乙川優三郎「冬の標」2017年08月07日

 乙川優三郎の「冬の標」を再読した。江戸時代のしがらみや仕来りに縛られた女性の自立を描くことでは定評のある作者の代表的な作品と言える。
 この物語の主人公は幼い頃から絵を描くことに魅せられ13歳の時に南画の画塾に入門し、生涯を南画ともに生きた明世である。自身の想いとは別に世間は明世に自由に絵を描くことを許さない。家に縛られ意に染まぬ結婚を強いられ、無理解な夫が若くして亡くなった後は20年に渡って息子を育て姑に仕えながら家を守る生活をおくる。明世の意に染まぬ生活をストイックに過ごす支えになったのは細々と続ける南画の世界だった。
 息子が一人前に育ち姑を看取り明世にようやく自由に絵に生きる境遇が訪れる。その頃に画塾の幼馴染みで心を許し合った塾生・修理との出会いが待っていた。二人で絵と一緒に生きることを約束したのもつかの間、修理は藩内の抗争であっけなく命を落とす。ここに至って明世は息子や実家や画塾といったあらゆるしがらみを断ってひとり江戸で絵の世界を生きることを決意する。
 この作品の文庫本表紙には南画の墨絵が描かれている。雪景色の中で二羽の鴉が枝に寄り添う風景である。作品のラストシーンは明世が渡し舟で江戸に向かって出立する場面である。折しも降りだした雪の中で「雪が降ったら、二羽の鴉を描きましょうか」という修理と交わした約束を思い出す。無意識に矢立てと紙を取り出し心に現れた二羽の鴉を描き始める。美しい場面の結末だった。