マケドニアの旧都テッサロニキ観光 ― 2008年10月12日

6日目の朝が明けた。五つ星ホテルの豪華なバイキング朝食を堪能し、出発までのたっぷりある時間を部屋でくつろぐ。
8時30分にホテルを出発し、テッサロニキの市内観光に出かける。日曜日の朝である。ラッシュアワーで渋滞する筈の市内交通が驚くほどスムーズだ。最初の訪問地は、街のシンボルとも言えるホワイトタワーだ。海岸線に残された15世紀の砦の一部である。かっては今も市の中心部に残る防壁とつながれた見張り台だったようだ。現在は海岸線沿いの遊歩道と一体となって整備された公園内に建っている。すぐそばにはアレクサンドロス大王の青銅の威風堂々の騎馬像が建ち、辺りを睥睨している。
続いてテッサロニキ考古学博物館を見学する。マケドニア地方やハルキディキ半島からの出土品を一堂に集め、マケドニア文化の粋を極めた博物館である。中庭を囲んで内側に古代マケドニアの装飾品が、外側にローマ、ビザンチン時代の出土品が展示されている。フィリップス二世の墳墓から出土した貴金属の装飾品の精密さと秀れたデザイン性は目を見晴らせられる。酒の神ディオニソスの婚姻の祝宴を表現した青銅の壷は、それが凝縮された芸術性の高い作品だった。ローマ時代の作品で個人的にひかれたのはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの彫像だった。
ギリシャ最大の教会であり世界遺産のアギオス・ディミトリオス教会を訪ねたのは、日曜の朝のミサを終えた直後だった。コンスタンチノープルがトルコ支配下でビザンチン時代の聖堂がほとんど失われたのに対して、ここテッサロニキでは当時の教会があちこちに残されている。この教会はその代表的なものであり、ビザンチン初期5世紀に建設された。1917年の火災で多くを消失したが焼け残った資材を使い再建された。ミサを終えた信者たちが次々と姿を現わす。礼服姿の多さや若者たちの姿にこの国のギリシャ正教への信仰の深さが窺われる。堂内に入り祭壇右横の入口から地下聖堂に降りる。ここは聖人の墓から流れ出た聖油が溜まっていた所と伝えられ、中央にディミトリオスが殉教前に監禁された場所とされている大理石の水盤があった。堂内に戻るとミサ直後の祭壇では赤いマントの司教が信者たちへ説諭しているかのような姿があった。その横ではガイドさんが祭壇横の柱の17世紀のモザイク画の説明をしている。信仰と観光が混在する不思議な光景だった。出口近くで二列の側廊があるバシリカ聖堂様式の堂内の全貌を眺めた。
昼食会場のレストランに向かった。途中、車窓からシャッターが、市内に残る城壁跡やガレリウスの凱旋門を捉えた。レストランはコートを囲んだ一角にあり、屋外のテラスでの昼食となった。前菜の肉団子、ズッキーニのコロッケ、ペタチーズ揚げが珍しい。
昼食後、テッサロニキを後にして一路アテネに向かう。ここでお別れの予定だったマリアばあちゃんがアテネまで同行するという。アテネ在住の息子さんを訪ねるとのこと。昼食後、コートでばあちゃんがツアーメンバーを促して手をつないでダンスを始めた。息子さんとの再会がよほど嬉しいのだろうか。ともあれバスは出発した。途中、ギリシャ最高峰2917mのオリンポス山の、頂きを霞に包まれた姿を遠望した。往路三日間をかけた道のりを一気にアテネまで引き返す行程である。高速道中心とはいえ三度のトイレ休憩を挟んだ7時間近くを要する道のりだった。休憩中、マリアばあちゃんはツアーの女性陣の人気者だ。私も一緒に写真に収まった。
7時40分にアテネのレストランに着いた。シーフードの夕食はエビ、イワシ、タコ、イカのフライだった。ところが食事中に大問題が発生した。ツアー直前から右の肩凝りがひどくなっていると言っていた家内の右手首と右肩に昨夜から湿疹が目立ってきた。食事中にツアー仲間の一人から「2週間ほど前に同じ症状で診察を受けたところヘルペスと診断された」という情報を得られたのだ。早急に治療が必要だ。幸か不幸か明日からはクルーズが始まる。船内にはドクターもいて受診可能だ。2時からの受診時間と寄港地観光が重なれば、英語が全く喋れない家内一人で受診させるわけにはいかない。クルーズ初日の寄港地ミコノス観光は断念するほかなさそうだ。9時にツアー初日と同じアテネのホテルの同じ部屋に戻った。何人かのツアー仲間が家内の病についての色々な情報を寄せてくれる。そしてここへきて持参の電子辞書が威力を発揮することになった。まずヘルペスに関する正確な知識を「新・家庭の医学」から得た。そして明日の船内ドクターに症状を説明したり、旅行保険手続きを依頼するための最低限の英会話を「英会話・Make It」の場面事例集「病院へ行く」から取得した。いずれにしても今後の海外ツアーには電子辞書は必携アイテムとなりそうだ。心配事を抱えて12時前に眠りに落ちた。
8時30分にホテルを出発し、テッサロニキの市内観光に出かける。日曜日の朝である。ラッシュアワーで渋滞する筈の市内交通が驚くほどスムーズだ。最初の訪問地は、街のシンボルとも言えるホワイトタワーだ。海岸線に残された15世紀の砦の一部である。かっては今も市の中心部に残る防壁とつながれた見張り台だったようだ。現在は海岸線沿いの遊歩道と一体となって整備された公園内に建っている。すぐそばにはアレクサンドロス大王の青銅の威風堂々の騎馬像が建ち、辺りを睥睨している。
続いてテッサロニキ考古学博物館を見学する。マケドニア地方やハルキディキ半島からの出土品を一堂に集め、マケドニア文化の粋を極めた博物館である。中庭を囲んで内側に古代マケドニアの装飾品が、外側にローマ、ビザンチン時代の出土品が展示されている。フィリップス二世の墳墓から出土した貴金属の装飾品の精密さと秀れたデザイン性は目を見晴らせられる。酒の神ディオニソスの婚姻の祝宴を表現した青銅の壷は、それが凝縮された芸術性の高い作品だった。ローマ時代の作品で個人的にひかれたのはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの彫像だった。
ギリシャ最大の教会であり世界遺産のアギオス・ディミトリオス教会を訪ねたのは、日曜の朝のミサを終えた直後だった。コンスタンチノープルがトルコ支配下でビザンチン時代の聖堂がほとんど失われたのに対して、ここテッサロニキでは当時の教会があちこちに残されている。この教会はその代表的なものであり、ビザンチン初期5世紀に建設された。1917年の火災で多くを消失したが焼け残った資材を使い再建された。ミサを終えた信者たちが次々と姿を現わす。礼服姿の多さや若者たちの姿にこの国のギリシャ正教への信仰の深さが窺われる。堂内に入り祭壇右横の入口から地下聖堂に降りる。ここは聖人の墓から流れ出た聖油が溜まっていた所と伝えられ、中央にディミトリオスが殉教前に監禁された場所とされている大理石の水盤があった。堂内に戻るとミサ直後の祭壇では赤いマントの司教が信者たちへ説諭しているかのような姿があった。その横ではガイドさんが祭壇横の柱の17世紀のモザイク画の説明をしている。信仰と観光が混在する不思議な光景だった。出口近くで二列の側廊があるバシリカ聖堂様式の堂内の全貌を眺めた。
昼食会場のレストランに向かった。途中、車窓からシャッターが、市内に残る城壁跡やガレリウスの凱旋門を捉えた。レストランはコートを囲んだ一角にあり、屋外のテラスでの昼食となった。前菜の肉団子、ズッキーニのコロッケ、ペタチーズ揚げが珍しい。
昼食後、テッサロニキを後にして一路アテネに向かう。ここでお別れの予定だったマリアばあちゃんがアテネまで同行するという。アテネ在住の息子さんを訪ねるとのこと。昼食後、コートでばあちゃんがツアーメンバーを促して手をつないでダンスを始めた。息子さんとの再会がよほど嬉しいのだろうか。ともあれバスは出発した。途中、ギリシャ最高峰2917mのオリンポス山の、頂きを霞に包まれた姿を遠望した。往路三日間をかけた道のりを一気にアテネまで引き返す行程である。高速道中心とはいえ三度のトイレ休憩を挟んだ7時間近くを要する道のりだった。休憩中、マリアばあちゃんはツアーの女性陣の人気者だ。私も一緒に写真に収まった。
7時40分にアテネのレストランに着いた。シーフードの夕食はエビ、イワシ、タコ、イカのフライだった。ところが食事中に大問題が発生した。ツアー直前から右の肩凝りがひどくなっていると言っていた家内の右手首と右肩に昨夜から湿疹が目立ってきた。食事中にツアー仲間の一人から「2週間ほど前に同じ症状で診察を受けたところヘルペスと診断された」という情報を得られたのだ。早急に治療が必要だ。幸か不幸か明日からはクルーズが始まる。船内にはドクターもいて受診可能だ。2時からの受診時間と寄港地観光が重なれば、英語が全く喋れない家内一人で受診させるわけにはいかない。クルーズ初日の寄港地ミコノス観光は断念するほかなさそうだ。9時にツアー初日と同じアテネのホテルの同じ部屋に戻った。何人かのツアー仲間が家内の病についての色々な情報を寄せてくれる。そしてここへきて持参の電子辞書が威力を発揮することになった。まずヘルペスに関する正確な知識を「新・家庭の医学」から得た。そして明日の船内ドクターに症状を説明したり、旅行保険手続きを依頼するための最低限の英会話を「英会話・Make It」の場面事例集「病院へ行く」から取得した。いずれにしても今後の海外ツアーには電子辞書は必携アイテムとなりそうだ。心配事を抱えて12時前に眠りに落ちた。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。