イマドキの小学校の始業式2011年09月01日

 始業式の今日、8時45分に住宅街の一画にある小学校を訪ねた。始業式の中で青少年補導委員の紹介が予定されている。9時前に出席可能だった3名の補導委員が体育館に案内された。
 始業式が始まった。最初に「新しいお友だち」である転校生たちが紹介される。紹介後にはそれぞれのファミリーの上級生が体育館の所定の場所に引率する。続いて2学期から始まるALT(アシスタント・ランゲージ・ティーチャー)と呼ばれる英語学習担当の外国人教師が紹介される。ナイジェリア出身の中年の黒人女性だった。緊張気味にメモを見ながら日本語で自己紹介があった。
 次に式のメインともいえる校長先生のお話しになる。世界陸上のボルト選手の100m決勝でのフライイングが取上げられた。「あんな偉大な選手でも失敗する。大切なのは失敗の後の次に向ってどう立ち直るかだ」。50代の女性校長の自信に満ちた時宜にかなった話だった。
 いよいよ補導委員紹介である。教頭先生の紹介のあと個別に短時間のスピーチが待っている。補導委員代表でトップバッターだった。700人ほどの生徒たちと30人ほどの教職員が見つめるなかでのスピーチだ。昨年に続いて二度目とはいえチョッピリ緊張感がある。トレードマークの黄色いベストを着用して登場した。「この黄色いベストを着て巡回しています。みんなを見かけたらどんどん声をかけます。この黄色いベストはみんなが安心して声をかけられる印です。声をかけられたら元気よく挨拶を返して下さい」。
 始業式を終えて校長室で校長先生としばらく懇談した。始業式風景や校長先生の話からイマドキの小学校の様子を垣間見た。

新首相の言葉2011年09月02日

 政権交替後、三人目の首相の誕生である。鳩山首相の夢見る乙女のような幼稚で不用意な言動が政権運営の厳しさの前であっけなく政権交替の期待をしぼませた。後を受けた菅首相のガキ大将にも似た稚拙なリーダーシップが政権運営の脆弱さに拍車をかけた。そして登場したのが野田新首相率いる「どじょう内閣」である。
 政権交替後の2代に渡る民主党政権で問われたのもののひとつに「首相の資質」という点があった。前二者のどちらかといえば地に足のつかない浮ついた場当たり主義的資質の反動が、地味で泥臭い半面、安定感を感じさせる野田政権を誕生させたともいえる。とはいえ新首相は政策的には経済成長重視で自民党政権のスタンスに近い。それだけに民主党政権らしさを特徴づけていた環境や福祉重視の政策が後退し原発容認の舵が切られる懸念もある。
 実質的に首相を決める政権与党の代表選挙で基本政策が争点にならないことの致命的な欠陥が露呈した。政策実現を担保する資質の重要さは論をまたない。問題は資質や党内の多数派工作に拘泥するあまり基本政策という本質的な論点が置き去りにされたことではあるまいか。
 とはいえメディアのこれまでの過剰な首相批判、政権批判にもウンザリするものがあった。そんな気分の中で読売新聞のコラムで見かけた次の記事に少し心なごませられた。『(新首相の)政治の素養を時代小説で学んだという話しが心に残った。「夢と志の世界を司馬遼太郎から、下級武士の凛としたたたずまい、矜持を藤沢周平から、人情の機微を山本周五郎から学んだ」という』。新首相が学んだという時代小説作家三人の作品は私の愛読書でもある。それぞれの作家の作風を的確に表現している新首相の言葉にも好感が持てた。
 政権交替の期待を裏切られたこの二年間だった。残り二年間の執行猶予期間中に民主党が政権を担うに足る政党であることを証せるだろうか。それは我が国での「政権交替可能な二大政党制」という成熟した先進国の民主制の枠組みづくりに不可欠だ。新内閣に基本政策での危惧はあるものの政権の安定は内外が求める期待である。ひとまずは「どじょう内閣」の山積する課題への泥臭くとも地道で着実な取組みを注目したい。

藤沢周平著「冤罪」2011年09月03日

 藤沢周平の珠玉の短編時代小説9編を堪能した。作者が「暗殺の年輪」で直木賞を受賞した翌年から1年間の間に執筆された「武家もの」の作品集である。時代小説作家として本格的な執筆活動に打って出た時期の作品群といえる。短編時代小説の醍醐味を存分に味わえた。
 短編時代小説の醍醐味とは何か。巻末解説の中で作者の次のような言葉が引用されている。「小説を書くということはこういう人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものかと、仮りの答を出す作業であろう」。非常に説得力のある言葉である。短編小説といえども「人間の根底にあるもの」が表現され、起承転結の妙を得たストーリー性を備え、日本人の原風景ともいえる江戸期の時代背景の中で物語られる。そんな要素が見事に盛り込まれた作品群だった。
 それぞれに楽しめた9編の作品だったが、特に「臍曲がり新左」はユーモアたっぷりなタッチのなかで主役三人の巧みな人物像の描き方にぐいぐい惹きこまれた。お庭番を主人公とした「夜の城」もサスペンスタッチの秀作でスピード感のある作品である。表題作の「冤罪」は下級武士の部屋住みという武家社会の悲哀を具現化した人物が主人公の物語である。婿養子の口を求めるほかない部屋住みの主人公がハッピーな結末を迎える過程が鮮やかに描かれている。作者の得意とするジャンルでの真骨頂ともいえる物語だった。

さよなら!旧国鉄有馬線・中野橋脚2011年09月04日

 朝11時半頃にマイカーで中野に出かけた。見納めとなる旧国鉄有馬線・中野橋脚を画像に納めるためだ。中野バス停のすぐ南を左折し集落を抜けて橋脚近くの舗道脇で下車した。畦道を伝って橋脚に近づいた。小雨に煙る曇天の下の若い稲穂の黄金色のシートの向うに剥き出しの橋脚の古びた石積みが見えてきた。
 HP西宮山口のイベント情報で昨日の10時開催の「さよなら橋脚現地見学会」がアナウンスされた。ぜひとも参加せねばと意気込んでいたが、昨日は大型台風の真っ只中だった。主催者で知人の山口青愛協会長に連絡を入れると予想通り中止ということだった。橋脚の取り壊し工事はすぐにも始まるとの情報も聞いた。
 4年前に旧国鉄有馬線のサイトを立上げた。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-arima-line-top.htm その情報収集の過程で中野の橋脚の存在を知った。旧国鉄有馬線の現存する遺構としては最大の史跡であり、山口町内の唯一のものである。その2年後にこの貴重な遺構がバイパス工事で取壊されるという情報を耳にした。その背景や経過を把握しサイトの中に「中野の橋脚跡」として追加した。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-husigi-arimaline-kyoukyaku.htm
 その後、行政、地元自治会、山口青愛協などの関係者による移設保存などの協議も行われたようだが、橋脚内部の構造上の脆弱さもあり最終的に移設保存案も断念せざるをえなかったようだ。そこで取り壊し工事の直前にせめて「さよなら橋脚現地見学会」を開催し、遺構を愛する人たちに最後の雄姿を見納めてもらおうということになった。
 台風という不可避な事情でその見学会すらも断念のやむなきに至った。どこまでも不運な橋脚というほかはない。4年来のおつき合いの橋脚である。最後の雄姿を見納めるべくぬかるんだ畦道の歩を進めた。
 取り壊し工事を待つばかりの愛すべき橋脚は、繁茂する草木に覆われたこれまでの姿を一変させていた。すぐにも工事にかかれるよう草木ばかりか足元の土壌もきれいに整備され、むきだしの全貌をさらしていた。おかげで南北二つの橋脚だけでなく南の橋脚と有馬川の支流・十八丁川を跨いで架かる丘陵側の台脚まで見晴らせた。様々な角度から雄姿を写した。折しも豪雨を溜めた十八丁川の激しい濁流が、あたかもまもなく取り壊される橋脚の怒りを映したかのように見えてしまった。
 10分ばかりの滞在だった。途中で出合った現場監督風の人に訊ねた。明日から工事にかかるということだった。ぬかるみの坂を降りるとき滑ってズボンを泥まみれにしたりした。橋脚からの帰路は工事事務所前の急造の車道を辿った。何度か振り返りデジカメのシャッターを切って名残りを惜しんだ。

中野の橋脚の鎮魂歌2011年09月05日

 昨日、取り壊し直前の旧国鉄有馬線の中野の橋脚を訪ねた。小雨の中を様々な角度からその雄姿を画像に納めた。帰宅後にはその訪問記をブログに綴った。
 地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」を立ち上げて以降、「旧国鉄有馬線」は風土記の中でも主要なテーマだった。とりわけ中野の橋脚跡は廃線後の遺構としては最大規模で山口に現存する唯一の史跡だった。その史跡の消滅前の最後の雄姿である。ブログで掲載できる画像は限られている。切り取った画像を多くの人に公開したいと思った。「風土記」の執筆・管理者としてはそれは義務ですらあると思った。
 今日、そんな気持ちで「旧国鉄有馬線」のサイトに「さよなら中野の橋脚」と題したサイトを追加更新した。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-husigi-arimaline-kyoukyaku-sayonara.htm
 1915年に開業した旧国鉄有馬線は第二次大戦遂行という国策のもとにわずか30年の短い歴史を閉じた。その最大のモニュメントである中野の橋脚はバイパス工事によって取り壊しが決定した。遺構を愛する人たちに最後の雄姿を見納めてもらおうと計画された「さよなら橋脚現地見学会」は折からの大型台風の直撃で急きょ中止となった。どこまでも不運で哀しい宿命を背負った「橋脚」だった。
 更新したサイト「さよなら中野の橋脚」は、私の消えゆく橋脚への鎮魂歌でもある。

秋色の風景2011年09月06日

 早朝5時45分、いつものようにウォーキングに出かけた。薄いスポーツシャツ一枚にハーフパンツという真夏仕様のいでたちだった。玄関ドアから一歩踏み出した途端、いつもと違う肌寒さが身体を覆った。服装の一瞬の戸惑いを振り切って舗道に降りた。
 大型台風の余韻を残していた昨日までの気候が一変していた。凄まじい自然の猛威がまたもや多くの命を奪って過ぎ去った。見上げる空は果てしなく高い。台風空けの青空はまさしく「台風一過」のよそおいだった。
 有馬川の昨日までの濁流が、川床を映すほどに澄み切った流れに変貌していた。豪雨の名残りが豊かな水量を湛えて清流のおもむきを見せている。大型台風を挟んで、しばらく続いていた曇天が澄み切った青空に打って変わり、生温かった気温が一気に肌寒さを覚えるようになった。台風という自然の摂理が、あたかも真夏の季節を秋に向ってギアチェンジしたかのようだ。
 目の前には秋色の風景が広がっていた。

公民館講座「山口町の歴史(古代編)」を受講した2011年09月07日

 昨日の午後1時半から山口公民館で公民館講座があった。「山口町の歴史(古代編)」と題した講座の講師は、山口の古代、中世の歴史に造詣が深く、昨年秋に発刊された「山口町史」の第1章「古代・中世の山口」の執筆者の橋本正明さんである。70代後半の山口の長老のひとりで財団法人・徳風会の理事長でもある。
 公民館の二つの集会室を解放した会場を70名ほどの受講生が埋めつくした。郷土の歴史への関心と著名な地元有力者の講座への興味の深さを物語っていた。配布されたレジュメには、山口にゆかりの深い36代・孝徳天皇(654年即位)とその皇子・有間皇子にまつわる9項目の話題が記されている。資料として「山口町の歴史を知る書籍・資料」のリストが2頁に渡って添付されている。ありがたい情報だった。
 講座が始まった。冒頭、「大化改新の首謀者は孝徳天皇だった」という説が紹介された。かねて講師から聞いていた話題だが、その出所が歴史学者・遠山美都男氏の説であることを初めて知った。この説に基づいて7年前にNHKの「その時歴史は動いた」でも取り上げられた。講師の話では孝徳天皇首謀説の根拠は「改新当時の中大兄皇子が20歳と若すぎ47歳の軽皇子(孝徳帝)の主導と考える方が現実的」「蘇我氏討伐のクーデターに参加した豪族の多くが軽皇子派に属していた」という二点だった。
 この他、孝徳天皇の有馬行幸と山口行在所建設の話、難波宮遷都と中大兄皇子の離反の背景などが語られた。難波遷都は蘇我氏の勢力の強い飛鳥での統治を嫌った孝徳帝が自身の勢力の強い摂津国に近い難波に遷都した。ところが政権の実力者である中大兄皇子が、飛鳥の勢力を無視できないと考え、天皇の妃であり自分の妹でもある間人皇女を連れて独断で飛鳥に戻った(この兄妹の不倫疑惑の言及もある)。中大兄皇子に謀られて18歳で処刑された孝徳天皇の皇子・有馬皇子の話にも及んだ。皇子の母・小足媛は山口町名来にゆかりの人である。
 1時間半に及ぶ興味深い講座が終了した。徳風会理事長の郷土史に賭ける想いの深さが十分に伝わった講座だった。「孝徳天皇の大化改新首謀者説」の背景について考えさせられた。中大兄皇子と中臣鎌足による大化改新という通説の根拠は日本書紀にある。日本書紀は天皇家の統治の正当性を説明するために編纂された。編纂には鎌足の子である藤原不比等の影響力が大きかったとされる。大化改新の通説の政治的背景が垣間見える。奈良明日香村の甘樫丘などの発掘調査をもとに近年、日本書記の記述の見直しの流れが出てきているようだ。「孝徳天皇の大化改新首謀者説」もそうした流れのひとつとして捉える時、それなりに意味を持っているように思えた。

野分けの跡2011年09月08日

 早朝ウォーキングで見かけたそれは、「野分」という言葉にピッタリの風景だった。住宅街の麓の小規模な稲田にくっきりと描かれていた。稲田の真ん中をでっかくて幅の広い筆を走らせたかのような一筋のへこみが目に飛びこんだ。なぎ倒された稲穂の先は土壌に頭を垂れてうずくまっていた。死者、行方不明者合わせて110名もの犠牲者をもたらした台風12号の小さな爪跡のひとつでもある。
 「野分(のわけ)」は、台風の古語である。「野の草を吹き分ける強い風」から呼称された。イギリスなどで報告されているミステリーサークルを思い浮かべた。穀物が円形に倒された現象だ。サークルの作製者は一時は宇宙人ともUFOとも騒がれた。結局、イギリス人の老人二人組がサークル製作者と名乗りをあげて一件落着したようだ。
 日本の野分は、源氏物語にも登場し、二百十日の頃に訪れる「季節の風物詩」の趣きもあった。ところがそれは今回の台風12号でも思い知らされたように自然が下す仮借のない猛威でもある。

断末魔の橋脚跡2011年09月09日

 昨日の4時過ぎに旧国鉄有馬線の中野の橋脚跡を再訪した。4日前に訪ねた時、工事関係者から明日から撤去工事を始めるという話しを聞いていた。橋脚の保存を巡ってバイパス工事が大幅に遅れていた。関係者間の調整で9月3日の「さよなら橋脚現地見学会」翌日から撤去工事を始めることになっていたようだ。工事開始後の橋脚跡の画像を納めておきたいと思った。
 晴れ渡った青空の下で橋脚跡の撤去工事が進められていた。現場事務所へのアクセス道からフェンスに囲まれた現場に着いた。二台の大型シャベルカーがアームを上下させ橋脚周辺を掘削している。北側の台脚の姿は既になく掘り出された石塊で覆われていた。辛うじて十八丁川中央に立つ真ん中の橋脚が石塊に囲まれて頭部分を残していた。周辺が整備された南側丘陵の台脚はほぼ全体が残されている。
 デジカメ撮影中に工事関係者と雑談をした。今工事をしている業者は古い橋脚の撤去とバイパス用の新たな橋脚の建設を請負っているとのことだ。その新しい橋脚は来年1月末に完成予定という。その頃にはこの辺りの風景はすっかり変貌しているにちがいない。かつてこの地に旧国鉄有馬線の橋脚があったという痕跡はどこにもなくなることだろう。
 このブログの記事とて例外ではない。実態としての橋脚跡の断末魔の姿がバーチャルな形でWeb上に記されるのみである。

ミュージカル劇団立上げコンサート2011年09月10日

 ミュージカル劇団『希望』の団員募集を兼ねた立上げコンサート「世界のミュージカル&ワークショップ」の日である。劇団立上げ実行委員として本来なら受付等の準備に関わる予定だったが、生憎、1時から3時までの自治会関係の抜けられない会議があった。ほぼ終了した会議を抜けて開演直前の会場・山口ホールにかけつけた。
 昨日の夕方にホール客席の椅子の配置などの準備をした。事前のチケットの配布状況は満席の230枚が完売状況だった。これを考慮に過去最高の座席数である230席を準備した。舞台最前列にはゴザを敷いて子ども用の桟敷席までしつらえられた。そのホールの席はほぼ満席の観客で埋められていた。町の有力者たちの顔もあちこちに見られた。それぞれの皆さんにお礼を述べると口々に予想以上の観客数にお祝いの言葉が返された。
 3時の開演はポップス&ミュージカルの歌とダンスで幕を切った。さすがにプロの仕事である。このホールでは体験しなかったような華やかで迫力のある音響と照明で彩られた。若い女優たちの澄み切ったボリュームのある歌声がホールを圧した。何曲かの演目の後、タップダンスのワークショップとなる。子どもたちを中心に7人の観客が舞台に招かれた。ミュージカル劇団JMA所属の俳優たちからタップの手ほどきを受け、会場で足踏みを促がされた観客も巻き込んで即席タップ教室で盛り上がった。
 休憩を挟んで第二部のミュージカル・メドレーが始まった。チキチキバンバン、チムチムチェリー、サウンド・オブ・ミュージックなどのおなじみのメロディーが次々と披露される。最後の舞台は、10月下旬に西宮北口の芸文センタ-で上演のミュージカル「じろはったん」の挿入歌のアンコール曲も含めた四曲の上演だった。
 ミュージカルのエッセンスを盛り込んだ1時間45分ほどの舞台が終わった。個人的にも初めて味わったミュージカルは予想以上に楽しめるものだと教えられた舞台だった。
 客席の後片付けを終えて実行委員も5時過ぎにいったん解散した。6時半から行きつけの焼き鳥店「鳥進」で実行委員全員と劇団入団希望の今日のサポーターを加えた8名で打上げをした。220名ほどの観客数を集め大盛況のうちに無事終了した立上げコンサートを全員で祝福しあった。3時間ばかりを席を変えながら懇親した。達成感に酔いしれた心地良い酔いを感じながら家路に着いた。