弟の自分史を甥が完成させた2024年04月06日

 弟の奥さんから封筒に入った冊子が送られてきた。「自分史 無常に生きて」と題された今は亡き弟の「自分史」だった。
 双子の兄弟である私と弟は奇しくも晩年の同じ時期に自分史執筆に着手した。私の方は順調に執筆を重ね2020年3月に完成し自費出版した。弟はほぼ完成に近い段階にまでこぎつけていたが、パーキンソン病を患っていたこともあり、最後の締めくくりの執筆が叶わないまま未完のままだった。
 弟を見舞った際に、見かねて自費出版に向けて執筆済み原稿の校正を手伝うことになった。私の自叙伝は、ある編集ソフトを利用して原稿データを流し込んで編集したものだ。この処理を弟の執筆済みデータでも行なうことでほぼ完成に近い形の校正にこぎつけた。最後のまとめの原稿の執筆前に弟は死を迎え、「自分史」は日の目を見ることがなかった。
 その自分史が送られてきたのだ。差出人の添え状には、弟の長男が私が手助けした校正原稿をもとに弟のブログ記事も追加して手製の「自分史」として作成したと記されていた。手作りの自分史としては中々の出来栄えである。弟の未完の自分史が気がかりだったので、甥がそれを完成させてくれたことに感慨深いものがあった。我が子がそれを成し遂げてくれたことに誰よりも喜んでいるのは弟だろう。

出身企業同期のOB会2024年04月05日

 出身企業同期のOB会に参加した。会場の大阪なんばに久々に出かけた。地下鉄なんば駅出口の高島屋前の広場を抜けて「がんこ本店に向かった。
 昭和44年に入社した同期は69名だった。”花の44組”と称され出身企業では一大勢力を誇った。その同期たちも入社後55年を迎えた。幹事の労作の名簿によれば、物故者15名、連絡先不明者15名、欠席連絡者8名となっていた。当日の出席者は18名で参加可能な39名に対し46%の出席率だった。まずまずというところか。
 11時に宴席が始まった。乾杯の後は隣席同士で歓談した。マイカル出身の知人を含めて退職後も三人で何度か呑み交わした友人から哀しい情報がもたらされた。もうひとりの友人が末期の癌で余命いくばくもないとのこと。向かいの出席者は今も現役の社長だった。後期高齢者を超えて尚現役でいることのしんどさを吐露していた。従業員や取引先のことを考えれば辞めるに辞められないという。
 12時半頃から参加者の近況報告になった。報告の多くは本人や配偶者の病や近親者の死亡の話題だった。現役時代の懐かしい上司や同僚との思い出話も多い。中でもある参加者の亡くなったばかりの仲の良かった同期の話題の報告が共感を呼んだ。
 参加者全員の近況報告が閉会予定時刻の14時に終了した。

町内の老人会総会2024年03月27日

 この時期恒例の町内の老人会の総会に参加した。32回目を数える総会である。35名の会員の内、27名の出席があった。77%という高率の出席率である。とはいえ高齢化はどんどん進行しているが加入率は低迷している。
 2年前に初めての女性会長が誕生し、3年目を迎える新年度も引続き会長を担ってもらえるようだ。「活動報告と活動計画」「会計報告と予算」「役員改選」という定番の議案が質疑なく承認された。
 30分ばかりの総会の後は、食事を囲んだ交流会である。隣席の知人と趣味の話題で雑談を交わした。
 11時に始まった総会が12時15分に終了した。

街角で中学生に声をかけられた2024年03月08日

 いつもより遅い時間帯の早朝ウオーキングの途中だった。交差点にやってきた時、信号待ちをしていた登校中の中学生を見かけた。その中学生が私と目を合わすと、「おはようございます!」と元気よく挨拶してくれた。驚いて見詰め返した私に「〇〇です」と畳みかけられて初めて彼との関りを思いついた。
 一カ月ほど前に地元中学校の学校運営協議会主催の3年生対象の”面接練習”を担当した。その後、ちょい呑みオヤジ会のメンバーである知人の〇〇さんとコンビニで出合った。その時の雑談で息子さんが中学校の面接で私の面接を受けたと言っていたと告げられた。息子さんは地区社協の広報紙の「会長年頭所感」の記事に掲載された私の顔写真を見て面接者であることを知り父親に告げたようだ。
 お父さんからそうした経過を訊いていたので目の前の中学生が面接をしたひとりであることにハタと思いついた。「あ~面接を受けてくれたんやね。お父さんからも聞いていたよ」と返した。
 「面接練習」「ちょい呑みオヤジ会」「地区社協広報紙」「早朝ウオーキング」という私の日常生活のキーワードが見事に結びついた瞬間だった。

弟の告別式・・・若々しい遺影ときれいな死に顔。2024年03月01日

 家内と一緒に弟の告別式に参列した。開式の1時間前に東加古川大和会館に到着した。開式前の控室には遺族と親族と知人ご夫婦合わせて18人の姿があった。故人の遺言通り家族葬として営まれたため簡素な祭式となった。
 1時30分定刻に故人と懇意だった住職によって告別式が始まった。祭壇には10年ばかり前に撮られた若々しい笑顔の遺影が参列者に慰めをもたらしている。合間に参列者の焼香が促され、読経が終わった。
 棺が祭壇から降ろされ参列者の故人との最後のお別れとなった。供花の切り花を顔の横に納めた。二日前の死亡直後に弟宅で対面した時の顔は入歯も外され生前の面影からは遠いものだった。棺に眠る目前の顔は入歯も装着し薄化粧も施され遺影を偲ばせる若々しさが漂っていた。額に掌を当てて弟との最後のスキンシップを行った。遺体を覆うドライアイスがもたらす額の冷たさが否応なく弟の死の現実を突き付けた。
 親族の男性と一緒に棺を霊柩車に運び入れた。遺族用のタクシーに同乗して加古川市内唯一の斎場に向かった。市の北端の霊場の中に建つ斎場に25分程で到着した。炉の前に運ばれた棺がスライドして炉の奥に滑り込む。炉の扉が閉ざされ、故人と現世との別れ瞬間が訪れる。参会者たちと斎場の控室で雑談を交わしながら1時間半を過した。
 再び炉の前に集合した参会者たちの前に、故人が無機質な物質となって横たわっている。係員が遺骨の解説をしながら、参会者に備え付けの箸で遺骨片を骨壺に納めるように促す。「骨上げ」を終えて祭式会場に戻った。式場で同じ住職による初七日法要を兼ねた還骨法要が営まれた。
 法要を終えて参会者の皆さんと挨拶を交わして帰路に就いた。自宅に戻ったのは夜8時前だった。最も身近な肉親の双子の弟との別れの儀式を滞りなくそして感慨深く過ごした。

弟の枕頭でお参りした2024年02月28日

 深夜に弟の訃報を伝えられた翌日である。3時頃に加古川の弟宅を訪ねた。弟が懇意にしていた寺院の住職による枕経(死亡直後に故人の枕元で読むお経)に同席するためだ。併せて早目に訪問して奥さんから弟の近況や臨終の様子を教えてもらえればと思った。
 枕頭でお参りをした後、奥さんの話しを聞いた。死亡診断書の病名は「窒息死」とのこと。突然、痰が詰まった症状があった。痰をとろうとしたが叶わない。訪問看護師さんに連絡しすぐに来てもらったら救急搬送が必要とのことで救急車を呼んだ。救急隊員の心臓マッサージの甲斐なく車中で亡くなった。
 病院から退院し、念願だった在宅介護に移行して半年が経過していた。奥さんや訪問看護師さんたちの手厚い介護で心身の回復ぶりは顕著だった。寝たきり状態に近かったがデイサービスに行けるように迄回復していた。言葉も交わせるようになり一週間前には私とも携帯電話でやりとりをしたばかりだった。
 考えてみれば突然の死は本人には本望だったのかもしれない。実質的には在宅看取りだった。闘病生活を送る病人の誰もが願う在宅看取りである。しかも日々健康が回復する過程での事故にも等しい急逝だった。日々症状が悪化する過程での過酷さの中での死を思えばはるかに穏やかな死と思えた。とはいえ回復過程での急逝は介護者だった奥さんにもたらした失望は大きい。
 4時頃に住職が来訪された。15分程の読経の後で簡単な相談事を終えて帰られた。私たちの滞在中には、担当の訪問看護師さんお二人が相次いで顔を見せお別れをして頂いた。奥さんとの会話を通して手厚い介護の一端が窺えた。
 4時半頃に弟宅を辞して帰路に就いた。

突然舞い込んだ弟の訃報2024年02月27日

 深夜12時前だった。眠りから覚めて眠れないままリビングに降りてビデオを観ていた。突然スマートウオッチの振動で携帯の着信を知った。発信者は加古川の弟の奥さんだった。この時間帯の着信が不吉な予感をもたらした。すぐにスマホを手にして受信した。懸念した通り奥さんから伝えられたのは弟の訃報だった。
 弟は半年ばかりの入院生活を経て、昨年9月初めに在宅介護の生活を送っていた。退院直後は長い入院生活で足腰が虚弱化し寝たきりに近い生活で、会話もままならなかった。ところが在宅介護という好環境が徐々に心身の回復を促し、何とか意思疎通が可能な会話ができるようになった。車いすへの乗降りも可能になりデイサービスの利用が始まったばかりだった。そんな矢先の突然の訃報だった。スマホ越しの奥さんとの会話もしばしば言葉に詰まってしまった。
 二人兄弟の私にとって亡き両親に次いで最も身近な肉親の死である。それ以上に一卵性双生児の弟である。老後生活でもほぼ同時期に人生最大の大病に見舞われたり、期せずして同じ頃に自分史執筆を志したりした。通常の兄弟以上の血縁を感じさせるできごとがしばしば重なった。
 弟の面影を偲んで冥福を祈った。

出身労組のOB会2024年01月26日

 出身企業の労組OB会があった。毎年1回のこの懇親会が今や大阪に出かける唯一の機会である。今回の会場は大阪のど真ん中の法善寺門前の”CHOJIRO法善寺店”だった。地下鉄なんば駅からコテコテの大阪の横町を徒歩5分ばかり歩いて会場に到着した。
 12時開会の会場にはOB25名と現役役員6名が集った。開会挨拶で現役の労組委員長から出身企業と労組の現状が語られた。昨年の春に出身企業は同じ業種の企業にどちらかといえば吸収される形で統合され、秋には労組も合併した。厳しい環境下で後輩たちは苦難の1年を無事に乗り越えてようやくOB会を開催できる程度のゆとりができたのだろう。委員長の挨拶の後、OBを代表して私から挨拶を返し、現役の後輩たちの苦労と頑張りをねぎらった。
 30分ばかり会食しながら隣席の参加者たちと旧交を温めた。その後恒例のOBたちの近況報告になった。1分間という司会者の注文のもとで労組執行部を担った面々たちの退任後の意気盛んな活動ぶりが語られた。
 現役役員の紹介を最後に宴が終了した。その後席を移して恒例の集合写真を撮ってお開きとなる。予定時間を30分ばかりオーバーした14時半頃に会場を後にした。

幼馴染み三人の再会2024年01月15日

 幼馴染みの友人と一緒に加古川の弟を見舞った。家内の運転するマイカーでJR東加古川駅前に1時過ぎに到着した。約束の時間よりも早く到着した友人の姿があり、1時半の訪問を告げていた弟宅に少し早く着いた。
 奥さんに来訪を告げて車の駐車誘導をした後、三人で玄関先で靴を脱いだ。勝手知ったる間取りである。1階奥の弟の寝室を覗いた。奥さんが弟を抱きかかえてベッドから椅子に移しているところだった。
 ベッドの横の少し窮屈なスペースに丸椅子が2脚用意されていた。幼馴染み三人の久々の歓談の場である。私には2カ月ぶりの弟との再会だった。顔色の良さの反面、瘦せこけた頬が目についた。友人にとっては前回の中学同窓会以来4年ぶりの再会の筈である。幼馴染みたちの再会を忖度してか、奥さん二人はダイニングでお喋りしている。
 弟は会話はできるが声が小さくて聞き取りにくい。それでも時に筆談を交えて何とかおしゃべりできた。友人の近況が披露された。膀胱癌の闘病や私たち兄弟もよく知っている二人のお姉さんの消息などを聞いた。弟が社会人になって下のお姉さんと電車の中で会って声を掛けたという初めて聞く話を口にした。郷里のご近所の私たちのマドンナの話題も出て、弟と友人がそのお母さん経営のスナックに出かけたという逸話を聞かされた。やっぱり男三人の共通の話題には多少の艶っぽさは欠かせない。弟は以前やっていた塗り絵を最近復活しているということで作品も見せてくれた。
 途中、コーヒーとケーキを隣室でいただいた。その間、弟は奥さんに一日に一度のゼリー状の食品を食べさせてもらっていた。胃瘻中の弟には口から食べられる貴重な愉しみである。
 1時間半ばかり滞在してお暇することにした。弟の意向もあったようだが地元の老舗の焼き穴子と自宅庭で採れた柚子と一緒にお土産に貰った。幼馴染み三人の再会を心待ちにしていた弟の気持を窺わせた。その想いをありがたく受け止った。
 三人揃った記念のショットがスマホに残された。

かかりつけ医との交遊2024年01月13日

 処方薬が底をついてきたのでかかりつけ医を訪ねた。月1回の通院で
高血圧、高血糖値、コレステロール抑制、睡眠導入剤と四つの処方薬をお願いしている。
 8年前に山口町内で開院された時、介護関係の会合でお会いして、訪問診療をされているという情報を得た。民生委員や地区社協役員としては願ってもないクリニックである。その場で名刺交換して交遊が始まった。
 以来、個人的にもかかりつけ医として持病の処方薬をお願いするととに、社協の福祉講座でも何回か講師をお願いした。ちょい呑みオヤジ会にもお誘いしたところ快く会員になって頂き、14回参加してもらっている。
 次回のオヤジ会では先生にスピーチをお願いしている。話題になっている神戸市北区と三田市の基幹病院の統合問題や、8年目を迎えている訪問診療の現状をお話ししてもらう。
 今回の外来訪問では処方薬の更新だけでなく、手根管症候群の手術後のリハビリ等の相談もした。併せて次回オヤジ会でお願いしているスピーチの打合せもした。
 かかりつけ医との公私に渡る交遊に感謝した。