心安らかな恒例の初詣2010年01月01日

 2010年の元旦の朝を迎えた。家族5人がお雑煮の食卓を囲んだ。新年の挨拶を交わした後、家族たちのお喋りを横目に一人盃を注ぐ。酌み交わす相手のいない家族が、幸せな正月風景にチョッピリ侘しさをもたらしている。
 2時過ぎには夫婦で恒例となった丸山稲荷神社の初詣に出かける。二ヶ月前に公民館講座の里山の自然学習で登った丸山山道を辿った。当日、樹木にガムテープで仮止めされた名札が、今日は立派なプレートに置き換えられていた。名札と実際の樹を比べながら散策できる楽しみが付け加わった。山頂の奥社で参拝を済ませ同じ道を降りていた時だった。一組のご夫婦が登ってきた。ナント御主人は当日の主催者だった地区の公民館活動推進委員の責任者だった。偶然の出会いに驚きながら立ち話を交わした。
 丸山山麓の稲荷神社本社から公智神社に向う途中に有馬川の歩道がある。歩道端の鮮やかなブルーの色が目に入った。「カワセミやッ」。家内にソッと声を掛けた途端、カワセミが水平に鋭く飛び去った。「ほんまや。写真どおりのきれいな色してたな~ッ」。良かった。ちゃんと目に入ったんや。何度か見せていたデジカメ画像の本当の姿を家内にも見せられたことにチョッといい気分になった。
 公智神社まで足を伸ばして今年の初詣を済ませた。「いつまで二人で初詣に来れるんやろ」。家内の呟きにふと三年前のブルーな初詣を思い起こした。直前の12月に右手親指の悪性黒色腫という皮膚癌が見つかったのだ。進行状況を診断する精密検査を1月中旬に控えて、生きた心地のしない正月を迎えたものだ。それだけに初詣のお参りは必死だった。思えばあれからもう三年が経ったのだ。右手親指切除という代償を払ったものの、こうして無事に心安らかな初詣を迎えていることに感謝するばかりである。

正月ど真中、酒と肴とテレビと居眠り・・・2010年01月02日

 家族が久々に顔を揃えた元旦の昨晩、夕食前にお勤めをした。仏壇前で息子と娘がオヤジと一緒に神妙に宗派の経文を唱えてくれた。盆と正月の年二回の我が家の恒例行事である。
 そして迎えた今日、朝から息子は高校時代の友人グループとのゴルフに出かけた。出掛けに両親それぞれに小遣いをくれた。お札を入れたポチ袋が思いつきでない予ねての準備を窺わせる。初めてのことだった。驚きとともに親を気遣う心根が身に沁みた。同時にいよいよ息子に庇護される側に回ったと実感させられたのも事実である。あるがままに受け止めよう。
 息子の嫁は昨日から実家に帰っている。家内と娘は昼前にいそいそと三田の百貨店に出かけた。一人だけの昼食を冷蔵庫に溢れている食材を皿に盛り付けて準備した。正月用の日本酒をレンジでお燗した。テレビの前のテーブルに酒と肴が並んだ。テレビでは箱根駅伝の往路がクライマックスを迎えようとしている。家族の誰も見ないこの番組も今は私だけのものだ。酒の酔いが回るにつれて瞼が重くなる。いつの間にかまどろんでいた。
 酒と泪と男と女・・・・。酒と肴とテレビと居眠り・・・。誰もいない正月ど真中の我が家のリビングである。結構これもいいもんだ。

2010年の賀状デザイン2010年01月03日

 我が家の賀状デザインは毎年家族の近況を漫画イラストで描いている。昨年の賀状は喪中で欠礼したため、今年は二年ぶりの賀状となった。二年前のリタイヤ以降、髭を伸ばしている。今回は髭面とリタイヤ生活がテーマとなった。
 家族の抵抗を押し切って伸ばし続けた髭はすっかり定着した。民生委員や労働委員会委員の業務への懸念もあったが問題なさそうだ。ブログの毎日更新や1日1万歩以上のウォーキングも欠かしたことがない。ライフワークの地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」も徐々に地域に浸透してきている。今年は新たなステップアップが期待できそうだ。我がリタイヤ生活はまずまず満足すべきものといえよう。
 一方家内は、亭主のリタイヤ生活で恐らくストレスが溜まっているに違いない。パート勤務だけでなく買物好きに拍車がかかり外出三昧の日々である。
 一向に嫁に行く気配のないパラサイト娘は、大阪の専門商社での勤務も安定してきたようで、年末は恒例の海外旅行を楽しんできた。
 こんな風景を賀状にデザインした。

息子夫婦のUターン余話2010年01月04日

 昨夜6時30分頃に息子夫婦がUターンした。まだUターンラッシュのピークが続いている時間帯を沼津までの殆んどを高速道で帰った。今朝起床した時、携帯メールの着信ランプが点滅していた。「無事に今帰りました」という味も素っ気もない息子からのメールだった。発信時間は未明の2時40分だ。6時間だった帰省時間がさすがに8時間かけてのUターンだ。それでもラッシュピークの出発にしては思いのほか早かった。10時頃に珍しく息子から電話があった。素っ気ないメールに気が引けたのか。嫁の智恵なのか。生電話での帰省連絡と嫁の姑への挨拶だった。盆暮れの息子夫婦の帰省は平坦な老後生活のインパクトのあるメリハリとなっている。
 娘は今日から出勤だ。いつも通りの夫婦二人の静けさが戻ってきた。昼食の食卓に並んだ正月料理の残りと、郵便受けの数枚の賀状が正月の余韻を残していた。
 正月というイベントの現役時代の起伏の大きさは、リタイヤ後2度目を終えて確実になだらかになっていく。

黒山羊ハッチャンの苛立ち?2010年01月05日

 早朝ウォーキングを終えて石材屋さん近くに戻ってきた時だ。ガタン、ガタンと大きな物音が聞こえた。黒山羊ハッチャンの仕業だった。道路側に立掛けられた石材屋さんのトタンの看板を、ハッチャンが金網越しに大きな角で頭突きをしていた。近寄ってジッと見つめた。気配を感じてハッチャンも見つめ返す。つぶらな瞳の中に心なしか哀しげな憂いが宿っているように見えた。突然、頭を下げて再び看板への頭突き攻撃を再開した。ガタン、ガタン。
 広々とした牧草の敷地で悠々自適の生活を過ごしているものと思っていた。そのハッチャンの怒りにも似た激しいしぐさに苛立ちを見た。彼の出生地は三田市の青野ダム近くである。「ワシはこんなところに来とうはなかった」。直江兼続幼少時代の与六の科白がよぎった。そんな想いを抱いているのかもしれない。元気な間は毎日通る散歩道の一角である。長い付き合いになる筈のハッチャンの想いにも付き合ってみた。

リタイヤ2年目の新年の居場所2010年01月06日

 昨日の夕方、ご近所のお宅でちょっとした新年会となった。昨年3月にトルコツアーをご一緒したご夫婦宅である。「お茶を誘われているから来たら?」。家内の訪問先からの連絡だった。行ってみて部屋の隅に置かれた「越の寒梅」が目に入った。話題にした途端に酒好きの亭主二人はもう止まらない。ぐい飲みが用意され、ティーブレイクはプチ酒盛りに変貌した。口当たりの良い銘酒にほろ酔い機嫌で6時前に帰宅した。
 6時から地区の社会福祉協議会の役員会兼新年会があった。家内のマイカーで送られてコミュニティーセンターに出かけた。30分ほど型通りの議事を済ませて千円の会費制の新年会に切り替る。チラシ寿司弁当と缶ビールとミカンが配られる。しばらく懇談した後、恒例の参加者の抱負や特技の披露発表となる。20名ほどの参加者が次々に独自の世界を披露する。「趣味の川柳で専門誌での入賞が目標」「趣味だった版画を復活させたい」などの抱負が語られたり、「去年からの大殺界が続いているので今年も大人しくする」と、去年も決して大人しくなかったオバサンの決意があったりする。趣味は詩吟というオジサンは用意のペーパーを参加者に配り、全員の合唱で盛り上げた後、自らの詩吟を披露するという芸の細かさである。学生時代の謡いを披露するオバサンもいる。それぞれに年輪を経たいぶし銀のぬくもりが伝わってくる。
 ご近所さんとの懇親と社協の新年会・・・。リタイヤ2年目の新年の心地よい居場所に包み込まれた。

清荒神参拝と船坂グルメの昼食2010年01月07日

 家内のパート勤務の最後の正月休日の日だった。 二人でどこかに出かけようということになった。11時前に清荒神の大きな無料駐車場に着いた。正式には清荒神清澄寺(きよしこうじん せいちょうじ)という神仏習合の真言系の仏閣である。近在では「荒神さん」として知られ参詣者も多い。とはいえさすがに正月も7日ともなれば駐車場もゆとりがあり待たずに駐車できた。
 駐車場正面の参道を少し歩くと山門がある。山門をくぐると左手に鳥居がありその向こうには神社の拝殿がある。山門正面には大きな地蔵尊と本堂が配されている。神仏習合を見事に具現化した配置である。順路に従って拝殿で参拝し周囲の祠を巡る。役行者を祀った神変大菩薩(行者洞)が興味を引いた。行者洞横の階段を上がり稲荷社を巡り、再び階段を降りて本堂に出る。本堂であらためて参拝し、本堂前の一願地蔵尊の巨大な立像に水掛をする。宗務所と本堂をつなぐ風情のある回廊の脇を抜けて鉄斎美術館の前にでる。最後の文人といわれた画家・富岡鉄斎の作品蒐集で知られ「鉄斎寺」ともいわれている。美術館横の小道の奥に竜王滝があった。ここから折り返し山門を出て駐車場前に戻る。
 駐車場東側には阪急清荒神駅前に至る長い参道がある。折角だからと参道を往復することにした。片道20分の狭い参道両脇には土産物や飲食の露店や店舗が軒を並べている。それらを眺めながらのそぞろ歩きもまた愉しい。終点近くの大きなお店で漬物やお菓子などを求めて折り返した。駐車場近くの参道で「善光寺のおやき」の露店があった。12時前の空いた小腹の欲求に応じることにした。焼きたての「高菜のおやき」が腹に沁みた。
 駐車場を出て、昼食をどこにするかが車内の話題となる。結局、自宅近くの「西洋料理・船坂」でまとまった。思い切った提案に家内にしては珍しく同意した。12時半頃にグルメ雑誌にもしばしば登場するレストランに着いた。山裾の自然に囲まれた広大な敷地にポツンと建つ特異な形の建物だった。平日の昼過ぎとて瀟洒な店内に来店客の姿はない。2500円のランチをオーダーした。パン、前菜、スープ、ビーフステーキ、コーヒー&アイスと続く。独特の風味のスープ、柔らかい肉に深みのあるデミグラスソースのかかったステーキの他、何よりもコーヒーのおいしさは特筆ものだった。
 正月明けの夫婦だけの穏やかな半日を過ごした。

おばさんトーク入門講座2010年01月08日

 リタイヤ後の変化に、家内とのおしゃべりの機会が増えたことがある。自宅での生活がベースになったのだから当然といえる。その結果、現役時代には気づかなかった家内の特異なトークに、しばしば翻弄させられる羽目になった。それは民生委員になってボランティアの場でお付合いする地域のおばさんたちにも多かれ少なかれ見受けられる傾向でもある。世の中には「おばさんトーク」というものがあるようだと気づかされた。おばさんトークの傾向とその対策を綴っておこう。これからリタイヤを迎えるおじさんたちのために・・・。
<おばさんはよくしゃべる>
 本当によくしゃべる。話しかけているわけではないことがようやく分かった。返事を求めているのではない。思ったことを口にしたいのだ。聞いてほしいだけなのだ。おばさんたちにとって「しゃべること」はカタルシス(「浄化作用」「抑圧からの開放」)なのだ。リタイヤ後のこの発見は大きかった。会話をせねばという呪縛から開放されたのだから。多くの場合聞き流し、適度に相槌を打つ。これしかない。但しこの対策を講じていることを気取られてはならない。
<おばさんは繰り返す>
 気になったことは何度も繰り返す。言ったことを忘れたわけではない。何度でも話したいのだ。決して私のように「3回目やッ」と指摘してはいけない。耳を傾けているフリをすることこそ肝要だ。
<おばさんは割り込む>
 ビジネス社会に生きてきたおじさんは、会話の暗黙のルールというものを身につけさせられる。そうした機会の少なかったおばさんはルールに無縁である。いきなり割り込んできて話の腰を折るという必殺技を繰り出してくる。悪気はない。今思いついたことを言っておかないと忘れてしまうという恐怖心のなせる業なのだ。対策はない。ひたすら慣れることだ。
<おばさんはいきなり飛躍する>
 順調に会話が成立しているかに思えても油断は禁物である。いきなり話の流れにそぐわない話題が飛び出すからだ。仲良しおばさんグループでしょっちゅうおしゃべりしている彼女たちには共通の会話パターンが出来上がり基礎的情報が共有化されている。従って話の段階を2、3段すっ飛ばしても分かり合えるのだ。「何の話や」という問いに「何でこれが分からんの。○○さんはすぐ分かるのに」と平然と答える。沈黙で応じる以外にどんな対策があるだろうか。
<おばさんは居直る>
 上記のおばさんトークの傾向を理屈っぽく指摘したらどうなるだろう。答えは明らかだ。「おばさんってみんなそうなんや」。見事な居直りをもって返されるのがオチだ。ちゃんと分かっているのだ。おばさんはおじさんのはるか先をしたたかに生きている。
 おのおの方、ご油断めさるな!

 この一文は、おばさんたちへの非難はおろかボヤキですらない。我が家や地域を支えて奮闘するおばさんたちへの愛おしさを籠めた応援歌である。同時に、そんなおばさんパワーにさらされて翻弄するおじさんの魂を鎮めるレクイエム(鎮魂歌)でもある。

久々の高齢者宅の訪問2010年01月09日

 久々に高齢者宅を訪問した。今月末の社協主催の75歳以上の高齢者対象の「ふれあい交流会」へのお誘いだった。毎年この時期に催される恒例のお食事とカラオケの交流会だ。10日の締切りを前にして例年参加の方で申込のない人や75歳になったばかりの人を中心に20数軒を訪ねた。
 民生委員になって4度目の訪問である。個人的にも親しくなった人も増えてきた。となると訪問した際の会話も自ずと弾んでくる。不在者もあって実質20軒足らずの訪問だった。それでも10時に出て帰宅したのは12時を過ぎていた。
 訪問回数の増加は一軒当たりの訪問時間数の増加に繋がってくる。それは民生委員としての高齢者からの信頼の証しと言えなくもない。おしゃべりが苦手なおじさん委員にとっての勲章と受け止めよう。

義父の危篤連絡2010年01月10日

 早朝ウォーキングから帰ると、家内が心配げな様子で、受け取ったばかりの義兄からの連絡を伝えた。施設に入所中の義父の容態がおもわしくなく倉敷市の病院に転院したとのことだ。明日の朝一番に病院を訪ねることにした。
 午後2時頃、外出中の家内から、義父が危篤状態だという連絡が入った。友人との待ち合わせで大阪に出かけていた家内に義兄から続報が入ったのだ。別の所用で大阪に出かけていた娘と合流でき次第、帰宅するという。
 先月初めに義父を見舞った。衰弱は著しくとも食欲は旺盛だった父親の昼食を、家内は時間をかけて食べさせていた。あれが父親に対する娘の最後の孝行となるのだろうか。94歳という平均寿命を上回る年齢ではある。
 帰宅した家内と娘と一緒に、万が一の場合の準備を慌ただしく整えて、5時過ぎに倉敷の病院に向かった。7時半に到着した病室に、義兄夫婦に付き添われた義父の痛々しい姿があった。大きく開いた口元にはエアマスクがあてがわれ、脈拍や酸素や血圧を測定する機器が接続されている。わずかに開いた瞳がかすかに左右に移動するものの、家内の耳元での呼びかけにも全く反応はない。苦しげに上下動しているが喉の動きが、残された命を懸命に灯し続けようと頑張っているかにみえる。義父の昔話をしながら二家族5人が見守った。容態は危険ながらも小康状態を保っているようだ。10時過ぎ、当直の看護師さんの助言もあり、いったん義兄夫婦の住む岡山市内の実家に戻ることにした。万一の時には看護師さんから連絡が入ることになっている。
 11時過ぎに到着した実家で慌ただしく入浴を済ませ、久々に家族3人が一部屋で眠りについた。