突然、話し声が耳に飛び込んできた。手術前の緊張感からは程遠い雑談のようだ。終ったのだ。と思う間もなく「お疲れさま~終わりましたヨ~」という声が耳元に届けられた。手術室ゾーンの入口を出て病室看護師にベッドが引き継がれる。意識は朦朧としたままだ。病室に運び込まれた。私の顔を覗き込む妻と息子の顔が見えた時、あらためて無事生還したのだと実感した。
 「今何時?」と声をかけた。「5時半や。先生が手術は予定通り4時間で終って特に問題はなかったと言うてたで」息子の声だ。家族たちが帰宅し孤独な環境に置かれて以降、想像以上の苦悶が訪れた。鼻に挿入された酸素吸入の管、尿管につながれたチューブ、腋腹につながれた血流排出用チューブと3本の管が身動きを奪っている。麻酔の切れ具合と痛み止めの間隙を縫って執刀部分の傷口が疼く。1時間ごとに様子を見にきてくれる担当看護師との会話が辛うじて挫けそうになる気持ちの支えとなる。眠れぬ夜が明け9時になって担当医の指示でようやくベッドで起き上がることが許された。その時、手術後初めて右手を眺めた。包帯で異常に膨れ上がった手。それでも形は鮮明である。明らかに親指が欠如している。今日から身障者としての新たな一歩が始まったと思った。
 12時になり待ち兼ねた40時間振の昼食を味わった。昼食後、気になっていたブログ更新をした。夕方には主治医3人そろっての手術後初めての処置が行われた。傷口のチェックがありガーゼ交換が施される。右腋患部の処置後、右手の包帯が解かれ親指の切除部分が開かれる。結局この時は右手患部を直視するだけの気力はなかった。痛みに耐えるために目を閉じるに任せるしかなかった。「経過は順調です」主治医の言葉が励みとなる。夕食を終え、いつになく早目の就寝準備に入る。辛かった1日が終ろうとしていた。
 そして冒頭の爽やかな朝を迎えた。
 昼食中に娘が見舞ってくれた。術後の辛かった思いをぶちまけられるのも家族ならではだ。とりとめない会話の中に家族との日常生活の窓口がある。2時頃、主治医から今日の術後処置が告げられた。昨日に比べ処置の際の痛みはかなり薄らいでいる。右手患部の状態も直視した。術後の回復というプラスと苛酷な現実というマイナスが着実に進行している。双方を引き受けながら完治という息の長いマラソンレースを駆け抜けよう。