佐賀・雲仙・長崎の旅(初日)2014年12月01日

 11月30日~12月1日、地域の知人グループと懇親ツアーに出かけた。以前の天気予報の最悪のパターンがツアーを見舞った。それは新幹線みずほのゆったりしたシートで快適な時間を過ごし、ニューオータニ佐賀で昼食をとる際の幹事のアナウンスで知らされた。降りしきる雨でほとんど屋外の吉野ヶ里遺跡の散策を断念する他ないという。急遽、昼食会場に近い佐賀城本丸歴史館に変更すると告げられた。個人的には今回のツアーの最大の見どころが吉野ヶ里遺跡だった。思わず「そんな~ッ」と声をあげてしまったが如何ともしがたい。
 ホテルの和風御膳の昼食を済ませて佐賀城本丸歴史館に移動した。佐賀藩36万石は幕末維新の動乱期にひと際輝いた。佐賀城本丸跡に復元した施設で、当時の先進的な藩主だった鍋島閑叟を中心とした事跡が展示されている。ボランティアガイドのおばさんの誠実で熱のこもった解説を聴きながら巡った。
 続いて16時前に有田焼窯元を訪れ、宮内庁ご用達の「深川製磁本店」に案内された。二階の展示室で皇室ゆかりの陶磁器等の数々の貴重な作品を鑑賞した。1階店舗での商品を眺めた後、店舗の裏手に回ると大正ロマンを感じさせる木造建築の磁器工場があった。たっぷりある時間を利用して近くの観光案内所「有田館」に足を伸ばした。二階のカフェの壁の棚に窯元から提供されたティーカップがいっぱい並んでいる。来店者は自由に好みのカップで1杯200円のセルフサービスのコーヒーを味わえる。窓越しに陶山神社の風情のあるたたずまいが見えた。秀吉の朝鮮出兵時に半島から渡来して有田焼の陶祖となった李参平を祀る神社である。
 18時前に雲仙岳麓の雲仙温泉「ゆやど雲仙新湯」に到着した。同室者二人はすぐに温泉大浴場にでかけたが、二日前の足のけがで浴場入浴が叶わない私は部屋風呂の湯船に足をあげて入浴するのが精いっぱいだった。19時15分から夕食懇親会となった。掘りごたつ形式の席で鯛シャブやお肉の陶板焼き等の料理を味わった。二次会を終えて11時半には眠りに就いた。

佐賀・雲仙・長崎の旅(二日目)2014年12月02日

 ツアー二日目である。前日の宴席でに同年代のオバサンお二人と翌朝の雲仙地獄の散策を約束していた。約束通り6時にロビーで合流したが、この時期の九州の6時はまだ真っ暗である。ましてや雨模様の空である。結局、7時の和風膳の朝食を終えて再出発した。
 ホテルすぐ北側に雲仙地獄の散策道の入口があった。溶岩で覆われた一帯に白い湯煙が立ち上り、白濁の湯がぐつぐつと噴出し、硫黄のにおいが鼻をつく。あちこちに泥火山、雀地獄、白糸地獄、阿鼻叫喚地獄といった名前がつけられたスポットがある。時に湯煙を浴びながら整備された遊歩道を散策する。隣接する温泉街を一望できる地獄展望台からの眺めは中々のものだった。
 8時半に出発したバスが10時には長崎市内に到着した。昼食会場である四海楼の駐車場で下車し、その足で大浦天主堂に案内された。長崎市内観光は9年前に家内とたっぷり二日間個人旅行を楽しんだ。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/tabi-nagasaki1.htm そのせいもあるがブログ記事の執筆もイマイチノリが悪い。バスガイドさんの案内で大浦天主堂、グラバー園と巡ったが、記事は割愛。唯一、グラバー邸前の石畳にある「タッチすると恋が実る」というハート型の石をガイドさんに案内されたオバサンたちが大騒ぎする姿が印象的だった。「何を今更タッチするねん」と思わず声をあげてひんしゅくを買った。
 昼食会場の四海楼に戻った。ちゃんぽんと皿うどん発祥の店として知られる老舗の中華料理店である。水ぎょうざ、酢豚、ちゃんぽん、皿うどん、ココナッツミルクのランチメニューを味わった。個人的には酢豚、ちゃんぽん、ココナツミルクがお薦めだった。昼食の後は自由散策となった。たっぷり1時間あったが中華街やオランダ坂を徘徊し、路面電車の風情を愉しんでバスに戻ったのは集合時間の15分前だった。
 長崎市内を出発して博多駅には15時半頃に到着した。17時44分発の新幹線さくらの出発時刻まで2時間余りある。自由散策で各自最後のお買物タイムとなる。広大な駅中のショッピングゾーンでお土産やらお弁当やらを適当に買込んだ後は専ら待合室で読書で過ごした。山口の出発地点に迎えのバスが到着したのは20時45分だった。博多駅からわずか3時間後に戻ったことにあらためて新幹線の速さを実感した。

薄氷の景色2014年12月03日

 この冬一番の寒波が襲っていた。防寒コートに身を包んで6時半に自宅を出た。 足元の底冷え感と時おり頬を打つ木枯しに身をちじめて歩いた。
 住宅街麓の市民農園の脇道にやってきた。農業用水路の脇に水を張ったポリ容器が置かれている。張りつめた水面を寒波が襲い薄氷化して柄杓を閉じ込めた。この冬初めて見る氷の光景が寒波の襲来を思い知らせた。
 有馬川の土手道の真ん中に水溜りが横たわっていた。水面の氷と路面との間にできた間隙が氷を白く浮かせていた。その童心を誘う光景が、通りすがりの散策者のスニーカーで直後にパリパリと砕かれた。
 薄氷の初氷もまた四季の味付けである。

新旧両地区のボラセン交流会2014年12月04日

 山口町には新旧両地区の二つの社協分区がある。それぞれにボランティアセンターが設けられ、ボランティアコーディネーターによって運営されている。
 昨日、何年ぶりかで両地区のボランティアコーディネーターの交流会が開催された。両地区のボランティアセンターが設立された当初は年に何回か交流会が開催されていたようだが、いつか開催されなくなっていた。今回、新地区の側からの提案で久々に開催された。
 午前10時半、山口センター4階の公民館会議室に両地区のコーデネーター19名と両地区を担当する市社協の地区担当が顔を揃えた。地区担当の進行でコーヒーにお茶菓子付きのリラックスした雰囲気のもとで交流会が始まった。出席者の自己紹介に始まり、両地区それぞれの活動状況と相互の質問が交わされた。
 旧地区の主な活動はボランティアの施設派遣と地域イベントの応援である。中でも「ふれあい農園」はいかにも農耕社会の面影が残る旧地区らしい活動だった。コーディネーター所有の畑で障がい者施設の入所者やスタッフを招いて野菜を収穫しバーベキューなどで味わうというものである。新地区では中心活動であるカーボランティア利用者は旧地区ではわずかおひとりということだった。
 両地区共通の取組みである「さくらまつり」と「介護者のつどい」についても意見交換した。配布したボラセンだより掲載の「リタイヤオヤジの居場所づくり懇談会」についても質問があり趣旨と概要を説明した。最後に毎年一回この時期の交流会の開催を確認して12時ちょうどに散会した。

北方謙三著「史記 武帝紀」(三、四)2014年12月05日

 北方謙三著「史記 武帝紀」の第三~四巻を読んだ。第三巻のヒーローは何といっても衛青の甥・霍去病(かくきょへい)である。漢軍の改革者・衛青とはまた違った天才的な才能を持った若き将軍が、衛青と肩を並べるまでに成長した姿が描かれる。衛青から霍去病という世代交代を思わせる展開である。
 第三巻から皇帝・劉徹の存在感が迫ってくる。青年期の劉徹が衛青、霍去病を見出し登用することで、匈奴に壊滅的な打撃を与え北漠に追いやる。漢の領土はかってなく拡大し、内政においても圧倒的な権力者として君臨する。それは同時に青年期の改革者の姿が壮年期に入り徐々に変節していく過程でもある。臣も民も帝のために存在するという暴君にも似た姿に変貌し、帝の気まぐれな事業が国庫の疲弊を招き始める。
 第四巻は、冒頭から悲劇的な展開で始まる。若き霍去病が病であっけなく死を迎える。劉徹が愛してやまなかった天才的な将軍の死は、絶頂期を迎えた漢帝国に暗い影を落とし、絶対君主にも死を意識させる。後半には大将軍・衛青までが死を迎え、後を受け継ぐのは凡庸な将軍たちばかりである。そうした暗雲の中で唯一の光が衛青登場までの漢軍を支えた名将・李弘の孫・李陵の登場である。
 北方版史記の面白さのひとつに登場人物の多彩さとその描かれ方の深さがある。作品の節ごとに主語が変わる。主要登場人物のそれぞれの物語が綴られる。本流のドラマを幾多の物語が紡いでいく様は、幾多の支流が流れ込む大河ドラマの奔流を思わせる。それは作者の登場人物ごとの想いにいかに分け入るかという想像の翼を広げる営みである。登場人物の多彩さは想像力の豊かさと同義である。それぞれの人物の思考や行動の在りようを、読者にいかんなく納得させる作者の凄みに舌を巻く。

現役時代の仲間たちの老後の居場所づくり2014年12月06日

 昨日、毎年恒例の出身企業の労組役員OBと現役との懇親会に出席した。リタイヤして呑み会がめっきり少なくなったが、師走のこの時期には忘年会と称する呑み会がめっぽう増える。先日の高校時代の親友との呑み会で不覚にも転倒して左膝裂傷で二針縫ったばかりである。昨日の呑み会の前に整形外科で膝の抜糸を終えて会場に向かった。
 会場の難波のスタンド割烹日本・道頓堀本店に到着した。OB18人と現役9人が顔を揃えている。開会挨拶を現役委員長と持ち回りのOB代表が述べる。今年のOB代表のS君は、いつになくまじめな興味深い挨拶をした。早期退職した彼は還暦の年に環境関連の事業を起こし、苦節7年でようやく軌道に乗せたという。元来システム分野の専門家である。挨拶の後半はIT環境のいくつかの最新技術の情報を披露してくれた。そのひとつに、IoT(Internet of Things)という技術があるという。
 帰宅後、ネット検索すると「IoTとはモノのインターネット」のことで「従来は主にパソコン、サーバー、プリンタ等のIT関連機器が接続されていたインターネットに、それ以外の様々な"モノ"を接続する技術で、"モノ"をインターネットにつなぐことにより、離れた"モノ"を操作したり、離れた"モノ"の状態を知ることができるようになる」というものだ。
 自分の立ち上げた事業にもIT技術を取り入れただろうS君は、こうした最新技術が自分の生活にどうかかわるかもぜひ知ってほしいと結んだ。
 開会挨拶と乾杯の後しばらくはおもいおもいに同じテーブルの旧友たちと懇談した。ほど良くアルコールが回った頃に、恒例の出席OBたちの近況報告となる。81歳の最高齢の長老は、俳句の世界に新たな居場所を見つけ同人たちと句集を自費出版したという。青春時代を分かち合ったつわもの達の多くはリタイヤを迎えている。それぞれに老後の居場所を見つけてその報告をしている。年に1度のOB会は、二度目の青春の情報交換と交流の場である。

さくら並木の物語2014年12月07日

 自宅前の街路の突き当りは住宅街の高台の西端になる。自宅を出た直後の早朝7時前の西の空は、薄明りの滲んだ東の空とは対照的な暗さに沈んでいた。その西の空にひと際明るい満月が浮かんでいた。その鮮やかさに思わずデジカメのズームいっぱいの30倍でシャッターを切った。鉄塔にかかるクレーターまで写し込まれた満月をキャッチした。
 有馬川土手道は骨だらけのさくら並木が続いている。ついこの間まで
並木の足元を埋めるように縁どっていた落ち葉のベルトがかすんでしまった。いったいあの一群の枯葉はどこに消えたのだろう。木の根元を見つめた。枯草にまみれてさくらの朽ち果てた葉っぱが土に還ろうとしていた。
 骨だらけと思っていたさくらの枝先がかすかに膨らんでいる。春には程遠い12月初旬の季節である。なのに早くも新たな命が宿っている。土に還ろうとする枯葉と新たな命を宿した枝先に命の循環の物語を想った。

超高齢社会!誰が地域を支えるのか2014年12月08日

 今週末に「リタイヤオヤジの居場所づくり懇談会」を開催する。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2014/11/13/7490603 呼掛け人でもあり、当日の進行役を担当する。何しろ初めての試みである。どんな懇談会にするのかあれこれ考えた。
 今、日本は未曽有の高齢社会に向かってひた走っている。2025年には団塊世代が全員75歳以上の後期高齢者となり社会に支えられる側にシフトする。2025年問題である。今のままでは医療、介護等の高齢者ケアの需給バランスが一気に崩れ、社会は高齢者を支えられなくなるなるのではないかという懸念もある。我が街も例外ではない。住民の年齢構成は65歳から67歳の突出が顕著である。
 2025年に向けて行政は「医療から介護へ、施設から在宅へ」と舵を切り、「地域包括ケアシステム」構想を打ち出した。財政難を理由に高齢者ケアを家庭と地域に押しつけようという意図が見え隠れする。とはいえ地域の問題は地域でやるという覚悟が必要なこともまた現実である。自助、共助、公助の棲み分けと分担は受け入れるほかない。
 その共助部分を担うのが地域活動である。ところが地域活動に7年以上に渡って関わってきた立場からすれば、活動を支える人材はいかにも脆弱である。人材の絶対数不足、固定化、高齢化が著しい。
 元来、地域ボランティアを支えてきた層は、「子育て卒業オバサン」と「リタイヤオジサン」である。ところが前者は長引く不況の中で生計費維持のためパート勤務が激増し、新たな担い手が激減した。後者も年々地域活動への参入者は減少している。とりわけ団塊世代のオジサンたちの地域活動への参入は稀である。関心はあっても地域との繋がりがない。参加するキッカケが掴めないというのが現状だろう。
 今回の懇談会は、以上のような背景と環境での開催である。団塊世代たちが地域に居場所を持たないままズルズルと後期高齢者となることは地域にとっても不幸である。「元気なお年寄りが元気でなくなったお年寄りを支え合う循環」が必要だ。

さらば!異業種交流会・・・ありがとう2014年12月09日

 昨晩、1年9ケ月ぶりに異業種交流会「大阪さくら会」の個人的には最後の例会に出席した。例年12月は忘年会を兼ねた総会という区切りの例会である。リタイヤ後、例会参加も稀になりこの総会をもって退会する旨、幹事会に伝えていた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2014/10/30/7478098
 地下鉄御堂筋線「動物園前」駅改札口に18時半集合の案内だった。合流した10人ほどのメンバーと一緒に会場の「鯛よし百番」に向かった。旧赤線(遊郭)の名残りを今尚とどめる飛田新地のど真ん中を歩く。会場に着いた。開会の19時には10数人の会員が顔を揃えた。寄せ鍋を囲んでの懇親が始まった。ほどなく参加者ひとりひとりの近況報告になる。退会の意向を伝えていたためだろうか。真っ先に指名されて口火を切った。
 リタイヤ後の地域活動での問題意識の高まりを語るとともに、例会参加の意欲の後退を吐露し退会の意向を伝えた。創成期から関わってきた立場から大阪さくら会の原点にもふれた。異業種交流会ではあるが多彩な人材が集い語り合う異人種交流会の性格が強いこと。「大阪」というローカリズムへのこだわり。「さくら」に象徴される文化や自然を愛するスタンスなどがこの会の持ち味である。そうしたコンセプトを今後も引き継いでほしいと結んだ。
 全員の近況報告の後、しばらく懇親を重ね、お開きになったのは22時過ぎだったろうか。久々の大阪での深酒に酔いしれて帰宅したのは11時半だった。
 17年間のこの異業種交流会での例会を通じて多くの経験と知識を得た。交流できた知人・友人も数知れない。思想的にも右から左まで多彩な顔ぶれだった。それらはこの会でなければ味わえなかっただろう貴重なものだった。50代前半から60代後半までの私の人生を彩ってくれたこの交流会にあらためて感謝をしたい。同時に人生の晩年を迎えて身辺整理に向けたひとつの「始末」を終えた。

民生委員の日常の嬉しい一齣2014年12月10日

 この秋に民生委員の高齢者訪問を行った。その際、昨年導入した安心キットの申込みがなかったお宅にもあらためてお勧めした。その結果、7軒10名の方の追加申込みがあった。先日、市社協から届けられた安心キットを持参してお届けした。
 その内の一軒は何度か訪ねたがいつもお留守だった。駐車場にいつもある車がなく、雨戸も閉まったままである。昨晩、そのお宅の電話番号をコールした。電話局の転送案内メッセージで携帯電話の番号を告げられた。すぐにかけ直した。
 ご夫婦だけの高齢世帯だった。この夏に長患いだったご主人を亡くされ奥さんだけのひとり住まいである。懸命に看護をされていた奥さんだけに失意の大きさを気遣った。ところがその直後に東京在住の娘さんに赤ちゃんが誕生した。高齢者訪問の時には帰省中の娘さんの実家での出産直後だった。「ご主人の他界の直後のお孫さんの誕生だったんですね。命のリレーの繋がりを感じます」と声を掛けた。
 携帯電話がつながって聞き慣れた奥さんの明るい声を耳にした。聞けば娘さんたちの強い勧めもあって結局娘さん宅に近いマンションに転居されたという。「孫の守りで気が晴れるし今は元気に楽しく過ごしている」とのこと。気がかりだった方のおひとりの幸せな身の振り方を聞いて安心したことを告げた。民生委員の日常の嬉しい一齣だった。不要になった安心キットが一つ手許に残った。