乙川優三郎著「霧の橋」2017年06月06日

 五木寛之の漂白をテーマとした二作品を読了し、再び蔵書の再読に戻った。その前まで再読を続けていた乙川優三郎の著作「霧の橋」である。
 この作品は第7回時代小説大賞受賞作ということだ。当然ながら巻末の「解説」でも高い評価がコメントされている。だが個人的にはこの作品の評価は他の乙川作品に比べ高くない。
 本作のテーマが夫婦愛であることは容易に理解できる。ただそのテーマを描き方が余りにも多面的で多くの要素を折り込みすぎている気がした。武士を捨てて商人として生きるということをモチーフにしながら「仇討ちがもたらすもの」「商人どうしの策謀」「商人と武士の魂の葛藤」「夫婦間の気持のズレ」等々。それぞれに巧みな描写で惹きつけられるがそれらが全体としてのまとまりを欠いているように思えた。
 とはいえ作者の提示したラストにはその情緒あふれる描写とともに共感した。武士の魂と商人としての生きざまの葛藤が続く中で、いずれにも徹しきれないありのままの姿こそがかけがえのないものとしてラストを迎える。
 ○か×かの割きりでない○も×も時に△もありのしなやかな生き方に魅かれるこの頃である。

五木寛之著「風の王国」2017年06月03日

 五木寛之の異色の大作「風の王国」を読了した。この作品も知人のブログの紹介記事で興味を抱き手にしたものだった。
 これまでの読書体験のどのジャンルにも属さない「歩き」をテーマとした単行本400頁余りもの長編小説である。「歩き」を原点として様々な営みが語られる。「山窩(サンカ)」「山の民」「化外の民」「遍路」「遊行」「千日回峰」等々。それぞれに作者の膨大な資料を読み込んだ確かな実証性に裏付けられた記述である。
 この長編を5月中旬の二泊三日の房総半島ツアーに持参した。たっぷりあるバス移動の車中で一気に読み切った。それほどに興味深く物語性に富んだ作品だった。
 この作品を読み終えて思った。私たちが学び受け入れてきた歴史とは「定住の民」の歴史ではなかったか。農耕を受入れて以降、民は定住が基本となり、権力者たちは定住を正義とする歴史を刻んできた。農耕以前の途方もない長い縄文の歴史は軽んじられ顧みられることは永く稀だった。他方で定住を潔しとしない少なからぬ民が脈々と生き続けた。定住の民の歴史や文化の限界が見え始めた。その究極の姿がグローバル資本主義という醜悪で強欲な怪獣のようにふるまっている。
 山の民、里の民の狭間で流浪した民の学ぶべき息遣いを知った。

五木寛之著「日本玄論・漂泊者のこころ」2017年05月27日

 知人のブログで紹介のあった作品である。ブログの記事内容に共感したこともさることながら、作品内容のタイトルの「隠岐共和国」「柳田国男と南方熊楠」「かくれ念仏」「蓮如」に魅かれた。どれも個人的に知りたいと思っていたことばかりだった。
 納められた9篇の著述は全て五木寛之氏の講演やインタビューの収録である。冒頭の「隠岐共和国の幻」は幕末から明治にかけて隠岐の島に短期間成立した島民だけのコミューンについて語られる。個人的に現役の50歳前後の頃に何度も隠岐の島の島後を仕事で訪ねたがそうした歴史的事実に接する機会は全くなかった。それだけに思い入れもある隠岐の島のコミューンの話題は新鮮で驚きだった。
 柳田国男と南方熊楠の交流物語にも知的な好奇心を満たされた。往復書簡を題材に二人の巨人の人間臭い側面を描いて余りある著述だった。
 「『かくれ念仏』の系譜」は私にとってもゆかりのある浄土真宗の宗派の「正統と異端」に焦点をあてた興味深い内容だった。また一向宗が持つ三つの牙(思想的、政治的、経済的)の指摘にも納得させられた。
 三部に渡る「蓮如」の講演収録も説得力のある内容だった。作者が傾倒する浄土真宗の中興の祖についての講演である。作者が宗祖・親鸞以上に乱世の組織者・蓮如に共感を寄せていることが如実に表れている。蓮如に何よりも注目に値するのはオルガナイザー(組織者)としての資質であるとする。戦国の世に85歳まで生き5度結婚し27人の子をもうけたこと自体が自らの思想の普及者としての驚異的な条件を備えていた。今日の日本最大教団である浄土真宗の確立は蓮如の存在をぬきには語れない。この著述はその背景と要因を見事に描いている。

乙川優三郎著「椿山」2017年04月19日

 乙川優三郎の7冊目の再読である短編集「椿山」を読んだ。短編4作品が納められている。
 表題作「椿山」は短編集の半分を占める中編で、最も骨太な作品である。乙川作品の中では珍しく悪漢物語の印象の残る作品だが、最後のシーンでやっぱり乙川風の優しさに包まれる。
 印象的だったのは「花の顔」である。今日の認知症介護というテーマを江戸時代に置き換えて鮮やかに描いている。主人公さとは武家社会の掟に縛られて厳しい仕打ち耐えながら姑たきに仕える。その果てに認知症になっていくたきを必死に支えながら永年の確執との葛藤にさいなまれる。追い詰められた果てに最後の手段に訴えようとした瞬間に童女に戻ったかのようなたきの呟きに彼女が背負ってきた重荷の深さを知り共感する。ここでも乙川らしい優しさで結末を飾っている。

乙川優三郎著「五年の梅」2017年04月12日

 乙川優三郎の短編集「五年の梅」を読んだ。五篇の短編がおさめられている。どの作品にも共通しているのが不幸のどん底にあえぐ主人公たちが追い詰められながらも最後の土壇場で踏みとどまり、生き直す力を取り戻す姿である。生きることに不器用な、あるいは下劣な生き方しかできない人物たちにスポットを当て、ギリギリのところで生き直す機会を与えている。解説でも指摘されているように、それは作者・乙川優三郎の優しさなのろう。その優しさに魅かれ浸されながら読者は乙川ワールドに引き込まれていく。
 そうした主題の醍醐味とは別に、作者の情感溢れる表現力に圧倒されたのが表題作の「五年の梅」だった。慕い合い暗黙のうちに将来を誓い合っていた助之丞と弥生。助之丞は弥生との別れも決意して主君に諫言し蟄居の身となる。募る想いを振り切って嫁いだ弥生は婚家の惨酷な家風と誕生した盲目の娘の養育という苛酷な境遇に晒される。蟄居を解かれ出仕した助之丞は幾度も弥生に救いの手を差し伸べるが頑なに拒否される。それでも助之丞はようやく主君お抱えの眼医者の診療を弥生の娘に受けさせられるところまでこぎつける。
 眼医者の薬園の梅林に向かう道筋で助之丞は弥生母子と出会う。道なりを歩きながら泥濘が道を塞いだ時、助之丞は娘を抱き上げて渡してやる。弥生にも手を貸そうとして振り向く助之丞。以下は最後の三行の描写である。
 「鮮やかな紅梅の向こうに歩いてきた道のりが見えて、胸のつまる気がした。その案外に長い道のりの終わりに弥生はうつむいて両手を握りしめていたが、助之丞が泥濘から手を差し出すと、震える手を伸ばしてきた」。頑なに拒否してきた弥生が意を決して受け入れた瞬間の鮮やかで余韻の籠った描写だった。

乙川優三郎著「喜知次」2017年04月05日

 乙川優三郎の長編時代小説「喜知次」を読んだ。同じ作者の長編時代小説「蔓の端々(つるのはしばし)」に続いての読了だった。乙川優三郎ワールドを満喫している。
 喜知次とは東北地方で通称され一般にはキンキと呼ばれる海水魚のことである。この物語ではヒロイン花哉の呼び名でもある。主人公?小太郎の家にもらわれてきた幼い花哉の「くるりとした大きな目に赤い頬」をみて小太郎が「花哉はまるで喜知次のようだな」と口を滑らせたのが呼び名の由来である。この小太郎と花哉の出会いの場面で始まった物語は、晩年に小太郎が哀しい別れの果てに夭折した花哉を訪ねる場面で完結する。出会いと別れを物語の始まりと結びに展開するのは作者が好んで使う手法のようだ。
 「解説」でも指摘されているが、作品タイトルにあるように作者は「喜知次(花哉)」こそが主人公であることを暗示している。ところがこの長編を読み進みながら読者は主人公は小太郎としか思えない。藩内抗争に明け暮れる藩の裕福な上士の嫡男である小太郎の藩政改革に挑む成長物語が主題と思える。
 にもかかわらずなぜ作者は「喜知次」を主人公と暗示したのか。藩政改革を表面上の主題としながら、何のための藩なのか、何のための藩政改革なのかを問うている。物語の節々に苛酷な運命を受入れながら明るくひたむきに生きる喜知次の姿が登場する。小太郎と喜知次の結ばれることのなかった恋を絡めながら「生きる」ことの意味を暗示し、そのことを読者は否応なく考えさせられる。
 爽やかな読後感をもたらした作品だった。

乙川優三郎著「蔓の端々(つるのはしばし)」2017年03月25日

 乙川優三郎の長編時代小説「蔓の端々(つるのはしばし)」を読んだ。短編集が多い作品のなかでも珍しい長編である。それだけに作品としてはプラス面とマイナス面が相半ばするように思えた。
 プラス面は長編ならではの物語性が発揮されている点である。主人公の瓜生禎蔵の幼馴染みでありともに想いを寄せ合っている筈の隣家の娘・八重がある日突然、禎蔵の親友であり剣友でもある黒崎礼助とともに忽然と姿を消してしまう。このドラマチックな幕開けで物語が始まる。更に礼助には藩の筆頭家老暗殺の嫌疑がかかる。筆頭家老の突然の死によって否応なく苛烈な藩内抗争がもたらされる。ドラマチックな幕開け後は延々と藩内抗争の行方が展開される。このいささか冗長な中だるみ気味の展開が不慣れな長編のマイナス面と思えた。
 ラストになってようやく礼助と八重の失踪の真相が明かされる。藩主も巻き込んだ複雑に絡み合った上層部の権力争いだが、この部分もまたいかにも解説風の展開で作者の持ち味を殺している。
 ラスト近くの余命いくばくもない養父の貞蔵への語らいが印象的だった。「明日のことを考えられなくなったら人間は仕舞だ。いかに財を成そうがそうでなかろうが、明日のことを考えぬ人間は惨めだ、若い頃は十年、二十年先まで考えたものだが、歳をとるにつれて五年さき一年さきとなり、そしてとうとう明日のことすらかんがえられなくなってしまった」。
身につまされる言葉だった。作者・乙川優三郎は私より8歳若い年齢である。その年齢にしてこのような言葉を吐かしめる作家の凄みを見た。

乙川優三郎著「屋烏(おくう)」2017年02月23日

 乙川優三郎作品の再読に嵌っている。三作目は5編の短編を納めた時代小説「屋烏(おくう)」である。
 5編の内最も魅かれたのは何といっても表題作「屋烏」だった。冒頭でのヒロイン揺枝(ゆえ)の与四郎との出会い。曲折を経て辿り着いたラストシーンでの同じ出会いは、ともに小高い海神山頂きの海を臨む茶店である。この印象的な風景描写をはじめ情感あふれる情景描写は作者の真骨頂である。揺枝と与四郎のそれぞれを取り巻く苛酷な現実が巧みな伏線となってラストシーンに繋がっていく。ラスト2頁に至った時、思わず涙してしまった。齢を重ねて感動することが稀になった今、久々に蘇った新鮮な感情に我ながら驚いた。

乙川優三郎「露の玉垣」2017年02月10日

 日々の読書が蔵書の再読に戻って2冊目を読了した。乙川優三郎の「露の玉垣」である。時代小説とばかり思っていたが歴史小説である。しかも単に史実を素材にして物語に仕上げるという通常の歴史小説よりもはるかに史実に密着した「武家社会の実像」を描いた物語である。江戸幕府の開闢期から明治初年まで実在した越後・新発田藩に残された藩の正史「世臣譜」を忠実に物語に紡いだ労作である。
 「世臣譜」は江戸後期に新発田藩家老として藩の苦難に立ち向かった溝口半兵衛長裕によって編まれたものである。「露の玉垣」には、この半兵衛長裕を影の主人公として「世臣譜」のから紡ぎ出した8編の短編が納められている。決して英雄伝説でない生の武家社会の日常生活の出来事や事件を丹念に描いた連作歴史小説である。それでいてそれぞれの物語には情感豊かな風景と武家社会を生きる男女の葛藤がテーマ性豊かに描かれている。
 関わっている地域活動に次々と難題が持ち上がっている。そんなストレスの多い日々に潤いと意欲の喚起をもたらす作品に癒された。

乙川勇三郎著「逍遙の季節」2017年01月18日

 昨年の6月以降、読書は好きな歴史小説・時代小説を断って、直面している介護・医療・認知症関連の専門書に絞った。以来12冊の書籍を読了した。この読書を通じて自分なりのこの分野での基礎的な知識と基本的なスタンスを学んだ。この分野の次の読みたい書籍は見当たらず、再び蔵書の中の時代小説の再読に戻ることにした。
 その最初のチョイスが乙川勇三郎の「逍遙の季節」だった。どちらかと言えば藤沢周平風の穏やかで静謐な世界に浸りたい気分だった。ところが藤沢周平の著作はほとんど再読済みである。同じような作風のお好みの作家が乙川勇三郎だった。書棚の中から比較的記憶に薄い作品として「逍遙の季節」を手に取った。
 三絃、蒔絵、茶道、画工、根付、糸染め、雛細工、髪結い、活け花、舞踊といった工芸の世界を題材とした七篇の短編集である。芸を恃みに生きる江戸の女たちの物語である。作者のそれぞれの分野の造詣の深さに驚かされる。それぞれの物語の中に芸と人との葛藤が描かれる。読み継ぎながらひと時をそうした世界に浸れるのも作者の卓越した文章力の故だろう。現役作家としては乙川勇三郎はもっとも魅かれる作家に違いない。