「ファースト」がもたらす分断社会2017年11月08日

 ここのところ使われ出した「ファースト」という言葉が気になっている。トランプ米大統領が昨年の予備選挙中から使い始めた「アメリカ・ファースト」。小池東京都知事が都議選向けにキャッチコピー風に使い始めた「都民ファースト」などである。何となく新しい感覚のニュアンスがあり耳障りがよく大衆受けしている観がある。
 ところが考えてみれば「ファースト」とは単に「第一」「第一主義」ということに過ぎず自己中心のミーイズムを意味している。国際社会での協調・共存を排しアメリカこそ第一と主張する。都民を第一と考えない政治勢力や集団の存在を暗示することで抽象的な都民の利益を訴える。それは米国人や東京都民に不当な不利益の奪還を訴え共感を求めるというポピュリズムの手法にも見えてくる。格差と貧困が進行する社会にあって「自分さえ良ければ」というミーイズムの風潮が蔓延する。「ファースト」はそうした大衆の気分を巧妙に掬い取る。
  「ファースト」は「アメリカとそれ以外」「都民と都民の利益を損なう存在」という形で国や地域に対立を持ち込む。格差や貧困の原因を対立する反対勢力の存在に矛先を向ける。コミュニティの中に憎悪や排除が生まれコミュニティの分断がもたらされる。
 格差や貧困は対立、排除、分断によって一層深刻化する。協調、共存、包み込みこそが求められている。そんな時代だからこそ「ファースト」でなく「ソーシャル・飲クルージョン(社会的包摂)」を噛み締めたい。

「政治手法」というもうひとつの選択肢2017年10月16日

 衆議院選挙がいよいよ6日後に投開票を迎える。政党選挙である限り投票行動は各党がめざす理念や政策の選択が第一義といえる。ただ今回の総選挙ではもうひとつの選択肢が浮上しているように思える。今回の総選挙に大きなインパクトを与えている4人の党首の政治手法の違いが際立っている。そのことが選挙結果の予測にも反映されているのではないか。
 各種の選挙結果の予測は自民党の優勢、希望の党の失速、立憲民主党の予想外の勢いということで共通している。自民党の優勢予測にもかかわらず内閣支持率は尚不支持が支持を上回っている。党首である安倍首相への不信感の大きさを物語っている。希望の党の失速の最大の理由は明らかに小池代表の「排除・選別」発言に代表される傲慢さへの反発だろう。希望の党に合流した旧民進党所属の議員たちも苦戦が伝えられている。このグループを実質的に率いるのが前原民進党代表である。一方で枝野代表が率いる立憲民主党は総選挙公示の一週間前の結党にもかかわらず議席倍増以上の躍進が予測されている。
 この4人の党首たちの明暗を分けているものは何か。安倍、小池、前原の各氏に見事に共通しているものは強権的とも思えるトップダウンの政治手法である。前原氏の民進党の希望の党合流の決定経過も驚くべきトップダウンである。これに対して枝野氏は草の根民主主義を標榜しボトムアップ型の政治を訴える。理念や政策の選択もさることながら多くの国民が政治手法の在り方にも目を向け始めたのではないか。内閣支持率の低さは4年に渡る安倍首相のトップダウン型手法への批判もその要因のひとつと思える。
 地域活動に関わって10年目を迎える。昨年からは地区社協の代表者に就任し、地域のボランティアの皆さんとのコンセンサスをいかにして求めるかという点に腐心している。ボランティアの場では何よりも結論に至る過程が問われる。各自がそれぞれの場面でどのように関わったかが活動のモチベーションを支える。今回の総選挙の「政治手法」というもうひとつの選択肢を想定しながら「草の根民主主義」という言葉をあらためて噛み締めた。

三途の川は楽して渡れない2017年04月20日

 70歳の古希を迎えて1年以上が経った。「古希」は昔の人が「古来稀なり」と讃えた歳である。今や70歳以上は掃いて捨てるほどいる超高齢社会である。
 時代を反映した小噺がある。近年、高齢女子のスイミングスクール通いが大流行りだそうだ。そんなおばあちゃんが訊ねられた。「おばあちゃんはどうしてそんなに熱心にスイミングに通うの?」。おばあちゃんが答えた。「そりゃあ、あなた。三途の川を泳いで渡れるようになるためよ」。その話を傍で聞いていたおばあちゃんの嫁が、スイミングスクールのコーチにこっそり頼み込んだ。「先生!くれぐれもウチのおばあちゃんにターンの仕方だけは教えんといてネ」。
 このおばあちゃんの努力は的を射ている。キョウビ、三途の川は楽して渡れない。世の中、超高齢社会を迎えて介護が必要なお年寄りで溢れている。介護施設や介護スタッフや病院のベッドが追いつかない。溢れたお年寄りは在宅介護の環境を整えるか、劣悪な施設をさまようほかない。老後破産、老人漂流社会、孤独死が現実味を帯びている時代である。生きるに生きられず、死ぬに死にきれない。三途の川の真ん中で漂っている。
 この現実は、お年寄り本人だけの問題ではない。40代、50代の働き盛りの世代にとっては父母の介護問題でもある。施設入居が叶わず在宅介護が避けがたくなると介護離職という苛酷な選択肢が迫られる。「親孝行、したい時には、親はなし」の時代は遠くなった。「親孝行、したくもないのに、親はいる」時代なのだ。
 愚痴ってばかりもいられない。政治にも行政にも期待できないなら、自分たちで何とかするほかない。そんなわけで来るべき「在宅介護」時代に備えて地域で支え合う仕組みづくりに乗り出した。三途の川に漂うお年寄りの救いになればと、三年前に「福祉ネット北六甲丸」が船出した。

ブログを更新しないブログ記事2017年04月14日

 2006年6月にこのブログを立ち上げて以来11年に及ぶ。2007年2月13日に皮膚癌治療のため入院生活を余儀なくされて以降、毎日欠かすことなく更新してきた。それは執念ともいえるこだわりのような気もする。一度途切れたら以後とめどなく更新しない日々が訪れるのではないかという不安もあった。一度決めたことは頑なに守り続けるという生来の生真面目さも手伝っている。
 とはいえ既に齢(よわい)71歳の高齢の身である。いつ何時病を得てブログ更新が叶わない時がくるともしれない。ここらで肩ひじ張った毎日更新の呪縛から解き放つことにしよう。
 ブログでこうした心情をあえて吐露することで呪縛から免れようという姑息な手段を講じていることも百も承知である。

ソーシャル・インクルージョン2016年01月29日

 最近「ソーシャル・インクルージョン」という言葉を耳にし気になった。きっかけは安倍内閣設置の「1億総活躍国民会議」の民間議員に選ばれたタレント・菊池桃子氏の発言だ。
 権力者側から発せられる「一億総〇〇」というキャッチフレーズに先の大戦末期に旧日本軍が掲げた「一億総玉砕」のスローガンを重ね合わせる高齢者も少なくない。安保法案という危険な法案を閣議決定だけで通過させた安倍政権であれば尚更である。「一億総活躍」が声高に語られるほど活躍したくても活躍できない社会的弱者にはプレッシャーになりはしないか。そのことがひいては弱者排除に繋がりかねない危惧すらある。
 障がいを負った二女を持つ菊池氏はそうした危惧も念頭にあったのか、「1億総活躍」に替わる言葉として提案したのが「ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)」という言葉である。「社会の中から排除する者をつくらない、全ての人々に活躍の機会があるという言葉です」と述べている。なかなかどうしてたいしたものだ。タレントのお飾り議員などではない。
 地域でもあらためてソーシャルインクルージョンというこの言葉が問われているように思う。自治会などの地域組織への加入者が減少し加入者の負担が増えている。そんな苛立ちから加入者は非加入者を問題視し、ともすれば排除の論理に傾きがちである。その流れは地域コミュニティの溝を増やし深めることにほかならない。排除でなくむしろ「包み込み」こそが地域社会の原点ではないか。そうした風土の上で「加入しない」あるいは「加入できない」事情をひとつひとつ丹念に除去する他はない。

忙中、「花」あり2015年12月23日

 今年は11月末から12月にかけて例年になく忙しい日々を送った。
 地域活動の実務が集中した。三つの広報紙編集を担当した。社協分区、福祉ネット北六甲、西宮市民生委員会のそれぞれA4で4頁の広報紙である。加えて福祉ネット役員会のレジュメと議事録作成、ボランティアセンターの有償ボランティアの制度設計、山中トライアルウィークの事前学習用資料の手直しといった実務も重なった。
 社協、ボランティアセンター、民生委員、福祉ネット等の会議、当番、プレゼン、募金活動、懇談は16回に及んだ。さらに年末ということもあり忘年会や懇親会等の呑み会も8回を数えた。
 新たな事態に直面した時、真正面に受け止めてしまうという生来の性分が抜けきらない。結果的に次々と新たな課題や担当を抱え込む羽目になる。自業自得とは言え古希を迎えた身にはいささか堪える。歳相応の処し方が迫られていることは間違いない。
 それでも今年は気持ちの上でゆとりがある。忙しい毎日の暮らしの中にかけがえのないひと時があるからだ。言うまでもなく初孫・花ちゃんの存在である。「振り向けば花ちゃんがいる」風景は何物にも代えがたい貴重なものだ。
 「忙中、閑あり」ならぬ「忙中、『花』あり」である。

暴走じいさんと暖房じいさん2014年12月26日

 古希を目前にして、同年代以上の男性とのおつきあいを通じて考えさせられることがある。おだやかに齢(よわい)を重ねごく自然に老いを迎える人が一般的ではあるが、時に通常でない二つのタイプの高齢男性にお目にかかることがある。
 ひとつはいわゆる暴走老人である。女性も含めた老人一般ではないのでここでは暴走じいさんと呼んでおこう。感情のコントロールができずにキレることが多い。ジコチュウで自己主張が強く、他人の気持ちを斟酌しない。誰彼かまわず攻撃的である。いつもその場の中心に居なければ気が済まない。他人(ひと)の迷惑省みずのタイプである。その傾向は齢を重ねるほどに拍車がかかる場合が多い。
 今ひとつはその逆のタイプである。謙虚で気遣いや思いやりがある。人の話をじっくり聞き、親身に受けとめる。話し手の気持ちを汲んだ対応を心掛けているかに思える。その場に居てもらえるだけで場が和み癒される。齢を重ねるとはこういうことかと思わせられる。あたたかく包み込まれるような、まるで暖房じいさんとでも呼べるようなタイプである。
 二つの傾向は実はひとりの人間の内にも同居する。もちろん私自身の中にも時に暴走じいさんが頭をもたげ、時に暖房じいさんの優しさを意識する。人は歳を重ねるごとに子供になり幼児になり赤ん坊になっていく。それは分別を知らない本能の赴くままに生きている赤ん坊に還っていく哀しい道程なのかもしれない。それだけに内にはびこりやすい幼児化をいかにコントロールできるかを心しよう。

ブログと歩数計②「 二つのルーティンの効用」2014年06月22日

 昨日、ブログと歩数計による日常生活のルーティンについて綴った。この二つのアイテムに支えられた朝のルーティンは以下の通りである。よほどの悪天候や旅行中でない限りこのパターンが維持される。
 朝5時前後に起床すると真っ先にPCデスクに陣取って、メールとお気に入り登録のブログをチェックする。朝食を済ませ朝刊をざっと読む。6時前には、デジカメ、スマホ携帯、文庫本を持参してウォーキングに出かける。コースも有馬川土手道を北に向かい名来橋で折り返すのがほぼ定着している。帰路の終盤にはマクドナルドでモーニングコーヒー片手に15分ばかり読みかけの文庫本を愉しむ。
 以上の朝のルーティンがもたらす効用は大である。朝一番に必要な情報をまとめて仕入れる。散歩中は得られた情報を吟味したり、スマホのスケジューラーを確認しながら今日やるべきことを整理する。考え事に時間を費やしたりブログネタを考えたりするのも1時間ばかりのこの散策時間である。時に出くわす様々な印象深い出来事はデジカメ画像とともにブログネタとして更新される。わずかな時間ながら読書を欠かさず続けられるのもマックのモーニングコーヒーというルーティンの賜物である。そしてこの早朝ウォーキングで1日1万歩の目標の9割方を達成する。
 こうして振り返れば、ブログとウォーキングは車の両輪のようなものだ。ブログの毎日更新というルーティンが問題意識を研ぎ澄まさせ、ウォーキングのモチベーションに貢献する。ウォーキングという「考えること」に特化するしかないルーティンが精神の活性化の貴重な機会をもたらしている。そしてそれぞれが精神と肉体の健康をサポートしている。老後生活の几帳面で律儀なルーティンであることか。

ブログと歩数計①「日常生活の二つのルーティン」2014年06月21日

 7年前の2月に悪性黒色腫と称する皮膚癌を発症し、2度の手術を含めて50日間の入院生活を余儀なくされた。今振り返っても入院生活は苦痛と退屈に満ちたものだった。それでも得るものも多かった。
 その最大のものは、ブログの毎日更新と1日1万歩のウォーキングである。入院生活の大半は無為な時間の連続で、手術や治療や診察という医療行為は時間すればしれたものである。ほっておけばテレビと居眠りに終始する怠惰な時間に終始する。入院草々にそうと分かって意図的に活用したものがブログと歩数計の二つのアイテムだった。結果的にこれが奏功した。無為な入院生活をメリハリの効いたそれなりに有為なものに軌道修正できた。
 以来、今日までブログの毎日更新と1日1万歩を目指した早朝ウォーキングがルーティンとしてしっかりビルトインされている。これは完全リタイヤした今の日常生活に極めて有益だったと今更ながらに思う。リタイヤ生活とは入院生活の無為の時間の経過に限りなく近いのだから。
 そんな感慨を抱きながら今朝の散歩道を歩いた。有馬川の鬱蒼としたさくら並木が初夏の爽やかさを運んでいた。側溝の縁で朝の散歩を終えたばかりの白猫がうっとりと佇んでいた。そんなようすもまたルーティンがもたらす癒しの風景だった。

独断的「朝の連ドラ・女優考」2014年06月13日

 NHKの朝の連続ドラマを欠かさず観ている。今放映中の「花子とアン」を観ながら何となくヒロイン女優の果たす役割のようなものを考えさせられた。
 はな役の吉高由里子は、文句のつけようのない美人である。そのキャラもまたいかにもお嬢様タイプにみえる。貧農の小作の娘の役どころには馴染まないような上品さが漂う。それだけにインパクトに欠けることは否めない。おそらくドラマが終わると私の記憶からはあっという間に薄れていくだろう。登場シーンは少なくても蓮子役の仲間由紀恵の方が印象が深い。
 最近の連ドラで何といってもインパクトがあったのが、「カーネーション」の糸子役の尾野真千子だった。連ドラとしては5作も前の番組だったが今尚その強烈な個性はインプットされている。
 何が違うのか。当然ながら女優としての存在感は顔立ちとともにキャラの影響も大きい。尾野真千子は吉高由里子に比べ、顔立ち、キャラともにはるかに個性的である。奈良県出身という関西人の尾野と東京都出身の吉高という出身地の違いが醸し出す雰囲気やイメージの違いはやむをえまい。それにしても尾野の持つアクの強さや毒気は女優としては強みである。その後、尾野が真木よう子と並んでダブルヒロインだったドラマ「最高の離婚」を観た。尾野の毒気がいかんなく発揮され、真木の妖しい毒気とも相まって「最高のドラマ」だった。
 ちなみに放映中のドラマで嵌っているのは「最後から二番目の恋である」。ヒロイン小泉今日子が実にいい。相方役の中井貴一との掛け合いトークは絶妙である。これも小泉今日子の独特の味わいのあるキャラに負うところが大である。彼女もまた朝の連ドラで「あまちゃん」でブレークし復活した女優である。個人的にはヒロイン天野アキ役の能年玲奈を喰っていた印象すらある。いずれにしろ数々の個性的な女優陣を輩出してきたNHKの朝の連ドラのその面での功績は大きい。