今村欣史著「詩集・コーヒーカップの耳」2013年03月09日

 先日、西宮ブログのブロガーさんの喫茶・輪を訪ねた。その際、imamuraさんから自著の「詩集・コーヒーカップの耳」を頂いた。35編の散文詩からなる2001年発行の詩集である。
 その時の懇談で、詩作を始めたのは30代半ばからだとお聞きした。もっとも小学時代には文学に造詣のあった教師に作文を褒められていたとの話も聞いた。天賦の才能はおありだったのだろう。35編の詩を通して、哀しくて、愛しくて、面白くて、味わい深い独自の世界が広がっている。
 冒頭の一編「志願」で、いきなり衝撃的な今村ワールドを突きつけられた。戦時中、親父に勝手に軍隊に志願させられた人の話である。「そやけど俺は体が小っこかったから、すぐ帰されてしもた。(略)親父は嘆きよったけど、俺は喜んどった。そやから今も こないして好きなことして生きとる」。庶民の戦争に対するしたたかで痛烈な想いが凝縮されていた。
 35編の詩は、imamuraさんが喫茶・輪のカウンター越しに聴き取ったお客さんの体験談を掬い取ったものである。訪れるお客さんたちが背負ってきた様々な人間模様が見事に切り取られている。作家・有川浩氏が阪急電車で見聞した筈の光景を短編小説に仕立てあげたように、詩人・今村欣史氏はカウンター越しの見聞を凝縮された言葉で心象風景として紡ぎ出す。そこには作者の感受性とともに、独自の想いや視点が込められている。時代の雰囲気の中にこめられた庶民の心情がいきいきと伝わってくる。
 作者の作詩表現の拘りも看て取れる。全編が簡潔な関西弁のしゃべり言葉で貫かれている。関西弁への拘りが、詩という表現形式の気取りを排除し、庶民文学の風情を漂わせている。同時にそれが心地良いリズム感を刻み、詩文らしいテンポを生み出している。詩作の表現形式にも拘りがある。全編、改行のない1行20文字の四角い箱型の詩で表現されている。可能な限り一編が見開き二頁以内に納まるような長さである。短い作品は左右に大きく空白をとって見開きの中心にデンと居座っている。読み手のビジュアル性を意識したものか、作者の遊び心なのか定かでない。
 この詩集を読んで、詩人imamuraさんの立ち位置をみたような気がした。どこまでも庶民感覚にこだわった市井の人なのだ。市井の人間模様が織りなす街の文化や風土をこよなく愛している。喫茶・輪は、そうしたカルチャーの拠点でもある。だからこそ何度も廃業宣言をしながらも止められない。そんな気分を共有する常連客たちが、今日もまた何人も訪れる。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック