駐車時にモニターで車が上から見える!2020年08月13日

 息子夫婦が購入したばかりのマイカー”トヨタ・ライズ”で帰省した。息子の新車に同乗しショッピングセンターのインド料理の店に出かけた。車を駐車場に止めようとした時のことだ。運転席前のモニターに車体が映されている。びっくりしたのはモニター画面に後方動画とともに真上からの車体の動画が映されていたことだ。駐車スペースに沿って移動する車体の上からの様子がリアルに映っている。ありえない動画である。車体上方の空中にあるカメラで映しているかのような画像だった。従来の後方画像では把握できない駐車スペースと車体の全体画面で遥かに駐車は楽になる。
 自宅に戻り、ネットでこの真上からの画像を映す仕組みを調べてみた。要するにAI技術を駆使したもののようだ。車体に備え付けの前後左右の4つのカメラの映像信号を映像処理ユニットに集めて処理し、変換合成して真上からの仮想映像を作り出しているという。
 時代はどんどん進化し身の回りにAI技術が広がっている。

パンデミックが露呈させたパクス・アメリカーナの限界2020年05月08日

 新型コロナウイルスが世界を席巻している。その波及力は、疫病蔓延といった事態を越えて今やパンデミックと呼ばれる人類全体に及ぼす破壊力となって私たちを襲っている。その波及は人類の隅々にまで及び生活の根底を揺るがしている。日常生活の風景が一変し、人類が到達していた文明が覆されようとしているかに見える。
 かつて人類は、その時代の超大国に率いられて世界的な規模の平和を享受するという歴史を刻んできた。パクス・ロマーナ、パクス・ブリタニカ、パクス・アメリカーナといった変遷である。それはその国家の根底をなす価値観や生活様式を多数の民族や国が認め受け入れてきた歴史でもあった。文明の変遷と言ってよい。
 私たちは今、パクス・アメリカーナの終焉期を迎えているのではないか。米ソ両超大国による冷戦を経て1991年のソ連邦崩壊によってパクス・アメリカーナが現出した。それは社会主義に対する自由主義の勝利を意味し、その根底にある価値観である市場原理主義とグローバリズムを一気に拡大させることになった。以来30年を経て、パクス・アメリカーナは様々な歪みと矛盾をもたらした。個人主義の蔓延、声高に叫ばれる自己責任、貧困と格差の拡大、共同体とコミュニティの崩壊、一極集中と過疎化、地域の風土や伝統文化の喪失、豊かな自然の破壊等々。
 コロナ危機とはそうした歪みと矛盾を集約化したものではあるまいか。ウイルスの発生そのものは別にしてもそれを蔓延させたのは人と物流のグローバル化である。また新型コロナ蔓延で社会生活を危機に陥れている要因の多くを市場原理主義とグローバリズムが負っている。経済優先のアベノミクスが感染対策を遅らせ、そのことが逆に経済再生を遠のかせ、国民生活を絶望的な危機に陥れている。小さな政府を標榜する新自由主義的政策が医療・介護の態勢整備を阻み、行政改革の名分で推し進められた政策が行政組織と人材の脆弱・疲弊化を招き、リスク対応は危機に瀕している。
 新型コロナのパンデミックがパクス・アメリカーナの限界を露呈させた。他方で米中の両超大国が覇権を争っている。いずれも強権的でおよそ歓迎したくないリーダーに率いられている。人類は今後いかなる世界と向き合うのだろう。目下の見通しは暗くて辛いものになりそうだ。

コロナ蔓延化の地域支援の形は?2020年04月11日

 「自粛要請」というコロナ対応の日本的手法が全国を覆っている。命令でも指示でなく自粛要請なのである。最終判断は要請された側の責任で行うことになる。
 この自粛要請という手法は、緊急事態下であっても強権的でなく国民の自主性を重んじて対応するという積極的な側面がある点は否定できない。反面でお上の意向に従順な国民性に乗じて行政の責任が巧みに回避されているというきらいも感じないでもない。
 実際、地域社会の貴重なインフラを担っている組織や団体や役職が一斉に自粛して活動を停止している。地区社協役員や民生委員として地域の社会的弱者の支援に関わってきた立場からは一抹の懸念や不安がないではない。そうした気がかりな人たちにコロナ感染という新たな災厄の懸念が加わったのだ。その点も含めた地域支援はどうなるのだろう。
 これまで社会的孤立に陥りがちな人たちと接触し交流しながら居場所を案内しお出かけを勧めてきた。今や一転して外出自粛が求められる事態となり、地域の支援者の接触や交流も遮断されることになった。
 他方で医療現場では自身の感染懸念を顧みず懸命にコロナに立ち向かっている医療従事者たちがいる。介護施設の関係者もしかりである。社協や民生委員といったボランティアに同様の活動を求めるわけにはいかないのも現実である。
 とはいえこの緊急事態下であっても地域支援の必要な方への支援が閉ざされてはならない。接触や交流ではない新たな支援の形態が求められている。地区社協や民生委員のそうした機能の検討のための必要最小限の話し合いが求められているように思える。

平成はどんな時代だったのか?2019年01月08日

 平成最後の新年を迎えた。4月には新たな元号が公表される。あらためて平成という30年間はどんな時代だったのかを振り返ってみた。
 国際的には1991年(平成3年)のソ連崩壊を端緒としてグローバリズムが世界経済を席巻した。新自由主義という市場経済万能主義が世界各国で様々なひずみと格差社会をうみだした。その反動がアメリカンファーストを声高に主張する平成29年のトランプ政権誕生に繋がった。グローバリズムの席巻とそのひずみの顕在化が平成時代を覆った。
 国内では昭和末期から平成初期にかけての数年間、バブル経済が絶頂期を迎え、平成4年に破たんした。その後「失われた10年」や「失われた20年」を経て日本経済は今尚活力を取り戻せないままもがいている。その意味で平成時代とは昭和の経済成長期の負の遺産処理に追われた時代といえる。
 他方で日本社会の高齢化が一気に加速化した時代でもあった。高齢化率は平成2年の12.1%が平成28年には27.3%に加速化し、平成19年には21%を超え超高齢社会に突入した。
 個人的には平成の前半20年を現役生活の後半生で過ごしリタイヤ後の後半10年を地区社協をはじめとした地域活動で過ごした。その地区社協は、平成7年に開発後10年余りのベッドタウンの地域福祉を担う組織として誕生した。20年余りを経てファミリー中心の人口拡大の街から人口減少の超高齢社会に様変わりし、地域包括ケアという新たな難問に直面している。
 こうして振り返ると平成時代から次の時代への転換とは、大きな時代の潮流の変わり目でもあるようだ。

続・おばさんトーク入門講座2018年07月27日

 一カ月ほど前にさくらFMに出演して「リタイヤオヤジのセカンドライフ」をテーマに三人のパーソナリティたちとトークした。もっとも受けたのは「おばさんトーク」の話題だった。「よくしゃべり」「繰り返し」「割り込み」「飛躍し」「居直る」というおばさんトークの生態をおばさんたちへの愛おしさと敬意をこめて語った。
 そんな経過もあってその後しばらくおばさんたちの生態が気になった。そこであらためて気づかされたのがおばさんトークの続編ともいうべき特異な生態だった。以下「続・おばさんトーク入門講座」としてメモっておこう。
【おばさんの電話は終わりそうで終わらない】
 おばさんたちの長電話にしばしば苛立ちを覚えるのは私だけだろうか。もちろん電話口の向こうにいるのはおおむね同世代のおばさんである。そしてその背後には延々と続く嫁の長電話にうんざりしながら耐えているおじさん亭主がいる。
 会話の内容がようやく終わりを告げるかのようなフレーズになり、おじさんは「やれやれ」と胸をなでおろす。ところがこれは束の間の安堵感だったと思い知らされる。どちらからかは定かでないが突如として新たな話題が投入される。エンディングモードは消し飛んで再び延長戦が始まる。長電話の終わりかけの延長戦におじさんはダブルパンチのダメージを受けて打ちのめされる。
【おばさんは他人に聞かせるように独り言をいう】
 リタイヤ生活を迎えてリタイヤおじさんは多くの時間を我が家で嫁と向き合うことになる。現役時代には見えなかったり気にならなかった連れ合いの様々な生態に気づかされることになる。そのひとつに独り言の声の大きさがある。元来、独り言とは相手がいないのに発する言葉である。通常は自分自身にだけ聞こえる程度のつぶやきの筈である。 ところがおばさんの独り言のボリュウムはつぶやきレベルを超えている。いやでも生活を共にする亭主の耳に飛び込んでくる。リタイヤ直後は話しかけられたと思ってトンチンカンな返事をしたりしたものだ。今は聞き流す術を心得ている。おばさんのこの傾向は我が家だけではなさそうだ。地域活動で時間と空間を共有するおばさんたちにもしばしばみられるおばさん共通の生態のようだ。
 独り言には「自分の声を聴く」ことで不安や迷いを鎮めるという役割があり、また自分の考えや気持ちを言語化することで「思考を整理する」という側面があると言われる。不安や迷いを抱えながら日々多くの雑事に追われるおばさんたちの独り言を咎めてはならない。おばさんたちの「思考を整理する」という苦手な分野の数少ない機会を歓迎しよう。声の大きさは、あわよくば独り言に対する周囲の賛同や同意を得ようとするしたたかな企みなのかもしれない。

ご縁2018年02月07日

 知的障がい者の支援の場である北部地区懇談会に参加した時のことだ。三グループに分かれた座席のお隣は面識のある方だった。旧山口地区在住の障がい者家族の方で、以前家族会との懇談でご一緒したご婦人だ。地区懇談会でも積極的に前向きな発言をされていた。障がいのある子どもたちも成人されそれぞれに社会人としての自立の道への歩みを始められたようだ。
 懇談会が終わった時、思い切って声をかけた。「○○さん!それでは現在は少しゆとりができましたか?もしそうであれば山口地区全体の取組みのお手伝いをお願いしたいんですが」と、認知症カフェのボランティアのお願いをしてみた。カフェのボランティアスタッフは山口の各地区から構成されていることが望ましい。旧山口地区からの人選は思うように進んでいない。旧山口地区在住のボランティア確保は喫緊の課題だった。
 返されたお返事は予想以上に前向きで、あっさり承諾して頂いた。つくづく「ご縁」という言葉を噛み締めた。家族会でのご縁、今日の地区懇談会の参加、認知症カフェの旧山口地区のお手伝いさがしという課題、それらが全て噛み合って新たなご縁が生まれた。

「ファースト」がもたらす分断社会2017年11月08日

 ここのところ使われ出した「ファースト」という言葉が気になっている。トランプ米大統領が昨年の予備選挙中から使い始めた「アメリカ・ファースト」。小池東京都知事が都議選向けにキャッチコピー風に使い始めた「都民ファースト」などである。何となく新しい感覚のニュアンスがあり耳障りがよく大衆受けしている観がある。
 ところが考えてみれば「ファースト」とは単に「第一」「第一主義」ということに過ぎず自己中心のミーイズムを意味している。国際社会での協調・共存を排しアメリカこそ第一と主張する。都民を第一と考えない政治勢力や集団の存在を暗示することで抽象的な都民の利益を訴える。それは米国人や東京都民に不当な不利益の奪還を訴え共感を求めるというポピュリズムの手法にも見えてくる。格差と貧困が進行する社会にあって「自分さえ良ければ」というミーイズムの風潮が蔓延する。「ファースト」はそうした大衆の気分を巧妙に掬い取る。
  「ファースト」は「アメリカとそれ以外」「都民と都民の利益を損なう存在」という形で国や地域に対立を持ち込む。格差や貧困の原因を対立する反対勢力の存在に矛先を向ける。コミュニティの中に憎悪や排除が生まれコミュニティの分断がもたらされる。
 格差や貧困は対立、排除、分断によって一層深刻化する。協調、共存、包み込みこそが求められている。そんな時代だからこそ「ファースト」でなく「ソーシャル・飲クルージョン(社会的包摂)」を噛み締めたい。

「政治手法」というもうひとつの選択肢2017年10月16日

 衆議院選挙がいよいよ6日後に投開票を迎える。政党選挙である限り投票行動は各党がめざす理念や政策の選択が第一義といえる。ただ今回の総選挙ではもうひとつの選択肢が浮上しているように思える。今回の総選挙に大きなインパクトを与えている4人の党首の政治手法の違いが際立っている。そのことが選挙結果の予測にも反映されているのではないか。
 各種の選挙結果の予測は自民党の優勢、希望の党の失速、立憲民主党の予想外の勢いということで共通している。自民党の優勢予測にもかかわらず内閣支持率は尚不支持が支持を上回っている。党首である安倍首相への不信感の大きさを物語っている。希望の党の失速の最大の理由は明らかに小池代表の「排除・選別」発言に代表される傲慢さへの反発だろう。希望の党に合流した旧民進党所属の議員たちも苦戦が伝えられている。このグループを実質的に率いるのが前原民進党代表である。一方で枝野代表が率いる立憲民主党は総選挙公示の一週間前の結党にもかかわらず議席倍増以上の躍進が予測されている。
 この4人の党首たちの明暗を分けているものは何か。安倍、小池、前原の各氏に見事に共通しているものは強権的とも思えるトップダウンの政治手法である。前原氏の民進党の希望の党合流の決定経過も驚くべきトップダウンである。これに対して枝野氏は草の根民主主義を標榜しボトムアップ型の政治を訴える。理念や政策の選択もさることながら多くの国民が政治手法の在り方にも目を向け始めたのではないか。内閣支持率の低さは4年に渡る安倍首相のトップダウン型手法への批判もその要因のひとつと思える。
 地域活動に関わって10年目を迎える。昨年からは地区社協の代表者に就任し、地域のボランティアの皆さんとのコンセンサスをいかにして求めるかという点に腐心している。ボランティアの場では何よりも結論に至る過程が問われる。各自がそれぞれの場面でどのように関わったかが活動のモチベーションを支える。今回の総選挙の「政治手法」というもうひとつの選択肢を想定しながら「草の根民主主義」という言葉をあらためて噛み締めた。

三途の川は楽して渡れない2017年04月20日

 70歳の古希を迎えて1年以上が経った。「古希」は昔の人が「古来稀なり」と讃えた歳である。今や70歳以上は掃いて捨てるほどいる超高齢社会である。
 時代を反映した小噺がある。近年、高齢女子のスイミングスクール通いが大流行りだそうだ。そんなおばあちゃんが訊ねられた。「おばあちゃんはどうしてそんなに熱心にスイミングに通うの?」。おばあちゃんが答えた。「そりゃあ、あなた。三途の川を泳いで渡れるようになるためよ」。その話を傍で聞いていたおばあちゃんの嫁が、スイミングスクールのコーチにこっそり頼み込んだ。「先生!くれぐれもウチのおばあちゃんにターンの仕方だけは教えんといてネ」。
 このおばあちゃんの努力は的を射ている。キョウビ、三途の川は楽して渡れない。世の中、超高齢社会を迎えて介護が必要なお年寄りで溢れている。介護施設や介護スタッフや病院のベッドが追いつかない。溢れたお年寄りは在宅介護の環境を整えるか、劣悪な施設をさまようほかない。老後破産、老人漂流社会、孤独死が現実味を帯びている時代である。生きるに生きられず、死ぬに死にきれない。三途の川の真ん中で漂っている。
 この現実は、お年寄り本人だけの問題ではない。40代、50代の働き盛りの世代にとっては父母の介護問題でもある。施設入居が叶わず在宅介護が避けがたくなると介護離職という苛酷な選択肢が迫られる。「親孝行、したい時には、親はなし」の時代は遠くなった。「親孝行、したくもないのに、親はいる」時代なのだ。
 愚痴ってばかりもいられない。政治にも行政にも期待できないなら、自分たちで何とかするほかない。そんなわけで来るべき「在宅介護」時代に備えて地域で支え合う仕組みづくりに乗り出した。三途の川に漂うお年寄りの救いになればと、三年前に「福祉ネット北六甲丸」が船出した。

ブログを更新しないブログ記事2017年04月14日

 2006年6月にこのブログを立ち上げて以来11年に及ぶ。2007年2月13日に皮膚癌治療のため入院生活を余儀なくされて以降、毎日欠かすことなく更新してきた。それは執念ともいえるこだわりのような気もする。一度途切れたら以後とめどなく更新しない日々が訪れるのではないかという不安もあった。一度決めたことは頑なに守り続けるという生来の生真面目さも手伝っている。
 とはいえ既に齢(よわい)71歳の高齢の身である。いつ何時病を得てブログ更新が叶わない時がくるともしれない。ここらで肩ひじ張った毎日更新の呪縛から解き放つことにしよう。
 ブログでこうした心情をあえて吐露することで呪縛から免れようという姑息な手段を講じていることも百も承知である。