カウントダウン2008年05月03日

 1週間後にリタイヤの日を迎える。いよいよカウントダウンが始まった。60才の定年の時は、引続きそれまでと変わりのないビジネスライフが継続していた。再雇用の派遣社員という身分上の変化はあっても実生活での変化はなかった。今回は生活そのものが劇的に変化する。労働委員会の業務で不定期に大阪に出かけたり、民生委員の活動で外出したりするものの、基本的には在宅での生活がベースとなる。
 カウントダウンが進むにつれ、在宅生活のイメージが徐々にリアリティーを帯びてくる。今まではデスクワークの中心は職場にあった。スケジュール管理も職場のパソコンがメインだった。リタイヤ後はそれらが自宅に移ることになる。自宅のパソコン周辺のデスクワーク環境は片手間仕事向けの簡易仕様である。スケジュール管理ソフトも準備していない。民生委員や労働委員会関係の書籍や資料が狭いパソコンデスクの周辺に雑然と積み上げられている。リタイヤ後の本格的な在宅デスクワーク環境の整備につい目が向いてしまう。
 手始めに「快適生活応援ソフト・わが家のなんでも情報」を導入した。スケジュール管理、家計簿、健康管理、レシピ、ライフプラン、整理箱等が詰まっている。家内は私の外出スケジュールを大型カレンダーに手書き記入している。今尚パソコンに触りたがらない家内の実習ツールの意味合いもある。
 現在はリビングにある私のデスクワーク環境をどこにするかも問題だ。リビングは家内の友人、知人が来訪した時の憩いの場でもある。私が休日や夜だけ使う分には問題ないが、四六時中居座るとなると支障も出てくる。かといって今更引越すのもおっくうだし大層だ。冷暖房を分けることによる不経済もある。今しばらく考えることにしよう。

オヤジの英断! 錦水亭・たけのこ会席2008年05月04日

 定期購読誌「ほんとうの時代」5月号の「京の老舗・食彩めぐり」の連載で長岡天神の『錦水亭・たけのこ会席』が紹介されていた。長岡京市は、25年前まで我が家が10年間住んでいた街である。住いから徒歩10分ばかりのところのにあった長岡天神は、家族でしばしば散策した場所だ。境内の一角を占める八条ケ池の畔に建つ老舗料亭・錦水亭の情緒のある風情が懐かしい。当時でも有名だった「錦水亭・たけのこ会席」は、到底手の届かない高嶺の花だった。
 私のリタイヤが目前である。娘の転職も無事決り今月から出勤を始めた。家族にとっての節目の時期といえる。この際、我が家のイベントのつもりで思い切って「錦水亭・たけのこ会席」を味わおうと思った。代金は私の小遣いのプール金(早い話がヘソクリ)で賄うという大胆な提案に家内と娘はすぐに乗ってきた。ひとり1万2千円の「たけのこづくしのコース」を予約した。これが最低価格メニューなのだ。
 マイカー、JR、阪急電車と乗り継いで長岡天神駅に到着した。徒歩数分の長岡天神本殿で参拝を済ませ、予約時間の11時30分に錦水亭の玄関前に立った。本館2階の広間に案内され、見晴らしの良い窓際のテーブル席に着席した。旬の季節の筍専門料亭である。高価なメニューにもかかわらずお年寄りを中心に次々に予約客が案内され、見る間に10数席のテーブルが埋められていく。
 最初に運ばれたのは、木の芽あえ、のこ造り(刺身)、三色味噌の田楽である。娘と分け合ったビールの格好のあてになる。続いて「じきたけ」と呼ばれる大振りの根元部分を鰹出汁で炊いた煮物と若竹のすまし汁が登場する。かぶりついた「じきだけ」から滲み出る出汁と筍のうまみがたまらない。竹篭に盛られた竹の皮に包まれた焼竹は醤油味の香ばしい烏賊焼きにも似た逸品だった。柔らかい若竹を練り物でくるんだ蒸し竹、三色天婦羅と酢の物と続く。最後に運ばれたのが「のこめし」と名づけられた筍ご飯、香の物、メロンである。のこめしの薄味ながらこくのある味わいに、思わず向かいの母娘から「美味しい」の呟きが洩れる。同感だった。
 十品にも及ぶ創作筍料理の数々は、すべて自家栽培の竹林で堀り出されたばかりの新鮮な筍を素材にしたものだ。さすがという他はない老舗の伝統を偲ばせる味わいだった。1時間40分余りのたっぷりj時間をかけていただくコース料理である。4人以上なら八条池の畔に建つ池座敷での会食が可能である。水面に浮ぶ絶好のロケーションでの会食はひと味違う趣きだったろうと悔やまれる。
 老舗料亭の季節感溢れる高価な昼食という我が家の節目のイベントが、太っ腹オヤジの英断であがなわれた。期待したその夜の献立のショボサに英断が報われなかったことを知らされた。

ビジネスライフ最後の日2008年05月10日

 2008年5月10日がやってきた。私の40年のビジネスライフの最後の日だ。リタイヤ後にどれだけの人生が残されているのか知るよしもないが、今日という日が私にとって大きな節目となることだけは確かだろう。
 いつものように5時前に目が覚めた。着替え、朝食、洗顔を済ませ、朝刊にざっと目を通す。ドアを開けると小雨模様である。ビジネスライフに別れを告げる涙雨か・・・といつにない感傷がよぎったりする。徒歩数分のバス停に向う。機械のようないつも通りの手順が、今尚現役であることの証しを刻んでいる。
 職場最寄りの地下鉄駅に到着した。職場までの道すがらの景色にふと感慨を覚える。この時間帯のこの景色は二度と眺めることのない景色なのだ。会社のあるビルに着いた。職場で目覚めの早い最年長の身ともなれば朝一番の出勤者になることも多かった。もう使うことのない玄関の鍵を開けながら、「この鍵の返却を忘れないこと」と自身に念押ししている生真面目さに苦笑する。
 誰もいないオフィスのデスクで、いつもの手順で所定の処理を行う。グループウェアを起動してスケジュールを確認し、メールチェックと必要なメールへのレスポンス、各店から送信された営業日報の閲覧等々。
 最終勤務日の処理にかかる。デスク内の私物処理はあらかた済ませてある。残されているのは文具小物の処理や、最終まで使用した幾つかの書類のファイル処理だけだ。IT時代では専用パソコンのデータ処理が欠かせない。こちらもあらかたは後任者たちにデータやファイルの引継ぎを終えている。残されたデータはSEの手でリカバリーされ、白紙化されるのだが、自分自身の手で削除しておくべきデータや受送信メールもある。合間に、気になる事項について何人かの同僚達に遺言?を伝言したりして、もはや処理する事項もない最後の出勤日の閑な時間をすごした。伝言される側は迷惑だったかもしれない。
 夕刻、事務所スタッフ全員が難波の歓送迎会の会場に出発した。30数名の参加者による歓送迎会が始まった。挨拶や乾杯の後、しばらく会食懇親が続く。アルコールがほどよく体内に循環した頃、司会者から今日の主賓たちの出番が告げられる。4名の退職者たちが社長から送る言葉とともにを感謝状、餞別を贈呈され、同じ部署の女子社員から花束を贈呈される。女子社員のいない約1名は、不幸な役回りを命じられた部下の男子から、それ自体で盛り上がりのある贈呈を演出する羽目になった。歓送迎会は、同じ主賓とは言え、送られる人に比べ迎えられる人の扱いが軽きに流れるのはやむをえまい。二人の新人の長めのスピーチに社長からマキが入ったりする。
 メインエベントが終了すると、後は切り捨て後免の無礼講の世界である。退職者のグラスにはあちこちからビールが注がれる。適度に受け答えした後、自らもビール瓶片手に返杯にテーブルを巡回する。今日ばかりはじっくり腰を据えて会食するわけにはいかない。空きっ腹にアルコールがどんどん投入されていく。所定の時間が過ぎた。「後は棺桶に入るだけ・・・」という常務のブラックジョークとともに一本締めの発声と一同の追い出しの手打ちがあり、お開きとなる。
 数分後には地下鉄なんば駅のホームに大きな花束を抱えた焦点の定まらない目線のオヤジの姿があった。飲み会帰りにしばしば目にしたいかにも定年退職者の送別会帰りの姿を今自分が演じている。大阪駅で帰宅の電車を確認し、家内の携帯に帰るコールをする。かって転勤送別会で酩酊した上、贈られた花束をJR車内に置き忘れた前科がある。最寄り駅に迎えた家内からマイカー車内で声をかけられた。「永いことお疲れさん。今日は花束を持って帰ったんやネ」。私「・・・・・・」。帰宅後、我が家の食卓に花瓶に盛られた花束が無事飾られることになった。
 長くて短い記念すべき一日が終わった。

ソフトランディング2008年05月11日

 リタイヤ初日は日曜だった。今もパート勤務を続けている家内と、転職直後の娘にとっては、日曜日は1週間の区切りの休日だ。ところが私にとっては、日曜日は今や連続する在宅生活のひとこまでしかない。こんなふとしたことにリタイヤ生活の意味を実感させられる。
 3年前に定年退職し、再雇用の派遣社員の立場になった時から、木曜と日曜が休日の週休二日勤務になった。それまでの経営層の立場では月に1、2度の週休二日が精一杯だった。毎週二日の休日の有難さをしみじみ味わったものだ。再雇用3年目の昨年6月からは、大胆にも火曜日も休日に追加し、週休三日というライフスタイルに切替えた。家族のいない平日二日の休みは、リタイヤ後の生活を具体的にイメージさせてくれた。老後のライフワークと考えていた地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」の執筆に拍車がかかったのもその頃からだった。
 そうこうしている内にリタイヤ生活の有り余る時間を埋めることになる新たな役職のオファーが舞込んだ。昨年12月から民生・児童委員に、今年3月から大阪府労働委員会労働者委員に就任した。
 60歳の定年直後にリタイヤしていたら、その直後の環境の激変に絶えられたかどうか自信はない。「燃え尽き症候群」「荷降ろし症候群」などの病が話題となっている。定年等のライフスタイルの急激な変化が、仕事一筋の人生の気力や意欲を一気になくさせてしまう症状のようだ。
 私のとってリタイヤに向けた3年間の再雇用期間は、そうしたリスクを緩和する格好の助走期間となった。徐々に仕事の量と時間を削減し、それに応じてプライベートなテーマと時間を増やすことができた。リタイヤという人生最大の生活環境変化に向けたソフトランディングに奏功した。

退職挨拶状2008年05月12日

 リタイヤ二日目は、退職に伴う諸々の処理に着手した。何はともあれ友人・知人への退職連絡だ。60歳の定年退職の際は、同じ職場で引続き勤務することになっていたので、特に連絡はしなかった。ビジネスライフを卒業した今回ばかりは連絡が欠かせない。
 親会社やグループ会社の関係者は別途挨拶の機会があったので割愛した。社外の知人で最も多いのは、異業種交流会の仲間たちである。異業種交流会にはメーリングリストというIT時代の申し子ともいうべき便利なツールがある。メールアドレスを登録した100人近いメンバーにワンクリックで発信するという離れ業が駆使できた。
 残るは今なお交流がある学友たちと労組役員時代の社外の友人・知人である。ほとんどはメールアドレスが分らない。30数名の皆さんにはハガキによる挨拶状を送るほかなかった。年賀状と同じハガキ作成ソフトの助けを借りて住所録からの宛名印刷や本文の自動印刷が可能ではあるものの、メールに比べるといかにもカッタルイし、コストもかかる。とはいえ出来上がった挨拶状の実体が、メールには変えがたい重みを持っているのも事実である。

デスクワーク環境2008年05月13日

 リタイヤ三日目。なんとなく億劫で先送りしてきたデスクワーク環境の片付けにやっと着手した。
 デスクスペースは19インチディスプレー、プリンター、モデム、無線LU等のN通信機器や外付けハードデスクが占拠し、ワークスペースはほとんどない。スライダーに置かれたキーボードでのPC操作だけが可能な状況だ。パソコンデスクの引出しには過去の使い古したデジカメやZaurusの旧バージョンやその周辺アクセサリー、コード、アダプター、インストールCD、ヘッドセット、取扱説明書が詰め込まれている。
 デスク周りには、民生委員関係と労働委員会関係の書類や資料や書籍が積み重ねられたり、紙バックに詰込まれて散在している。デスクの隣は、娘が子供時代に愛用し今は巨大なインテリアと化したスタンドピアノである。ピアノの鍵盤カバーの上は、格好の書類置場となっている。
 意を決して始めた片付けは朝から初めて昼を超えた。引出しの中のかっての愛用品たちの、捨てるに忍びない想いを振り切るのにいささかの時間を要する。廃棄用紙バッグ二袋を満杯にして完了。デスクのワークスペース確保は、プリンターを隣接ピアノの天上板に写すことで一気に解決した。通信機器をデスクの左端から右端に移すには複雑に入り組んだ無数の配線の整理が必要だった。デスクを引っ張り出し、裏側に座り込んで埃まみれのパソコン裏側で作業する。大量の書類と資料は、要・不要の選択をしながら大型バインダーにファイリングする。
 6時間に及ぶ格闘の末、ようやく何とか許容範囲のレベルでデスクワーク環境が整った。リタイヤ後の課題達成の遅れを、以後はデスクワーク環境を口実にできない。

自前歯一本の命2008年05月14日

 リタイヤ間近の年齢ともなると体のあちこちにガタがきている。財布の中にはあらゆる診療科の医院の診察券が収まっている。これらの診察券のほとんどは診察時間の制約から職場の最寄の医院のものである。リタイヤを迎えかかりつけ医院も変更を余儀なくされることをあらためて思い知った。
 リタイヤ直前の数日前、食事中に突然ガリッという不気味な音とともに下前歯の一本に痛みが走った。残された自前の歯の数少ない一本である。指先で確認できる歯のぐらつきは風前の灯の態を告げている。退職目前で職場最寄りの歯医者にもう行けない。自宅近くの歯医者を探ったところ、家内と娘が通院している歯医者の評判が良い。リタイヤ2日目の月曜に連絡して今日ようやく予約が取れた。
 30歳前後の医師の診察が始まった。「奥さんと娘さんも担当させて頂いてます」と患者の気持ちを和らげるトークを心得ている。「当院への転院の理由を聞かせてもらえますか」とマーケットリサーチにも余念がない。「評判が良かったので・・・」とは言わず「定年で職場近くのかかりつけの歯医者に行けなくなったので・・・」と答えた。レントゲン撮影の結果を示しながら「抜いてしまうことも考えられますが、大事な歯ですから固定してしばらくケアをしながら様子をみましょう」と思いがけない御宣託。問題の歯とその両側の丈夫な歯の間にボンドを注入して固定し、上下の歯の噛み合わせを修正してもらう。
 結果はすこぶる良好である。恐る恐る食べていた食事の不自由さが見事に解消された。何よりも大切な自前歯一本の命が救われたことの意味は大きい。私のリタイヤに伴うかかりつけ医院の転院作戦は、こと歯医者に関しては成功したようである。

時代を写す新たな労働問題2008年05月15日

 朝10時から労働委員会の新規案件の第1回調査があった。10時半頃に終了したが、2時からの大津市で労働者委員の会合までかなり時間がある。委員控室で今日の事件資料を読み直した。
 エル大阪から地下鉄淀屋橋駅までの15分ばかりを歩き、JR大阪駅、京都駅と乗り継ぎ膳所駅で下車した。歩いて10分余りの琵琶湖畔に会場の「ホテルピアザびわ湖」があった。会合は労働者委員の近畿ブロック2府4県の連絡会総会である。約40名の参加者による研修を兼ねた1拍2日の会議だ。
 各府県労働委員会の労働者委員の全国組織「全国労働委員会労働者側委員連絡協議会(労委労協)」のことをはじめて知った。その3名の代表(中央労働委員会労働者委員)のひとりからの中央での活動報告や近畿ブロック各府県労働委員会報告が順次あった。
 最近の新規申立事件の特徴的な動きが報告される。申立人が地域合同労組であることが激増していること、合同労組の場合、代理人弁護士を立てないケースが多く、労働者委員の役割が重くなっていること、特定社会保険労務士が代理人となってあっせん申請を行なうケースが増えていること、外国人労働者に係わる紛争が増えていること等々。
 私自身も合同労組申立ての新規案件を担当している。名ばかり管理職問題も避けて通れない案件になるに違いない。その意味では労働委員会の担当する案件は時代の流れを敏感に反映した労働問題といえる。既存の労働組合や労働団体の問題意識や取組みから漏れ落ちやすいテーマでもあるように思う。こうした新たな動向についての労働者委員間の意見交換と共通認識の必要性を痛感した。残念ながらその対応は十分ではない。
 夕食交流会では隣席の先輩委員から多くの実際的で貴重な情報を得られた。二人が担当する事件に同じ合同労組が申立人となっていた。そのリーダーの人柄や見識を聞きながら、彼の合同労組という取り組みに対するモチベーションを知りたいと思った。
 今回、労働委員会の様々な活動報告や情報を集中的に聴くことを通してあらためてその使命感や学習の必要性を認識できたことは間違いない。

ねんきん特別便の相談窓口2008年05月16日

 近畿ブロック連絡会の二日目である。ホテルの部屋から琵琶湖の素晴らしい眺めが広がっている。湖畔を格好の遊歩道が縁どりしている。朝6時から小1時間遊歩道を歩いた。散歩の後の美味しい朝食を堪能した。
 9時半からの会議は地元滋賀県の労働委員会会長による「派遣先企業の使用者性」と題する講演だった。これもまた最近の労働問題のホットなテーマである。90分のアカデミックな講演に耳を傾けた。
 11時過ぎに会議を終え、個人的な所用に向った。自宅最寄りの社会保険事務所に出向いて健康保険の任意継続の手続をしなければならない。12時45分頃に到着した。受付窓口前のスペースいっぱいに用意されたシートはお年寄りたちで埋め尽くされている。一瞬、手続完了までの長時間の待機を覚悟した。・・・が、よく見ると受付正面には「ねんきん特別便相談窓口」の案内掲示があり、その横には「健康保険その他」の掲示がる。そちらの窓口用の番号札を取ると次の順番だった。ほどなく受付番号が告げられ、カウンターで係員に持参の書類を渡して手続を依頼する。パソコン処理を済ませた係員から受付印が押された「任意継続被保険者のしおり」が渡され説明を受け手続完了。この間わずか15分ほどだった。とはいえ使用者負担のなくなった保険料は一気に2倍以上に跳ね上がっている。
 それにしても「ねんきん特別便相談窓口」の何という込みようだろう。待ちくたびれた風のお年寄たちの顔に浮ぶ疲労感が痛ましい。自分がこの立場になったらと思うと行政の無策に怒りがこみ上げる。

書評「正義の労働運動ふたたび--労働運動要論--」2008年05月17日

 要 宏輝(かなめ あきひろ)氏の「正義の労働運動ふたたび--労働運動要論--」を読了した。著者は大阪府労働委員会労働者委員の先輩である。残念なことに私の就任の年に退任されたが、歓送迎会の場で二度ばかり席を共にする機会を得た。著者略歴によれば、私とほぼ同世代である。横浜市立大学卒業と同時に産業別労組(総評全国金属)の大阪地方本部に入局とある。以後、大阪を舞台に終生を労働運動に身を投じ、連合大阪の専従副会長を最後に第一線を引かれた筋金入りの労働運動家である。この間、大阪地方最賃審議会委員や労働委員会委員の公職歴もある。
 本書は3章で構成されている。第1章「連帯をつむぐ 労働運動の可能性」は、著者の連合大阪時代の達成感のある取り組みを背景とした論稿である。「地域最賃」「ホームレス自立支援法」「外国人労働者支援」「ニュージーランドの市場化実験と労働法」等の興味深いテーマについて語られている。第2章は、「田中機械の自主管理」を中心とした日本の自主管理闘争の記録と論稿である。第3章は、著者の経験に裏打ちされた労働委員会の現状に対する期待を込めた批判的言及である。私にとって実際的で有益な論考だった。
 労働運動の現場を離れて20年振りに労働委員会という現場に戻ってきた。労働者委員としての仕事の在り方や知識不足の懸念以上に、労働運動のスピリッツをいかに取り戻せるかという不安があった。その意味で本書は、忘れかけていたその魂に再び火を灯す火打ち石となった。
 著者は、『労働委員会は労働者の団結権等を保障し救済する機関』であり、(その主要な機能である)『不当労働行為制度は、その保障を具体的に実現するために設けられた制度である』という基本認識の再確認を関係者に迫る。その上で『労働者委員は申立人(である労働者・労働組合)の味方であり、中立ではない。申立人のために最大限働くことが使命である』と喝破する。その言葉をあらためて噛みしめた。
 いうまでもなく労働委員会は公益委員、労働者委員、使用者委員の三者構成である。わけても審査委員である公益委員の役割は、参与委員である労働者委員、使用者委員を超えている。にもかかわらず前述の制度の本旨からすれば労働者委員の三者における位置は他者を超えるものがなければならない。私自身が各事件を担当する中でどこまでその位置に迫れるだろうか。