命綱2013年05月01日

 民生委員になって6年目を迎える。朝夕のひとときはご近所を施設の送迎バスが行きかう風景を目にするようになった。我が町の高齢化が着実に進展している。
 そんな折の先日、担当地区の独り住まいの高齢のご婦人が救急車で運ばれたという情報を耳にした。民生委員の仕事のひとつに市の緊急通報救助事業の該当者への申込み案内がある。事前にその事業の利用手引書を市の社協から取り寄せてそのご婦人宅を訪ねた。
 来意を告げてキッチンテーブルで様子を伺った。高齢といってもまだ70前である。ただ突発的に激しいめまいや吐き気が発症する持病がある。先日の救急搬送は、その症状で倒れこんでしまった際に、朦朧とした意識の中で119番通報したとのことだ。救急車がやってきて懇意にしているお隣の奥さんが駆けつけ、救急隊員に持病のことや緊急連絡先を告げてもらったという。それでも掛かり付けとは違う病院に搬送され、落ち着いてから転院したという。
 お話しを伺って、緊急通報事業の利用申込みが望ましい事例だと即座に思った。手引書を説明し申込みを勧めた。この事業の概要は、利用者が急病や事故で緊急事態に陥った時、ペンダントタイプの機器のボタンを押すだけで緊急通報受診ステーションに通報され、応答がない場合には、消防署や近隣の福祉協力員などに連絡が入り、救援が行われる。まさしく緊急事態での「命綱」ともいうべき行政サービスである。このサービスの利用と安心キット(救急医療情報キット)を組合わせれば一層効果的な緊急搬送が可能になる。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2013/04/24/6788818
 ただこのサービスを利用するにはご近所に二人の福祉協力員の確保が必要だ。緊急時にステーションから連絡を受けて利用者宅に駆けつけられる人である。その際、担当の民生委員にも連絡が入ることになっている。他の利用者の緊急通報で二度ばかりかけつけ、一度は救急車に同乗し病院まで付き添った経験がある。
 また自宅にNTTの一般電話回線が敷かれていることも必須条件である。NTT以外の回線だったのでNTTへの切替申込みと福祉協力員確保の見通しが立ち次第連絡してもらうことにして打合せを終えた。
 「今まで何かあると嫁いだ娘に遠くから駆けつけてもらっていたが、これが利用できれば、娘も安心だし負担をかけることも少なくなる。私にとっても有難いサービスだ」。ご婦人のこんな言葉にこの役割の確かな手応えとやりがいを感じながら辞去した。

謎の野鳥2013年05月02日

 ゴールデンウィーク狭間の平日である。少し肌寒い早朝の青い空の下を歩いていた。天上橋近くの有間川の川辺に、川床に同化するような茶系統の物体を目にした。石のようにも見えるがどうやら野鳥のようだ。見たこともない珍しい姿だ。すぐにデジカメを構えてズームアップした。飛び立つ気配もなく微動だにせずに身を屈めたまま佇んでいる。
 モニターチェックしてみた。褐色と黒の羽毛に覆われた体長25cmほどの野鳥だった。驚いたのは10cmほどもある真っすぐな黒いくちばしだ。初めて見る謎の野鳥に胸躍らせて何回かシャッターを切った。
 謎の野鳥の正体が知りたくて、帰宅すると真っ先にネット検索した。ところがくだんの野鳥の名前が分からない。ダメモトで「くちばしの長い鳥」で画像検索した。なんと一連の画像の中にさっき見たばかりの野鳥の画像が掲載されていた。画像をクリックして元記事(ブログ「連邦の見える里より」)を辿ると、この野鳥が「タシギ」という鳥であることが分かった。謎はあっけなく解かれた。
 名前が分かったのでWikiでも調べてみた。ユーラシアや北アメリカの北部で繁殖し冬季に東南アジアなどで越冬するシギ科の渡り鳥のようだ。和名のタシギは文字通り「田によく生息するシギ」に由来し、シギ科では一般的な種のようだ。とはいえこの山口で初めて目にした野鳥であり、貴重な姿を目撃したことを無邪気に喜んだ。(小さい画像はWikiより転載)

藤沢周平著「長門守の陰謀」2013年05月03日

 藤沢周平の短編5編を納めた「長門守の陰謀」を再読した。史実を題材とした表題作の歴史小説と、下級武士の妻を主人公とした武家物と、市井物3篇である。
 何といっても面白かったのは、巻頭の「夢ぞ見し」だった。うだつの上がらない下級武士の妻・昌江が夫が関わったお家騒動に巻き込まれる顛末を描いた物語である。藤沢周平という稀代の時代小説家の優れた才能が凝縮されたかのような作品である。短編ながら物語性豊かで展開が実に面白く、ストーリーテラー振りがいかんなく発揮されている。それでいてユーモアたっぷりな明るい作品である。御槍組に勤める夫は足軽と一緒になって槍を磨いている。「ご自分の御槍はすっかりさびついているくせに」と呟くといった具合で思わずニンマリしてしまう。
 その二十五石の小録の夫婦の住いにイケメンの若い武士が転がり込んでくる。実はその若者は家督相続争いを避けて一時避難した藩主の三男だった。ある日昌江は、家の前で数人の武士に囲まれた居候の若者を夫が見事な腕で斬り伏せるのを目撃する。何の取柄もないと思っていた夫は実は藩内でも有数の剣の達人だったのだ。時が過ぎたある日、町角で昌江は供を連れた一団の駕籠から声を掛けられる。お家騒動の後に藩主に納まったあの居候の若者だった。労いの言葉と短刀が渡された。家に戻り昌江は思い出し笑いをする。あの殿様に肩を揉ませ、朝寝に腹を立てて布団をはぎとった光景を思い出したのだ。
 史実に残る庄内藩の出来事を描いた「長門守の陰謀」も読み応えのある作品だった。武家社会の持つ不条理で陰惨な側面を見事に描き出している。どこまでも強欲で自己中の長門守を描きながらその人間的な部分に触れることも忘れない作者の優しさが印象的だった。

夫婦一緒の買物とは耐えること2013年05月04日

 4月27日から5月6日までの丸10日間、地域活動も労働委員会業務も一切ない。文字通りの黄金週間である。リタイヤの身で当然といえるが、ここのところの忙しさを思えば、久々に寛げる期間である。
 昨日の朝9時過ぎに帰省中の息子夫婦が嫁の実家に出かけた。東京勤務になって都心に移り住んだ息子たちの帰省は、マイカーから新幹線に乗り換えた。考えてみれば二人ともアラフォー世代である。交代で運転するにしても渋滞の高速道を10時間以上もかけて帰るほど若くはない。そんな事情で親たちが車で二人を最寄り駅まで送った。
 その足で二人で久々に三田の神戸北イオンモールに出かけた。手に入れたい本があったこともあるが、長いこと家内の買物に付き合っていないことの後ろめたさもあった。娘の帰省中は思い切り一緒に毎日買物に出かけていたので自宅で羽根を伸ばしていたが、娘が帰るとそうもいかない。
 それにしても家内の買物の同伴には忍の一字が欠かせない。なんと優柔不断で無駄な行動パターンの多いことか。どうやらひとつの買物にどれだけ多くの下見時間を要したかが決め手のようだ。買うことのない見るだけのお付き合いに亭主はうんざりしてしまう。途中から行動を共にしないというパターンが定着してきた。そんな場合に備えて読みかけの文庫本は必携である。ベンチを捜して読書に切り替えることを旨としている。
 連休で大混雑のフードコートの屋外テラスにようやく席を求めてランチした。12時過ぎに帰宅して、あらためて思い知った。夫婦一緒の買物とは耐えることなのだ。

奈良町散策&興福寺と東大寺2013年05月05日

 昨日、家内と小旅行に出かけた。かねてから訪ねたかった奈良町である。朝7時に自宅を出て、マイカー、JR宝塚線、地下鉄御堂筋線、近鉄奈良線を乗り継いで、近鉄奈良駅に9時前に着いた。車中で書棚にあった蔵書のムック本「奈良おさんぽマップ」で散策ルートをマーキングした。
 駅前に建つ行基菩薩立像に対面した後、すぐ横の南に真っすぐ伸びた東向通り商店街のアーケードを進む。連休とはいえ開店前の商店街は人影もまばらだ。その先の餅飯殿(もちいどの)センター街のアーケードを更に南に進み広い車道を渡った先の奈良町に到着した。駅から10数分の道のりだった。
 南に伸びる小路で「からくりおもちゃ館」の案内看板が目に入った。西に行くと民家を利用した無料公開のおもちゃ館があった。テーブルに江戸時代から親しまれていたからくりの復元玩具がいっぱい並んでいる。ガイド役の中年の婦人が遊び方を説明してくれる。
 小路から東に入った所に奈良町で使われていた生活用具等の展示館「奈良町資料館」がある。開館前で入館できなかったが、入口庇には身代わり申(さる)の赤い人形が幾つもぶら下がっている。この町の多くの民家の軒先に下げられている魔よけの人形である。すぐ近くには庚申信仰の拠点である「庚申堂」がある。
 小路に戻り南に行くと「誕生寺」がある。当麻寺の曼荼羅ゆかりの中将姫の生誕地と伝わる寺院である。小路を東に折れて進んだ先に「ならまち格子の家」があ。奈良町の伝統的な格子造りの町家を再現して無料公開されている建物である。奥行きのある間取りの部屋に、中庭、離れ、蔵、台所、二階間などの風情を味わえる。
 格子の家を南に行くと「ならまち振興館」がある。奈良伝統の蚊帳製造の勝村商店分家の住まいで開業医として住民からも親しまれた建物を市が買い取って無料公開したものである。二階からの若草山や三笠山の眺望をボランティアガイドの同年輩の男性の案内で印象深く眺めた。
 そこから折り返し北に向かい元興寺(がんごうじ)塔跡に着いた。奈良町の中心寺院である元興寺の五重塔跡である。東寺の五重塔よりも大きかったという基壇の石組だけが今も残されている。すぐ南に縁結びの「御霊神社」があり若い女性たちの参拝姿があった。神社前の小路を西に向い「十輪院」に立ち寄った。国宝の本堂は民家を思わせる低層の独特の形で鎌倉時代の寄棟造りの正面の蔀戸が美しい仏堂である。
 すぐ東の狭い路地を北に向い東に折れて進んだ先に、室町時代の寝殿造り書院遺構の「今西家書院」がある。門前から眺めただけで先に進む。車道を渡った所に「福知院」がある。興福寺の僧・玄肪が創建した古刹で本堂は重要文化財である。
 福知院の北側の大通りを渡った西側に「名勝・旧大乗院庭園」がある。車道に面した文化館から入園料(100円)を払って入園する。室町時代に善阿弥が作庭を始めたという大きな池を中心とした庭園は、中島に架けられた赤い太鼓橋が印象的な美しい名園だった。
 庭園を出て西に進み、「元興寺」に着いた。蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の仏教寺院・法興寺(飛鳥寺)が平城京遷都に伴い移転され元興寺になった。現在の奈良町は元興寺の境内につくられた町と言えるほど広大な寺域だったという。古都奈良の文化財として世界遺産に登録されている。拝観料(400円)を納めて東門をくぐり境内に入る。ともに国宝である本堂と禅堂の風格のある仏閣が前後に連なっている。参拝の後、収蔵庫展示の宝物や発掘遺跡などを見学した。
 元興寺から餅飯殿センター街に入ってすぐのビル2階で昼食をとった。朝、チェックしておいた「懐石料理・円」という店だった。注文した茶がゆ膳(2000円)は期待以上の美味しさだった。サラッとした茶がゆに鶏のくわ焼、子芋・出し巻きのお椀、奈良漬寿司、筍とフキのお汁、酒粕や苺など地場素材の天ぷらと、奈良の味たっぷりの大満足御膳だった。
 昼食を終えたのが12時半頃だった。まだたっぷり時間はある。少し歩き疲れはあるもののこの際、世界遺産登録の興福寺、東大寺にも足を伸ばすことにした。センター街北の三条通りを東に進み猿沢の池の手前の石段を北に上ると八角の興福寺・南円堂がある。その前を東に行くと興福寺の五重塔と東金堂の威容がある。二つの伽藍の間を更に東に進み南大門のある通りに出る。北に向かって10分ばかり歩いてようやく南大門に辿り着いた。運慶、快慶作と伝わる左右の巨大な木造金剛力士立像(国宝)の迫力にあらためて感じ入った。中門の西の端の受付で拝観料(500円)を納めて大仏殿に向かった。連休中でもありさすがに世界遺産見学の観光客が押しかけている。大仏殿の中は撮影自由である。正面の大仏(盧舎那仏像)の迫力と造形美を思う存分デジカメに納めた。周囲を取り巻く多聞天像や広目天像などの多彩な仏像群にも目を見張らされた。
 大仏殿西側の戒壇院を目にした後、近鉄奈良駅に向った。駅前商店街でお土産の葛切り餅を買い、2時33分発の近鉄急行に乗車し自宅に戻ったのは4時半頃だった。万歩計は2万9千歩を数えさすがに疲れが押し寄せた。それでも念願の奈良町に加え、美味しい昼食と興福寺、東大寺まで訪ねられたのだから充実した1日だったことは間違いない。

ならまちの人びと2013年05月06日

 一昨日、奈良町を旅した。その模様を昨日のブログで記事にした。5時間の散策を克明に綴って長文の旅日記を終えたが、何か書き忘れた気がしていた。散策中に感じた町の息吹を伝えていなかったことに気がついた。
 ならまちの歴史は、8世紀初めに遷都された平城京の外京として多くの社寺が置かれたことから始まるという。飛鳥の法興寺( 飛鳥寺) が元興寺としてこの地に移され、その境内を中心とした地域がならまちである。中世以降も大寺院に保護された商工業の町として栄えた。室町後期から戦国期には支配層の混乱のなかで町民自治が高まった。江戸中期以降も東大寺や春日大社の門前町として都市機能を維持した。第二次世界大戦で空襲を免れたことで街路や町並みが残された。20世紀後半には住民による町屋保存活動が活発化し、各地のまちづくり運動の先鞭をつけた。
 ならまちの歴史をざっと追ってみて気づいた。1300年にも及ぶ歴史と町衆としての自治意識や残された古い町並みといった要素がこの町のカルチャーを形成している。かっての伝統産業は今や衰退し、歴史と町並みをウリにした観光の町として再生した。そのための町ぐるみの取組みが活発である。
 ならまちには「からくりおもちゃ館」「奈良町資料館」「ならまち振興館」「ならまち格子の家」など古民家を活用した無料公開の見学施設が多い。そのどこにも住民ボランティアが詰めている。彼らは積極的に観光客に話しかけ町の魅力を伝えようとする。奈良町情報館発行の「おさんぽMAP」にも住民たちが顔写真入りで施設のポイントを案内している。昼食をとったお店のママさんはお料理ガイドを忘れない。住民ぐるみの町おこしの息づかいが伝わる町である。
 他方で伝統的な暮らしぶりを維持する風土も息づいている。民家の多くの軒下に庚申信仰のシンボルである「身代わり申(さる)」の赤い人形がぶら下がっている。銭湯の多さにも驚かされる。あちこちに風呂屋の煙突を目にする。町の高齢化だけでない頑なに銭湯を利用するカルチャーがあるのだろう。
 町並み散策とは町の風景を愛でるだけでなく町の息吹を感じる旅であることをあらためて教えられたならまち散策だった。

豊田有恒著「持統四年の諜者」2013年05月07日

 書棚を物色して再読用の小説を探していた。下の方の隅にカバーのない古びた本を見つけた。豊田有恒著作の「持統四年の諜者」だった。昭和53年発行だから44年前の作品である。豊田有恒の作品は、5年前に「倭王の末裔」という作品を再読し、このブログでも書評を記した。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2008/12/14/4008232 
 「小説・古代王朝」とサブタイトルされた「持統四年の諜者」は、表題作のほか四編を納めた歴史短編小説集である。各作品には古代史の記紀に記された著名な人物や出来事が登場する。「歌垣の影媛」の泊瀬の王子は、25代・武烈天皇、「樟葉の大王」の大男迹の王は、26代・継体天皇、「常世の虫」の秦河勝、「持統四年の諜者」の白村江の戦い、「祟りの墓」の高市皇子や長屋王といった具合である。
 「歌垣の影媛」と「樟葉の大王」は連作といってよい。日本の古代史では25代・武烈天皇から26代・継体天皇にかけての、大和朝廷の王権交替説が有力である。二つの作品はこの王権交替説を説得力のある物語として描いていて興味深い。
 「常世の虫」は、大化改新の前史ともいうべき物語である。百済系渡来人の蘇我氏と新羅系渡来人の秦氏の葛藤が背景にある。大和王家を凌ぐ勢力となった蘇我氏に対し、蘇我氏打倒を謀る中大兄皇子を秦河勝が支援するという構図である。蘇我氏を守る百済系遁甲者(忍者)と秦氏に属する新羅系細人(しのび)の闘いで細人が勝利し、手だれの護衛者を失くした蘇我入鹿が乙巳の変で打たれてしまう。乙巳の変の背景事情を独自の切り口で解説する。
 「持統四年の諜者」は、小野寺少尉の29年振りのルバング島から帰還を、舞台を1300年前の白村江の戦いに置き換えて描いたような物語である。戦い後の大和王権と唐・新羅との関係を知る上でも興味深い物語だ。
 「祟りの墓」は、高松塚古墳の被葬者を高市皇子であるという大胆な仮説を前提として、発掘されたその墳墓の状態から様々な推理で展開した作品である。
 豊田有恒の「倭王の末裔」を再読した時の衝撃は記憶に新しい。今また古代史の短編集を再読して、あらためて作者の古代史の造詣の深さと縦横無尽な創作力の豊さに圧倒された。豊田有恒の古代史シリーズをネット検索し、何冊かを入手した。しばらくこのシリーズから離れられそうにない。

地元長老からの嬉しい連絡2013年05月08日

 先日、朝の散歩中に自宅横で畑仕事中の橋本芳次さんにお会いした。地元の郷土史研究の第一人者で、昨年6月に90歳にして「平尻道(へんじりみち)の地図帳」の労作を発刊された方だ。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/07/18/6515196 
 半年ほど前に同じ散歩道でお会いした時に、郷土史についての幾つかお訊ねしたいことがあると告げた。紙に質問事項を書いて渡してもらえれば分かる範囲で答えるとのことだった。その時以来の立ち話だった。早速、明日にでも質問を整理したメモを持参したいとお願いした。その翌日、お宅を訪ねてメモをお渡しした。
 質問は、「名来にあったと伝わる有間神社の由来」「名来にゆかりがあると言われる孝徳天皇の妃・小足媛の由来」「名来にあったと言われる御旅所の伝承と所在」「名来にある番守寺橋、西久保橋のいわれ」などである。こうした疑問に答えてもらえるとすれば橋本さんをおいてほかにない。
 一昨日、橋本さんから電話を頂いた。橋本さんは名来で歴史研究会を主宰されている。「研究会の幹部にあなたの要望を伝えたところ、研究会でも一緒に質問内容の話を聞きたいとのことだった。ついては一緒に定例会の場に参加してはどうか」という嬉しいお話しだった。もちろん即座に同意して謝辞を述べた。5月下旬の研究会参加が楽しみである。

さすらいのサッカーボール2013年05月09日

 2週間ほど前に早朝の散歩道で、有馬川の堰堤下の水流に囚われてもがいているサッカーボールを見つけた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2013/04/27/6791609
 以来、毎朝の散歩道で囚われのサッカーボールの運命を眺め続けた。この間の雨による増水にもかかわらずサッカーボールは依然として同じ場所でもがき続けていた。それはそれでいつの間にか安堵の気分をもたらしていた。
 ところが・・・・今朝、同じ場所にやってきてうろたえた。くだんのボールの姿が見えない。そうか、とうとう囚われの身を脱して新たな旅立ちを果たしたのかと、すぐにボールの新たな境遇を祝福した。
 少し先に歩みを進めた時だ。なんと川面の向こう岸の草間の窪みに、あのサッカーボールが浮かんでいるではないか。たった10数mの旅路で再び歩みを留めていたのだ。それでもあの環境ならば、わずかな増水で再び旅路をスタートさせることだろう。
 明日から再びサッカーボールの運命を見つめる日々が続く。

メリケンパークオリエンタルホテル10階からの眺め2013年05月10日

 昨日午後2時から今朝の朝食解散まで、労働委員会労働者委員の近畿ブロック連絡会総会があった。会場は神戸メリケンパーク・オリエンタルホテルだった。午前中の労働委員会の2時間の審問を終えて、会場には1時半頃に到着した。
 近畿2府4県の持ち回りの会議で、今回は兵庫県だった。毎回、その府県の観光案内等の紹介パンフレットが会議資料に添えられる。今回ひと際目を引いたのが、来年放映のNHK大河ドラマ「軍師・官兵衛」の姫路市発行のパンフだった。開会までの時間を、私の故郷でもある姫路ゆかりの戦国大名のパンフを興味深く読んでいた。官兵衛を支える家臣団「黒田二十四騎」の記事に驚いた。その中のひとりの武将・三宅山太夫の生まれが私の生まれた村であることを初めて知った。
 会議が始まった。型通りの総会日程を終えて、メインの研修会となった。「物件提出命令を考える」と題する滝澤兵庫県労働委員会会長(弁護士)の講演だった。不当労働行為の有無に関する事実認定に必要な証拠を速やかに確保するため、公益委員の合議で帳簿書類等の物件提出を命じる制度で、9年前の労組法改正で創設された制度である。制度発足後、物件提出命令の申立て40件の内37件が却下され、提出を命じられた3件も2件は中労委で取り消されている。唯一の提出命令を出したのが兵庫県労働委員会である。会長としてそのことに深く関わった講師の、中労委に対する制度の積極的運用を求める主張は説得力のあるものだった。
 会議終了後チェックインしたのは10階の対岸にモザイクの見える部屋だった。夕暮れ間近のモザイクの全景を早速画像に納めた。懇親会を終えて部屋に戻った時には、モザイクはイルミネーションに彩られた観覧車を中心に見事な夜景を映していた。翌朝5時に起床し、朝食までのひと時をホテル周辺の散策に出かけた。ホテル東側の突堤には神戸港クルージングの客船・ルミナス神戸が停泊していた。