宮水学園(山口)「認知症の予防と生活習慣」2012年08月01日

 昨日の午後は、宮水学園・山口講座で山口ホールに出かけた。「認知症の予防と生活習慣」をテーマにNPO法人・認知症予防サポートネットの福田章さんという方のプレゼンだった。
 認知症は、民生委員という役柄からも関心があり、自分自身の問題としても知っておきたいテーマだった。今回の講座で印象に残った点を記しておこう。
・「平均寿命」以上に、「健康寿命」(日常生活を健康的に送ることのできる期間)が大切だ。2010年の健康寿命は男70.4歳、女73.6歳とそれぞれの平均寿命より10歳ほど短い。
・「老老介護」だけでなく「認認介護」(認知症の家族を介護している人もまた認知症を患っている状態)という事例が増えてきた。
・認知症の症状について、「問題行動」という患者の人権を傷つける表現が使われていた。現在は「周辺症状」という表現に改められた。
・認知症患者の気持ちを大切に。(プライドは失っていない。過去と現実を混同している。自分の状態をもどかしく思っている。感情がストレートに出てしまう。失敗を認めたくない)

 認知症予防のための頭の体操風のクイズも出された。二つのクイズを紹介しよう。※解答はこのブログの最後に掲載
 まず「ひらがな並び変えクイズ」である。並び変えて単語に直すものだ。
 「のやみこきお」「くかてゅしん」「ういゃけじしど」「きいくやてしにょく」「んぜうせばんい」
 もうひとつは「漢字合体クイズ」である。漢字四文字を二つづつ上下左右にくっつけて二文字の熟語を作るというものだ。
 「是、口、頁、門」「斗、合、糸、米」「共、田、馬、敬」「女、言、午、家」「口、取、未、走」
 解答を考えるのは結構難しい。解答を終えて気がついたが、問題作成は極めて簡単である。通常、問題づくりが大変だという先入観がある。このクイズをやってみて、誰でも簡単に作れて解答は結構難しいクイズがあることに驚いた。こんな風に考えられれば、まだまだ認知症には余裕があるということか。

クイズ゙1:おこのみやき、てんしゅかく、けいじどうしゃ、やきにくていしょく、ばいうぜんせん
クイズ2:問題、給料、驚異、許嫁、趣味

ソーラーウォッチが壊れた!2012年08月02日

 数年前に腕時計をCASIOのソーラー電波時計に買い替えた。 電池交換は不要だし、時刻表示はアナログ部もデジタル部も正確無比である。デジタル部は日付と曜日表示にして重宝していた。
 その腕時計に突然、不具合が生じた。アナログ表示の針に5時間ほどズレが出ている。振ってみたり、押しボタンをあちこち押してもどうにもならない。引き出しを漁って取扱説明書を引っ張り出した。「電波時計の受信方法」を読んで、修復を試みるがどうにもならない。かくなる上はメーカー相談しかない。説明書裏表紙記載のカシオテクノ・サービスステーションのダイヤルをコールした。
 コールセンター担当者までの長い道のりを覚悟していたが、意外と一回の商品番号選択であっけなく担当者につながった。取扱説明書の表紙記載の識別番号を告げるとすぐに対象商品が特定され、修復手順の説明が始まった。指示に従って2-3分操作すると見事に修復した。若い女性担当者の受け答えも丁寧で優しかった。
 故障の原因を訊ねると、「電気製品やIT機器などの強い磁気を発する器具が10cm以内に近接して置かれていると稀に誤表示が発生する」とのこと。腕時計と一緒に携帯電話やデジカメなどの外出用の常備品をまとめて同じ幅15cmほどのケースに入れていた。思い当たる原因を聞いてすぐに対応した。
 一時は買換えも覚悟したが、短時間で問題が解決された。CASIOサポートセンターの有能で気持のよい対応にも満足だった。

真夏の早朝の光の饗宴2012年08月03日

 真夏の早朝の散歩道には、時に息を呑むような美しい光景に出会うことがある。それはしばしば昇ったばかりの朝日が放つ清新な陽光が演出してくれるものだ。
 今朝の散歩道でも二カ所で陽光の織りなす美しい光景を目にした。そのひとつは有馬川土手道の名来橋を東に折れた旧丹波街道に向かう農道である。東正面の名来の丘陵頂きから、昇ったばかりの朝日の低い陽光が緑の水田に降り注いでいた。陽の当らない農道の暗さと鮮やかな緑の水田のコントラストを目に見える光が造りだしていた。
 もうひとつは有馬川沿いの土手道東側の竹藪の途切れた場所だった。竹藪をすり抜けた鋭い光のシャワーが畦道に突き刺さっていた。時間の経過が、光の角度を先ほど農道よりも幾分高くしている。かつて同じ場所でもっと低い角度の陽光が織りなす幻想的な光景をキャッチしたことがある(右下画像)。以来、真夏の散歩道で「夢よ再び」の思惑で歩く道筋になった。

ご近所のおばあさんの引越し2012年08月04日

 今日、ご近所のひとり暮らしのおばあさんが引越しされた。おばあさんとはいえまだ70代前半と若い。昨年秋に闘病中だったご主人がなくなった。直後の落ち込みから脱して元気な姿を見かけて喜んでいた。自宅周りは言うに及ばず、誰も気にかけない住宅街周辺の草抜きやゴミ掃除を買って出る姿を見かけて密かに拍手を送っていたものだ。ひとり住まいのお年寄りは民生委員の最も気がかりな方だ。
 先日、朝の散歩帰りに玄関先で掃除中の姿を見かけて、久々に立ち話をした時、突然の打ち明け話を聞かされた。「やっぱりこの家でひとりで暮らすのは寂しくてしんどい。息子夫婦も心配だから自分たちと一緒に住むように言ってくれる。この歳で住みなれたこの家を出て行くのはつらいが、息子たちと同居することにした」。
 ご主人が亡くなった直後に「近い将来、この家を出ていくかもしれない」と聞いていた。それでもまだまだ元気なので、それはずっと先のことと思っていた。何よりも長年連れ添ったご主人と共に暮らした思い出深い家である。三十年近いこの町での生活の様々な人間関係や絆を断って、新たな環境に身を置くことの抵抗感も大きかった筈だ。にもかかわらずご主人が亡くなって1年も経たないうちの引越しを決意するだけの事情があったにちがいない。二区画の敷地に建つひとり暮らしには広すぎる住いである。坂道が多く買物にも少し距離がある。車を運転できない高齢の住民には決して快適な住宅環境とはいえまい。
 転居後もしばらくは住いをそのままにしておくとのことだ。昨日、お宅を訪ねて、民生委員の立場から、緊急連絡等に備えて私の連絡先を伝えるとともに転居後の住所と連絡を伺った。言葉の端々から永年住み慣れ町を離れることの寂しさと、これからも何らかの形で繋がっていたいという想いが伝わった。民生委員というのはこんな形での繋がりを受けとめる役割もあるのかとふと思った。

90歳の長老が語る戦争体験2012年08月05日

 8月15日の終戦記念日を前にした8月4日の昨日、山口公民館講座「戦争体験を語る」が開講され受講した。講師は山口の最長老のおひとり岡本佐久次さんである。個人的にも地域紹介サイト・にしのみや山口風土記の執筆に当たって、幾度も教えを乞うたり情報や資料の提供を頂いた方である。案内チラシには「ニューブリテン島ラバウルでの3年間の体験を聞いていただき、戦争を知らない多くの人たちに、平和の有難さを知っていただきたい」とあった。
 午後1時半、高齢者を中心に40名の定員を超える受講者を前に講演が始まった。講師の徴兵検査から復員までの4年間の戦争体験が7部に分けて語られた。
 第1部は「徴兵検査から呉海兵団入団まで」である。今年90歳を迎えるという講師は、昭和17年、20歳を迎え徴兵検査で乙種合格となる。翌年5月、村役場から召集令状が届き、6月30日の出征の日、公智神社で村を挙げての歓送会が開かれた。奇しくもその日は、国鉄有馬線が廃線となった日だった。それまでの国鉄有馬線・有馬口駅からの出征が神有電鉄の田尾寺駅からの出征となった。国鉄神戸駅から臨時列車で呉駅に到着し、呉海兵団に入団した。
 第2部は「呉軍港出港からラバウル到着まで」である。呉海兵団入団後の8月頃、下士官室に呼ばれた。女性から届いた手紙を示され叱責された。軍人精神注入棒で後向きに数回叩かれた。結局、手紙は見せられることはなく、非人間的な軍隊生活を思い知らされた。10月始めにラバウルに向けての出港が告げられた。休日に町の写真屋で記念写真を撮り自宅に送った。終戦後に自宅に戻るとその写真は届けられており、今も残された貴重な思い出である。乗船したのは航空母艦・雲鷹(うんよう)で客船・八幡丸(やわたまる)を改装したものだった。見張当番だった10月10日に公智神社の秋祭りを偲んでいた記憶が残っている。トラック島に上陸の後、ニューブリテン島のラバウルに到着したのは12月3日だった。
 第3部は「日本軍の最前線基地ラバウル」である。ラバウルは日本から南4000kmに位置するニューブリテン島の東端の町で、現在のパプアニューギニア独立国の東ニューブリテン州の州都である。上陸当時は、東側に位置するガナルカナル島の前線基地が8月に撤退し、ラバウルが日本軍の最前線基地となっていた。
 第4部は「空襲によるラバウル壊滅と陣地構築」である。昭和19年2月以降、連合軍によるラバウル空襲が連日のように続くようになった。この間、米軍の上陸に備え、陣地の構築に明け暮れた。この頃、港に接岸した病院船・氷川丸の真っ白な船体を目撃したり、従軍慰安婦と呼ばれた韓国人女性の存在も知った。
 第5部は「空襲・栄養失調・風土病マラリアとの戦い」である。連日の空襲ではあったが、不思議と日曜だけは避けられていた。今にして思えば日曜休日といういかにもアメリカ的な攻撃パターンだったのだ。これに対し二つの飛行場からの迎撃が皆無だったのは既にそれだけの余力がなかったのだろう。食糧不足による栄養失調が心配だった。幸い、部隊長の指示で空襲の合間に芋畑を開墾し薩摩芋で飢えを凌いだ。現地の風土病である熱帯性マラリアにも悩まされた。激しい高熱と吐き気や頭痛に襲われた。
 第6部は「米軍の内南洋諸島占領とラバウルの孤立」である。その後、連合軍は日本軍の頑強な抵抗が予想されるラバウルを占領せず包囲するにとどめ、ラバウルより日本寄りのサイパン、グァムの内南洋諸島を直接占領した。その結果ラバウルは孤立した日本軍が終戦まで占領することになった。当時の日本軍兵士たちの遺骨は今尚ラバウルに残されたままになっている。
 第7部は「終戦と捕虜生活後の復員」である。昭和20年8月15日、平日ながら空襲はなく、全員が本部に招集され、終戦を告げられた。8月末にはオーストラリアの陸軍部隊が上陸侵攻した。11月頃にはラバウル奥地に8カ所の収容所が造られ、第7収容所での捕虜生活が始まった。約6カ月の捕虜生活は、後に聞いたシベリア抑留生活ほどには過酷なものではなかった。昭和21年5月末に復員船となった米国の移送船に乗船し、10日ほどで名古屋港に到着した。大阪、三田、田尾寺を経て海軍服に身を包んだ着の身着のままの山口への帰還となった。二つの所持品を身に着けていた。ひとつは出征時に贈られた寄せ書きを集めた日の丸で、今ひとつは海軍履歴書だった(実際にその二つの現物を持参され、会場で披露された)。これを見ると、二等水兵、一等水兵、上等水兵、水兵長と昇進していると記載されているが、辞令をもらったことは一度もなかった。兵役中の給料も支払われたことはなく、12年以上の勤続者に支給される軍人恩給も期間不足で貰えなかった。
 最後に、講師の感想が語られた。「山口でもこの戦争で100名もの戦死者を出した。戦争は勝っても負けても国民に多大な犠牲を強いるものであることをあらためて伝えたい。90歳を迎えて今のうちに自分の体験を伝え、そうした想いを受け継いでほしいと思い、今回の講座を設けさせてもらった」。
 私にとっても初めての生の戦争体験を聴く機会だった。今や数少なくなった実際の戦争体験者の生の声だった。講師は復員後は鉄道会社に勤務し、労組役員などを経て市会議員にも就任された方だ。リタイヤ後は宮っ子山口版編集長を始め多くの地域活動に携わり、郷土史への造詣も深い。長い記事になったが、個人的な関わりの深さもこめて、岡本さんの想いに及ばずながら応えたいという気持ちから綴った。

藤沢周平著「神隠し」2012年08月06日

 藤沢周平著「神隠し」を再読した。サスペンス風の市井物を中心とした11編の短編集である。
 バラエティーあふれた作品集だった。「三年目」という作品は、ページ数にしてわずか6頁の超短編である。宿場の茶屋で働く20歳のおはるが三年前に行きずりの若い男に出会った。「三年待ってくれ。必ず迎えに来る」と言われてひたすら待って三年後のその日を迎えた。日が暮れて諦めて軒に入りかけたおはるの肩を背後からその男が掴んだ。「もう三年待ってくれ」という男を追って、翌朝おはるは江戸に向かった。それだけの話である。たったそれだけの話に作家の物語づくりの原点のようなものをみた。チョッとしたエピソードをいかに想像を膨らませて物語に紡いでいくか。背景を描きながらそれを主人公の心の内に重ねられるか。そうした作家としての手法が浮かんでくる作品だった。
 物語としては「小鶴」が面白かった。老境に入った武家夫婦に迷い込んだ記憶喪失の娘をめぐる物語である。子どものいない夫婦の夫婦喧嘩は界隈や城中にまで聞こえた名物である。そのため養子縁組もままならない。ある日主人が仕事先で見かけた不審な様子の武家風の娘を連れ帰る。きれいな顔立ちの娘は、小鶴という名を名乗るだけで放心したように自分のことを話せない。しばらく面倒を見ることにした夫婦は小鶴を挟んでピタッと夫婦喧嘩もなくなり、俄かに華やいでくる。しばらくすると家中で小鶴の婿養子に入りたいという話が降って湧いてくる。夫婦で仲良く婿選びが進み格好の婿を迎えることになる。最後にはどんでん返しが待っているがこれはやめておこう。読者心理を心得た心憎いばかりの展開である。
 その他の9編もそれぞれにキラッと光るものがある情感豊かな作品群である。藤沢作品の再読は、忙しさが増してきた老後生活での憩いをもたらす至福のひと時だ。再読してきたその作品群が残り少なくなってきたことが、一抹の寂しさをもたらしている。

劇団員たちと初めてじかに交流した2012年08月07日

 一週間前に市民ミュージカル劇団『希望』の第2回目の公演が、大盛況のうちに終了した。公演終了直後には、後援会主催で劇団員の半数を占める子供たちも含めて懇親茶話会をもった。そして先週土曜日夜には大人の劇団員対象の劇団打上げに後援会役員も合流した。劇団員たちとの初めての直接の交流だった。
 打上げは、地元結婚式場「サンパレス六甲」中庭でのバーベキュー懇親会だった。劇団からは髙井代表と劇団員9名に加えて劇団のコーチ陣でもある4名のJMA所属の俳優さんもゲスト参加した。そこに後援会役員7名が加わった。様々なお肉と野菜が食べ放題で生ビール、焼酎、ソフトドリンクが飲み放題のプランだった。
 四つのテーブルに分かれて大いに飲み、味わい、語り合った1時間半だった。隣り合わせたJMAの若い女優さんとの懇談を通してプロの劇団員としての覚悟や夢を知った。髙井劇団代表の指導ぶりとともにその手腕や凄さもあらためて教えられた。同席した年配の男女の劇団員の話も興味深かった。お二人とも市内の南部からの応募である。若い頃の舞台にたつという夢がこの歳になって叶えられるとは思ってもみなかったと目を輝かせて語ってもらった。
 先週金曜日に地元小学校で校長・生活指導教諭と民生委員との年1回の懇談会があった。いじめ問題を中心とした意見交換だった。参加者の意見発表の順番がきた。劇団公演後の茶話会での劇団員の子供たちと大人たちとの交流が印象深かった。「近所の世話焼きおばさんやおじさんがいた昔と違い、今は子供たちに関わる大人は直接の利害関係者である先生と親しかいない。地域の大人たちが子供たちに関われる環境づくりが必要ではないか。劇団の子供たちにとって大人の劇団員たちは目標を共有する仲間でもある。そんな大人たちから色んな注意を受けたり指導されたりしている。そんな環境が子供たちだけの特殊な閉鎖社会で引き起こされるいじめという問題にいい影響を及ぼしていると思う」。そんな意見を述べた。
 劇団員たちとの一連の交流を通して多くのことを学んだ一週間だった。

忍び足の秋2012年08月08日

 早朝の散歩道を歩いていた。心地良いヒンヤリ感の中にかすかな肌寒さをかぎ取った。いつものあれほどかしましかった蝉の声が、心なしかトーンダウンしている。突然背後から慌ただしげな蝉の羽音が襲った。と思ったら、力尽きた一匹の油蝉が目の前の舗道に仰向けに転がった。最後の力を振り絞った羽ばたきで最後のあがきを続けている。殻を破って飛び立ってからの短い一生を今終えようとしている。盛夏の季節に忍び込んだ秋の気配を見た。
 住宅街麓の市民農園にやってきた。成長した稲の苗の鮮やかな黄緑が眩しい。すぐ傍の水路を流れる有馬川から枝分かれした清らかな水流に目を奪われた時だ。そのすぐ上の緑の葉に隠された稲の粒子に初めて気がついた。成長した苗田とばかり思っていた水田には稲穂を宿した稲田の装いを開始していた。
 名来橋を東に折れた旧丹波街道に合流する農道にやってきた。南側の丘陵地麓に幾本かの野生の栗の木が茂っている。濃い緑の葉っぱの中に若々しい黄緑の栗のイガが朝日を受けて輝いていた。
 お盆前の盛夏の季節にも、いつのまにか秋が忍び寄ってきていた。

現役同期のOB会2012年08月09日

 昨日の12時前から17時までのたっぷり5時間余りを、難波のカラオケ店で過ごした。カラオケを歌いまくっていたわけではない。現役生活を共に過ごした会社の同期入社のOB会だった。12人の仲間が顔を揃えた。会場は、地下鉄なんば駅前の一等地にあるジャンカラ難波本店だった。名前と連絡先を書いてシニア会員になると30分100円の低利用料金でソフトドリンクが飲み放題のサービスが付く。
 今回初めて参加したが、この会場でのOB会は2回目だという。カラオケは誰もやらない。ひたすら飲んで食べてしゃべりあう懇親会だ。都心の便利な場所でリタイヤオヤジたちがたっぷりある時間を低料金で思う存分過ごせるという見事な会場選択だった。なるほどカラオケ店のこんな使い方があるのかと幹事の企画力に感服した。
 20人定員ほどの部屋に入り、早速、ビールや焼酎やつまみを注文する。生ビールのピッチャー1300円、焼酎720mlボトル1900円、枝豆、フライドポテトなどのおつまみ類280円と至ってリーズナブルである。しばらく自由に歓談した。真っ先に話題になったのは、やっぱり各自の大病自慢だった。この歳になると重い病を乗り切った者ほど敬意を払われる。そんな話題の延長線上で先に逝った仲間の情報交換があった。80人ほどの同期入社者の内、物故者は4人だった。「結構、生存率は高いんとちゃうか」などと納得したりする。
 遅刻者も揃ったところでひとりひとりの近況報告となる。気のおけない仲間内の集まりである。呑んだ勢いも手伝って報告者の発言にあちこちからツッコミが入る。そのつど脱線して長時間の近況報告となった。脱線とツッコミはオバサントークの専売ではなさそうだ。5時間もの歓談を終えて予約時間終了のゴングが鳴った。清算すると思う存分飲み食いした割にひとり3000円とビックリするような安さだった。親しかったメンバー5人ほどで近くの居酒屋で二度目の乾杯をした。久しぶりに会った「同期の桜」としたたかに呑んで、夜8時半頃に何とか我が家に辿り着いた。

公民館講座「国鉄有馬線散策」の下見2012年08月10日

 毎年恒例の公民館講座が近づいてきた。今回のテーマは「国鉄有馬線」で、10月20日に室内学習「蒸気機関車が走った町」を、11月10日に屋外散策「廃線跡を歩く」を開講する。
 今日、私の講座担当の推進員さんと散策講座の下見をした。下山口バス停で待合わせ、有馬温泉行きバスで朝8時過ぎに旧有馬駅のあった乙倉橋に着いた。ここから有馬線廃線跡を辿ることになる。手元には「国鉄有馬線」調査の先達でもある亡き吉田さん作成の図面があった。生前に吉田さんから託された住宅地図上にマークされた線路跡の詳細な図面である。
 乙倉橋正面の先山クリニックの辺りが有馬駅のあったところだ。今も先山クリニック前から北に200mばかり残されている線路道を辿った。乙倉橋に戻り、県道98号有馬山口線を山口方面に向かう。途中、新有馬バス停の先に東側の線路跡方向に入る道を降りてみた。有馬川にかかる長尾佐(なぐさ)橋の先で行きどまりだった。図面上はこの橋のすぐ東側に線路があった筈だ。
 再び県道に戻り、有馬町から山口町中野に入る。この辺りからは東側の山裾を進行中の県道バイパス工事が展望できる。このバイパスのルートの殆どが旧国鉄有馬線の廃線跡である。県道を更に進み東側の造成地を横断して建設中のバイパス架橋工事現場に接近した。昨年8月末まで有馬線の橋脚が残されていた同じ場所に、新たな橋脚が建ち、南北に橋台が建設されていた。南側の橋台前面にかっての有馬線の橋台の石積みが残されていた。県道に戻り西側に渡って皇太神社に立ち寄ることにした。テーマから外れるが散策講座でも紹介したいスポットと考えたからだ。旧山口5村の各村には氏神が祀られ、この皇太神社は中野地区の氏神である。山肌に沿って細い参道を南に上った先に四つの小さな末社を持つ本殿がある。本殿正面には明治時代に中野住民が奉納した立派な絵馬がある。
 再び県道に戻り、東側の細い畦道伝いに南に向かう。正面の立派な萱葺民家の前を東に折れて進むと工事中のバイパスルートと交差する。交差地点南の少し先には既に立派な舗装路ができている。未使用の舗装路を10分ばかり進むと阪神高速北神戸線の高架下に出る。ここの地点で旧線路道は断絶している。ただ辛うじて南東側に旧線路道と繋がったコンクリート階段が設置されている。
 殆ど車の通らない車道を横切り階段を昇って旧線路道に再び合流した。この南に真っすぐ高田上谷病院まで続く道路が有馬線の線路道である。病院の二つの建物の間を抜けて南に行くと病院の建物右手に先日訪問した「高齢者あんしん窓口・山口」がある。お年寄りの受講者が多い散策講座でも案内しておくことにしよう。
 病院角の交差点の西側にはフランス料理の店がある。この店の場所に23年前まで「上山口の夫婦松」があった。夫婦松のすぐ東側を有馬線の線路が走っている写真が残されている。林で覆われた丘陵地の東側を抜けてすぐのところを西に折れた先に道がある。この山口中学校正門西を抜けて有馬川に交差する道もまた線路道である。この道の真ん中辺りの西に折れた的場建設ビル北側の道沿いに新築の民家がある。その庭に大きな立方体に近い巨石が置いてある。民家が建つ前まで野ざらしにされていた珪化木である。有馬川に交差する直前の東側にもスポットがある。山口ゆかりの江戸期の三人の浄瑠璃太夫のひとり「竹本加治太夫墓」である。
 有馬線は有馬川を現在の芽具実橋とほぼ同じ位置で架橋していた。辛うじて当時の橋台とおぼしき石組が残されている。有馬線は川を越え県道98号線を超えて公智神社前の道路に繋がっていた。山口のお年寄りたちは今もこの道を「線路道」と呼んでいるそうだ。公智神社前の西川にかかる「駅前橋」、ホテル・アイアン向いの民家辺りにあった「有馬口駅」の駅舎跡などが最後のスポットとなる。
 推進員さんと二人でしばしば行き止まりの道を折り返したりして長時間の下見となった。途中、色んな情報交換もしながらの散策だった。我が家に辿り着いたのは11時前だった。万歩計のカウンターは2万歩をとっくに超えていた。