かたつむり2024年04月23日

 雨上がりの散歩道だった。住宅街のバス通りの歩道を歩いていた。濃いグレーの舗装路に淡いベージュの小さな生き物らしき物体が目に入った。全長5cmほどのカタツムリだった。丸い殻を背負ってゆっくりと這っていた。
 Wikiによると「陸貝(陸に生息する腹足類)のうち、殻のないものを大雑把に”ナメクジ”、殻を持つものを”カタツムリ”と呼ぶようだ。ナメクジとカタツムリが同族であることを初めて知った。また角のようにみえるのは触覚であり先端には目がついていることも知った。
 子どもの頃によく目にした雨の日の庭木の幹に這っているカタツムリを懐かしく思い出した。

地区社協事務局長の退任慰労会2024年04月22日

 地区社協総会が予定通り11時45分頃に無事終了した。代議員30名中23名の出席に委任状5通を加えて定足数を大幅に上回った。加えて新役員5人を加えて28人の出席者だった。2年任期の役員の改選期の総会だった。執行委員2名、役員2名の退任があった。
とりわけ組織の実務の要である事務局長の退任は惜しまれた。事務局長として4年に渡ってハードな実務を遺漏なくこなしてもらった。
 総会終了後の12時から三役6人による退任事務局長の慰労会を開催した。会場はオヤジ会の定例会場の住宅街の和食料理店だった。
 前任の事務局長が母親の介護に追われる事態となって急遽お願いした方だった。家庭の事情や本人の疲労感もあっての退任だった。三役の誰もがその卓越した手腕を評価し感謝した。
 そんな話題を交わしながら和食会席を囲みながら1時間半ばかりの懇親会を過ごした。

地区社協総会の会長メッセージ2024年04月21日

 地区社協の第29回総会が開催された。総会冒頭の会長挨拶は、組織を代表しての地域に対するメッセージと心得ている。次のようにコメントした。、
■自治会の議案書説明会の感想
 一週間前に地元台自治会の書面評決をカバーする議案書説明会に出席した。自治会が抱える課題と問題点が浮き彫りになったと思えた。ひとつは自治会の加入率低下である。10年前の80%が67%に激減している。今ひとつは、高齢化、単身化、共働きの一般化で班長選びが難航している。また自治会発足後40年を経て自治会所有建物の老朽化と維持費が増大している。加えて会員減と会費減額による収入減、年間60万円ほどの管理施設補修費等による支出増で財源問題が顕在化しつつある。
■地縁組織と志縁組織
 地域活動は、自治会に代表される地域の縁で結ばれた「地縁組織」と志で結ばれたNPO等の「志縁組織」の二つの組織で支えられている。ここにきて自治会の籤や順番で選ばれた充て職の班長の“やらされ感”と1年任期の限界が自治会機能の低下を招いている。
■地区社協の“志縁組織的機能”
 他方で地区社協は事業部活動の多様化と活性化が顕著である。その集大成として昨年11月開催の“ぬくもりフェスタ”は大盛況だった。地区社協が「志縁組織」的な性格を強めていることの現れと受止めている。
■自治会機能の脆弱化をカバーする地区社協の役割
 今後ますます高齢化、単身化、共働きによるコミュニティ機能の脆弱化の進行する。自治会機能の脆弱化をカバーする地域福祉を担う地区社協の役割が一層求められる。あらためて自治会との連携を模索しながらその役割を果たしたい。

長男の闘病記⑨死を待つだけの長男の想いは?2024年04月20日

 長男は3月10日に容体が急変し、両親と配偶者の見守る中で永眠した。2月13日に大久保病院緩和病棟に転院して約1カ月の闘病生活だった。癌の脳への転移が言葉が奪い右半身麻痺を発症させ過酷な闘病生活を強いることになった。それは両親には応答のない声掛けで見守る以外に何の手助けも叶わないという無常の面会をもたらした。
 そんな1カ月のひたすら横たわるだけの長男の姿を通して「息子は今どんな思いでこの絶望的な”今”を過ごしているのだろう」と思わずにはおれなかった。
 長男は大学卒業後の30年近くを製薬会社の営業職で過ごした。それだけに病についての造詣は深い。とりわけ直近の何年かは制癌剤を担当し癌や癌治療についての多くの知識を習得したようだ。その長男が3年前に突然自分自身のステージ4の癌罹患の現実を突きつけられた。直後の悲嘆と葛藤は想像に難くない。それでもその時期を乗り越えて以降は、冷静に病と症状の進行に向き合い、その旨両親にも伝えていた。
 ”死に至る病”という重篤な病ながら、癌の終末期医療は痛みを抑える緩和治療で穏やかに過ごせるものと思っていた。その甘い予測は「癌細胞の脳への転移」という事態が根底から覆った。言語障害と右半身麻痺が長男の心身に襲い掛かった。
 声掛に反応することもなく、視線も合わせてくれない。顔を向けた方向に虚ろな視線が空しく漂っている。それでも意識はある。時折り瞼をしばたくことで意思を伝えてくれている。コミュニケーションはできなくても意識は正常に機能している。声掛けの内容も伝わっている。言葉を返せない、意志を伝えられないということのもどかしさはどれほど絶望的な気分をもたらしていることだろう。
 なすすべもなくひたすら横たわり続け、死を待つだけの時間を持て余すばかりである。辛うじて機能が保たれている左半身で寝返りをうつことだけが与えられた精一杯の動作である。正常に機能する意識で自分の置かれた余りにも残酷な現実を受け止める他はない。息子のそうした想いを忖度した時、思わず涙ぐんでしまった。

春真っ盛り2024年04月19日

 目覚めたのは朝6時過ぎだった。いつもより1時間以上遅かった。”春眠暁を覚えず”を悟った。
 6時半頃に自宅を出て穏やかな春の気候を歩いた。最寄りの児童公園の藤棚が淡い紫に染まっていた。すぐそばのさくら並木は黄緑の葉桜に変貌していた。
 さくら並木の枝の中をメジロが飛びかっていた。過去何度もスマホのカメラでメジロを撮ろうとしたが、一度も成功したためしはない。黄緑の葉桜と同色のメジロは捉えにくく、飛翔の速さがシャッター動作を上回っている。
 名来神社方面に向かう有馬川土手道にやってきた。東側の稲田の一角がピンクに染まっていた。レンゲの花が今を盛りと咲いていた。子どもの頃に自宅裏の田圃で何度の目にした懐かしい風景だった。スマホで切り取っていると、通りがかりの30代とおぼしき女性から「レンゲがきれいに咲いてますね」と声を掛けられた。「子どもの頃の懐かしい景色を思い出します」と応じた。春の穏やかな陽気が人を寛容な気持ちにさせているようだ。

長男の闘病記⑧緩和病棟での終末期医療2024年04月18日

 2月13日に長男は明石の大久保病院緩和病棟に転院した。以来、私たち夫婦は自宅から車で45分ばかりの病院に通い10回の面会を重ねた。振り返ればそれは終末期医療と向き合う長男との最後の絆を確認する機会でもあった。面会でのエピソードを記しておこう。
 2月17日、奥さんが自宅から持参したガンダムの2体のフィギュアが収納デスクに飾られて言葉を交わせない話題となった。頷くかかぶりを頭を振るかしか意思表示できない中で、スマホのメモリ画面に機能が残っている左手の指先入力を促すが、かぶりを振るばかりでその意欲はなかった。
 2月19日、容態は安定している模様だが、手首が細くなった印象。
「痩せたようやな」と問いかえると頷く。痩せたという自覚はあるようだ。
 2月21日、前回より目で意思表示することが増えた気がする。家内が足や腕のマッサージすると嫌がる身振り。瞬間的に笑顔を見せたり声を発したような気配もある。癌センターの放射線治療後半月ほど経過し、その効果が少しあったのだろうか。
 2月26日、頭髪の左上の脱毛が目につく。反応が段々鈍くなってきた。
 2月29日、目の焦点が合いにくくなった。虚ろな表情になってきた。時に白目の半眼に。頷いたり首を振ったりする動きが殆どなくなった。辛うじて目をしばたくことで意思表示している様子。
 3月1日 長男の奥さんから以下のLINEメール。「今日、看護師さんから面会制限解除の連絡がありました。今後は土日も平日同様14時から17時の間であれば予約なしで面会可能。面会時間も30分超えても構わないし1日4人以上の面会も構わないが、1回の入室2人までは必ず守ってくださいとの事」。
 病院の面会制限解除の意味を悟った。長男の病状がいつ急変するかわからないほどに深刻化したのだろう。それはく家族の覚悟を迫るメッセージでもあった。
 3月1日、ベッドの長男は相変わらず目を合わせることもなく、虚ろな症状が目につく。声掛けに瞼の開閉で辛うじて意思表示するかのよう。
 3月4日 入室して目にしたのは自力で寝返りをしていたのか左腕を布団越しにベッドの枠に抱え込んだ姿勢で半ばうつ伏せ状態の姿だった。しきりと左手を頭や顔に当てる動作も目にした。
 3月6日 入室したらテレビがついていた。聴覚は維持されているのでテレビの音声を楽しんでいるかと思い慰められた。後で看護師さんからは刺激になるので午前中はよくテレビを付けているとのこと。看護師さんによるテレビ操作と分かった。
 面会後に合流した奥さんと娘と4人で主治医と懇談。主治医は「容体が比較的安定している」との見方。その予想外の安定ぶりに戸惑いの様子も窺えた。「1カ月前の癌センターの放射線治療の効果が出てきたのでは?」という問いに「確かにそれもあるかもしれません」と安定ぶりの根拠を得たように同調。ただ「脳への転移で怖いのはケイレン。これが脳で発症すると予断を許さなくなる」とのコメントも。
 3月8日 前回の安定ぶりは影を潜め、ぐったりと横たわる姿勢だけが目についた。振り返ればこの日が寝たきり状態ながら穏やかな姿を目にした最後の面会だった。

3年生になった花ちゃんとスマホ交流2024年04月17日

 孫娘花ちゃんが小学生になってから”じじバカ日誌”の記事更新が滞りがちである。前回の更新は昨年12月30日なので3カ月以上更新していない。
 花ちゃんはこの4月から2年生になった。共働きの母ちゃんの在宅勤務はコロナ禍明けで週2日に半減した。花ちゃんは母ちゃんの大阪勤務の週3日は学童を終えた後、自宅で1時間半ばかりをひとりで留守番をしている。
 そんな日常生活になってFaceTime(テレビ電話)でのオンライン会話もしなくなった。その代わり花ちゃんがお留守番の時にスマホで会話するようになった。花ちゃんにも子供用のスマホが渡されている。学童を終えて誰もいないお家に帰った時にばあちゃんのスマホに合図の”帰ったコール”をしてくれる。コール音が鳴るとばあちゃんのスマホのコール音をオンにしてじいちゃんも含めた会話ができるようにしている。
 今日の会話の中心は新学期のクラス分けの話題だった。親しいお友だちが一緒のクラスになるかどうかは大問題である。2年生になったばかりの花ちゃんにはクラス分けは初めての経験である。ハラハラドキドキしたクラス分けだったに違いない。仲の良かったお友だちの名前を次々にあげてその去就を教えてくれた。花ちゃんのいつにない饒舌さがクラス分けの興奮を物語っていた。

自治会総会は今年も書面評決!2024年04月16日

 在住する住宅街の自治会総会が今年も対面総会でなく書面評決による総会となった。2020年のコロナ蔓延の事態で始まって5年間に及ぶ書面評決である。昨年5月にコロナ感染が5類移行して書面評決の根拠はなくなった筈だが。会員の意向が反映し難い総会が続いている。
 昨年から議案書説明会という形で自治会員向けに現三役による意見交換会が開催されるようになった。とはいえ会員の意向で議案が修正されることはなく意見を述べるだけの場だった。ただ今年の説明会には新三役も出席したことで議案についての運用面での会員の意向が反映されることが可能となった。
 先日、その議案書説明会に出席した。午前と午後に分かれて2回開催された。午前の部は地区社協の監査と重なったので午後の部に出席した。午前の部では多くの会員が出席し白熱した議論で予定時間を1時間もオーバーしたようだ。午後の部は7名の出席で比較的穏やかな意見交換で定刻通り1時間半で終了した。
 ただ自治会執行部の書面評決にこだわる本音が窺えた。「好きで自治会役員になったわけでないという気分がある。そんな中で重箱の隅をつつくような議論はうんざりする。できるだけ簡易な形の総会で済ませたい」ということだろう。
 班長選びが難産する中で辛うじて選任された班長の負担軽減に忖度せざるをえない気分が自治会運営の要である班長会議を支配している。足元では高齢化、単身化、共働きの一般化で自治会退会が相次いでいる。それだけに地域コミュニティを維持するための丁寧な自治会運営が欠かせないが、1年で総入替えとなる我が町の自治会にはその余裕はない。
 コロナ禍の行動制限という「大義名分」が書面評決という安易な総会を生みだした。そのことで対面総会という辛うじて維持されてきた民主的運営の砦を瓦解させてしまったと思える。

長男の闘病記⑦大久保病院の緩和病棟に転院2024年04月15日

 神戸ポートアイランドの癌センターで入院治療を終えた長男は、2月13日に奥さんの付き添いで介護タクシーで自宅最寄りの明石の大久保病院に転院した。
 私たち夫婦も11時前に病院2階の緩和病棟103号室を訪ねた。18室ある緩和病棟の病室は全室個室でトイレがありゆったりしたスペースの日当たりのよい部屋だった。長男は転院直後のためか疲れた様子だが、問い掛けに頷く頻度は多く安堵した。「花ちゃんにまた来てもらう方が良いか?」という問い掛けに力強く頷いてくれたのが印象深かった。
 面会後に長男の奥さんを交えて主治医と懇談した。「今は安定した症状でも脳に転移しているのでいつ深刻な事態になるかわからないことは理解しておいて下さい。緩和病棟はホスピスの機能もあり病状が進行しても転院する必要はありません」とのこと。
 この緩和病棟でもかなり厳格な面会制限があった。入室は二人までで面会時間は1回15分以内で1日通算30分以内である。緩和病棟とはホスピスも兼ねた終末期医療の病室と言ってよい。そんな機能をもった病棟での厳格な面会制限に違和感を覚えたが如何ともしがたい。

長男の闘病記⑥癌センターでの闘病生活2024年04月14日

 長男が2月2日から13日まで神戸低侵襲がん医療センターに緊急入院した。この間、両親は3回の短時間の面会を通して長男の深刻化する病状と向き合った。面会は二人まで15分以内という制限が課せられていたことも不安を募らせた。
 2月8日に面会した際にはリハビリ中の理学療法士さん同席の面会となった。長男の顔色は前回よりも良くなっている印象で安堵したものの、相変わらず会話は困難である。理学療法士さんから「言語障害は脳神経の障害なので認知機能低下も伴うので会話内容の理解も難しくなってくるのではないか」とのこと。帰り際の両手の握手に左手だけで握り返してくれたことを慰めとするほかなかった。
 2月11日には私たち夫婦と娘を伴った妹が交互に面会した。前回より頷く反応が各段に増え4日間の放射線治療の効果を窺わせた。ベッドの上半身を上げようかとの問いかけに頷いてくれた反応が嬉しい。妹と唯一の姪である花ちゃんとの対面では涙を流したという。両親には決して見せたことのない落涙の報告に感慨深いものがあった。
 同じ日に長男の奥さんから前日の主治医との面談の報告を訊いた。「4日間5回の放射線治療は予定通り完了。効果は1ヶ月程度の観察が必要。免疫の低下があり風邪等で不測の事態を招く懸念があり、予断を許さない」とのこと。
 二日後に自宅最寄りの明石の大久保病院への転院が確定した。