有間皇子ゆかりの地②有馬町と有野町2013年11月01日

 有間皇子は、舒明天皇14年(640年)に軽皇子(後の孝徳天皇)が有馬温泉に滞在中に阿部・小足媛(おたらしひめ)との間に誕生した皇子であるとされている。とはいえ有間皇子の出生地は定かでない。ただ父・孝徳帝の有馬温泉行幸や山口での行在所造営などのゆかりからも、孝徳帝の唯一の子どもであった皇子が有馬のいで湯で幼児期を過ごされた可能性は高い。但し、有馬温泉や有馬町には有間皇子の足跡は見当たらない。
 有馬町で有間皇子ゆかりの史跡をあげるとすれば、有馬稲荷神社ではないか。有馬稲荷神社の由緒は、「舒明天皇・孝徳天皇(西暦630年~670年代)有馬温泉行幸のおり、有馬字杉が谷に有馬行宮(杉が谷行宮)を 造営される。この有馬行宮の守護神として稲荷大神を勧請し、これが有馬稲荷の源となる」とされている。 山口町史では行宮の所在地を山口と推定しているが、こちらでは有馬杉が谷をその所在地としている。
 有野町の有間皇子ゆかりの史跡も有馬神社の次の由緒に求められる。「当社は往古山口庄名来村(現在西宮市山口町名来)で創建され、舒明天皇、孝徳天皇が有馬温泉行幸の際、再三にわたって参拝される等、皇室とはゆかりの深い式内社である。霊亀年間(西暦715年)に有馬川の洪水で流失し、御神託によって現在地に遷座された。古くは、摂津国有馬郡一の宮有間総社と称され、有馬郡16ケ町村の総氏神としてあがめられた由緒深い神社である」。
 有間皇子の19年という短い生涯が、その足跡を辿ることを困難にしているかに思える。父母のゆかりを辿るしかないのが現実のようだ。

有間皇子ゆかりの地③三田・金心寺2013年11月02日

 有馬郡誌の巻頭の「総敍」には、有間皇子の弟・定慧のことがかなり詳細に記述されている。即ち「藤原定慧は、鎌足の子とあれど実は孝徳天皇の妃小足媛(が)、有間皇子を生み給いて五年の後、孕妃を鎌足に賜い、所生の兒を子とすべく詔ありて生まれしが、定慧なり。(略)九歳にして遣唐使の一行に加わり渡唐す」とある。要するに孝徳帝が妃小足媛を鎌足に下賜した時、既に媛は身ごもっており、それが定慧だったという説である。そうだとすると、定慧は有間皇子と父母を同じくする5歳下の実弟ということになる。
 また金心寺の創建についても次のように記述する。「郡の中部・三田町に如意山金心寺あり。(略)寺は有間皇子の領地に在り。藤原定慧の開基とあるは、実に正しき由来というべく、寺址よりは、奈良朝以前の古瓦出せり。(略)定慧の唐に留る二十年、帰朝するや養父鎌足は既にコウジル薨じ、兄君なる有間皇子は不幸にも悲惨なる早逝等の事実を聞かれ、これ等先人の追福のため(略)有馬郡には兄君及び藤原家乃至(渡唐の時の大使だった)吉氏の保護の謝恩として、此の金心寺は建立せられたるものの如し」。
 この郡誌の記述を是とすれば、三田・金心寺は、有間皇子本人の郡内の足跡としては最も色濃く残されていることになる。金心寺の開基は皇子の実弟であり、寺領もまた皇子の領地内にあったということになる。

未明にルンバが踊る2013年11月03日

 何やら物音が聞こえて目を覚ました。手許の置時計は4時前を指していた。ガ~ッガ~ッという唸り声がはっきりと耳に届いた。こうなるともう寝られない。二度寝の効かない歳である。
 リビングに降りると暗闇のフローリングでお掃除ロボット・ルンバがグリーンのライトを点滅させながら踊っていた。ルンバがルンバを踊っているとほくそ笑んだ。それにしても人騒がせな。
 なぜ今時分にホームベースから立ち上がって勝手に動き出すのだろう。内臓タイマーがある時間がくると稼働する仕掛けになっているのか。フル充電後、一定時間経過すると稼働するのか。その仕組みは謎である。取説を繰って調べるほどの意欲もない。
 デスクでパソコンに向かっているとルンバの唸り声が近づいてきた。どんどん近づき、座っている椅子の足にゴツンゴツンとぶつかり始めた。まるで小型の室内犬が飼い主にじゃれているかのような振舞いである。なんとなく愛(う)い奴だと思ってしまう。
 いつの間にか唸り声が聞こえなくなっていた。捜してみると洗面所横のクローク下の袋小路で身動きが取れずに稼働を停止していた。しょうがない奴だと首輪(取っ手)を掴んでホームベースに寝かしつけた。やっぱり世話の焼ける奴だ。

シニアたちは意気軒昂2013年11月04日

 昨日の午前中、家内と一緒に山口センターを訪ねた。4階公民館で開催されている「山口公民館文化祭」の見学のためだ。会議室、集会室、実習室の5つの部屋を使って、公民館登録の11の文芸サークルの1年間の成果が所狭しと展示されている。
 最初の会議室には、公民館講座の紹介と講座風景写真が展示されている。今月20日に開催予定の私の講座「有馬郡物語」の案内ポスターもちゃんと掲示されている。この講座も4年前から始まり、文化祭での展示も今年で4回目である。個人的にもこの文化祭はなじみのあるものになっている。
 その他の会場では、手芸、シャドウボックス、陶芸、クラフト、絵手紙、書道、編物、写真、書画、料理などの作品展示がある。それぞれのサークルからメンバーたちが当番を務め、展示前で来客たちを応接している。展示の準備、本番での応接、後片付けと慌ただしい日々が続く。それでもこの文化祭はサークルに属して趣味を楽しんでいる会員たちには晴舞台に違いない。書道展示の前では着物姿で応接するご婦人の晴姿もあった。
 会場で見かける人たちは私も含めてほとんどがシニアである。こうした地域の草の根の文化活動を愉しみ支えているのは、間違いなくシニアたちである。公民館活動の健在ぶりと、それを支える意気軒昂な
シニアたちの姿を目の当たりにした。

地区ボランティアセンター・コーディネーター養成講座2013年11月05日

 先月初旬に社協の地区分区長と呑んだ。社協が進めている安心キットの取組みやその後の高齢者見守り、困り事支援などをテーマに語り合った。社協の活動の中心となっているボランティア・コーディネーターのことが話題となった。コーディネーターになるには市社協主催の7回の講座受講が必要だ。安心キット導入後の高齢者支援のボランティアを進める上で、この資格は不可欠だと思った。分区長からも手配してもらい受講を申し込んだ。
 そして今日、第1回講座を迎えた。会場の西宮市福祉会館4階のボランティアセンター集会室には、今回の受講申込者32名の内26名が顔を揃えた。26名中男性は5名で全員60代以降の高齢者である。10時から12時までの2時間の開講式を交えた講座が始まった。
 第1回講座は県社協地域福祉部の女性講師による「身近な地域福祉を考えよう~住民主体の福祉活動の重要性~」をテーマとした講義だった。講義では、これから地域の福祉ボランティアに乗り出そうというメンバーを対象に、地域の現状や課題が示され、心構えや取組み方が語られた。さすがに専門分野で豊かな経験を積んだ人らしく、わかりやすくて説得力のある講義だった。
 とりわけ「無縁社会」をキーワードに今の地域課題の特徴についての次のような指摘は、自分でも思っていたことでもあり大いに共感した。『①私たちを支える三つの縁「血縁(家族)、地縁(地域)、社縁(職場)」が低下している②構造的な社会の変化「人口構造、世帯構造、働き方(働かせ方)の変化」は自己責任でカバーできない③新しい「支え合い」(”あって当たり前”ではなく、意図的につくる「支え合い」)が必要』
 地縁の希薄な超高齢化を迎えた新興住宅街に在住する私にとって、手をこまねいていれば地域社会そのものの崩壊をきたしかねないという危機感がある。自然発生的な「支え合い」を当てにするほどの楽天主義も持ち合わせていない。まさしく「意図的につくる支え合い」に乗り出すほかはない。

「有馬郡物語」で伝えたいこと2013年11月06日

 時間を見つけてコツコツ執筆してきた公民館講座「有馬郡物語」のプレゼン・データをようやく完成した。最後のシートでこの講座で何を伝えたかったのかを整理した。
 今は地理上の名称としてさえも存在しない「有馬郡」は、かつて行政区や地理的呼称として定着し親しまれていた。郡名のゆらいでもある有馬温泉や三田盆地という地形の共有が有馬郡の枠組みを構成していた。有馬川、有野川などの河川、有馬街道、丹波街道などの旧街道、国鉄有馬線、神有鉄道などの鉄道が郡内の住民と物資の往還を支えていた。1929年発行の有馬郡16町村の地誌を集めた「有馬郡誌」は他に類を見ない貴重な郡の痕跡である。
 ところが1947年の有馬、有野の神戸市編入、1951年の山口、塩瀬の西宮市編入をもって有馬郡は三田市、神戸市、西宮市に解体分割され名実ともに消滅した。以降、行政区の違いが住民間の交流を疎遠にしかつての郡内各地区の絆は徐々に希薄化しつつある。
 とはいえ、有馬郡の消滅は僅か60年前の出来事である。それは古代律令国家以来の1300年以上に及ぶ有馬郡の歴史の瞬時の一齣に過ぎない。豊かな自然、伝統文化、精神風土を共有しあった有馬郡のDNAは住民たちの中に今なお生き続けているに違いない。今年9月、有馬山口線バイパス道路開通記念ウォークが催された。ゴール地点の有馬町有馬川親水公園では山口、有馬の住民交流会が開催された。行政区を超えた旧有馬郡の二つの町の交流という画期的な共同イベントだった。創作ミュージカル有間皇子物語の上演は山口、有馬、有野、三田にゆかりの有間皇子がテーマである。この上演を通してかつての絆が思い起こされないだろうか。
 「有馬郡物語」で伝えたいことは、旧有馬郡の絆の復活ということだと想った。

ウチのお父さん、ウザイ!2013年11月07日

 昨日3時過ぎ、西宮市役所前からやまなみバスに乗車した。下校時間とあって甲山高校前で大勢の高校生たちが乗り込んできた。前方の一人席に座っていた私の横の吊り輪を二人の女子高生が掴まった。イマドキの女子高生である。すぐに止まることのないおしゃべりが始まった。

 「ウチのお父さん、酔っぱろうたらウザい!」
 「ウチのお父さんはそんなことない。呑まへんから。」
 「エエナ~ッ」
 「そやけどウザい!」
 「エ~ッ、それって酔っぱらわんでもウザいッちゅうこと?
  そっちの方が怖いな~」

 文庫本を読んでる風を装いながら聞いていた。思わず笑ってしまった。本人たちに自覚はないだろうが、見事なボケとツッコミである。どっちに転んでも高校生くらいの娘たちからみればオヤジはウザイ存在でしかない。

紅葉のさくら並木の健気な一輪2013年11月08日

 玄関ドアを押し開けた途端に冷気を含んだ外気が襲った。肌寒さにかすかな冬の足音を聞いたような気がした。早朝6時過ぎの有馬川沿いの散歩道は日の出前の薄闇を漂わせていた。さくら並木はすっかり紅葉の装いをまとっていた。
 さくら並木の中ほどに葉っぱの抜け落ちた二本の異端のさくら樹が立っている。なぜかこの二本にだけ季節外れのさくらの花弁を咲かせていた。10月中旬に見つけて以来1カ月が経過した。多い時には数輪の花を目にした。
 今日目にしたのは小さな花弁をつけた一輪だけだった。健気に寂しげに咲いた一輪にカメラを向け、そっとシャッターを押した。

鈴木輝一郎著「本願寺顕如」2013年11月09日

 鈴木輝一郎著「本願寺顕如---信長が宿敵---」を読んだ。作者もこの作品も知らなかった。知人のブログに書評付きで紹介されていたのを読んで、書評自体の優れた内容にも触発されて、すぐにネットで取り寄せた。
 久々に重厚な歴史小説を読んだという読後感があった。戦国の覇者・織田信長と戦国期の最大の宗教勢力であった浄土真宗本願寺派との戦い(石山合戦)を舞台とした物語である。本願寺法主・顕如を主人公として石山合戦を本願寺側の視点から描いた作品と言える。
 多くのテーマが籠められた示唆に富んだ作品だった。とりわけ「改革するのと改革されるもの」「あたらしきものとふるきもの」というテーマは印象的だった。改革者でありあたらしきものを代表する信長と改革される側でありふるきものを象徴する形の顕如や将軍・足利義昭との対比が公平で冷静なタッチで描写されている。歴史上の人物としては信長は圧倒的な存在感と人気を誇っている。それ故に敵対者であった者たちの評価は低く、その論理が語られることは稀有である。作品は顕如の側に立ちながらも「改革の論理」を否定せず、改革される側の痛みを語り、ふるきものの存在理由を提示する。
 作品を通して人物評価を一変させられたのは将軍・義昭である。従来の見方は将軍職を手にするために信長にすり寄り、その権威を保持するために権謀術数の限りを尽くして信長包囲網を画策する俗物イメージが強かった。作中で義昭が顕如に次のように語る。「信長はあたらしい。われらは古い。われらは改革させられる側にある。(略)だが、なぜ変えさせられるのか。ふるい者はわるい者なのか。(略)今後さらに自在に人が往来し、商売が盛んになったとしよう。その場合、辺境に住む者はどうなるのか。辺境で田畑を真面目に耕すより、いくさ場に出たり、城下に出た方が生きるのに楽だとなれば、山野に人がいなくなるのではないか。優秀な人と物がすべて都会に集まってしまうと、鄙の地はどうなる。よいか。改革とは弱者を見捨てることなのだ」。今日の行き過ぎた新自由主義思想の実態と見事に重なっている。
 更に続けて言う。「余は信長を見捨てない。だが、信長にも捨てられない。富と名と力を一人に持たせてはならない。一人の強者は、敵を殺してから名分をあとでつくる。強者がいる場合、それに拮抗する強者がいなければならない。そして両者を仲介する者がいなければならない。(略)信長には、富がある。力もある。しかし現世の名では、まだ余の側にある。(略)だが、余には来世の名がない。力を貸してくれはすまいか。改革される側の弱者のために」。将軍職保持に汲々としていたかに思えていた義昭の振舞いの別の真実が鮮やかに浮かび上がる。天皇や将軍という権威の、政治的調整者としての歴史的役割が見事に描かれている。
 この他、「戦国期に突出した宗教勢力であった浄土真宗を支えた信仰生活の実像」といったテーマについても教えられることが多かった。とはいえ、そうしたテーマ性が優れているだけではない。歴史小説ながらストーリー展開にもエンタテインメント性においてもレベルの高い内容で一気に読ませてしまう。

紅葉の有馬で懇親会2013年11月10日

 昨日、娘の嫁ぎ先の京都のご両親をお招きした。もちろん娘夫婦も一緒である。昨年春に「老舗料亭・菊乃井本店の昼食と都をどり」http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/04/22/6422103 にお招きいただいたお返しだった。
 我が家に三夫婦が合流し、10時半頃に有馬温泉に向かった。いつもは混み合う週末の有馬街道もバイパス開通以来驚くほど空いている。11時前には昼食予約のホテル「月光園・鴻朧館(こうろうかん)」に到着した。ここで車二台を預けて、有馬温泉有数の景勝・鼓ケ滝に向かった。有馬川の源流・滝川沿いの森林に包まれた遊歩道を南に歩くこと約10分。落差12mの鼓ケ滝の優美な姿が登場した。紅葉に染まり始めた周囲の景観に見事にマッチした絶景を満喫した。
 12時前から鴻朧館の割烹・夕張月で会席料理を味わった。高級素材をあしらった日本料理が次々に提供された。お舅さんも呑める口である。帰路のドライバー役の婿殿を尻目に二人でそれぞれ生ビール二杯を空けた。今日ばかりはお代わりオーダーに家内も進んで協力する。 
 久々の出会いに会話も弾み、たっぷり1時間以上をかけた昼食を終えた。食後に温泉街を散策した。温泉街の狭い坂道を巡りながら、老舗の佃煮屋、有馬籠を覗いたり、極楽寺、温泉寺を抜けてかりんとう饅頭や炭酸せんべいの買物に付き合ったりした。酒まんじゅうに舌鼓し、ねね橋のねね像や、太閤橋の豊太閤像で写真を撮った。「都をどり」の優美さには及びもつかないが、日本三古湯の温泉街の情緒を味わってもらった。
 有馬温泉を後にして一旦我が家にお越しいただいた。リビングで寛いでもらい、4時過ぎには娘夫婦がJRの最寄り駅までお送りした。気がかりだった京都のお招きのお返しを1年半ぶりにようやく果たせた。