蝦夷(道東)紀行計画2007年08月16日

 昨年暮に発症した大病もようやく山を越えたようだ。2回の手術と2回の抗癌剤投与の入院を経て治療行為は一旦終了した。今後は定期的な血液検査で副作用のチェックを行ない、様子をみてインターフェロンの注射による抗癌治療を行なう予定だ。年1回程度のPET等による本格的な転移の有無検査も必要だ。最低5年間の経過観察期間が待っている。
 ともあれ日常生活に復帰したことは間違いない。そんな気持ちのゆとりのなかで、ここのところ恒例となった秋のツアーを敢行することにした。さしずめ大病復帰祝いと妻の看護慰労ツアーとでもいったところか。とはいえさすがに病後の今回は海外ツアーは控えることにした。過去の海外個人ツアーでANAのマイレージが夫婦とも国内線を利用できる程度に貯まっている。
 国内ツアーといえば何といっても北海道だろう。10数年前に職場の長期勤続慰労制度を利用して夫婦で札幌、函館、小樽を中心としたツアーに参加した。今回はマイレージ利用が前提であり、個人ツアーを計画する他はない。北海道の大自然を満喫できる道東の旅を考えた。マイレージ利用にはいくつかの制約もある。ネット検索の結果、往路は9月9日の関西航空発の女満別空港行が、帰路は9月12日の千歳空港発の関西空港行きが確保できた。
 出発便と到着便が確定したところで、3泊4日の道東の旅の中味を計画することになる。早速、書店でガイドブック(マップル知床・阿寒湖・釧路湿・網走2007)を調達し、週休三日のゆとりある休日ライフを活用して計画作りに夢中になった。網走監獄見学、知床半島クルーズ、阿寒湖・摩周湖周遊、釧路湿原散策とノロッコ号乗車の現地ツアー、富良野・美瑛列車往復と富良野レンタサイクル周遊・・・・・。出来上がったツアープランは、JR、レンタカー、レンタサイクルと移動手段も多彩に駆使した盛沢山の見どころ満載のものになった。食事もホテル食を避け地元の味処を訪ねることにした。知床の海鮮丼、阿寒湖のアイヌ料理、釧路の炉端焼き、釧路ラーメン、車中の有名駅弁等が楽しみだ。知床ウトロ温泉、釧路、富良野の各ホテルの予約、現地ツアー、レンタカー手配もネット予約で完璧だ。
 三泊四日のパックツアーでは到底叶わない充実した内容に違いない。とはいえ各項目の見積りを集計すると往復の航空運賃なしでも通常のツアー料金を上回る額になった。

危険防止モニター2007年08月25日

 神戸ポートアイランドでの業務の帰途、三宮の大型書店「ジュンクドー」に立ち寄った。個人HP「にしのみや山口風土記」の執筆参考資料に「兵庫県の歴史」という書籍を必要としていた。センター街沿いの高層ビルの2-5階に店舗がある。目当ての書籍は5階にあった。
 買物を終えエレベーターを待っていた。上層階から降りてきたエレベーターのドアが開き、操作ボタン前で若い女性が目で搭乗を促していた。乗り込んだ後、その女性の「夏真っ只中の装い」に、あらためて狭いエレベーターの中が女性にとって危険なゾーンであることを思い知らされた。
 ふと気がついた。操作ボタンと反対側に立っていた私の目の前に小型のモニターディスプレイがあることに。モニターに映されたオヤジの後姿と女性の横顔が目に入った。一瞬の戸惑いの後、それが私とくだんの女性であることを理解した。振り向いて見上げると天井隅にカメラが設置されている。
 私の危惧を先刻承知したかのような「危険防止モニター」だった。恐らくこの映像はビルの警備室でモニタリングされ録画されているのだろう。このモニターは搭乗者の不埒な行為を牽制し、事件発生時の証拠データを提供する機能を果たしている。
 それにしてもなんという我が後頭部の薄さだろう。カメラの焦点は見事に私の後頭部に合わされていた。日常生活で自分自身の後頭部を眺める機会は皆無である。この危険防止モニターは、はからずも私の頭髪の危険性をも教えてくれたのだ。

検査通院の風景2007年08月27日

 朝8時過ぎの市大病院血液検査室前の待合室である。3度の入院治療を終えて、主治医からは毎週月曜日に血液検査を受けるよう指示されている。
 8時30分の受付開始を前に待合室には既に20人以上が陣取っている。多くはこの時間帯でも自由のきくお年よりたちである。夫の検査に付き添うご夫婦の姿も何組か見かける。おばあさんが隣席のおじいさんの世話をかいがいしくしている光景を心和む想いで眺めていた。
 かって「老い」は、疎ましくて恐ろしい世界だった。「老い」を間近に迎えて、今まで気にも留めなかった身近な「老いの光景」がなぜか目に止まりだした。「老い」を肩肘張らずにごく自然に受入れだしたような気がする。
   
 血液検査を終えて職場に向かう帰路の光景である。新世界の南に広がる典型的な下町の一画だった。お世辞にも上品とはいえない庶民的な商店街の中に、今尚残る銭湯があった。銭湯の玄関脇の手書きのポスターが目に止まった。
 「20代30代は男になりたい。40代50代は男でありたい。60代70代は男で死にたい」
 意図不明のポスターという他はない。掲示者の真意ははかり知れない。銭湯関係者の筈だから「銭湯で男を磨こう!」とでも言いたいのだろうか。とはいえ何故かこのポスターはこの街にピッタリ嵌った気になるポスターだった。

地元公民館の地域講座2007年08月28日

 一ヶ月程前の自治会の回覧に「地域講座・山口を知ろう」という案内があった。旧・国鉄有馬線などの山口の昔話の講演と山口町郷土資料館の見学がその内容だった。その地域講座が今日の13時30分から山口支所二階にある山口公民館講堂で開催された。私にとっては、HP「にしのみや山口風土記」の情報収集の格好の機会であり、休日と重なったこともあり勇んで参加した。開始数分前の会場には、既に30名ほどの参加者がつめかけ、パイプ椅子に陣取っている。なかなかの盛況のようだ。多くは地元のオジサン、オバサンとお年寄りたちである。同じ住宅街に住む知人の顔も見える。講師は、山口町在住の山口町史編集委員でもある岡本さんという方である。話の内容から80歳前後の年齢と推察されるが、到底その歳に見えないかくしゃくたる話し振りだった。
 講演では、私の知らなかった以下のような話を聞くことができた。
 ・山口の紙漉き職人であった「やじ兵衛」という人が天保年間に姫路藩に招かれて34年間にわたって藩札づくりに携わった
 ・旧国鉄有馬線敷設には山口村も駅舎建設費用の寄付等、積極的に協力した。駅名には「山口」の名前が冠される筈だったがなぜか「有馬口」駅になってしまった。駅舎の位置は当時の村の中心部の役場(現在の支所)付近を要望したが、カーブや勾配等の制約があり、結局、公智神社北側の平地になった。
 ・講師が出征兵士として篠山の連隊に出発した年に旧国鉄有馬線は廃線となり、終戦で昭和20年6月に帰還した時には既に駅舎もレールも取り払われていた
 ・旧国鉄有馬線以外にも、「明治45年計画の箕面有馬電気軌道」「大正12年計画の有馬電気軌道」「昭和47年計画の国鉄福知山線複線電化」と山口を通過する鉄道計画が過去3回俎上にのぼったがいずれも実現されなかった。
  講演中には、西宮市の広報課作成のビデオ「知られざる西宮Ⅲ・失われた鉄道を求めて」と題するビデオも放映された。旧国鉄有馬線を巡るドキュメントである。さすがに行政機関による取材だけあって多くの貴重な資料や画像、関係者インタビューを交えた優れた作品だった。
 予定時間を15分ばかりオーバーして講演が終了した。希望者はそのまま徒歩10分ほどの郷土資料館に移動し、引続き岡本講師による展示品の解説を受けた。終了後、「有馬郡誌」掲載の山口の名勝旧跡の現状について幾つか講師に質問し、回答を得ることができた。
 
 今回の講師の話を聞き、生まれ育った土地で老いを迎えることの幸せをつくづく羨ましく思った。若い頃の「ふるさとは遠きに在りて想うもの」の気分は、老いては「ふるさとはふるさとに在りて沁みるもの」の感が深い。
 ふるさとを離れて老いを迎えようとしている私は今、「にしのみや山口風土記」執筆を通じて「空蝉のふるさと」を追っている。