おばさんと天気予報2010年11月01日

 リタイヤ後、家内と顔を突き合わせる時間が多くなった。現役時代には気づかなかった一面が見えだした。最初に気になったのは「おしゃべり」だった。民生委員になって地域の多くのおばさんたちと関わりが増えるにつれ、家内のおしゃべりはおばさんたちにも共通する特有の生態のひとつだと教えられた。これはこのブログでも以前「おばさんトーク入門講座」と題して取上げた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2010/01/08/
  家内の目に余る言動のひとつに夕方以降の天気予報へのこだわりがあった。NHKのニュース番組の最後や民放の時刻案内前の天気予報のアナウンスには、何を置いてもテレビの前に馳せ参じる。場合によっては亭主の視聴中でも割り込んでリモコン操作に及ぶことさえある。
 言い分はある。明日の天気は主婦にとって大問題なのだ。洗濯は大丈夫か。布団は干せるか。お出かけ着を何にするか。下着の選択をどうするか。傘の持参は必要か。聞けばそれなりに理解せざるをえない。それは家内だけの問題でない。主婦であるおばさん共通の関心事である。洗濯や布団の問題は家族の安寧に不可欠な問題でもある。へたに文句をつけようものなら我が身に火の粉が降りかかりかねない。今では家内の天気予報へのこだわりを寛大な気持ちで受け入れる理解ある亭主に変身した。
 おのおの方!ゆめゆめ奥方の天気予報への執着に異議申し立てをなさらぬように。

はしご通院2010年11月02日

 昨日は午前中いっぱい医療機関を駆け巡った。朝一番に小学校の校門前で挨拶運動のボランティアを済ませて、その足で宝塚行きのバスに乗車した。宝塚駅裏の泌尿器科医院で処方箋を受け取り、最寄りの薬局で薬を求めた。帰りのバスは下山口で下車し、すぐ前の整骨院に立ち寄る。腰痛の再発で先週からリハビリに通い始めていた。整骨院近くのかかりつけの診療所にも立ち寄らなければならない。毎月定期的に処方されている降圧剤が切れかかっていた。診療所の待合室では民生委員の高齢者訪問で顔見知りになったお二人のお年寄りと挨拶を交わした。朝7時45分に自宅を出てはしご通院をこなして帰宅したのは12時半だった。
 こんな半日を振り返ってみて苦笑いする他なかった。「老い」を否応なく意識せざるを得なかった。一日の多くの時間を病と向き合い通院に費やす生活もそう遠くない時期にやってくる。リタイヤ直後の現役の余韻はいつのまにか消えつつある。気がつけばお付き合い世代の大半が同世代以上の高齢者である。今年の高齢者訪問リストには自分自身の名前が登場した。高齢者を見守りながら自分自身も見つめ直す時期が来たようだ。
 そんな中で月に数度の労働委員会の業務が輝きを増してくる。そこには生々しい実社会の現実との関わりがある。こじれた労使関係に割って入る意志と気力が欠かせない。そうした場に尚関与させてもらえていることにあらためて感謝しよう。

今どきのお母さんたちの二つの子育て障害2010年11月03日

 昨日の午後、北部地区の補導活動連絡会が開催された。6月に続いて2回目の開催だった。前回同様、今回も文部科学省作成のDVD「ちょっと待って、ケータイ2」の視聴を元にしたグループ別懇談がメインだった。
 9名のメンバーによる私たちのグループでは、まず地元小学校の先生に口火を切ってもらった。携帯を持たないことや携帯に出なかったり返信メールをしないことが仲間外れやいじめの口実になりかねないという子供社会の想像以上の実態が報告された。対策は「親子の会話環境づくり」「フィルタリング加入」ということぐらいしかないという心細いものだった。ただ自身の体験談として語られた事例は傾聴に値するものだった。「息子の携帯の過剰利用対策で、携帯料金引き落とし用の本人名義の銀行口座を設け、限度額以上に引き落とされると自動的に携帯利用ができなくなるようにした。息子自身に自己責任で携帯利用の管理をさせることでかなり効果があった」というものだ。
 それにしても今どきのお母さんたちの子育てには二つの大きな障害が立ちはだかっていると思う。ひとつは携帯に代表されるIT環境の普及である。子供たちは母親の手の届かない世界に極めて安易に出かけてしまう環境ができてしまった。しかもその環境を我が子に与えなければ除け者にされかねないというのだ。もうひとつは母親自身の子供と向き合う時間が限定されてきたことだ。長く続く景気停滞は、多くのお母さんたちに否応なくパート勤務やフルタイム勤務を余儀なくさせている。そのことがまた子供に携帯を持たせざるをえない環境をもたらしている。それ以上に自身の子供と向き合う時間の減少が、時に子供たちと真正面に向き合うことをためらわせたり避けたりすることにることに繋がりはしないだろうか。
 二つの障害を指摘し、だからこそより一層親として子供のことを真剣に見守っているという気持ちを伝えることの大切さを述べた。特に初めて携帯を与える時こそチャンスだ。親の気持ちを伝え我が家での携帯使用ルールやフィルタリング加入の意味を理解させる対話の絶好の機会ではないかと提案した。もちろん中学、高校生の子供たちには携帯利用料の本人口座引き落としなど本人の自主性を尊重した対応も有効だと思う。親としての子供の見守り姿勢を大前提に、年齢に応じた様々な対応が必要ではないだろうか。

その後の「取り残された稲穂」2010年11月04日

 四日前の朝の散歩道で「取り残された稲穂」の気になる光景を目にした。中途半端に中断された刈入れ作業の背景を危惧した記事をこのブログに記した。貼付した画像を見たあるブロガーの方から「心配無用!稲の熟れ具合からして、まだ実が入りそう、もうひと踏ん張りみたいですね。11月の稲刈は、昔は普通に見られた光景です」というありがたいコメントを頂いた。おそらく稲作の経験者に違いない。専門知識抜きには書けない内容だった。ブログの持つ情報共有化の効用をあらためて教えられた。影の部分が取りざたされるIT社会の光の部分でもある。
 以来、「取り残された稲穂」のその後が気になっていた。そして今朝の散歩道で新たな展開を目にした。片隅だけだった切り株の地肌スペースが大きく広がり、ハザカケが何重にも連ねられていた。稲刈り作業が再開されたのだ。老夫婦の余生の愉しみだった農作業が一方の病で中断されたという、ありもしない私の想像は杞憂に過ぎなかった。安堵感とコメントを頂いたブロガーさんの慧眼に敬服しながら散歩を終えた。

山口公民館文化祭2010年11月05日

 10時過ぎの文化祭開会直後の山口公民館には既に多くの人の姿があった。山口センター4階の公民館を会場とした山口公民館文化祭は上々の滑り出しのようだ。
 エレベーター前の第1集会室は、公民館講座の講座風景写真と講座作品展が展示されている。今年は私の山口風土記探訪講座も開講された。その講座ポスター、講座風景写真、次回講座の案内チラシと散策ガイド・マップの4点も展示されている。顔見知りの公民館活動推進員の方と雑談しながらじっくり見学した。
 他の会場ではシャドウボックス、クラフト、絵手紙、書画、写真などの地域の愛好家たちの自慢の作品が所狭しと展示されている。中には顔見知りの方の作品もあり、知らなかった一面を教えられ思わず見入ってしまう。会場のあちこちで知人たちと顔を合わせ挨拶を交わす。
 2階会場では臨時の喫茶室が設けられ、地元ボランティアセンターの皆さんの飲み物サービスを受けた。民生委員仲間の奥さんたちが、来場者の接待に余念がない。公民館推進員の方と一緒にコーヒーを頂きながら寛いだ。
 昨年もこの文化祭を訪れたが、あくまで傍観者としての見学だった。今年は当事者のひとりになったような親近感を覚える身近な文化祭になっている。1年間の時の経過が地域への融け込みを感じさせてくれる。そのことを素直に喜んだ。

山本周五郎著「天地静大」2010年11月06日

 山本周五郎の長編小説「天地静大」を再読した。30年ほど前に購読した文庫本で660頁にも及ぶ大作である。小さな活字で埋められたこの作品のボリュームは通常の二三冊分はある。
 不思議な小説だ。東北の小藩に禄を食む名もなき青年たちの日々を通して、幕末という激動の時代を淡々とを描いている。歴史小説的な舞台設定ながら描かれているのは、その時代に生きた様々な人間模様である。その意味では時代小説と言って良い。
 決してドラマチックな物語性があるわけではない。それでいて読者を一気に物語の世界に引き込み読ませてしまう筆力は見事である。司馬遼太郎をはじめ多くの作家がこの時代を題材とした歴史小説をものにしている。それらは多くの場合、著名なヒーローたちの活躍を通してその時代そのものが描かれている。ところがこの作品のテーマはむしろそうした歴史の表舞台で引き起こされる事件や出来事が、当時の若者たちにどのような影響を及ぼし、それに対し彼らがどのように葛藤し、反応したかがテーマである。その意味では幕末という時代の裏舞台、いや武士階級に属した一般的な若者たちから眺めた幕末という時代の描写である。歴史における展開は決してドラマチックでも格好良くもない。圧倒的多数の人々は、翻弄され不格好に右往左往しながら生きていた筈だ。この作品はそんな当たり前の現実を見事に描き切っている。

種子島&屋久島の旅「初日・宇宙センター」2010年11月07日

 朝7時30分、小型のキャリーバックを引っ張りながら二泊三日の旅の集合場所に向った。総勢23名を乗せたバスが定刻8時に山口を出発した。日曜朝の空いた中国道を走り抜け30分で伊丹空港に到着。10時発のANAで鹿児島空港に向い、空港からは貸切バスで鹿児島港南埠頭まで直行した。鹿児島から種子島までは高速水中翼船のジエットフォイル・トッピーで約1時間30分の船旅だった。出航まもなく飲み物とお弁当が配られ、旅の醍醐味である缶ビール片手の昼食となる。
 種子島の西之表港には豪華クルーズ客船・飛鳥Ⅱが寄港していた。その巨大で純白の船体が私たちの旅に思わぬ影響を及ぼした。手配される筈の現地ガイドがこの飛鳥クルーズ御一行様に全員回されてしまったのだ。急きょ代役を務めた同行添乗員のしどろもどろの現地ガイド観光がスタートした。
 最初のスポットは日本の宇宙開発の拠点・種子島宇宙センターだった。南北に細長い種子島の北の港から南端の宇宙センターまでバスで1時間半の道のりだ。実物大のロケットモニュメントの建つ宇宙科学技術館を見学する。ここでは、ガイドの案内でシアターでH-ⅡAロケット打上げの映像を見たり、宇宙ステーションの日本の実験棟「きぼう」の実物大模型で体感したり、日本の歴代ロケットのレプリカや人工衛星や月球儀を見学できた。バスで移動しロケット打上げの展望台に向った。彼方の岬の先端にいくつもの鉄塔が並んでいる。大型、中型の各ロケットの発射台である。ロケット打上げのテレビニュースでお馴染みの見慣れた風景が眼前に横たわっている。次回の打上げニュースでは家族に「ここに行ったんやで」ときっと自慢げに語ることだろう。
 宿泊ホテルの南種子町の中心部にある大和温泉ホテルに5時頃到着した。団体の収容可能な唯一のホテルらしく、ここしか選択の余地はなかったようだ。そのせいか設備、サービスともに及第点には及ばない。殺風景な8畳の和室に収容された後、温泉に浸かり18時40分からの夕食に向う。お刺身三点盛り、朝日蟹、豚シャブ等のほか、舟盛りで伊勢海老、飛び魚、キビナゴのお刺身が準備された魚介中心の料理だった。宴席の後半は恒例のカラオケ大会となる。各自が歌い終えた頃を見計らってお開きとなる。したたかな酔いに身を任せ深夜12時前に眠りに落ちた。

種子島・門倉岬~屋久島・白谷雲水峡2010年11月08日

 種子島での朝を大和温泉ホテルの和室で迎えた。6時過ぎに温泉の朝風呂に浸かった後、ホテル周辺を散策する。田圃の中に民家が点在するだけの味気ない風景に早々に切り上げ、食堂で朝食をとる。8時には今日は手当ができたガイド嬢付の大型バスで種子島観光に出発する。
 最初のスポットは島の最南端の「鉄砲伝来の地・門倉岬」だ。遊歩道の先の岬には「鑯砲傳来紀功碑」と大書された自然石の重厚な石碑が建っている。470年ほど昔にこの岬のすぐ下の浜に明船が漂着し、乗船していたポルトガル人から鉄砲が初めて伝えられたという場所だ。この岬からの緩やかに湾曲した「前の浜」の展望は絶景である。その先端にはかすかにロケット発射台も見える。
 続いて「たねがしま赤米館」を訪ねた。種子島で古来から栽培されてきた赤米にまつわる展示館である。日本の米の原種ともいわれる古代米の赤米のルーツについての展示は興味深いものだった。
 島の東海岸南方には「千座(ちくら)の岩屋」がある。海に向って大きく口を開けたような洞窟で干潮時には中に入ることができる。残念ながら訪ねた時は満潮で、かすかに洞窟越しに海を望むしかなかった。奇岩の並ぶ岩屋周辺の浜には赤珊瑚のかけらが打上げられている。そんなガイドさんの案内にしばらく珊瑚探しに興じた。
 種子島最後のスポットは西之表港近くの「鉄砲館」だった。南蛮船をイメージした建物で鉄砲をメインとした博物館である。国内外の大量の旧式銃の実物展示や人形劇風の鉄砲伝来物語を興味深く観賞した。建物向いの丘には鉄砲伝来当時の島主である「種子島時堯公の銅像」が建っている。
 種子島西之表港から屋久島の安房港まではジェットフォイルで約50分である。安房港すぐ近くの「れんが屋」という郷土料理店で昼食となる。メニューは鹿肉メインの焼肉だった。昼食後いよいよ今回ツアーの最大の楽しみだった屋久島観光がスタートした。最初に目指すのは「もののけ姫」の舞台イメージとなった「白谷雲水峡」である。途中からは一方通行の狭い道を原生林分け入るように中型バスが進んで行く。対向車を幾度かやり過ごしながら約1時間で到着した。
 白谷雲水峡は標高600m~1100mほどの地に整備されたヤクスギなどの原生林観賞やハイキングを楽しめる自然休養林である。ハイキングコースは体力や所要時間に応じて三コースがある。私たちには最短60分の弥生杉コースが用意されていた。入口の白谷広場から白谷川沿いに西に向って進む。飛流橋からの飛流おとしの豪快で幽玄な滝の風景を眺め、右に折れて山道を登る。突然先を行く一行から歓声が上がる。小鹿の姿を見つけたのだ。おばさんたちが口々に「カワイイ~ッ」を連呼する。さっき食べたばかりの鹿肉のことはキレイに忘れ去られている。斜面を登りつめた標高710m辺りに弥生杉があった。樹齢3000年、樹高26mの屋久杉を代表する巨木である。ここから下り坂の帰路となる。出発地点の白谷広場に戻るまで約1時間の自然と一体となった森林浴を満喫した。
 5時半頃に尾之間温泉の屋久島いわさきホテルに到着した。背後に独特の山並みのモッチョム岳を控えた屋久島随一の高級ホテルだった。高い吹き抜けのロビーにそびえる巨大な屋久杉のオブジェが度肝を抜く。快適な和室に落ち着いた後、早速大浴場に浸かる。夕食は和洋折衷のコース料理だった。会食懇親の後はやっぱり定番のカラオケとなる。四つに分かれたテーブル対抗の歌合戦が、途中からカラオケルームに席を移して夜の更けるまで続いた。

世界遺産・屋久島の大自然2010年11月09日

 前夜の深酒にもめげずいつも通り6時過ぎには目覚めた。例によって温泉大浴場での朝風呂とホテル周辺の散策をこなして朝食に向う。最上階レストランの広大な窓の向こうにはモッチョム岳の山並みと太平洋が広がっている。絶好のロケーションと地元食材をふんだんに使ったバイキング料理という贅沢な朝食だった。
 8時にホテルを出発し30分ほどで「千尋の滝」の展望台に着いた。V字谷に流れ落ちる落差60mの滝の迫力もさることながら、左手の花崗岩の巨大さに圧倒される。ここから次の目的地の「紀元杉」に向う途中の車窓から日本猿の群れを幾度も目にした。バスが海岸線の幹線から島の中央部に向う山道に入った。カーブの多い山道の揺れがじわじわとダメージを与えていた。二日続きの深酒で体調のバランスを崩していたこともある。小学校時代以来の車酔いの吐き気に襲われていた。辛うじて「紀元杉」まで持ちこたえた。
 紀元杉は標高1230mの地に立つ樹齢3000年、樹高19.5mの巨木である。駐車場の端を降りてすぐそばに立つ紀元杉の根元を間近に見ながら階段を伝って幹の中央部を回遊し再び駐車場に出るという仕掛けになっている。駐車場からは白骨化した上部の幹まで眺められる。ここから20分ほど戻った所に「ヤクスギランド」がある。
 ヤクスギランドは島の中央部にある自然休養林である。30分から150分の四つの探索歩道が整備されている。私たちは通常の履物でも歩行可能な最短コースの千年杉歩道を散策した。入口近くのくぐり栂、切り株更新(切り株の上に再生した杉)、千年杉、くぐり杉などを観賞した。何よりも実感したのは温暖多雨の気候と花崗岩に覆われた大地が育んだ大自然の不思議だった。樹齢千年以上を屋久杉ということも初めて知った。苔に覆われた大地に太古のままに屋久杉が歴史を織りなしている。屋久杉工芸品の幾筋もの年輪に、1年で2mmしか成長しない屋久杉の歴史が刻まれている。そうした大自然の悠久の歴史を目撃し育み継承することの大切さを体感することこそ屋久島観光のテーマではないかと思い知った。
 昼食は安房港近くの土産物店「杉匠」のレストランだった。塩焼き、お造り、つみれなど飛び魚中心の郷土料理だった。順調だった旅路の最後に悲劇が襲った。ジェットフォイルが出航して間もなく折からの強風で東シナ海が荒波に見舞われたのだ。船体は大きく左右に傾き、時にエアポケットに落ち込んだように沈んだりする。両側の窓を荒波がまともに叩きつける。突然若い女性の叫び声が聞こえた。にこやかに乗客の気を鎮めていた客室乗務員が突然の横揺れに転倒したのだ。これほどの揺れが我が身を襲ったのだ。朝から耐えていた吐き気は一気に限界を越えた。備え付けのエチケット袋に何度吐いたことだろう。周囲の何人かの乗客も共通した事態に陥っていることがわずかに救いだった。船が錦江湾内に入り波が落ち着くまでの90分ほどの地獄を味わった。
 下船後、バスで鹿児島空港近くまで運ばれる。最寄りの西郷隆盛像の建つカルカンや薩摩揚げの製造販売店で最後の寄り道をし空港に着いた。空港内のレストランで幕の内弁当の夕食をとり18時45分発のANAに搭乗した。伊丹空港から迎えのバスで山口には定刻通りの9時に到着した。二泊三日の知人たちとの懇親を深めた思い出深い旅路が終わった。

稲田の切り株跡の草の正体2010年11月10日

 朝の散歩道で稲田の気になっていた風景がある。刈り取られた稲田の切り株の同じ所から草が生えていた。まるで稲の苗が再生したかのような光景だった。あの草の正体は何なのか?
 先日、地域の知人グループと種子島&屋久島ツアーに出かけた。帰りの機内で稲作従事者でもある知人と隣り合わせになった。早速かねての疑問をぶつけてみた。説得力のある次のような回答だった。

「最近の稲田は早生が多く8月から9月に稲刈りをする。その頃は気温も高く切り株の根から新たな苗が生えてくる。ただ成長する頃には寒くなり稲穂になる前に枯れてしまう。枯れた苗は翌年の水耕で土に混じって田圃に帰される。昔は10月から11月の稲刈りが主流で切り株から苗が生えることもなかった」

 切り株から生えていた草の正体は早生じ稲の苗だった。早生の苗が寒さに耐えられるわけはない。品種の改良や農法の変遷が散歩道の風景の変化に繋がっていたことを初めて知った。