地元小学校での授業打合せ2008年07月01日

 来たぁぁぁ~~~ッ!!!  その時の気分を表せばこんな織田祐二風ものまねギャグといったところか。二週間ほど前のことである。地元小学校の先生から電話が入った。3年生の児童対象の恒例の授業依頼だった。昨年は確か6月始めの授業だったから1ヶ月ほど遅い連絡だった。
電話確認で明日7月2日が今年の授業となった。今日はその打合せの日である。
 放課後の3時半に学校を訪ねた。3年生担当の3名の先生方と打合せした。昨年との違いは個人的にも民生・児童委員という立場が新たに加わったことである。この間、学校やPTA関係者との懇談など学校との関わりも深まった。授業という形で児童福祉のボランティアの足場を持っていたことが幸いだった。先日の地区懇談会でもバーチャルの氾濫する時代だからこそ現実の世界や本物の遊びの大切さが話題となった。そんな観点から3回目を迎える私の授業もステップアップできればと思う。明日の授業が楽しみだ。

先生ッ! 親指どうしたん?2008年07月02日

 いよいよ地元小学校での3度目の授業の日である。9時15分前に学校に着いた。いつの間にか通用口前には受付用のBOXが置かれ警備員が立っている。小学校での外来者の入退出も受付で氏名と時間の記入が求められる時代となったのだ。校長室で不在の校長先生に代わって教頭先生の応接を受ける。昨晩から始まったTV新番組「モンスターペアレンツ」が話題となる。ささいなことで担任の変更を求める保護者の存在はテレビドラマだけの話しではなさそうだ。
 9時丁度に担任の先生に呼ばれて視聴覚教室に入る。フロアに腰を降ろした110名余りの3年生の子供たちの視線が一斉に突き刺さる。プロジェクターに繋がれたノートパソコンのあるデスク前に立った。司会は私同様あごひげを蓄えた20代後半とおぼしき男の先生だ。
 先生の紹介の後いよいよ授業開始である。「今紹介されました○○さんこと、ひげオジサンです」。受け狙いの自己紹介の第一声だった。それがどうしたといった顔つきで返され、いきなり滑ってしまった。気を取り直してマウスを操りながら授業に入る。40分ほど経った時、司会の先生から「切りのいいところでトイレ休憩を取って下さい」と注文が入る。通常は9時45分で1時間目の終了なのだ。
 休憩に入るとトイレに行かない子供たちが私の周りに集まってきた。物怖じしない子供たちのひとりがいきなり尋ねた。「先生ッ! 親指どうしたん?(子供たちにとっては教壇に立つ人はみんな先生だ)」。なるほど、授業中の私の身振り手振りに目ざとく親指のないことに気づいたのだ。気になって仕方がなかったんだろう。気遣いという言葉は彼らの辞書にはない。病気で手術して切ったことを話した。目の前の女の子が両手で両頬を押さえ口をすぼめて「ムンクの叫び」のようなしぐさをした。その愛らしさに思わず微笑んでしまった。
 授業再開後の冒頭である。「休憩中にも尋ねられましたが、おじさんの右手親指はありません」と両手を前に突き出した。誰もが気になった筈のことをみんなにオープンにしようと思った。「去年の3月のことです。ショックだったし悲しかったです。その後6月に今日と同じ授業をするという楽しい機会がありました。みんなも悲しいことがあっても必ず次に楽しいことがやってくると信じてくじけないで下さい。」咄嗟の判断のパフォーマンスだった。
 後半の授業の目玉と思っていた「旧国鉄有馬線」の話しがリンクトラブルでサイトにジャンプできないというハプニングが発生した。残念だったが口頭ですっ飛ばす他なかった。最後に「ゲーム機などで体験する仮想や架空と言う意味のバーチャルの世界だけでなく手に触れることのできる実際の本物の自然や遊びの楽しさを学んで下さい」とまとめた。10時20分頃授業を終え質問タイムとなった。最初は誰も手を上げる者がいなかった。そのうちポツポツ手が上り、最後は何人か挙手を打ち切るか形の終了となった。 
 校長室で教頭先生としばらく懇談し10時45分頃、校門を後にした。

社会保険事務所の年金対応2008年07月03日

 5月15日付で40年に及ぶ会社勤務を終えた。いよいよリタイヤ後の年金生活が始まったわけだ。ところで会社勤務中に支給が停止されていた年金額や63歳以降の満額受給額等がいくらで、いつ振り込まれるのか分らない。
 3日前の月曜日に地元の社会保険事務所の年金窓口に電話したが、案のじょう話中のコール音を繰り返すばかりで繋がる気配はない。以前、年金特別便の問合せの際に入手した窓口用ではない番号にかけてみた。ようやく繋がったものの「担当に伝えてあらためて明日中に連絡する」とのこと。年金基礎番号と連絡先を伝えて電話を切った。翌日一日待ったが連絡はない。
 今日、業務開始の8時30分ジャストに年金窓口に電話した。呼び出し音が鳴ってまもなく繋がった。用件を伝えると、「担当者が電話中であり、折り返し今日中に連絡する」との返事。さすがにムッとして「先日もそのように言われ翌日1日待ったが連絡がなかった。本当に間違いないか」と念を押し、名前を確認して電話を終えた。
 さすがに念押しが効いたのか10時半頃連絡が入った。女性職員に用件を伝える。「勤務先から退職連絡を受けていますので雇用保険の受給がなければ特に手続は不要です。5月退職の場合、6月、7月分の年金は8月に振り込まれます。年金見込み額は電話ではお答えできません。見込み額通知依頼の用紙を送りますので記入後送付頂ければ、確認後見込み額を通知します」との回答だった。用紙送付を依頼して電話を切った。

老後の夫婦の離れ離れの施設暮らし2008年07月04日

 二ヶ月ぶりに夫婦で家内の両親を見舞った。義母は外反母趾が悪化し、手術後車椅子生活を余儀なくされた。数年前から岡山市郊外の特別養護老人ホームに入居している。80代後半まで元気だった義父は、90を越えた頃から急速に認知症の症状が顕著になった。家族介護の限界を超えるようになり、今年5月にようやく岡山県中央部の町の介護老人施設に入居できた。
 自宅から山陽自動車道経由で10時過ぎに義父の入居する施設に到着した。折りしも玄関前では義父が車椅子のまま施設の車に乗せられようとしていた。ヘルパーさんから「朝から発熱し近くの病院に向うので、一緒にどうぞ」と聞き、後を追った。病院での血液検査やレントゲン、CTの検査結果で、更に入院による検査が必要となった。病室に入院を見届け病院を後にした。この間、義父は意識はしっかりしているもの会話の不自由さは覆いがたく見舞の言葉も意を尽くせない。
 家内の兄の待つ実家に向った。入院の経過を伝え、その手続きに病院に向うという彼に後事を託す。引続き義母の入居する施設に向う。個室で眠っていた義母は娘に起こされてベッドに腰かけた。2ヶ月ぶりの見舞いだったが、先ほどの義父の衰弱ぶりの後ではその元気さに驚かされる。聞き取りにくい話しながら自分の意思を伝えようという意欲は伝わる。義父の入院を伝えると一瞬悲しげな表情が浮ぶ。義父より遥かに永い入院生活ながらその体力や精神力は今尚義父を超えている。1時間半ばかり滞在し別れを告げた。
 帰路の車中で老後の夫婦の離れ離れの施設暮らしの哀しさを語り合った。それぞれの発病の経過の違いが老夫婦の別居を余儀なくさせている。それは老人施設への入居の困難さを考えれば今後とも避けがたい一般的な事例でもある。今や病を得た夫婦が晩年を一緒に暮らすのは望むべくもない時代と覚悟すべきか。

真言密教の霊場・高野山の散策①2008年07月05日

 いつも土曜日もパート勤務の家内が珍しく金土日と休みになったという。昨日は岡山に彼女の両親を見舞った。今日は二人でどこかに出かけようということになった。かねてぜひ一度は訪ねたいと思っていた日帰りコースがある。霊場・高野山である。お手軽なバスの日帰りパックツアーという選択肢もあったがここはやはり個人ツアーの自由な旅がしてみたい。例によってガイドブックを買込みネット検索を駆使して綿密なプランを立てる。往復の特急電車の発車時間を考慮すれば約5時間半の山頂滞在である。この時間でめぼしいスポットをくまなく回ろうという魂胆だ。 
 8時過ぎに南海電車の難波駅に着いた。改札横のチケット販売窓口でひとり4千円の「高野山フリーサービック」チケットを購入する。難波~高野山駅間の往復乗車券、特急券、高野山内りんかんバスフリー乗車券、4寺院・施設拝観料のの2割引券、2店舗のおみやげ1割引サービス券がセットになっている。8時30分発のこうや1号に乗り込む。特急始発電車の車内はさすがに乗客もまばらである。南海高野線は、橋本駅までは平坦地を走る乗り慣れた通勤電車の趣きである。橋本駅を過ぎるとまもなく風景は一変する。紀ノ川に沿ってどんどん高度が上り次第に樹林が目につくようになる。「九度山」などの駅名を目にするといやでも真田幸村を思い浮かべてしまう。九度山駅からは紀ノ川とも別れ一気に高野山の山腹の急斜面を上っていく。約80分でと電車の終着駅「極楽橋」に到着。ホーム右手の高野山ケーブルに乗り換える。急勾配を途中で下りケーブルとすれ違いながら約5分で高野山駅に到着。
 駅前で奥の院行の南海バスが発車を待っていた。九十九折れの狭いバス道を10分ほど揺られて最初のバス停・女人堂で下車する。いよいよ霊場散策のスタートである。「女人堂」は女人禁制の頃の女性のための今に残る唯一の参篭所である。堂前には両脇を鬱蒼とした樹林が茂る立派な参道がのびている。数分も歩くと左手に「徳川家霊台」がある。拝観料を払って境内に入ると階段上に家康、秀忠二代の霊屋(たまや)二棟が建つ霊廟があった。霊台前の商店の間の小道に入り大門に向う近道を辿る。
 壇上伽藍の北側から西側を辿り大通りを西に向うと忽然と鮮やかな朱色の大きな建造物が現れる。重要文化財「大門」である。正面に回って見ると左右に阿形、吽形の巨大な金剛力士像が迫力のある面構えで睨んでいる。来た道を折り返し「壇上伽藍」の聖域に入る。境内には根本大塔を中心に金堂、御社、御影堂、不動堂等の堂塔が独自の思想で配されている。真言密教の思想を具現化し、胎蔵界曼荼羅の世界が立体的に表現されているといわれる。金堂、根本大塔の内部を拝観し境内の堂塔をカメラにおさめる。向かい側すぐ東の「霊宝館」に入館する。数多くの国宝、重要文化財をおさめた文字通り密教美術の宝庫ともいうべき建物である。四月から始まって今日が最終日だった特別展「童子とほとけ」では八大童子立像のひとつ不動堂所蔵の国宝・恵光童子が展示されていた。
 すぐ傍の高野山の宗教活動の中心である「大師協会大講堂」に立ち寄り、「六時の鐘」の前を通って「金剛峰寺」に向う。高野山真言宗の総本山である。風格のある正門をくぐると広々とした境内正面の本坊を中心に左右に広がった書院造り風の伽藍が美しい。右端の玄関口から内部の拝観に入る。大広間や持仏間の狩野派絵師による見事な襖絵を見ながら本坊、別殿、新別殿へと進む。新別殿では接待のお茶とお菓子を味わいながら休息する。新別殿を出るとすぐ左手に石庭がある。別殿を囲む廊下から蟠龍庭と名づけられた国内でも最大級の見事な石庭を見て回る。
 バス通りに出てすぐ東にこの山頂都市の中心点とおぼしき交差点があった。交差点を北に向かいすぐ左手にガイドブック紹介の食堂「さんぼう」があった。間口は狭いが中は意外と広い落着いた店だった。精進花篭弁当(2100円)を注文する。もちろん生ビールの注文も忘れない。野菜の天婦羅、胡麻豆腐、刺身こんにゃく、山菜等の旬の惣菜6品に吸い物と麦や大豆の入ったご飯が付いている。滋味豊かで素材を引き立てたこれぞ精進料理といった味わいだった。

真言密教の霊場・高野山の散策②2008年07月06日

 昼食後、バス通りに戻りすぐ東の南に入った小道を進み「金剛三昧院」に向う。左右を杉木立に囲まれた参道の奥に大きな扁額を掲げた風格のある山門があった。境内には国宝の多宝塔はじめ書院造りの本堂、本坊が建ち並ぶ瀟洒な寺院である。バス通りに出て東にしばらく歩くと刈萱堂がある。刈萱道心と石童丸の伝説ゆかりのお堂で堂内には親子の一代記の絵物語風に飾られている。
 刈萱堂の少し東に向うと一ノ橋がある。奥の院参道の入口である。道は左右に分かれている。右手はバス通りでもある広い舗装道路の国道、左手は杉並木に囲まれた風情のある石畳の参道である。当然、左に向う。ガイドブックでマークしておいた戦国武将たちの供養塔が次々に目に入る。薩摩島津家、多田満仲、武田信玄・勝頼、伊達政宗、石田三成、明智光秀などの墓所を目にした。参道の中間辺りに中の橋がある。橋の傍の「汗かき地蔵」と「姿見の井戸」を見て先に進む。中の橋から先は一気に参詣者が増える。この近くの大型駐車場から降り立った観光客の人並みが続くことになる。参道の終点近くに織田信長の供養塔があった。戦国武将や大名家の供養塔だけでなく江崎グリコ、松下電器、森下仁丹、小林製薬といった大企業の墓所や物故者慰霊碑があった。現代の大企業の戦国大名家に匹敵する権威と財力を目の当たりにした。いずれにしろ奥の院参道沿いのこの広大な墓所の風景は、高野山観光で最もインパクトのある感銘深いものだった。両側に石灯籠が並び、苔むした五輪塔などの供養塔が連なるゾーンは、厳粛で荘厳な雰囲気を漂わせている。
 信長供養等のすぐ先に御廟橋があり、ここから先は脱帽・撮影禁止の聖域となる。燈籠堂を参拝し回廊沿いに裏側に廻り正面の弘法大師御廟にも参拝する。燈籠堂裏側から右手に回ると地下燈籠堂の入口がある。一巡して出口に戻り来た道を引換えす。御廟橋を左に折れ護摩堂前を通って別ルートで中の橋に出る。 
 正面の大駐車場に観光バスがいっぱい駐車し、手前には土産物店や飲食店が並んでいる。奥の院観光の拠点基地のようなスペースだった。土産物店で物色したり休憩をとったりして30分ばかりを過ごし、15時前の高野山駅行の臨時バスに乗車した。途端に大粒のにわか雨が窓を打ち始めた。なんというラッキー。20分ばかりで駅に到着。少し時間があったので構内の売店で飲み物を購入。家内の制止のいとまを与えず間髪を入れず缶ビールにする。旅先での列車内でのビールほど有難いものはない。ケーブルから高野特急けごんに乗り換えたところで缶ビールの爪を上げる。2万歩を超えるウーキング後の体に堪えられないアルコールが染みとおる。自宅近くのスーパーで夕食用の寿司を調達し、19時前に自宅に帰り着いた。

居場所2008年07月07日

 いつものようにマクドナルドのカウンター前に立つた。早朝時間帯で人手は少ない。接客担当の顔なじみのオバサンはドライブスルー客の接客に追われている。トイレに行き用を済ませてカウンターに戻ると、ホットコーヒーがミルクなしペットシュガー1本のいつものセットでトレーに載せられて待っていた。常連客の定番オーダーへのすばやい対応だった。いつもの窓際の席で早朝ウォーキング後の寛ぎ時間が始まる。コーヒーを飲みながら読みかけの文庫本を開く。
 リタイヤ生活も約2ヶ月が経過した。現役をリタイヤするということの意味が徐々に観えてくる。リタイヤするということは現役時代の職場という「居場所」を失うことだ。失った居場所に代わる新たな居場所が必要となる。テレビを見ながらひとりで無為に時間を潰している自宅の居間は居場所だろうか。居場所は、単に存在しているだけの「生息場所」とは違うように思う。自分にとって意味のある時間をもたらしてくれる空間なのだろう。それは意識的に造り上げていくしかない。
 50分ほどの早朝ウォーキングの後のマクドナルドの窓際の席は私にとっての居場所のひとつになりつつある。

意見書2008年07月08日

 一週間ほど前の労働委員会で、ある事件の最終陳述という場面に立ち会った。委員会後の公労使委員と事務局による打合せの席で、審査委員である公益委員から参与委員である労使の委員に打診があった。公益委員会議の合議に向けて参与委員としての意見を述べるかどうかの打診である。
 私の就任と同時に退任された先輩労働委員である要 宏輝(かなめ あきひろ)氏から著作「正義の労働運動ふたたび--労働運動要論--」を贈呈された。新米労働者委員である私にとってその役割を果たす上で貴重なガイドラインとなった。確かその著作に、合議に向けた労働者委員としての意見表明の文書提出を勧める内容の記述があった。
 明日は労働委員会の定例総会の日である。先の事件の労働者委員としての意見書の事務局提出の機会でもある。今日の午前中いっぱいを使って、申立人と被申立人それぞれの最終陳述書を読み返しながら自分なりの意見を整理し書面化した。書式の在り方も含めて内容的に妥当かどうか心もとないのも事実である。とはいえ労働者委員としての初めての仕事の実感があった。何事も経験である。次に繋げる上でもこの作業は不可欠だった。明日の提事務局出がどうなることか。

初めてのクルーズツアーの申込み2008年07月09日

 60歳の定年の年に夫婦で海外ツアーを予定していた。その資金をJTBの旅行積立で準備し、3年前に比較的まとまった旅行商品券を手にしていた。その後、イタリア、カナダ、ドイツ&スイスと3回の海外ツアーを愉しんだものの全て娘同伴の個人ツアーでJTB商品券の使用は難しかった。少しばかり語学をたしなむ娘の同伴が個人ツアーを可能にしてくれたためだった。定年後3年間の再雇用でリタイヤが延期されたという事情もある。 
 そしていよいよリタイヤ生活を迎え、旅行商品券の使用を本格的に考える時期がきた。正社員で再就職を果たしたばかりの娘の同行は望めない。商品券を利用したパックツアーが手っ取り早い。ネットでJTBの旅物語を検索しヨーロッパ方面のメニューを調べた。私の好みにピッタリのツアーがあった。「魅惑のエーゲ海クルーズとギリシャ世界遺産紀行12日間」というツアーだ。10月始めのツアーだが既に催行決定のマークが付いている。申し込んだものの結局ツアー自体が流れたというパックツアー特有の懸念はない。
 「ローマ人の物語(塩野七生著)」の愛読以来、ローマ社会の面影を残すヨーロッパの風景に魅せられている。ギリシャはそのローマ社会の原点ともいうべき文明の地である。一度は訪れたいと思っていた旅行先だ。5泊6日のギリシャ各地の世界遺産を巡る旅の後、4泊5日のエーゲ海クルーズがセットされている。寄港地のロードス島やクレタ島などのエーゲ海の島々は、東ローマ帝国とオスマン・トルコとの壮絶な攻防の舞台でもあった。4泊5日のクルーズ体験はパックツアーならではの費用と手軽さといえる。
 今日、労働委員会定例総会の前に大阪肥後橋のJTB西日本を訪問しツアー申し込みをした。

黄金期(ゴールデンエイジ)2008年07月10日

 昨日、12日間もの海外ツアーの申込をした。ツアー計画を検討しながら、今私は人生の黄金期を迎えていると思った。稔りの時期であり収穫期でもある。
 リタイヤ生活を「現役引退」とマイナーに考えるか、黄金期と捉えるかは人それぞれだろう。とはいえ永い現役生活の果ての新たなステージであることは間違いない。良くも悪くも現役生活のもたらした果実を手にしている。
 それは経済的には預貯金や年金や不動産といった資産である。もちろん住宅ローンの残債といった負債もあるかもしれない。肉体的には現役時代のメンテナンスの恩恵を享受したり、不摂生のツケの支払いを迫られたりする。いずれにしろ歳相応の衰えを受止めるほかはない。そして現役時代には望むべくもなかった限りない自由な時間を手にしている。問題はこの時間の使い方である。これこそがリタイヤ生活の豊かさの決め手となる。
 手にした自由時間をどう過ごすかは、現役時代も含めた60有余年の人生がもたらす経験、見識、学習に負うところが大きい。やりたいことの選択肢の多様さが老後生活の豊かさのバロメーターとなる。旅行、スポーツ、園芸や貸農園、読書、HPやブログなどの個人的な趣味の世界がある。趣味サークル、職場や学生時代のOB会、ボランティア活動等の仲間や社会との関わりの世界がある。いずれにしろ若い頃の単なる願望でなく、これまでの人生経験を踏まえた実現可能な現実的な選択肢に絞られる。
 やりたいことの現実的な選択肢ではあってもそれを可能にする条件が必要である。経済的な裏づけと肉体的、精神的健康である。リタイヤ直後の60歳代はこの二つの条件が最も充実した時期である。経済的には現役時代のストックが最も大きい時期といえる。健康面でも衰える一方の老後生活の始期であり最もタフな時期の筈である。私が今人生の黄金期を迎えていると考える所以である。