田舎町の初冬の風情2009年12月01日

 6時半の夜明けを待って散歩にでかけた。久々の快晴が遠出の散策を促した。石材屋さんのハッチャンの相手を少ししていつもの右折路を反対方向に取った。有馬川を南に六甲山方向に辿る緑道に向う。川堰付近に集まっている小鴨の一群が初冬の風情をかもしている。
 有馬川緑道を南端の十王堂橋を渡り有馬街道から岡場方面に向う。上山口の田園地帯を右に望む地点にやってきた。私のお気に入りの風景が待っている。三田の山並みが遠望できる。その手前西側には神戸市北区の高層住宅群の遠景が見える。日の出の茜色が高層部を染めている。山並みの麓と高層住宅の周りを朝もやが漂っている。その手前には上山口の刈入れ後の稲田を前にした集落が佇んでいる。
 久々の遠出の散策道で田舎街の初冬の風情を見た。

自然が織りなす幻想の世界2009年12月02日

 昨日に続いての快晴に浮き立つ気分で朝の散歩に向った。今日はいつもの有馬川を北に隣町の平田に向うコースを取った。有馬川沿いの歩道にやってきた。前方の景色がいつもと違う。遠くの三田の山並みと手前の川面の間の景色がすっぽり抜け落ちている。いや白いベールに包まれている。
 自然界が創り出す珍しい現象なのだろう。天候や気温や湿気や地形が微妙に織り成して生み出した貴重な風景だった。名来橋の袂を右に折れかっての巡礼街道であった農道に出た。三田の山並みと平田の稲田が見張らせる絶好のビューポイントである。日の出前の冷え冷えとした透明な風景の真中を、濃霧が雲海のような帯を締めていた。
 平田の稲田を貫く農道にやってきた。雲海の正体である濃霧のベールの端が間近に迫っている。規則正しく建ち並ぶ電線の鉄塔が彼方に向うにつれて霞んでいく。美しくも幻想的な景色だった。

我が家のIT環境の進化2009年12月03日

 10日前にノートパソコンを購入しプリンターを買い換えた。両方とも無線LAN対応だった。メーカーサポートに電話をかけまくるなど悪戦苦闘の末、ようやくハードウェアのワイヤレス環境が整った。
 先日からWindous7の操作環境の設定やプリンターのパネル操作など、OSやハード操作のならし運転に入った。馴染むにつれその快適さや便利さに目を見張った。とりわけプリンターのSDラベルのプリント機能は驚いた。
 デジカメ購入以来、画像保存によるハードディスクの容量使用がどんどん増えている。バックアップ用にセットした40GBの外付ハードディスクの空容量は既に10GBを切っている。そこでデジカメ画像の書込みCDでの保存を考えた。書込み済CDには表面にタイトルを表示しなければならない。
 CDラベルは円形の紙にプリントするものとオジサンは思っていた。ところがナントCDの白い表面に直接プリントできるのだ。プリンター前面のボタン操作でCD用トレイにCDをセットしておく。ノートパソコンにインストールしたプリンター付属のソフトでデザイン作成をする。ソフトにはCDラベルデザイン用の円形のテンプレートが30種もある。好みのデザインを選んでタイトルの文字入力をし、印刷アイコンをクリックするだけである。あっという間にCDには見事なラベルが印刷されて自動的にトレイに載せられて出てくる。
 我が家のIT環境が一段と進化した。

田舎暮らしの老後の配当2009年12月04日

 一日中、小雨模様だった昨日とは打って変わった快晴の朝だった。いつもの散歩コースの出来事である。
 名来神社前の愛宕橋のすぐ先で、何やら鮮やかな色が動いたように見えた。じっと凝らした視線の先の枯れた草のてっぺんに、輝くような美しいブルーを背負った小鳥がとまっていた。カワセミだッ!ポケットのデジカメをそっと取り出す。息を殺して電源をONにしズームをいっぱいにアップした。飛び立たないでくれ!と祈るようにスイッチを押す。撮れたッ!二度目のスイッチを押そうとした瞬間、カワセミは直線的な鋭い飛行で飛び去った。モニターチェックする。翡翠色の鮮やかな背中と長いくちばし、白いほっぺの横向きの顔が川面を背景に写っていた。あの敏感な野鳥をよくぞ稚拙な腕で補足できたものだと自賛する。
 帰宅して着替えのため二階の寝室に入った。窓越しに見える隣家の柿木に熟れすぎた柿が裸になった枝のあちこちにしがみついていた。その周りを数羽の野鳥が羽ばたきながら熟し柿をついばんでいる。椋鳥だった。我が家に居ながらに目にする野鳥の姿は、このうえもなく心を和ませられるものがある。
 身近に野鳥を目にできる環境とは、田舎暮らしに限りなく近い生活環境の裏返しに他ならない。現役時代は、最寄の鉄道駅までバスで15分揺られなければならない不便さをかこっていた。リタイヤ生活を迎え、自宅中心の生活があらためて自然豊かな田舎暮らしの愉しさを気づかせてくれる。現役時代の田舎暮らしの不便さの配当を、老後生活を向かえた今受取っているのかもしれない。

山口ホールの落語と講談2009年12月05日

 山口ホールでの観劇が続いている。今日は2時からの「山口寄席」を見に行った。演目は「落語と講談」という珍しい組合せだ。前回無料だったJAZZバンドと違ってこちらは前売り木戸銭1500円の有料鑑賞だ。そのせいもあってか開演直前の客席は70人程度と寂しさは隠せない。
 小太鼓のお囃子に乗せて幕が開く。高座で若い女性噺家・露の団姫(まるこ)がにこやかに迎えている。北六甲台自治会館でのえびす寄席でもお馴染みの顔だ。今や最年少女性噺家としてテレビにも良く登場している。前ふりで笑いを取った後、「子ほめ」の噺に入る。一生懸命さは伝わるものの男性の登場人物を演じる違和感は拭えない。
 続いて登場したのは若手講談師・旭堂南青だ。なかなかのイケメンである。「太閤の風流」という演目をそつなくこなしているものの、インパクトは伝わらない。
 続いてベテラン噺家・露の団四郎の登場だ。この噺家もえびす寄席や神戸セミナーハウス寄席でも聴いた。軽妙な語り口と絶妙の間の取り方、豊かな表情、体全体での表現力など、たっぷり笑わせられる実力派である。巧みな前ふりで大いに笑わせながら「二番煎じ」の演目を40分ほどかけて演じきった。
 中入り後に最後に登場したのは貫禄十分の講談師・旭堂南鱗だ。「我々は男でも女でも南青のような男前でも私のようなへちゃむくれでもみ~んなコウダンシなんです」といきなり笑いを取る。テンポの良い話し振りが講談師の持ち味と思っていたが、この人の語りは思い切りスローテンポだ。そのスローさが前ふりでのトークになんともいえない味わいを加えている。演目の「赤穂義士銘々伝・横川勘平」になると多少テンポアップするが講談特有の歯切れ良さにはならない。この人はどちらかというと漫談家に向いているのではないかと思ってしまう。それ以上に講談という古典芸能自体の枠組みや制約が時代に合わなくなってきているのかもしれない。
 2時間半近くの演芸だった。観客の圧倒的多数の年配の男女は大いに笑いを楽しんだようだ。その世界に浸りきるには私はもう少し時間が必要なのかもしれないと思ったりしながらホールを出た。

義父の見舞いと閑谷学校2009年12月06日

 2ヶ月ぶりに義父の見舞いに岡山の施設を訪ねた。月1回の訪問予定が先月は義母の一周忌法要で適わなかった。受付でインフルエンザ対策のマスクをつけて病室に入る。久々の訪問が、ベッドで眠っている義父の容貌の一層の衰えを感じさせる。壁に94歳のお誕生日おめでとうと書かれた施設からのメッセージが貼られている。1週間前の誕生日に撮られたらしい元気そうな顔写真が貼付されている。お世話をしてもらっている皆さんからの寄せ書きも添え書きされている。家内と私の呼びかけに目と頷きで応えてくれる。12時前に食事がきた。当日の献立がお茶や吸い物も含めて全てゼリー状に加工されている。家内が40分ほどかけて食べさせる。食欲は旺盛だ。サヨナラの声掛けに目と頷きで応える義父を後に1時前に施設を辞した。
 帰路、山陽自動車道の和気ICを出て、国宝・閑谷学校に立ち寄った。江戸時代初期(1670年)に、備前藩主・池田光政によって建てられた藩営の日本最古の庶民学校である。山あいの丘陵地に忽然と建物群が現われる。受付で300円の入場料を払うと小型テープレコダーを渡された。数多くの建物群の解説テープが流れ始める。創設者・光政を祀った閑谷神社、江戸期鋳造の孔子像を安置した聖廟、国宝・講堂、校門、校地を取り巻く765mもの石塀、閑谷中学校本館として建設された木造二階建ての明治洋風建築の資料館などをテープを聴きながら見て回った。とりわけ入母屋造りの大屋根に備前焼の瓦を戴いた講堂の、広大で美しい佇まいは目を見張るものがあった。講堂前から資料館に至る小道の左右に建ち並んだ石組みの長大な塀は、他に類を見ない独特の景観を生み出していた。その入場料を上回るパフォーマンスに大満足して40分ばかりの見学を終えた。

家内の一大事2009年12月07日

 午前中いっぱい三田の国立兵庫中央病院にいた。三日前にパート勤務から帰って来た家内がいきなり「えらいことやッ」と口走る。「会社の健康診断で引っ掛ってしもた。精密検査を受けんとアカン。肺癌かもしれん」と、胸部X線検査結果と書かれた用紙を差し出す。所見欄には「種瘤状影」と何やら不安を煽る文字が記されている。家内はその日の内に最寄の診療所に行ってきた。「週明けにも検査施設のある病院でCT検査を受けるよう」との診断だった。
 そして週明けの今日、旦那付き添いの兵庫中央病院での受診とあいなった。9時前に受付を済ませ、10時前にレントゲンとCT検査を済ませた。意外と早く終るかと思ったが、なんせ予約なしの初診である。それから診察室前の待合ベンチで90分ばかり待たされる。担当医の診察が始まったのは11時45分頃だった。
 CT検査の10mm毎の輪切りの肺を写した2~30枚の写真を見ながらの説明が始まる。一緒に診察室に入り家内の後で固唾を呑んで聴く。「右肺の第2室のここに粒状の塊りが見えます。考えられるのは結核などの細菌性の感染症で過去の傷跡か進行中かは分かりません。もうひとつは可能性は低いと思われますが肺癌の可能性です。いずれにしろ写真だけでは判断できません。血液検査で細菌性感染症と癌検査を行って、問題なければ2ヵ月後にもう一度経過を診るためのCT検査をします。兆候が認められれば肺カメラで更に精密な検査を行います。今日、血液検査をして7日後に結果をもとにした診察を受けて下さい」。
 肺癌の診断という最悪の事態は避けられた。今後の見通しでもその可能性はかなり低そうだ。とはいえ本人にとっては単に1週間の執行猶予を告げられたに過ぎない。1週間後には肺カメラというキツくてリスキーな検査を宣告されるかもしれない。
 実は私自身は今夕から9日夜まで宮古島のツアーに出かける予定が入っている。今日の結果次第ではツアー断念の選択肢もありえた。家内の内心の不安にまで付添えるわけではない。1週間の執行猶予の診断結果は、ツアー出発のゴーサインでもある。ほな行ってくるデッ!

沖縄・宮古島での異文化体験(前編)2009年12月08日

 この時期恒例のチェーンストア労組OB・現役懇親会の日である。今年の会場は沖縄の宮古島だった。初めての沖縄である。グループでまとめて手配された航空券は、関空発那覇経由宮古行の7時10分のJALだった。りんんくうタウンのホテルで前泊し、ホテルの送迎バスで6時半に関空に着いた。12月中旬の早朝の寒さをダウンジャケットでカバーする。ゲート前で出身労組の仲間と合流し搭乗する。
 那覇空港で乗り継ぎ宮古空港に降り立ったのは11時だった。関空の寒さが嘘のような陽気が待っていた。真夏を思わせる日ざしがジャケットを脱いで薄着になった身体に降りそそぐ。予約のレンタカーを借受けて観光に出発する。
 何はともあれ昼食である。レンタカー営業所での現地情報で宮古そばの美味しい店「古謝そば屋」を訪ねる。ナビが威力を発揮する。そばセットをを注文する。太麺の宮古そばにチャーハン、小皿のコロッケ団子、モズクとソフトドリンクが付いている。この島の定番ブックのような「ガイドブック宮古島2009」を見ながらコースを検討する。島の南東の端の東平安名崎をスタートに、宿泊ホテルのある南西の端に帰ってくることにした。
 島の先端から延びた2kmほどの岬の中間で駐車し、歩いて岬の突端に向う。突端手前に伝説の美女マムヤの墓があった。そのそばの展望台からの眺めが、初めての南国の海との出合いだった。海底まで見通せる透明感と深さで異なる美しいブルーの色合いに息を呑む。果てしなく広がる紺碧の海がこんなにも美しいものかという感動を覚えずにはおられない。白い平安名崎灯台のらせん階段を伝い最上階に登る。海抜43mからの360度の絶景が飛び込んでくる。岬の細長い姿が一望できる。階段を降りた時、チケット売場のオバサンに「ヘイアンナザキでなくヘンナザキと読みます」と教えられた。本土の人間にとっては想定外の読みである。沖縄文化との距離を感じさせられたひとこまだった。駐車場近くで店開きしていた屋台風の土産物店でサトウキビジュースを飲んだ。子供の頃に噛んだサトウキビの懐かしい味が甦った。
 灯台から西7km のところに宮古島地下ダム資料館があった。サンゴ礁が隆起してできた透水性の高い琉球石灰岩から成る宮古島の地下水利用のための地下ダムである。更に西に車を走らせていると道路脇にガイドブックには記されていない鍾乳洞の案内看板があった。みすぼらしい小屋の入口に「仲原鍾乳洞」の看板がある。入場料500円を払って赤い階段を地下に下りる。余り期待していなかったが降りてみるとなかなかのものだ。奥行のある洞窟の天井から多数の巨大な鍾乳石が突き出ている。小屋に戻り係りのオバサンに聞くと個人所有の鍾乳洞だとのこと。どうりで宣伝が行き届かない。
 島の南岸の中間辺りにイムギャーマリンガーデンがあった。遊歩道に沿って石灰岩がおりなす入り江を歩く。イムギャー橋から眺める紺碧の海の美しさを満喫した。その近くの海の見える「島カフェ・とうんからや」で休憩し隣りのシーサー作りの体験工房・太陽が窯を覗いてみる。
 宿泊会場の宮古島東急リゾートに着いたのは4時前だった。部屋に入るとベランダからは太平洋の水平線を見渡す絶景が広がっている。入浴を済ませ寛いだひと時を過ごすうちに、暮れなずむ夕陽が水平線に近づいてくる美しい風景が目に入る。
 午後7時から恒例の懇親会が始まる。ホテルの海側の広大なガーデンの一角でのバーベキューディナーだった。50数名の参加者がテーブルを囲む。宴の途中にはホテルの若い男女の従業員たちによる琉球太鼓が演じられる。目前で太鼓を叩きながら踊るエイサーの激しい動きが繰り広げられる。その激しさに沖縄の人たちの心の奥底に秘めた怒りと哀しさを垣間見たような気がする。アンコールに応えた最後の演目では小太鼓やタンバリンが観客たちに配られ一緒に踊るよう促される。ほろ酔い気分のオジサンたちが踊りの輪に加わった。もちろん私も・・・。場所を変えた二次会では思い思いに懐かしい知人たちと1年ぶりの懇親を深める。12時前に部屋に戻りベッドに入った。早朝から深夜までのリタイヤ後の久々の長い一日がようやく終った。

沖縄・宮古島での異文化体験(後編)2009年12月09日

 6時半、宮古島の朝を迎えた。7時過ぎに朝の散策に出かけた。ホテルの南側には真っ白なビーチが海岸線を縁取っている。日の出前の誰もいないビーチの粒子をシャキシャキと踏みしめた。地元の素材をふんだんに揃えたホテルの朝食バイキングを済ませて8時半にホテルを出発した。
 二日目の観光の最初に向ったのは来間島(くりまじま)だった。宮古本島との間に架けられた全長1,690mの来間大橋を渡る。本島と向き合う島の東岸に竜宮城展望台がある。竜宮城をイメージした無人の3層の展望台の最上階からの絶景に目を見張らされる。正面には昨夜の宿・東急リゾートの白亜の建物が前浜ビーチのど真中に建っている。眼下にはサンゴ礁がつくりだす濃淡のあるエメラルドグリーンの海が広がっている。
 大橋に戻り本島南西から一路北に向う。10分ほどで川満マングローブに着いた。与那覇湾から入り込んだ沼を囲むように生い茂るマングローブ林の中を木製の遊歩道が架かっている。湾に出たところで杭の上に止まった色鮮やかな野鳥を見つけ幸運にもデジカメに収められた。
 市の中心部を抜けた平良港交差点近くに史跡が固まっていた。漲水御嶽(はりみずうたき)は、宮古島の創生神を祀る御嶽である。その北方に仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)とその三男の知利真良豊見親(ちりまらとぅゆみゃ)親子の墓がある。16世紀初頭に琉球国王から任じられた八重山守護職の墓である。更に北に進むと人頭税石がある。財政に窮乏した琉球王府が江戸時代初期に課した税制の名残りの史跡だ。高さ143cmのこの石を越える者に税を課したという史跡である。
 史跡見学の後、一気に本島北端の池間大橋を渡り池間島に向った。今回の観光で最も期待の大きいグラスボートでの海底観光が待っている。10時30分に「池間島海底観光」の船着場に到着した。冬場の平日の閑散期とて乗船客は私たち二人だけだった。2千円の乗船料で約50分の海底観光が楽しめる。入江を出て大橋を越えてさんご礁や熱帯魚たちの生息スポットに向う。地元の船長が浅瀬を巧みに避けながら広大な海の小さなスポットに見事に誘導する。ボートの長方形のグラス底から色鮮やかな海底模様が色とりどりの魚たちとともに現われる。様々な形と色のさんご礁に目を奪われる。海亀の昼寝ポイントにやってきた。と思う間もなくグラス面を一匹の海亀が横切った。画像には納められなかったものの目撃できたことで満足すべきか。
 再び本島に戻る。池間島に伸びた岬の東岸に天然記念物・島尻マングローブ林があった。奥行約1kmの宮古諸島最大のマングローブの群生林である。木の遊歩道と石灰岩の橋がまじかに群生林を見せてくれる。それにしてもこの島での観光は殆んどが無料開放されているのには驚かされる。観光客数の少なさが有料化に伴うコストを吸収しきれないためだろうか。
 12時半近くになった。市街地に戻り、事前調査でお目当ての海ぶどう海鮮丼のメニューのある「郷土料理・おふくろ停」で昼食をとる。登場した海ぶどう海鮮丼は、大きな丼ご飯にマグロの切り身やイクラやとろろ芋がのせられその上に海ぶどうがたっぷりのせられている。
 昼食後、島の東岸の高野漁港にある「海ぶどう養殖・ゆうむつ」を訪ねた。お土産用の海ぶどうを調達するためだ。訪ね当てた養殖場は海岸近くの三棟のビニールハウスと事務所小屋だった。ビニールハウスの中のいくつもの水槽には海ぶどうが生育段階に応じて育てられている。味見用の海ぶどうを食べながら海ぶどう海鮮丼の昼食後の訪問を悔やんだものだ。家族のためにたっぷりの海ぶどうを調達した。
 最後の観光スポットは熱帯植物園だった。行って見ると実態は熱帯樹木の生い茂る敷地の中の「宮古島市体験工芸村」という無料開放施設だった。陶芸、木細工、宮古織物、藍染、島唄三線、郷土料理などの工房・教室があちこちに建ち並んでいる。手づくり体験とともに作品の展示販売もある。島の伝統工芸の伝承施設の機能も併せ持つ。
 予定の全スポットを回り終えた。空港近くのレンタカー会社営業所には3時半頃に着いた。空港までの道中の係員との会話で、この島の冬の日中の平均気温が24~25℃と知った。本州と10℃以上の気温差である。那覇と台湾との中間に位置する島である。地理的には日本以上に中国に近い。日本で最も独自の文化風土を持つ地域が沖縄ではないだろうか。わずか二日間の初めての沖縄の旅は異文化体験の旅でもあった。
 18時15分発の那覇行JTAを起点に関空行JAL、空港バス、JR、家内運転のマイカーと乗り継いで自宅に戻ったのは23時40分頃だった。密度の濃い二日間の宮古島の旅が幕を引いた。

遠藤周作「男の一生(上・下)」2009年12月10日

 遠藤周作著作の「男の一生(上・下)」を読んだ。書棚にあった15年前に発行された文庫本を見つけて再読したものだ。豊臣秀吉配下の戦国武将・前野将右衛門の一生を描いた物語である。主人公は実在はしたようだが著名な歴史上の人物ではない。幼友達だった蜂須賀小六とともに木曽川周辺に根を張った川並衆と呼ばれた土豪の一人である。作者は一般的な歴史書に登場しないこうした歴史の舞台裏に生きた人物を通して歴史のあらたな側面を描こうとしているかにみえる。
 作者のこうした試みの動機となったのは「武功夜話」という古文書のようだ。伊勢湾台風で壊れた前野家の子孫宅の土蔵から発見された古文書である。この全21巻もの古文書を読み込み現地を歩き古老の話しを聞いてこの作品を書上げたという。
 さて読後感である。残念ながら期待に反した出来栄えだったと思う。戦国の苛烈な時代を、ごく平凡な武将の内面から照準を当てながら描こうという試みは突き詰められることなく平坦に流れた感がある。主人公の妻や憧れの女性への思慕を通しての「女の一生」や、戦国の世のキリシタン信仰といったサブテーマにまで広がった散漫さの故かもしれない。代表作「沈黙」での作者の圧倒的な力量への期待が大きすぎたのかもしれない。