朝霧の風景2010年10月01日

 雨上がりの朝だった。有馬川土手を北に向った。中国道の高架下をくぐった所から景色が変貌した。この秋一番の朝霧が、見慣れた景色を乳白色に染めていた。
 土手沿いに群生した彼岸花の咲いたばかりの瑞々しい花弁が、立ちこめた朝霧を背景にくっきり浮かんでいた。薄闇の中から「さくらやまなみバス」が国道176号線に現われた。名来橋の西のたもとをゆっくり走るバスの車体のピンクがひと際目についた。名来墓地横の畦道を東に向った。旧平尻街道沿いの稲田を眺めた。雑草の間に張られた蜘蛛の巣の真ん中で蜘蛛が空中に浮かぶように長い手足を広げていた。そのむこうで馴染みのある二本の木がぼんやりと佇んでいた。
 徐々に薄れていく霧の中で手で顔をぬぐった。口髭がしっとり濡れていた。ボリューム感を失った髪の毛の水気が伝わってくる。霧の中の散策は目に見えない水蒸気の海を泳いでいるようなものだと知った。

羊ケ丘展望台と鰊(ニシン)御殿の夕食2010年10月02日

 今日から一泊二日で知人グループと北海道の旅に出かけた。伊丹空港を8時45分発のANA771便が定刻に出発し1時間40分のフライトで新千歳空港に着いた。昼食会場は観光バスで約30分の札幌北広島クラッセホテルだった。札幌郊外の雄大な森に包まれた12階建ての最上階レストランで展望を愉しみながらの昼食を終えた。 
 ホテルから北西10kmほどの所に最初の観光スポットの羊け丘展望台があった。バスを降りて真っ先に目にしたのはどこか見慣れたポーズで台座の上に立つ銅像だった。「少年よ、大志を抱け」のクラーク博士像だ。銅像の背後には広大な緑の牧草地が広がっている。更にその向こうには、北海道日本ハムファイターズの本拠地「札幌ドーム」の銀色の巨大ドームを目にすることができる。ただ肝心なものの姿がない。口蹄疫の影響でいる筈の羊たちはいずこかに隔離されているようだ。「羊がいない丘展望台」だった。周辺の「さっぽろ雪まつり資料館」や白いチャペル、レストハウスなどを見て回り、次に向った。
 道央自動車道を駆って約1時間15分、今日の宿泊施設「グランドパーク小樽」に着いた。かってマイカル小樽として開発された巨大なショッピングゾーンの一角に建てられたあホテルだ。今は「ウイングベイ小樽の名で運営されている複合施設の中核施設のひとつだ。チェック・イン後、夕食までの1時間余りを部屋で寛ぎ、5時15分に温泉と夕食の会場に向った。
 「鰊(ニシン)御殿・銀麟荘」は、石狩湾を望む高台の平磯岬に建っている。かってニシンの漁場として栄えた余市の大網元の屋敷を移築した建物だ。バスを降りると夕闇迫る中を街灯や室内の灯りに照らされた独特の風情ある屋敷が目前に建っていた。用意された部屋で着替えて早速温泉に浸かる。雄大な日本海を望む絶好のロケーションに露天風呂があった。入浴後館内を散策した。ステンドグラスが随所に配され、昔ながらの木造建築の粋を集めた構造に和まされる。
 夕食が始まった。つぶ貝、鮭南蛮漬け、数の子などの前八寸、お造り三種盛り、鰊鎌倉焼、じゃがバター、タラバ蟹土佐酢、鮭親子ご飯などの懐石料理が続く。新鮮な海産物を中心に小樽ならではの食材をふんだんに盛り込んだ絶品である。銀麟荘の送迎バスに送られてホテルに着いたのは9時前だった。名湯と贅沢な食事の後の心地よい眠りが訪れた。

小樽散策と支笏湖遊覧2010年10月03日

 朝6時、朝食までの時間をホテル周辺の散策に出かけた。ホテル前から広大なウィングベイ小樽に沿って西に向う。新南樽市場前を右に折れ折り返すとヨットの帆をイメージしたモニュメントの向うにある建物が見えてくる。石原裕次郎記念館である。開館前の建物を過ぎると景色が一変した。シーズンを終えた数多くのヨットが係留されたヨットハーバー「小樽マリーナ」の美しい景色が目前にあった。ウィングベイの東の端の観覧車前の歩道橋に来た。ここから石狩湾に突き出た岬が見える。岬の上には昨晩ひと時を過ごした銀麟荘の優雅な姿を望むことができた。
 ホテルに戻り7時からの朝食を済ませる。地元食材を織り込んだ和洋のバイキングだった。部屋に戻りチェックアウトを済ませ、7時45分に一人で小樽市街の観光に出かけた。メンバーの多くはグループで9時15分出発のバスで出かけるようだ。徒歩で30分はかかるようだったが、そこは日頃のウォーキングがモノいう。8時15分ごろには観光スポットに着いた。
 日曜ながら朝の小樽運河周辺は人影もまばらだ。何台もの人力車と客待ちする俥夫たちの手持無沙汰な姿が目についた。運河沿いの煉瓦造り倉庫群、石畳の遊歩道、ガス灯をイメージした街灯、運河を跨ぐ情緒ある石橋などの情緒ある風情が、この街を再興させ企画力を感じさせる。時間はたっぷりある。JR小樽駅を訪ねた。駅前通りの途中に不思議な光景に出合った。北海道最初の鉄道である旧手宮線の線路跡が道路を横断していた。線路前の「一時停止の必要はありません」と書かれた看板が面白い。薄茶色のタイル張りの建物正面に丸い時計を配した小樽駅は今尚ローカル駅の情緒を残していた。多くのテレビや映画の舞台となったというガイド情報も頷けた。
 寄棟瓦屋根の運河プラザを見学した後、小樽運河ターミナル前から堺筋本通りに入った。観光スポットでもある硝子ショップを始めとした風情ある商店街だ。お買いもの目当ての女性客が夢中になる通りには「お父さん預かります」の看板を掲げた店もあり嗤ってしまった。ヴェネツィア美術館、北一硝子、オルゴール堂、ガラス工房、蒲鉾のかま栄などの定番のお店を見て回り帰路についた。
 ホテル手前のお目当ての新南樽市場には10時半頃に着いた。地元の人も立ち寄るという人気の鮮魚市場である。20数店舗の鮮魚・塩干の店には既に大勢の客が狭い通路にひしめいていた。シマホッケやタラコ、鮭とばなどを購入した。ホテルには集合予定の15分前の11時に辿り着いた。歩き詰めの3時間余りでさすがにグッタリだった。
 バスが最後の目的地・支笏湖に向って出発した。1時頃に昼食会場でもある湖畔のホテル「レイクサイドヴィラ翠明閣」に着いた。湖の直ぐ傍の静かで落ち着いた佇まいのレストランでフランス料理のコースが待っていた。ボトルワインを傾けながらメンバーたちと談笑しながら最後の食事を楽しんだ。支笏湖観光船に乗り込み30分の遊覧がスタートした。水深360mの我が国二番目の深さの周囲40kmの大きな湖だ。ガラス窓で覆われた船底の船室に陣取った面々が出航まもなく目にしたのはマスやウグイなどの無数の淡水魚たちの遊泳の光景だった。しばらくするとガラス越しに人工の石と見がまう柱状の巨石群がガラスの向うに横たわっていた。火山活動が生み出したマグマが冷却固結した際に収縮して生まれたカルデラ湖特有の形状だという。
 新千歳空港に4時頃に着いた。添乗員から航空券を受け取った後は1時間半近いフリータイムとなる。各自三々五々ショッピングに出かける。娘からのリクエストは小樽洋菓子ルタオのレアチーズケーキだった。家内からは近所土産のはさみ漬けを頼まれている。それぞれを調達し早目に搭乗口で寛いだ。6時発のANA778便で伊丹空港を経由し、9時20分には帰宅した。娘と家内が私と土産を待っていた。

塩野七生著「ローマ人の物語38」2010年10月04日

 毎年秋に文庫本3巻ずつ発刊される「ローマ人の物語」続巻が今年も9月1日に発刊された。今回は「キリストの勝利」をタイトルとした上中下の3巻である。9月下旬に購入し上巻を読了した。
 前37巻は、大帝と呼ばれ絶対専制君主をめざしたコンスタンティヌスの治世が描かれた。それは帝国再生を新たな政体、新たな首都、新たな宗教で成し遂げようとしたコンスタンティヌスの野望具体化の物語だった。そしてその新たな宗教こそが一神教のキリスト教だった。「コンスタンティヌスによって古代ローマの共同体が消滅した」というのが私の読後感だった。
 38巻は紀元337年の大帝の死から物語の幕が開く。コンスタンティヌスは自らの亡き後の後継人事も周到に準備する。帝国を三人の息子と二人の甥によって分担統治するシステムを死の二年前から導入していたのだ。ところが6月の大帝の葬儀から間もない7月に大量の血の粛清が勃発する。二人の甥とその肉親、亡き大帝の側近だった高官たちがその犠牲者だった。著者は大帝の次男コンスタンティウスを首謀者として暗示する。さらにその後、長男と三男の領土争いが起り、敗れた長男が殺される。次男と三男による帝国の分担統治が10年目を迎えた紀元350年、三男コンスタンスが配下の蛮族出身の将マグネンティススの謀反によってあっけなく殺害される。翌351年、唯一の皇帝となったコンスタンティウスは賊将マグネンティススとの内戦ともいうべき会戦に勝利する。ローマ軍の将兵合わせて5万4千名もの犠牲を代償とした勝利だった。帝国の軍事力が決定的に低下した要因でもあった。
 唯一の皇帝となったコンスタンティウスは大きな難問を抱えていた。東の大敵ペルシャ王国と西方ガリアの蛮族たちの侵略である。いずれかを任せられる副帝の任命を迫られていた。そして新たに任命されたのが自らがその父親を粛清した年少の従兄であるユリアヌスだった。
 物語の後半はガリア担当のローマ軍司令官となったユリアヌスの成功物語である。多分にユリアヌスに好意的な著者はその活躍ぶりを皇帝コンスタンティウスの否定的な見方と好対照で描いている。24歳の若き副帝ユリアヌスはガリアの地での戦闘に積極戦法で見事に勝利する。その後のガリア主要都市の再建を果たしガリア全域の統治に成功する。
 物語の核心部分に皇帝コンスタンティウスのキリスト教との関わりが触れられる。コンスタンティウスは帝国で最初にキリスト教を公認した父である大帝の忠実な第二走者だった。キリスト教の公認から更に進めてその優遇策に舵を切り、ローマ伝来の宗教排撃を明確にした。
 「ローマ人の物語」もいよいよ終末を迎えたようだ。単行本で全15巻の作品である。「キリストの勝利」は、単行本では14巻である。来年秋の「ローマ世界の終焉」で最後の刊行を迎える。そのタイトルの流れそのままに「キリスト教の勝利」によって「ローマ世界の終焉」を迎え、物語が終焉する。いかにも象徴的なタイトルではないか。

秋告げ花2010年10月05日

 「春告げ鳥」という言葉がある。ウグイスの別名である。古来、春を告げる鳥として親しまれてきたのだろう。今朝、朝の有馬川沿いを散歩しながら、ふとこの言葉が浮かんだ。
 もちろん浮かぶには訳がある。甘酸っぱい強烈な香りが漂っていた。しみじみと秋の到来を告げるキンモクセイの香りだった。「春を告げ鳥」があるなら「秋告げ花」があっていいのではないか。その第一候補は彼岸花だ。秋の訪れとともに真っ先に目にするのは、あの強烈な紅色の花弁である。秋の訪れの目に見える風物詩だ。その後しばらくしてインパクトのある秋を告げられる。それが秋の香りのキンモクセイだ。
 今、散歩道には彼岸花の彩りとキンモクセイの香りという「秋告げ花」が共演している。

合同労組の社会的役割2010年10月06日

 先日、大阪労働委員会である事件の4回目の不当労働行為申立ての第4回調査があった。6月に審査が始まり既に4か月が経過した。委員会としては和解か命令交付かを見極め、今後の審査計画を固める時期を迎えている。そんな状況下で冒頭、労使双方に個別に今後の進め方についての率直な意向を打診した。
 事件は、ある市の公共施設のメンテナンスを受託した企業の労働者の解雇を巡る合同労組の申立てである。典型的な合同労組による個別労使紛争事件と思われた。労組側の意向打診では「自ら積極的に和解を求めるということではないが、納得できる解決金提示があれば和解そのものはやぶさかでない」ということだった。使用者側代理人は「早期解決を希望している。当事者の原職復帰は困難だが金銭和解の用意はある」とのことだった。
 これまで担当したいくつかの合同労組の個別労使紛争事件の経験が、可能な限り和解による解決が当事者双方にとっても好ましいことを教えていた。個別の聞き取りでも積極的に和解による解決の努力を双方に促した。
 調査終了後、組合役員から労働者委員である私に「時間を頂けないか」との申し入れがあった。控室で紛争当事者も含めた三人で懇談した。使用者側の意向も伝えながら再度和解努力を要請した。組合役員から返された言葉に合同労組のもつ社会的役割を教えられた。「趣旨は理解できますが、何が何でも和解という姿勢ではありません。この会社は公共事業を受託しながら、従業員には不当な労働条件やずさんな労務管理を強いています。使用者の不当性を明らかにする労働委員会の命令が出れば、それを梃子に委託業者への改善指導を市にも要請できる強力な武器となります。当事者本人の処遇と同時に、受託業者の労働者たちの環境改善も労働組合の役割ですから」。
 「目から鱗」の想いを抱かされた。個別紛争が普遍性を帯びた取り組みに転化できる事例があることを教えられた。

JA兵庫六甲の芸能イベント2010年10月07日

 2ヵ月ほど前に地元JA(農協)支店の組合員向けチラシが目についた。何を隠そうれっきとした農協組合員である。年金受取は農協口座である。チラシはJA兵庫六甲合併10周年記念イベントの案内だった。申込金500円で西宮市民会館(アミティーホール)でのトーク&バラエティーショーをお弁当・お茶とさくらやまなみバスの一日乗車券付きで観劇できるという企画だった。早速、ご近所の仲良しご夫婦と一緒に夫婦で申し込んだ。
 今日、その観劇の日だった。申込みが予想外に多く、やまなみバス乗車は通勤・通学客に支障が出るとの懸念から、急きょ貸切バスでの往復に変更された。座席をほぼ満席にした貸切バスが、朝8時発に最寄り停留所を出発した。路線バスでないため住宅街から市役所前に直行し、8時45分には到着した。結果的に開場までの1時間余りをホ-ル前のアクセススペースで列をなして待つことになった。ただ長時間の待ち時間は、前列9列目の特等席での観劇という報酬をもたらした。
 10時30分に開演し、組合長や来賓の挨拶の後、第1部のトークショーが始まった。カラー&イメージスタイリストの肩書を持つ女性から、プロジェクターで食欲やファッションと色との関係を解説される。半数以上を占める女性陣には好評だったようだが、亭主族には正直言って退屈なトークだった。11時45分から昼食休憩となる。入場の際渡されたお茶付きお弁当を手にホール南の公園に向った。二組の夫婦が絶好の行楽日和の木陰でお弁当を開いた。八つの仕切りに季節の惣菜とご飯が小分けされた上品な幕の内だった。亭主二人はご近所さん用意の缶ビールと日本酒が何よりのご馳走だった。
 12時半からお目当てのバラエティーショーが始まった。神戸出身の若手漫才・ボルトボルズ、手品のビックリTSUKASA、はげネタ漫才の海原はるか・かなた、宮川左近ショウ生き残りの歌謡漫才の暁照夫・光夫、上方講談の旭堂南陵、バツイチネタの漫才ミヤ蝶美・蝶子と続きトリを三兄弟の歌謡漫才・横山ホットブラザーズが務めるという舞台だった。7組の芸人による3時間もの舞台である。一組30分近い持ち時間が、テレビの細切れ舞台では味わえないそれぞれの持ち味を遺憾なく発揮した芸を披露させた。観客との掛け合いも実際の舞台ならではの楽しいものだった。個人的には若手ボルトボルズのスピード感溢れる漫才、暁照夫の名人芸の三味線バチ捌き、横山ホットブラザーズの生のノコギリ演奏などに惜しみなく拍手した。
 16時に終演後、再び貸切バスで帰路に着く。車内には久々に大笑いした満足感を口にする乗客たちの会話があちこちで聞かれた。

黄昏の住宅街2010年10月08日

 高齢者実態調査が続いている。夕刻に訪問することにしている。高齢者といえども昼間は不在の確率が高いからだ。ここ二三日、黄昏の住宅街を回りながらあらため気づいたことがある。
 新興住宅街の平日の昼間は人通りも少なく驚くほど静かだ。ところが黄昏時になると意外に多くの人たちと出会う。最も多いのは犬の散歩に付き合う人たちだ。リタイヤ後の高齢者が多い。回を重ねた高齢者訪問で顔見知りの人も増えてきた。犬を連れたおばあさんたちとは挨拶だけで済まない場合も出てくる。世間話や近況報告を伺うことになる。道路で孫たちの遊び相手をしているおばあさんを見かけたりする。学校帰りの中高生の姿を見かけるのもこの頃だ。閉めたばかりの雨戸の隙間から灯りが漏れている。台所仕事の水音や皿の触れ合う音も聞こえる。家族たちの夕餉を準備する主婦たちの姿が目に浮かぶ。
 昼間の眠りから覚めた黄昏の住宅街からは、住民たちの生活の息づかいが生き生きと伝わってくる。こんななんでもない風景にどこか懐かしい安らいだ気持ちをおぼえてしまう。「幸せとは自分が幸せだと気づかないでいる状態をいう」。どこかで読んだ本の一節がふと浮かんだ。

ノーベル平和賞の勇気ある警鐘2010年10月09日

 ノーベル平和賞に中国の民主活動家、劉暁波(りゅうぎょうは)氏の受賞が発表された。「人権と民主主義という国際社会の価値観を共有しないまま、中国が超大国への道を走っていることへの強い警告の意味がある(読売新聞)」という報道もある。同感だ。
 冷戦時代の資本主義と社会主義というイデオロギー対立がソ連崩壊とともに終焉した。民主主義と不可分の市場経済が最終的に勝利したと受け止めた。それは欧米式民主主義経済体制ではあっても、人権尊重と経済発展という普遍性のある道筋を示していたと思う。
 近年の中国はそうした流れに真っ向から挑戦しているかに見える。経済体制は市場経済を大胆に導入しながら政治体制は共産党独裁を頑なに維持している。しかもそれが現状では着実に成果をおさめ、今や超大国にまで迫ろうとしている。行き過ぎた市場経済には民主主義の洗礼を受ける政治体制が抑制機能を発揮する。中国式「開発独裁」「国家資本主義」は、市場経済のうまみだけを享受し国際社会のルールを顧みない。逆に中国は自国の巨大な市場をカードに国際社会の批判を封じ込めようとする。今回の受賞についての欧米各国のコメントにも及び腰の感がある。尖閣列島問題でこじれた日中関係の修復を念頭に置く我が国の首相コメントも然りである。
 中国式経済発展方式はアフリカなどの開発途上国に波及しつつあるという。金融危機で深刻なダメージを受けた多くの市場経済の国々に、中国への羨望と民主主義への懐疑が広がりつつあるともいわれる。中国の挑戦と成功は、民主主義と経済発展という今日の人類の到達点を脅かしかねない危険を孕んでいる。ノーベル賞委員会は事前の中国政府の圧力にもめげず、そうした危機についての勇気ある警鐘を鳴らした。

運動会&秋祭り2010年10月10日

 昨日の雨で地元小学校の運動会が今日に順延された。グラウンド状況が心配されたが、朝の散歩で子供たちの登校姿を目にした。何とか今日の開催が決まったようだ。
 9時前に小学校に着いた。競技の合間に来賓席で顔見知りの皆さんと雑談を交わす。目の前で繰り広げられるリレーのバトンタッチにドキドキし手に汗を握る。玉入れに夢中になっている1年生たちの初々しい姿に玉入れに思わず頬を緩めてしまう。11時15分、予定通りの見事な進行で午前の部が終了した。午後には公智神社神社の秋祭りがある。一旦帰宅し昼食を済ませた。
 1時半、公智神社境内には拝殿前に御神輿が据えられ、神事が執り行われている。2時過ぎに神事を終えた参列者たちが列を作り、御旅所への巡幸が始まった。御旅所には既に町内七基の壇尻が待機している。御旅所での神事の後、小休止となり参列者や御神輿の担ぎ手たちにお神酒が振る舞われる。御神輿の神社への帰還の後、いよいよ壇尻の宮入りとなる。去年は拝殿の石段で迫真の壇尻宮入りの画像をものにした。今回は動画でキャッチしようと心していた。幸い拝殿横の石灯籠の台座を確保した。一番手の下山口の大壇尻に向って、旗が振られた。デジカメの動画モードのスイッチを押し続けた。上り坂を一気に駆け上り石段の間際まで迫ってくる大壇尻の一部始終をキャッチした。