自治会総会の議長選出ルール2010年04月01日

 昨晩、在住する住宅街の自治会役員会に呼ばれた。今月11日開催のの総会打ち合わせのためだ。知人でもある自治会長から今年も総会議長を頼まれた。実に3年続いての議長となる。1800余りの世帯を擁する自治会である。住宅街の中にある小学校の体育館で開催される。例年180名ほどの出席があり、質問・意見も活発で時にヤジも飛び交い結構緊張感を強いられる役回りである。どうしても去年もお願いした慣れた人という現役員の安易な判断になってしまう。
 今年はさすがに条件をつけた。「いつまでも同じ人に属人的なコネで依頼するのはナシにしましょう。総会運営の実情を心得た人材である会長経験者が引き受けるという非公式ルールを導入してはどうか。二人の議長を3期前の会長と2期前の会長で担当し、次の議長は2期前の会長と次の会長で引き受けるという仕組みをつくることが必要だ。絶えず議長経験者が一人はいてやり方を引き継いでいくことができる」
 この提案をもとに現会長に当事者となる会長経験者に調整してもらった。議長選任の苦労を味わった良識あるメンバーの皆さんだったようだ。異論なく了承された。昨日の打ち合わせ会には新会長予定者の姿もいあった。了承されたばかりの議長選任ルールを説明した。3年後の議長予定者に異論は出よう筈はなかった。

風土記探訪講座!受講生募集2010年04月02日

 昨日、所用で在住住宅街のコミュニティーセンターに立ち寄った。壁面に設置された自治会掲示板が目にとまった。「山口風土記探訪講座」のポスターが掲示されている。5月15日に開講する私の講座の案内だった。ポスターも私が作成し、山口町の公民館活動推進員の担当者に渡しておいたものをカラーコピーして掲示していただいたものだ。先月末に我が家に回ってきた自治会回覧板にも同じ内容のパンフレットが挟まれていた。同じ講座案内が山口町の6000余りの世帯にも一斉に回覧されている。
 昨年11月に初めて関係者に打診し、以後担当の推進員の方と打ち合わせを重ねてきた。私のライフワークでもある「にしのみや山口風土記」を通じての地域との関わりが、いよいよ本格化することになる。そのテーマが講座の受講生募集という形で地域にパブリックな形でアナウンスされた出来事といえる。はたしてどれだけの方の受講申し込みがあるだろうか。
 とりわけ町内人口の半数以上を占める新興住宅街の皆さんに、この街の自然や風土の素晴らしさや積み重ねた歴史や伝統の重さ知ってほしいと思う。旧来の街と新興住宅街の住民との意識の乖離は小さくはない。共通の基盤である街の素晴らしさを知ることが、この街を好きになり、この街を少しでも良くしようというモチベーションとなるはずだ。「知って、歩いて、好きになる山口」をキャッチコピーとした講座の成功は、ひとえに受講者数というバロメーターを通じての地域の皆さんの関心の深さにかかっている。

山口さくらまつりの朝2010年04月03日

 さくらまつりの朝を迎えた。花冷えの肌寒い朝だが、天気は快晴で絶好の花見日和だ。朝の散策で、さくらまつり会場の有馬川緑道に向かった。
 7時前の会場は昇ったばかりの朝日に照らされて穏やかなぬくもりを感じさせた。さくらは満開にはほど遠い5分咲きといったところだ。さくらまつりのロケーションとしては不本意ではあるが、雨で翌日に順延された昨年のことを思えば「良し」とすべきか。
 平成橋から松栄橋までの500m余りの緑道が会場である。平成橋すぐ南の公園では本部席用の机やテントが運び込まれている。その先の緑道の左右には、ビニール紐で出店区分の縄張りがすでに施されている。屋台が並ぶエリアにはボンベなども置かれている。昨日の雨模様の空の下で、多くのボランティアたちによる作業が行われたようだ。5時間後には始まっている筈のさくらまつりの準備が順調に進んでいた。

山口さくらまつり2010年04月04日

 昨日、さくらまつり本番を迎えた。今年はさくらまつり会場のすぐそばにある山口センターのホールで映画会が同時開催されている。12時前にホールを覗いてみた。ホール前のホワイエではフリマが併設され衣料品が販売されている。ホールでは子供向けアニメ映画が上映中で子どもたちが夢中で見入っていた。1時からは2月に開催された「ブラジル映画&音楽集い」で好評だった映画「ガイジン2」も上映される。
 有馬川緑道の平成橋東詰から南にかけて松栄橋までがさくらまつり会場である。スタートエリアは中学生たちが運営する「昭和レトロ会場」だ。昔遊び、竹細工、おもちゃ作り、たこせん・イカ焼き・駄菓子販売などが軒を並べる。続いて下山口子ども会のフランクフルト、山口中学PTAの綿菓子・ポップコーン・ホットドッグ・ヨーヨー釣りのエリアが迎える。その先には北六甲台社協(社会福祉協議会)のテントの屋台エリアが続く。コーヒー・ジュースなどのふれあい喫茶、パスタ販売、「ともだちつくろう」のスーパーボールすくいという店揃えである。本部席を挟んでボランティア団体や地域住民の出店するフリーマーケットのエリアとなる。衣料品や玩具、日用雑貨などがブルーシートの上に所狭しと並べられている。最後のエリアは山口社協のテントの屋台エリアとなる。フランクフルト、たこ焼き、おでん、飲み物の販売コーナーである。
 さくら並木の続く500m余りの遊歩道での、ゲームや飲食・物品販売を内容としたイベントのおまつりだ。会場を予想以上に大勢の地域住民が行きかっている。家族連れ、仲良しグループの子どもたち、お年寄りのご夫婦やグループ、施設の障害者グループ、車椅子に押された施設のお年寄りグループなど様々な人たちが思い思いにそぞろ歩きを楽しんでいる。あちこちで顔なじみになったこの街の団体やボランティア組織の関係者と挨拶を交わし、立ち話に花が咲く。そうした人たちとの地域や組織の枠を超えた交流の場でもある。
 このおまつりを支えているのは社協を中心とした地域のボランティア組織と会場近くにある山口中学校の関係者である。とりわけ中学校はこのおまつりへの参加を地域貢献活動と位置づけて全面的な支援を行っている。昭和レトロ会場ほかのお店で大勢の生徒たちがスタッフとして準備や後片づけに奮闘する。PTAブースでは保護者たちが頑張っている。会場内の中学校所有の多数のテントの設置や片づけは先生たちの担当のようだ。
 このイベントでの中学校の支援の意味は大きい。山口では小学校は旧来の街の児童は山口小学校に、新興住宅街は北六甲台小学校に通学する。ところが中学生になると山口中学には、旧来の街と新興住宅街の双方の子弟が通学する。PTAの保護者たちも然りである。中学生たちは、山口という町のこのさくらまつりというイベントに自分の住む住宅エリアに関係なく共同して参加する。ところが旧来のおまつりはこうはいかない。公智神社の秋祭りのだんじりや丸山稲荷神社の子ども相撲には、氏子でない新興住宅街の子どもたちは参加できないからだ。旧来の伝統行事と違ってこのさくらまつりは、新旧住民の共同のイベントである。ボランティア組織である社協も旧来の街の山口分区と新興住宅街の北六甲台分区がそれぞれに参加する。さくらまつりの意義は何よりも新旧住民共同のまつりであり、絶好の交流の場でもあるという点にあるといえよう。

墓参と姫路城さくら回廊2010年04月05日

 昨日、家内と2週遅れの墓参で姫路を訪れた。姫路城の西方2kmほどのところにある名古山霊園に実家の墓がある。新車プリウスでの初めての1時間ほどの高速道ドライブだった。10時前の霊園には人影は少ない。墓掃除や植木の手入れを済ませ、両親の眠る墓前でお参りをした。
 墓参の遅れがさくらの季節に重なった。近くの姫路城は有数のお花見スポットでもある。姫路城前の道路には警察官があちこちで交通整理をしている。姫路城の平成の大修理で来週から入場できなくなる。入場可能な最後の日曜日が絶好の花見日和となった。押しかける観光客に備えた交通整理のようだ。国道2号線の一筋南の有料駐車場になんとか駐車できた。地元百貨店・ヤマトヤシキの契約駐車場だった。
 お城の正門・大手門前ではすでに長蛇の列ができている。ここから天守閣までかなりの距離がある。城内庭園の観楼は断念するほかはない。途中の観光案内所で「姫路城・さくらの大回廊ルートマップ」を入手した。城内、城外の五つのルートガイドが記載されている。約1時間の城外コース「お城やしき回廊」を巡ることにした。
 内濠に沿ってその外側を巡るコースだ。大手門前から時計回りにスタートした。お濠の周囲を巡るさくら並木が美しい。天守閣北側の姫山公園ではさくらの樹の下で外人グループなどがお花見を楽しんでいる。姫路神社を参拝した後、コースを外れて天守閣正面方向に進んだ。周囲をさくら並木で縁どられた広大な三の丸広場では、数え切れないほどの花見客グループがお弁当を広げている。天守閣入場門である菱の門前の広場が満開のさくら群の上にそびえる天守閣の絶好の撮影スポットだった。いつ入場ができるかもしれない長蛇の列のそばを抜け大手門前に着いた。約40分の散策だった。
 姫路城前交差点正面の家老屋敷館にある「たまごや」で昼食をとることにしていた。娘からの口コミ情報だった。11時半だったが、入口前の予約リストにはすでに10組ほどの名前が書かれている。30分ほど待って、次のカップルと一緒の合席でようやく入店した。注文した「あなご飯定食」(980円)は、少し甘めの薄く切った玉子焼きの上に醤油だれの穴子焼きが載せられたお弁当だった。超繁忙の店のやっつけ仕事風の内容で期待外れだった。ウリの「卵かけご飯」にすれば良かったと思い直したが後のまつり。ヤマトヤシキで姫路名物の「御座候」を買って駐車場に戻り帰路についた。

土筆採り2010年04月06日

 お昼前に土筆採りに出かけた。徒歩数分の住宅街の台地の裾に広がる空き地が毎年恒例の採取地だ。一週間前には草叢から数cmほどの固い胞子の土筆が顔をのぞかせているばかりだった。今日は間に雨の日もあり、十分に育っていた。草叢に手を突っ込んで土筆の根元でちぎり採る。全長15cm~20cm以上のものが次々にビニール袋に納まっていく。過剰な採集は次の作業の過剰な労力を招く。適度に切り上げて帰宅した。
 広げた新聞紙の上に採ってきた土筆を載せる。煩わしさを我慢しながらせっせと袴取り作業に励む。30分ほどで袴をまとった野生の土筆が、剥き出しの調理用素材に変身した。後は夕食前に油炒めを待つばかりだ。晩酌の缶ビールの絶好の肴になる。苦労の報酬を味わおう。

郷土資料館でのガイドデビュー2010年04月07日

 午後、山口町郷土資料館にでかけた。午後1時にここである方にお会いする約束を交わしていた。その方は山下忠男さんという5歳年上の歴史探訪家である。著書の「町名の話---西宮の歴史と文化---」は、私のHP「にしのみや山口風土記」でもしばしば引用させて頂いている貴重な文献だ。先日ある方から紹介され、電話でご挨拶した。その際、今日、山口に来られることを知ってアポを入れた。市が主催する「西宮歴史散歩」という市民向けの歴史や史跡めぐりの案内役としての来訪である。名刺交換と短時間の懇談をお願いしていた。
 1時前、資料館で待つまもなくマイクロバスが玄関前に到着した。先頭を降りられた初老の男性からすぐに声を掛けられた。名刺交換もそこそこに「ここは、地元の貴方がぜひ案内して下さい」との意表を突いた申し出を受けた。お断りの言葉を被せるように「みなさんもその方が喜ばれますから」とのこと。続々と参加者たちが周りに集まる。ぶっつけ本番もやむなしと腹をくくった。山下さんから20数名の参加者に「地元の研究者でホームページで多角的に山口を紹介されています」と紹介された。
 「山口の歩み」「技と匠」「祭り」の三つの展示室を20分ほどかけて案内した。三度ばかりの見学経験とHPでの郷土資料館紹介のサイト更新がモノをいったようだ。合間に山下さんの補足説明などもあり、さほど戸惑うこともなく無事終了した。バスの出発間際には同行の西宮流の若い女性スタッフから声を掛けられた。「山口風土記を書かれている方ですよね。いつもブログ読んでます」。心弾む言葉だった。様々な繋がりの輪を噛みしめた。
 かくして生まれて初めてのガイドデビューを無事果たすことができた。

五木寛之著「天命」2010年04月08日

 五木寛之のエッセイ「天命」を読んだ。5年前の著作である。書店でタイトルを見て購入をためらった。重いテーマだと思ったからだ。結局購入し、3冊まとめ買いした同じ作者のエッセイ集の最後に読んだ。購入のためらいを引きずっていたかもしれない。
 死と真正面に向きあったエッセイである。作者自身の体験を通した死のイメージが多面的な視点から描かれている。作者が初めて「死」を意識したのは13歳の軍国少年の時だったという。「特攻隊の一員として敵の空母に一直線に突っ込んでいくことが現実的で具体的なテーマだった。直撃し爆発とともに命が消滅する。それはいったいどのような感覚なのか。」といった意識が綴られる。
 振り返れば私自身も「死」というものを具体的に意識したのは中学生の頃だったように思う。自分がこの世から消えるという逃れようのない死の恐怖に、眠りの前の布団の中でおののいていた記憶がある。以来、死は日常生活の中で潜在化しながらも不意に顔を覗かせる形で絶えず付きまとっていた。
 作者にとっての死のイメージは、終戦直後の朝鮮半島からの引き揚げの死の行進の体験が重なっている。弱い、優しい、善良な人間ほど先に死んでいく死の不条理さ、理不尽さ、不公平さがテーマとなる。終戦直後に生を受け、平和で穏やかな日々を生きてきた私には、死の平等さ公平さが救いと思える。どんな権力者も成功者も強き者も、落後者や弱者と同様に死が訪れるという公平さである。私たちは、秦の始皇帝の不老長寿への渇望が見果てぬ夢であったことを知っている。その冷徹な現実があるからこそ、死を自分の独自のものとして捉えられる。
 この著作のもうひとつのテーマは「宗教とは何か」ということではないか。作者は子どもの頃の体験を通して次のように語る。「夜、山を越えて隣り村に使いに行った。恐ろしい漆黒の山道で何度も足がすくみそうになる。そのとき、雲間から月の光が差してきて足元を照らした。道が見える。やがて遠くにめざす集落の明かりが見えた。すると今まで歩けないほどに疲れていたのに、歩く気力がわいてきた。この月の光、遠くに見える人家の明かりというのが、宗教の役割だと思います」。説得力のある巧みな比喩である。何かが心の中にストンと落ちたと思った。
 死を比較的穏やかに見つめられる境涯に至ったという気がしている。死を恐怖する根拠でもある多様な欲望が、ひとつずつ手から抜け落ちていく年齢の故かもしれない。抜け落ちた空白を、かけがえのない何かが埋めてくれているようにも思う。読み進みながら多くの示唆が与えられた作品だった。

バネ指・・・その後2010年04月09日

 二週間ほど前に左手中指のバネ指発症で、最寄りの総合病院で受診した。ステロイド注射を処置され様子を見ることになった。
 http://ahidaka.asablo.jp/blog/2010/03/23/
 その後の経過は、バネ指特有の指を曲げた時に起こるこわばりは続いているものの、炎症による痛みは治まった。そして今日の再診予約日を迎えた。
 担当医師からは「痛みが治まり日常生活にも支障がなければこのまま様子を見るということでもよいし、この際手術をしてバネ指症状そのものを処置することも可能です」と下駄を預けられた。
 五木寛之のエッセイの一節が浮かんだ。「50歳を過ぎれば身体機能は耐用年数を過ぎている。耐用期限を過ぎた心身をいたわりつつ、上手につきあいながら楽しんで暮らす。それが理想だ」。ジタバタと身体にメスを入れるより、自然治癒力を信じよう。バネ指症状が続くとも、それも老いの身が受け入れるべき現実だろう。
 「このまま様子を見ることにします」と答えると、「わかりました。痛みがひどくなったらまたおいで下さい」と返される。
 帰路の50分ほどのウォーキングは、なぜか心安らかだった。

団塊オヤジの故郷デビュー2010年04月10日

 先日、地域で長年様々な活動をされている方と懇談した。私より一回り近い年配の方だ。知人に紹介され会ってみるよう勧められた。連絡を取ると快諾を頂いた。「山口風土記」を通じて私のこともご存じだったようだ。地元の美味しいコーヒーを出す店で落ち合った。
 大成功をおさめた船坂ビエンナーレの責任者だった方だ。古い歴史の村落共同体意識の色濃く残る里山の街で、あれだけのイベントを成功に導いた手腕は並々ならぬものだ。お話を伺ってその訳を合点した。考え方が柔軟でセンスが新しく何事にも意欲的な姿勢が、話のはしばしに伺える。「定年まではバリバリのビジネスマンで転勤族だった。定年後ようやく故郷に戻ったが、当初は地元で必ずしも歓迎されていたわけではない。それでも幼なじみたちもいて何とか溶け込めた。以降、地域の役職を次々に引き受ける内に、いつの間にか中心的な役割をやらせてもらっていた」とのこと。
 ビジネスキャリアを積んで身につけた思考や手法が、地域活動でうまく活かされていると思った。そこに地元出身という地縁、血縁の強みが加わっている。現役時代を都会で過ごした団塊世代たちが故郷に戻るケースも少なくない筈だ。地方の活性化にとって、彼らの故郷デビューが新たな可能性を生み出すケースもあるのではないかと思った。