吉備津神社と足守町並みの散策2009年03月01日

 岡山の施設に入院中の義父を見舞うかたわら、途中の名所旧跡を訪れた。岡山市の中心部から西に向う国道沿いにこの地方屈指の大社である吉備津神社があった。
 吉備津彦命を主神とし、桃太郎伝説の元になったという温羅(うら)退治の話しが伝わる神社である。両脇を松で囲まれた見事な参道を抜け駐車場に車を止める。献灯提灯に囲まれた正面の階段をのぼると朱塗りの門の先に壮大な本殿がある。参拝の後、境内を散策し本殿背後の回廊を辿った。テレビ等でこの神社が紹介される際には必ず映し出される長大で美しい回廊である。
 神社横の広場に銅像が建っていた。近づいてみると「憲政の神」と謳われ、五一五事件で暗殺された犬養毅の銅像だった。説明板には「この地の3km南に生家があり遠祖・犬養健命(いぬかいたけるのみこと)が吉備津彦命の随神だったためこの神社に尽力された」と記されている。ナルホド。
 吉備津神社から北西15kmほどのところに美しい町並みの「足守地区」があった。豊臣秀吉の妻・北政所の兄・木下家定が、慶長6年(1601年)に姫路藩から転封して立藩した足守藩の陣屋町である。町並みのメイン通りのすぐ右にある「お休み処」に駐車し散策を始める。
 入手した観光町並みマップを手に白壁の美しい建物が続く通りを南に向う。江戸末期の商家・藤田邸、備中足守まちなみ館、足守プラザと観光スポットを巡る。それぞれに地元のボランティア・ガイドのお年寄たちが案内役を買って出ている。折りしも雛祭りシーズンである。各スポットには昔ながらの様々な雛飾りが陳列されている。
 足守プラザから引き返してお休み処横の道を西に折れる。白壁の長屋門と土塀に囲まれた旧足守藩侍屋敷の美しい邸宅が目に入る。家老宅にしては質素な住宅ながら茅葺屋根の母屋は武家書院造りの構造を持った格式のある建物だ。すぐ傍の足守小学校前の道を行く。校庭の隅に今は見る事の少なくなった二宮金次郎の銅像が建っていた。柴を担いで読書しながら歩んでいる懐かしい姿に思わず微笑んでしまう。
 小学校横の小道を北に行くと近水園(おみずえん)がある。足守藩主木下家の居館である屋形構の奥手に設けられた大名庭園である。敷地の外側東を流れる足守川から水を取り入れた池があり、池には鶴島、亀島の二つの島が浮んでいる。池の東側の回廊式の歩道を歩いてみる。反対側の山際に建つ吟風閣と呼ばれる数寄屋造りの建物と池の見事な調和に息を呑む。
 町並み通りの外れにある葵橋を渡ってすぐ南の小路の奥に緒方洪庵の生家跡に作られた「緒方洪庵生誕地」があった。江戸末期に足守藩士の三男として生まれ、長じて蘭方医となり蘭学塾・適塾を起こした人物である。石垣をめぐらした屋敷跡と思われる敷地に正座した黒っぽい洪庵の銅像と石碑が建っていた。今放映中のNHKの土曜時代劇「浪速の華」は緒方洪庵の大阪時代の青春物語である。ドラマファンのひとりとして、意志の強さを表現したかのような真一文字に口を結んだ洪庵の銅像を感慨深く眺めた。
 心癒される穏やかな散策を愉しんだ夫婦二人連れの岡山の旅路だった。

義父が紡ぐ思い出の糸2009年03月02日

 昨日、岡山の施設に入院中の義父を見舞った。昨年暮に亡くなった義母の葬儀や法要にまみれて4ヶ月ぶりの訪問となった。義母の墓参の後、吉備津神社と足守の町並みに立ち寄ったため施設についたのは12時過ぎだった。
 10室ほどの個室に囲まれたパブリックスペースで、93歳の義父はヘルパーさんに介助されながら昼食をとっていた。すりつぶされた献立メニューとゼリー状の飲み物が今や義父の常食となっている。スプーンで辛うじて自力で口に運んでいる。家内が顔を近づけ目を合わせても表情は変らない。認知症の症状が一段と進行しているようだ。
 時間をかけた食事を終えて自室に戻った。前回は義兄家族と重なり賑やかな訪問だった。壁際のテーブルを兼ねた棚に一枚の写真が飾られていた。前回の訪問時の二家族7人と一緒の記念の写真だった。同じ棚には数冊のアルバムが並んでいる。毎週訪れている義兄家族の義父との貴重な会話のツールなのだろう。遠くなった耳元に口を寄せ会話を試みる。何かを告げようとするが、私たちには意味不明の言葉としか伝わらない。
 そんな義父が何度も「クロイシショウテン」という言葉を繰り返す。最初その意味が分からなかったが、ようやく思いついた。義父が現役時代に最も忙しくしていた当時の取引先の衣料問屋の会社名だった。顧客だったお年寄りたちを車に乗せてしばしば訪問していた先である。お年寄りたちに頼りにされ感謝されていたという義父の話が甦った。義父の頭脳から多くの記憶が薄れゆく中で、自身が輝いていたかけがえのないシーンだけが去来しているのだろうか。見えない闇の中で義父が紡ぐ思い出のかすかな糸を垣間見たような気がした。
 前回訪問時の記念写真に写る一人一人の顔を指さして「これは誰?」と訊ねてみる。家内の顔を指した時ようやくその名前を口にした。髭面になった私の名前を口にできなくともやむを得まい。家内はアルバムを広げて語り続けている。義父はいつの間にか目を閉じ居眠りを始めている。今なお義父は長いパートナーだった人の死を知らない。最後まで義母の死は告げることなく別れを告げた。

中谷巌著「資本主義はなぜ自壊したのか」(その3)2009年03月03日

 本書はグローバル資本主義に内在する本質的な欠陥を指摘している。それ自体は説得力のある指摘であり、異議なしである。とはいえ世界の圧倒的多数の国が市場経済を受入れ、市場が国境を超えてグローバル化しているのも現実である。もはや資本主義経済体制は他に選択の余地のない枠組みではないかという空しさも否定しがたい。こうした見方についても著者は肯定した上で尚この地球上に存在する他の二つの選択肢を披瀝する。 
 ひとつは独自の社会主義体制を堅持させつつその特性を活かして高度な医療体制を築きあげたキューバである。草の根レベルの医療体制を作り上げることで社会全体の一体感や幸福感を高めていると報告する。
 今ひとつはヒマラヤ山脈にある立憲君主国ブータンである。ブータンは一種の「鎖国状態」を堅持し資本主義化の道をあえて拒否している国である。その背景には1972年に当時の国王が「国民の幸福は決して経済発展では測れない」という観点からGDPの追求でなくGNH(国民総幸福量)の向上を目指すという国家理念を掲げ、その方針を多くの国民が支持したということがある。それはブータンの人々が精神的にはチベット仏教に基づく伝統的な生活を守りつつ豊かな自然と調和して生きていくことを選んだということである。
 著者はキューバとブータンが社会システムこそ違うが、ともにグローバル資本主義のネットワークに入ることを主体的に拒否して独自の道を歩んでいる貴重な国であると断じる。そして近年に両国を訪問した際の印象を「彼らの明るさ、およそ人を騙して何かを目論もうといった雰囲気がまったくない社会の安定感、そして何よりも、貧しくはあってもそれによって精神までは蝕まれていないという社会の健全さが強烈な印象を与えた」と報告する。またキューバやブータンが実際の領土や経済力よりもずっと大きい存在感を持っており、独自の存在感をアピールし、国際社会で支持を増やすことでソフトな国家防衛をしているとコメントする。
 グローバル資本主義体制に組み入れられていないキューバとブータンの生き方と国民の幸せ感のある暮らしぶりの報告は、目から鱗の想いを抱かせられる。とは言え尚疑問が残るのも事実である。なぜなら両国の生き方はそれ自体肯定できるとしても、それを高度に資本主義化した日本に導入できるとは到底思えないからである。
 この点についても著者はキューバ、ブータンの生き方ではない第三の道を提示している。アメリカ流の新自由主義と対極の北欧の国々のあり方である。従来の市場主義から言えば手厚い福祉は国民の勤労意欲を奪い、高い税負担が競争力を弱めるとされてきた。ところが今、デンマーク、スウェーデン、フィンランド等の「高福祉・高負担」の北欧諸国が高い経済競争力を示していると指摘する。その根本的な理由としてそこに暮らしている人たちが「安心感」を持って働いている点にあると考える。それらの国々の70%を超える国民負担率を、国民は自分たちの現在と未来の生活を守るために拠出していると考えているからである。実際デンマークでは40年間居住して税をきちんと納めてさえいれば年金が全額給付される。デンマークの年金制度は日本のように保険料方式でなく税方式であるため財源が安定し将来を心配する必要がないというわけだ。
 こうした論拠を踏まえながら著者は、「新自由主義だけが『正解』でない。それとはまったく別のやり方で国民が幸福に暮らせる国が地球上に存在するという事実を知ってもらいたい」と訴える。
 目を我が国の政治状況に転じると、余りにもお粗末な実態は目を覆うばかりである。さりながらこれ以上現状の政治に目をそむけ、結果的に容認するわけにはいかないのも事実である。この著作を通してあらためて自分なりにできる可能なところからコミットしてみようと思った。

認知症サポーター要請講座2009年03月04日

 社協支部主催の認知症サポーター養成講座を受講した。自宅から徒歩20分の郷土資料館の大会議室には数十名の参加者がつめかけていた。中高年主婦や高齢男性が中心である。認知症に関心を寄せる層を代表しているのだろうか。開会直前の入室で、唯一の空席だった最前列の右側テーブルに着席した。隣りのテーブルにはスヌーピーのぬいぐるみを抱いた高齢のおばあちゃんを挟んで中高年の女性二人が着席している。 
 講座が始まると隣りテーブルの50代の女性が講師として紹介された。隣席のおばあちゃんは彼女の実母だった。「母の介護体験談」と題する講演は、93歳の実母の介護を始めて9年目を迎える講師の赤裸々で胸を打つ体験談だった。「早くに父親を亡くし仲の良い姉妹のような母娘で暮らしてきた。その母に自分が忘れられようとしていることを突然気づいた。受入れがたい悲しさだった。母の勘違いを正し、時に口論となる日々が始まった。そんな時ヘルパー講座で目から鱗のような言葉を聞いた。『あなたの世界に連れ戻すのは無理です。あなたがお母さんの世界に行ってあげて下さい』。進行する認知症の介護に疲れた時、認知症患者の家族会・さくら会に出会った。出口の見えないトンネルで一筋の明かりを見た思いだった。『いつでも良い介護者ではいられませんヨ』という励ましに救われた。今では母と私は合わせ鏡だと思っている。私が笑えば母も笑う。私が涙すれば母も悲しむ。そんな時、母は私を忘れていないと慰められる」。
 認知症サポーター向けのビデオを見た後、隣席の60代のもうひとりの女性による講演が始まった。講師はこの講座のキャラバンメイト(講師)でNPO法人つどい場さくらちゃん(介護者支援組織)代表である。過去10年間に家族3人を看取った体験に裏付けられた説得力のあるスピーチだった。「認知症は初期のケアが大切だ。しかし多くの場合、認めたくないという家族の気持ちがそれを見逃してしまう。身内や近所に知られたくないという気持ちが家に閉じ込めますます悪化させている。介護する方もされるほうもストレスが溜まっている。介護者も辛い時には泣けば良い。妻を介護する夫の介護は『償い介護』と言われ、逆の場合は『仕返し介護』と言われる。男性の介護はしばしば生真面目すぎて時に深刻な事態を招く。介護には適度ないい加減さが必要だ。高齢化社会と言われながら街にお年寄りを見かけない。安易にデイサービスやショートステイに頼りすぎていないか。患者と一緒に車椅子で街に出かけよう。街に介護が必要なお年寄りでも過ごせるつどいの場を作ろう。街の人たちのサポートが必要になり、ふれあいが生まれる」
 身につまされ、気づかされ、多くの学びを得た貴重な90分だった。

春の足音2009年03月05日

 朝のウォーキングに出かけた。久々の晴天だった。穏やかな日差しが心地よく全身を包んでくれる。ただそれだけで心浮き立つものがある。リタイヤ生活の贅沢を感じる時である。毎日の散策が、天候や気温や季節の変化を肌で感じさせてくれる。
 住宅街を抜ける坂道沿いに桜並木が続いている。冬の寒さを丸裸で過ごしてきた樹々に小さな変化が生まれようとしている。枝先のあちこちにチッチャな桜の芽がついている。濃いピンクの固そうな芽が柔らかな日差しの中で命を灯そうとしていた。
 春の足音が近づいている。

映画評「七つの贈り物」2009年03月06日

 大阪市大病院のPET検査の日だった。2年前の悪性黒色腫による右手親指切除手術の後、癌の転移を調べるため年1回この検査を受けている。1時間半程度の短時間で精度の高い全身の癌検査が可能だ。通常保険適用外で10万円程度必要だが、治療のための検査である私の場合、保険適用で2万円程度で済んでいる。「禍い転じて」の心境というべきか。
 11時過ぎに検査を終えた。16時から労働委員会の事件調査が入っているが、それまでのたっぷりある時間はもちろん映画しかない。事前リサーチした作品は「七つの贈り物」だ。病院近くのアポロシネマで上映中だった。まばらな観客の後方真ん中の絶好のシートに着席した。
 「七つの贈り物」は、観客に限りない想像力を迫る作品である。「自殺者がいる」と119番に告げる主人公。「自殺者は誰?」と訊ねられ「アイ アム(私だ)」と答える・・・。このインパクトのある冒頭シーンに始まり、相互に脈絡を欠いたシーンが次々と目まぐるしく展開する。時おり映される高速道路上の乗用車と大型ワゴンの衝突炎上事故の映像がフラッシュバックのように観客にインプットされる。各シーンごとにその意味を自ら考える他ない観客たち。早すぎるストーリー展開についていけない苛立ちすら覚える。あれよあれよと思いながらラストを迎える。頭脳に残されたバラバラのシーンがひとつの輪になって繋がる。
 ガブリエレ・ムッチーノ監督は、原作を思い切り自在に調理してこの作品を創りあげている。文字表現の原作と映像表現のこの作品には途方もない乖離がある。映像作家の凄腕が、原作では実現しようのない観客の想像力を存分に引き出している。この作品のテーマは幾通りもある。決めるのは観客だ。監督はそのような突き放した姿勢で作品に臨んでいるかにみえる。映画というメディアの持つ可能性をそう理解した時、この作品は見事にその役割を果たしている。素晴らしい成果を挙げている。
 それにしても主人公ベン・トーマスを演じたウイル・スミスという俳優の淡々とした抑制の利いた演技は印象的だった。はにかんだ少年のような笑顔がいつまでも心に沁みている。

緒方洪庵の適塾を訪ねた2009年03月07日

 昨日、天王寺で映画「七つの贈り物」を見終えて、地下鉄・淀屋橋駅に着いた。労働委員会のある天満橋まではいつも歩くことにしている。北浜まで続く地下街の途中で最寄りの観光スポットの案内図を目にした。適塾の文字が書かれた場所はすぐ近くだった。会議までたっぷり1時間半の余裕がある。寄り道をすることにした。
 適塾は、淀屋橋駅の東約500mの土佐堀通りの一筋南の通りにあった。高層のビル群に囲まれた空間に、江戸末期の商家の佇まいが忽然と現われた。板貼りの腰壁、格子、白壁、灰色の瓦屋根がコントラストをなす美しい建物である。玄関横の案内板には、「この建物が洪庵が1845年に住宅として買い受け、その後17年間に渡って適塾を開いたところである」とある。両隣は和風庭園と洋風広場で整備され、史跡・重要文化財「適塾」の面目が遺憾なく発揮されている。
 玄関脇の受付で参観料250円を支払い順路に沿って奥に向う。中庭を囲む廊下を抜けると居室用の二間の座敷がある。洪庵肖像の掛軸が目を引く。土蔵のある前庭の緑の植木に癒される。右隣の家族部屋には洪庵とその妻・八重の肖像画や両家の家系図が陳列されている。八重は私の住む街の隣町・名塩の出身である。父・億川百記は洪庵の先輩であり、名塩には今も「蘭学通り」の名が残っている。急な階段を伝って二階に上がる。当時の唯一の蘭日辞典・ヅーフを納めたヅーフ部屋を抜けると塾生の大部屋がある。大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、福澤諭吉などの幕末の俊才を輩出した部屋だ。多くの資料が展示され、塾生達の事跡の解説パネルがある。ビジネス街から突然タイムスリップして江戸末期の異空間に遊べる史跡だった。
 今日の夜、NHK土曜時代劇「浪花の華」の最終回を見た。若き日の洪庵(章)が活躍する捕り物帳である。洪庵が学ぶ私塾「思々斎塾」の塾生部屋の舞台装置は、目にしたばかりの適塾の塾生大部屋そっくりだった。5日前の日曜日には、洪庵の生誕地である岡山市足守地区を訪ねたばかりだ。一連の洪庵との出合いの不思議さを想った。

マラソンはドラマ・・・文字通りの展開2009年03月08日

 午後0時15分、世界陸上の選考会を兼ねた名古屋国際女子マラソンの号砲が鳴った。前半早くから先頭集団が4人に絞られた。キレル(ケニア)、白雪(中国)の外人勢と新谷、藤永の日本勢だ。その中でも藤永の走りが明らかに苦しい。先頭3人にしばしば置いていかれる。口を開けサングラスに隠された顔の表情がいかにも苦しげだ。ところが、そのつど、いつの間にか先頭集団に追いついている。瀬古、有森の解説者二人がその驚異的な粘りに舌を巻く。先頭集団4人の動きの少ない、それだけに面白みに欠ける展開が坦々と続く。
 動きが出てきたのは30Km付近だった。キレルがスパートする。新谷だけが何とかついて行く。少し並走した後、新谷が一気にギアチェンジした。見る間にキレルを突き放して、ぐんぐん差を広げる。21歳の端正な顔だちの魅力いっぱいの若きアスリートである。高橋尚子の再来とも言われる期待のランナーである。誰もが日本の女子マラソンの明日を担うニューヒロインの登場かと期待した筈だ。
 その新谷の顔が徐々に歪みだした。後方では驚異の粘りに拍車を駆けた藤永がキレルをもかわして二位につけてきた。正面からのカメラワークが、新谷の後方から迫ってくる相変わらず苦しげな表情の藤永を捉えている。見る間に藤永の姿が大きくなってくる。ついに37Km手前で追いつき、そのまま抜き去った。新谷に追いかける余力は既にない。
 2時間28分13秒の平凡なタイムながら藤永が大逆転のテープを切って世界選手権出場をものにした。高校時代に世界陸上の日本代表になったほどの逸材である。その後は怪我に泣かされ続け、27歳の今回が初マラソンという遅咲きのヒロインだった。
 残り5Kmという地点までトップを切り、観客の期待を集めた新谷はその後ズルズルと後退し8位という屈辱的で無残な結果に終った。マラソンというドラマ性のあるスポーツの見応えのある展開だった。

NHKドラマ「白洲次郎(第2回)」2009年03月09日

 一昨日の夜、NHKドラマスペシャル「白洲次郎」の第2回(1945年のクリスマス)を観た。
 次郎は家族とともに疎開生活を送っていた。敗戦直後に次郎のもとに外務大臣・吉田茂から終戦連絡事務局参与への招聘の手紙が届く。GHQとの交渉の日本側窓口として次郎の戦いが火蓋を切られる。GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた時期である。昭和天皇からのマッカーサーへのクリスマス・プレゼントを届けた際のエピソードが再現される。プレゼントがぞんざいに扱われたことにに激怒する次郎。流暢なブリティッシュ・イングリッシュで感情露わに次郎が叫ぶ。「われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」 。第2回のタイトルが、このシーンを次郎の人生で最も輝いた瞬間として取り上げたことを物語っている。ドラマの中で次郎がしばしば「自分にしかできないことやり遂げる」と語っている。マッカーサーとのこのやりとりは、まさしく白洲次郎という特異な人生を歩んできた人物をして初めて可能だったのだろう。第2回ドラマが、この劇的な場面で終了した。初回よりも、はるかに見応えのあるドラマだった。
 2回目のドラマでは妻・正子の人生も重要なストーリーとして展開されている。伯爵家に生まれた正子の奔放な生き方と次郎との葛藤がもうひとつのテーマであるかのようだ。骨薫収集家、随筆家でもある正子については、個人的にも気になる人物だった。文学者や作家との交流も多く、「目利きの達人」としても知られている。彼女の眼鏡にかなった作家の一人に車谷長吉がいる。彼は私の小学、中学、高校の同級生だ。彼の直木賞受賞の報道を巡って、私の周囲でちょっとしたドラマがあった。HPで「直木賞作家・級友”車谷君”に捧げる詩」をアップした。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/kurumatani.htm

我が家の地デジ対応2009年03月10日

 昨日の夕方、家電量販店の工事担当者の手で我が家のテレビの地デジ化が、完全な形でようやく完了した。
 4年ほど前にリビングに居座っていた大型アナログテレビが故障した。やむなく買替え機を物色していたら、折りしも近くに大手家電量販店がオープンし、目玉商品だった地デジ対応の液晶大型テレビ(シャープ・アクオス32型)を購入した。当時、受診エリアでなかった私の住む地域が、地デジエリアに移行したのはそれから2年ばかり経ってからだった。
 「取説」片手に素人が適当にリモコン操作して地デジのチャンネル設定をした。民放各局の設定はすぐにできたが、NHK総合テレビとサン・テレビとテレビ大阪のUHF局はどうしても設定できなかった。とはいえ地デジによる画像は驚くほど鮮明で美しかった。その時はその美しさに満足してそのまま放置した。ところが最近、ご近所を訪問した際に、NHK総合テレビもUHF局もきれいに受診しているのを目にした。草薙剛も2011年7月完全移行に向けた対応をうるさく促している  
 そんなわけでいよいよ我が家も完全移行に向けて着手した。今のテレビを購入した家電量販店に電話して地デジのチャンネル設定を依頼した。数日後にやってきた担当者の手で全チャンネルの設定はできたものの、NHK総合テレビとテレビ大阪はブロックノイズが頻発し視聴に耐えない。ブースやアンテナの点検が必要で工事担当でないとこれ以上は無理とのことだ。三日後にやってきた工事担当は色々点検したがうまくいかない。この上はアンテナの取替えが必要だが今日はその準備がないと帰って行った。その二日後の昨日、アンテナの取替え工事が完了した。
 リモコン操作でテレビ画面の受診レベルのモニターチェックができる。0~100までの受診レベルで40以上で受診可能だ。全てのチャンネルが65以上のレベルを示していた。実際、受信画像は驚くほどクリアになった。かくして我が家の地デジ対応は無事完了した。