お母さんたちのカミングアウト2011年11月01日

 午後3時から塩瀬公民館で市の青少年補導グループ主催の補導活動連絡会があった。北部地域の5つの小学校区の小学校生徒指導担当教諭、校区青愛協会長、PTA愛護部、青少年補導委員の4者の関係者約30名が参加した。
 今回のテーマは「児童虐待」だった。NHKで放映されたドラマを15分ほどにまとめたDVDを観た。その後、市の児童虐待に関する「西宮こども家庭センター」のデータが報告された。通報者は「近隣、知人」、加害者は「実母、実父」、虐待の内容は「身体的虐待」「ネグレクト」「心理的虐待」の順、被害者は「小学生」「学齢までの児童」「3歳未満」「中学生」の順等の実態である。
 これらのプレゼンをもとに、小学校区ごとに分かれての懇談になった。年配の男性4人と6人のお母さんたちのグループに参加した。お母さんたちの赤裸々な子育て奮闘記が次々に話された。子育てに疲れた果てに子供たちにどんなきつく当たったか。今だから話せる式のカミングアウト合戦みたいな・・・。シツケと虐待は紙一重である。それでもそれぞれに虐待にまで至らず見事にクリアしてきたことも語られる。父親の知らない苦労をあらためて教えられた。
 一時期、自己責任という言葉が声高に叫ばれた。そうした風潮がガンバリ過ぎるお母さんたちを虐待に向わせなかっただろうか。助けを求められる地域の風土が大切だ。追い詰められたお母さんにさりげなく声をかけられる「世話焼きおばさん」が何人いるだろうか。過酷な子育てを同じ立場のお母さんたちで共有できる場を地域で提供できているだろうか。
 「自分だけではない」ということを知ることだけでもどれほどの救いになるか。これがグループの結論的な話題だった。

公民館講座「お天上山物語」受講者アンケート2011年11月02日

 午後、公民館活動推進員の方の来訪があった。先日開講した公民館講座「お天上山物語」の受講者リストとアンケートを持参して頂いた。早速、集計しチョッとした分析をしてみた。
 受講者リストでみると、受講者数は一般受講者36名、公民館活動推進員7名の計43名だった。一般受講者のうち、当日参加者が15名とこれまでになく多かった。また北六甲台在住者が30名と、実に83%を占めた。男女別には各18名と見事に相半ばした。
 受講者アンンケートでは回収数が31名と86%の方の回答を得た。年代別には、50代2名、60代18名、70代11名と圧倒的にリタイヤ以降の世代が占める。講座満足度では「大変満足20名(65%)」「満足11名(35%)」で「不満」は0だった。「意見欄」にも16名の方からご意見を頂いた。「北六甲台のことを知りたかったので良かった」「受講してこの街に愛着を覚えた」「終の棲家が身近なものになった」「自分の住む街の歴史を知ることは意義深い」「とてもわかりやすかった」「追加講座の開催を」「過去のこの講座を受講しなかったことが悔やまれた」等々。
 北六甲台も分譲開始後30年近くを経て、多くの方がリタイヤを迎えている。終の棲家となったこの街を、リタイヤを迎えてあらためて見つめなおしたいという潜在的ニーズが高かった筈だ。そんな時に回覧板や社協の広報紙で格好のテーマの講座案内があった。受講してみてこの街の歴史や由緒を教えられた。知って初めて愛着が湧くものだ。そこからこの街を少しでも良くしようということに一歩踏み出して頂ければ、講師としてはこれにまさる喜びはない。

住宅街の文化祭での新たな息吹2011年11月03日

 10月29日から今日11月3日まで住宅街の自治会主催の文化祭があった。コミュニティーセンターと自治会館の隣接する二つの建物で書道、編物、陶芸、生け花、各団体活動紹介などが展示され、大正琴、フォークダンス、詩吟、コーラス、カラオケなどの老人会や婦人部の同好会の発表会があった。
 最終日の今日、午前中と午後の二回、社協分区主催のふれあい喫茶に顔を出した。コーヒー、紅茶、お菓子の無料接待がある。二回とも50席ほどの会場はほぼ満席状態の盛況ぶりだった。顔見知りの知人たちと他愛のない雑談に花を咲かせる。午前中のお相手は同じ町内の同年輩のご婦人がただった。こんな時間の過ごし方ができるようになったものだと思ってしまう。5年近い地域活動の成果でもある。
 1時過ぎから子供みこしの練り歩きがあった。屋台風の木枠にこも樽を載せたなんとも貧弱な子供みこしである。それでもスポーツ21所属の野球部の子供たちが前後のかつぎ棒を担い、更にその前後の綱を小さな子供たちが手に持って練り歩く。子供たちの揃いの法被姿でそれなりの様になっている。自治会や関係団体の役員たちに子供たちの保護者たちなどの大人も掛け声をかけながら一緒に付き添っている。およそお祭りの雰囲気にはそぐわない住宅街の街並みを練り歩く風景ではあるが、これはこれで新興住宅街の新たなカルチャーづくりに一役買っていると思った。

塩野七生著「ローマ人の物語41」2011年11月04日

 1年振りの「ローマ人の物語」である。単行本なら最後の一冊「ローマ世界の終焉」が文庫本では上中下に分かれ、その上巻に当たる第41巻を読了した。私にとっては平成14年発行の文庫本「ローマ人の物語1」以来の9年間に及ぶ愛読書の最終巻の始まりだった。序文ともいうべき見開き頁に次のような印象的な記述があった。「亡国の悲劇とは、人材の欠乏からくるのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起こる悲劇である」。このシリーズを書き終えて痛感した著者の想いであるという。
 前巻では東西合わせた帝国全体を統治したテオドシウス帝が、ミラノ司教アンブロシウスの導くままに皇帝としての権力を行使して帝国のキリスト教国化を成し遂げた経緯が語られた。 この巻の物語は紀元395年のテオドシウス帝の死から幕を開ける。テオドシウスは死を迎えて東西を分担統治する二人の若い息子たちを、有能で忠実な右腕だった35歳の将軍スティリコに託す。ところが分担統治という皇帝の願いは、東方の統治を託された長子アルカディウスの側近たちによって東西分離という流れの現実化の前に裏切られることになる。
 この巻のタイトルの「最後のローマ人」とは西ローマ皇帝ホノリウスに終生忠実だった蛮族出身の悲劇の将軍スティリコのことである。実力者皇帝の死の直後の不安定さを突くように侵攻してきた蛮族がアラリック率いる西ゴート族だった。その西ゴート族の侵攻を、軍総司令官スティリコは幾度も退けて西ローマ帝国の防衛を果たす。とはいえ度重なる蛮族の侵攻に農民たちは耕作地を放棄し、城壁に囲まれた都市に流入する。帝国の国力の衰えは一層の防衛力の低下をもたらす。防衛力が低下したイタリア半島の防衛体制整備のためにスティリコは「毒をもって毒を制す」ことを決意する。即ち帝国北方のガリアを暴れ回る蛮族の制圧に同じゲルマン系の蛮族であるアラリック率いる西ゴート族を向けるという同盟協定の締結だった。
 紀元408年、スティリコは西ゴート族のアラリックとの同盟協定承認を元老院に求めた。元老院は紛糾したものの最終的には承認するが、同時に多くの元老院議員たちが今までと違った眼でスティリコを見るようになる。蛮族出身の軍総司令官に蛮族との共闘しか帝国を救う道はないと説かれ、同意するしかない苦い現実がスティリコへの憎悪に向わせた。
 更に同じ年の東ローマ帝国皇帝アルカディウスの死が西ローマ帝国皇帝ホノリウスとその忠臣スティリコとの亀裂を生む契機となる。東ローマ帝国の首都に行き幼い甥の統治を助けるというホノリウスの意向に、スティリコは今の困難な状況下での皇帝不在は許されないと反対する。これを契機に皇帝と忠臣の仲は一気に冷却化する。この関係を見越したかのように皇帝の側近たちが謀略をめぐらす。皇帝の軍事基地パヴィィア訪問を舞台にスティリコ支持の将軍たちが、皇帝側近たちの意を受けた将兵たちに暗殺されスティリコ派は一掃される。この事態を迎えスティリコは苦悩の末、皇宮のあるラヴェンナに戻った皇帝との会見に向う。もうひとつの軍事基地ボローニャの軍をスティリコ自ら率いれば敵対するパヴィア軍の制圧は確実だった。しかしそれは先帝死後の13年間を幼少の皇帝を守り帝国の防衛に専念してきた自身の生き方を否定し、ローマ帝国を倒すことになる。それはスティリコにとっては「ローマ人」でなく「蛮族」として行動することを意味した。苦悩するスティリコは最終的に自らの運命を皇帝ホノリウスに会うことに賭けた。ただ一人で皇宮を訪れたスティリコに対し皇帝は合おうともせず側近が国家反逆罪で死を宣告する。蛮族と共謀して帝国打倒を謀ったという罪である。ただちに斬首刑が執行され、スティリコは「ローマ人」として死を迎えた。
 スティリコの死後、スティリコ派の将兵たちは集団でローマ軍を去り、西ゴート族のアラリックのところに向った。彼らを迎えて1カ月後にアラリックはイタリア半島に侵攻する。408年から二度に及ぶアラリック軍の首都ローマの包囲の末に、410年8月ローマは陥落した。
 スティリコという稀代の人材を末期の西ローマ帝国は活用しきれなかったばかりか自らの手で抹殺した。その果てのローマ陥落だった。この巻の冒頭に記された著者の「亡国の悲劇とは、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起こる悲劇」の実像である。

我が町の防災訓練2011年11月05日

 今日11月5日は「津波防災の日」だそうだ。各地で防災訓練の催しが開催されたたようだ。我が町でも自治会主催の防災訓練が行われ、この町に移り住んで以来初めて参加した。
 朝10時前、小雨の中同じ丁目にある公園に出かけた。町内の自治会役員他、消防署員数人が待機している。すぐに署員から消火器の使用訓練を促がされる。10時過ぎに徐々に一般住民が姿が現わす。10時15分になって総勢30名ほどの参加者が一本のロープを握って避難場所である住宅街にある小学校の校庭に向った。我が町は5丁目まであり、丁目ごとに公園がる。それぞれの公園から三々五々列をなして住民たちが小学校校庭に集合する。
 全丁目の住民たちの集合を待って全体の防災訓練が始まった。この町では7年振りの大規模な防災訓練だという。制服姿の消防署員が30人ほども参加し、消防車も5台が勢揃いしている。あいにくの小雨で参加した住民は全住民の1割にも満たない140人ほどだった。消防署員たちの救助の模擬訓練が演じられた。市の防災関係部署の幹部や消防署長の訓示のような話を聞いて訓練は終了した。帰路についた参加者たちには自治会役員たちが温めてパック詰めした防災食が配られた。かくして1時間半ばかりの我が町の防災訓練が無事終了した。

ご近所の奥さんたち2011年11月06日

 先日、夜9時過ぎにボランティア組織の会合から帰宅した時のことだ。玄関先に見慣れない女性用の履物が2足並んでいた。リビングに入るとテレビの前の座卓を囲んで家内がご近所の奥さん二人とおしゃべりに花を咲かせている。私の指定席は既に占拠され、観たかった番組は断念する他ない。オバサン三人の場所移動を要請するなどという暴挙はおよびもつかない。やむなく窓際のパソコンデスクに直行した。メールやお気に入りブログのチェックなど今すぐしなくてもよいことをしながら過ごしていた。
 三人の会話がいやでも耳に入る。どうやら奥さんの一人がご主人と喧嘩してうっぷん晴らしに亭主が留守の我が家を訪ねたようだ。そこへ自家栽培野菜を持参頂いたもう一人の奥さんが合流した。話題は自ずと熟年世代の夫婦関係が中心になる。「ウチとこは主人とほとんど会話がないねん」「どこも一緒やで」。そのうち私に気遣ったかのようにひとりの奥さんに「その点、ご主人は地域のことをいろいろやってはるからえぇなぁ~」と声をかけられた。「リタイヤしたら夫婦は適度な距離感が必要やから」と応じた。それをきっかけにオバサンたちの会話の仲間入りをする羽目になった。
 家内たちが日頃どんな風に旦那を見ているかがよく分かった。併せてつくづく奥さんたちの日頃の情報交換と結束の固さをを思い知らされた。夫婦の様々な場面でのいざという時の対処方法のハウツーは万全である。それに引き換えどこまでも孤立無援の闘いを強いられているのが亭主族だ。いざという時の備えがまるでない。奥さん方の攻勢の前になすすべなく白旗を掲げるのがオチだ。夫婦喧嘩をしたご近所のご主人に同情したながら、オジサン同盟結成の必要を痛感した。

終始笑顔の”復活”桃子2011年11月06日

 日曜夕方の楽しみのひとつに女子ゴルフのテレビ中継観戦がある。石川遼が不振で中継画面に登場することが稀な今シーズンは男子ゴルフを見ることは少ない。そんな昨日の日曜夕方である。久々に手に汗握る感動の結末の女子ゴルフ中継を観た。
 日米両ツアーを兼ねた女子ゴルフのミズノ・クラシック最終日である。最終日に単独首位の最終組でスタートしたのは久々にテレビ画面で観る上田桃子である。その上田桃子の表情に驚かされた。終始笑顔を見せている。それもごく自然に浮かべている笑顔である。終始トップを守ったままプレッシャーのかかる最終ホールに近づいてもその笑顔は絶えることはない。17番で中国のフォン・シャンシャンに並ばれ、18番で上田桃子はバーディーチャンスを迎えた。入れば優勝というパットを外した時、今シーズンの実績でははるかに上回るフォン・シャンシャン相手のプレイオフの敗退を予感させられた。こうした場面での日本人選手のひ弱さをしばしば味あわせられていたからだ。まして相手はタフな中国人選手である。それでも今日久々にみた上田桃子の笑顔に窺える自信と精神的タフさに期待するものがあった。
 その上田桃子が、プレイオフ3ホール目で見事に勝利した。ウィニングボールがカップインした直後に上田桃子の表情がもろくも崩れた。手で顔が覆われた。優勝インタビューの冒頭は言葉にならない。溢れる涙が止まらない。それはあたかも笑顔で抑え込んでいたプレイ中の感情を一気に爆発させたかのようだ。
 アメリカツアーに参戦して4年目を迎える。2年間優勝から遠ざかり、今シーズンも9月の2週連続予選落ちなど不振続きである。「もう勝てないんじゃないか」「もうゴルフをやめたい・・・」。そんな言葉ももらしていたという。そんな上田桃子の優勝だった。それを可能にしたものがプレイ中終始笑顔で通したタフな精神力だったのだろう。そのタフさが優勝の瞬間に一気に感情を露わにした落差もまた魅力的だった。

地元文化祭での寛ぎ2011年11月08日

 日曜朝10時過ぎに山口センターを訪ねた。山口町の文化祭をみるためだ。4階公民館会議室の様々な展示のひとつに公民館活動の講座風景の展示がある。先日開講した「山口風土記・お天上山物語」の講座ポスターやレジュメなども展示されている。わずかながら地域の文化祭に関わりを持つようになったことを実感する。
 同じ階の廊下で書道の展示があった。和服姿の女性から声をかけられた。知った顔にちがいないのだがすぐに名前が浮かばない。「今日はここの当番なんです」と作品のひとつが指差された。署名をみてようやく顔と名前が一致した。昨年まで民生委員の同僚だった人だ。和服に合わせて髪型まですっかり変わっている。服装や髪型で一変してしまうご婦人方の変化にあらためて驚かされた。
 2階の老人いこいの家に立ち寄った。昨年も訪れて色んな人にお目にかかった場所だ。文化祭期間中はやまなみ喫茶という形でコーヒーやケーキを提供してもらえる。会場に入るなり奥様方から歓迎の言葉がかけられる。テーブルにつくとすぐに懇意にしている奥さんにコーヒーとケーキを運んで頂いた。先日の講座にも受講していただい方である。しばらくすると同じ接待係のお友だちも顔を出された。「彼女も一緒に講座を受けたんですよ」と紹介され、ひとしきり次回散策講座の話題で花が咲く。
 地元の文化祭が、様々な形で身近で寛げる場所になりつつあることを喜びながら山口センターを後にした。

別冊太陽「藤沢周平」2011年11月09日

 日曜日に山口の文化祭を見に山口センターに行った際に、久しぶりに図書館分室に立ち寄った。入口すぐのラックに置かれた本の「藤沢周平」の文字が目に飛び込んだ。藤沢周平の文字に他愛もなく反応してしまう。すぐに別冊太陽「藤沢周平」を手にして貸出手続きのためカウンターに持参した。
 気にいった記事や作品ゆかりの写真やイラストに目を通し、藤沢ワールドを満喫した。巻頭の田辺聖子さんの藤沢評が良かった。「波乱のストーリーであっても、文章はつねに静謐で、抑制が効いている。さりながら、その底からたちのぼる情味の香気が、読者を酔わせるのであろう」。多くの読者の藤沢作品に対する気分を見事に掬い取っている。
 最初の特集は「海坂(うなさか)ものがたり」である。藤沢ファンなら誰もがナルホドと頷く筈の幕開けである。「北国のとある小藩に名づけられた”海坂”江戸時代の藩士が描かれる作品の多くは、この海坂藩であり(略)、そこは作者の郷里、庄内の景色と重なる」。海坂にまつわる多くの作品が解説され、読者が読んだ筈の風景が次々に蘇る。
 心に沁みる藤沢語録があちこちに紹介されている。「方言の後ろには気候と風土、その土地の暮しがぎっしりと詰まっている」「私が書く武家物の小説の主人公たちは、大ていは浪人者、下級武士、次三男などである」「市井小説というものを、私は普遍的な人間性をテーマにした小説と考えている」。
 慌ただしい日々が続いた週の、ぽっかり空いた一日を「藤沢周平の世界」に浸って過ごした。

歴史調査団の北部地域の合同調査2011年11月10日

 10時30分に待合わせの公智神社に着いた。既に境内には郷土資料館歴史調査団の仲間二人と資料館の女性スタッフがお待ちかねだった。打合せていた調査団石造物グループ木曜班3名の北部地域の合同調査の日である。資料館スタッフも合流して頂けることになった。
 北部地域の最初の調査対象だった名来神社は、私一人の調査で既に完了した。今回から次の調査対象であり本命の神社である公智神社の調査に班全員かかることにした。公智神社の禰宜さんは旧知の間柄である。数日前に今日の調査を連絡し、事前の了承を得ていた。
 早速、4人で調査にかかるための打合せ行った。事前に作成しておいた神社の全体図を配付し、これをもとに目視しながら調査対象の石造物のナンバリングをした。玉垣も含めて46基の対象物があった。16基だった名来神社に較べてさすがに格式の違いを感じさせられた。
 続いて、ひとりだけでは調査が困難な長大な玉垣のサイズ調査にかかった。玉垣だけでも9ブロックもある。最も長いブロックで36.5mもあった。三人がかりで何とか採寸できた。神社前の参道に建つ大鳥居は特殊な道具でなければ採寸不能である。後日、資料館スタッフに道具を持参してもらい一緒に調査することにした。
 以上のことを終了した時点で12時前になった。一旦調査を終了し、女性スタッフと別れてオジサン三人組は一緒に昼食をとることにした。日本料理の「猿蟹合戦」に電話すると満席とのこと。「元祖すじコンの店・笑」に向った。同じメンバーで6月に山口を散策しながら案内した。二回目の今回は気心も知れている。1時間余りをすじコンをつつきながら老後の過ごし方のよもやま話で過ごした。