自分史・ふるさとの風景2019年10月30日

 自分史の執筆・編集が終盤を迎えている。掲載原稿がほぼ固まり、全体を見渡しながら記載漏れの記事や要な記事の添削を行っている。そこで欠けている記事に気づいた。自分史である以上、ふるさとは重要なテーマである。ふるさとを綴った記事が抜けている。そこであらためて「ふるさとの風景」をテーマにまとめてみた。

 1945年、姫路市飾磨区三宅という地で出生した。誕生から大学入学までの18年間を過ごしたふるさとである。JR姫路駅から2Kmほど南にあり、姫路と瀬戸内海に面した飾磨という港町を結ぶ通称・飾磨街道の中間辺りに位置した街である。飾磨街道に面して左右に集落が続き、その背後には稲田が広がるのどかな街だった。西500mほどのところに山陽電車の線路が南北に走り、東1500mほどのところには二級河川・市川が南北に流れていた。
 飾磨街道には思い出深い光景が刻まれている。幼児の頃には馬に曳かれた馬車が材木などを積んで往来していた。街道沿いの家々を毎年訪ね歩く富山の薬売りや竿竹、焼き芋、ポン菓子、金魚、風鈴などの物売り姿の記憶も残っている。中でも魚屋の露店販売はご近所のオバサンたちの評判もよく井戸端会議の場となっていた。秋祭りの時には飾磨の恵比寿神社の境内に繰り出す近隣の都倉村の屋台が村はずれの街道にまで練り歩き勇壮な姿を見せていた。
 生家の向かいには「広っぱ」と呼んでいた空地があった。そこは、村の子供たちのチャンバラ、缶けり、鬼ごっこ、パッチン(めんこ)などの格好の遊び場だった。人生で初めて映画(活動写真)を見たのもこの広っぱだった。青年団の若者たちが演じる村芝居もこの広っぱに小屋掛けして演じられ、ご楽の少ない時代の村の人気を博していた。
 村の南の端の飾磨街道から少し東に入った所にお地蔵さんを祀る小さなお堂があった。毎年地蔵盆には近所の世話人たちの手でお祀りが行われ、子どもたちにはお供えが振る舞われた。お堂前の空き地では定期的に紙芝居のオジサンがやってきた。5円玉や10円玉を握りしめて昆布や水飴を買って連載物の紙芝居に夢中になったものだ。