遠山美都男著「大化改新」(その3:中大兄と鎌足の主従関係とは?)2011年09月22日

 表題の書籍の第Ⅱ章「王権と藤原氏の歴史」を読んだ。「中大兄と鎌足の強固な主従関係が(大化改新前の)早い段階から存在し、これが、クーデターとその後の政局の一貫した中核であり続けた」という『日本書紀』の記述に対する疑問点を提示することがこの章のテーマである。
 「中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足が中心となって宮中で蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏を滅ぼした後、中大兄によって大化改新が断行された」。これが『日本書紀』『藤原家伝』を原史料とした通説である。この筋書に沿って『書紀』は大化改新の主役二人が事件前の早い段階から強固な主従関係があったとする。この点についての疑問を呈することで、筆者は中大兄の大化改新首謀者説そのものにも疑問を呈する。
 「王権と藤原氏の関係が、中大兄と鎌足との関係に遡るというのは原史料の編纂主体であった藤原仲麻呂(鎌足の曽孫)の主張に過ぎず客観的な事実とはいい切れない。史実は天智天皇(中大兄)の後継争いだった壬申の乱では、鎌足死後の中臣(藤原)氏の後継者は敗れた大友皇子側にあって斬首された。従って勝者の天武天皇(大海人皇子)の治世では中臣氏は王権との関係構築はゼロからの出発だった。鎌足の娘二人が天武天皇のミメ(側室)になったことで藤原氏ははじめて王権との身内的関係が形成され始めた。それは鎌足の次男・不比等の代であり、その関係を発展させる形で不比等は娘の宮子を天武の二代後の文武天皇の夫人に立てることができた。文武と宮子の間に生まれた男子が後の聖武天皇になる。王権と藤原氏の特殊な関係の起点は、不比等の代にもとめられるもので、鎌足の代はあくまでその萌芽をなすものである」
 以上が、筆者のテーマについての見解の要点である。第Ⅰ章での「中大兄皇子が事件前後において有力な王権継承予定者だったのか」というテーマでの見解ほどの説得性には及ばないというのが感想だった。特に大化改新前の早い段階からの「中大兄と鎌足の強固な主従関係」への直接的な疑義の説明はない。実証可能な史料がない中では、王権と藤原氏の関係の成立過程を類推するという言わば状況証拠によってしか語れないのだろう。とはいえそうした手法を駆使しても自身の仮説を裏付けたいという筆者の熱意はひしひしと伝わった。