大阪市の労使関係の行方2015年08月18日

 大阪府労働委員会の労働者委員を退任して1年半が経過した。在任中の最も思い出深い担当事件に大阪市事件がある。橋下市長に対して大阪市の労組が不当労働行為を訴えた事件である。いくつもの訴えの内、半数以上の事件を担当した。それぞれに府労委として不当労働行為を認定する命令が出されたが、市側の中労委への再審査申し立てが行われ、結審には至らないまま退任した。
 先日、大阪市の労組の府労委申立ての事件担当者から、その後の労働委員会や裁判での審議の経過を伝えるメールを頂いた。上級審でも概ね労組側の主張が認められ、市に対して不当労働行為の救済命令が出されている。その報告を読みながら、今後の大阪市の労使関係の在り方について以下の感想を抱いた。
 ひとつは、今回の一連の橋下市長による不当労働行為を労組としてどのように「糧」とするかということだ。市長選で圧倒的な支持を得た彼の攻めのポイントは徹底して市民感情に訴えるものだった。それは永年に渡るそれまでの市と労組との安定しすぎた?信頼関係の脆さを突いたと思えた。ポスト橋下の市政において、労使がそれぞれの立場を堅持して毅然とした緊張感のある関係を、いかに構築するかということこそが問われるのではないだろうか。
 今ひとつは、裁判・労働委員会闘争の限界をどのように乗り越えられるかという点である。今回の一連の事件解決に向けた裁判・労働委員会闘争の意義を過小評価するつもりはない。ただ反面でそれらが最終的判断を第三者の法律家に委ねざるをえないことから、労働運動本来の原点である現場・職場の「想い」から遊離した法的論理性を重視せざるをえないのも現実だ。現場組合員たちにとっては自ら関わることの少ない第三者的な取組みとならざるをえない。法的闘いを有利な形で終止符を打ちつつある今こそ、その限界を見極めた上で、それを本来の現場運動にどのように折り込みながら乗り越えられるだろうか。
 この間の異常な労使関係がもたらした現場の荒廃や労組活動の停滞は想像に難くない。法的闘いの有利な流れを、労組本来の運動にどう転化し、新たな労使の緊張感のある信頼関係をどう築けるかが問われている。

なにわ会(大阪府労働委員会・現役&OB懇親会)2015年05月28日

 昨晩、大阪府労働委員会の現役委員とOBとの懇親会「なにわ会」が開催された。昨年春に労働者委員の任期を終えたばかりの新人?OBである。まだ顔馴染みの出席者も多い筈ということもあり出席した。
 会場の大阪府立労働センター10階ホールには現役、OBそれぞれ約20名が顔を揃えた。出席の労働者委員OB9名の内6名は任期が重なる面識のあるメンバーだった。公益委員OBの内お二人は任期中に会長を務められ担当事件を通して比較的懇意だった弁護士さんである。
 乾杯の後、そのお二人と言葉を交わした。何といっても共通の話題は都構想否決という住民投票についての感想だった。その背景には橋下大阪市長に対する一連の不当労働行為の申立てが府労委に行われたということがある。
 お一人は、その最初の事件である職員アンケート事件について府労委の実行確保の命令を出した際の会長である。それは、向かうところ敵なしの破竹の勢いだった2012年初旬の橋下市長に初めて発せられた公的なNGでもあった。もうひとりの方は、その直後に会長に就任しその後の一連の申立てを一手に受けることになった方である。その後の一連の申立てはことごとく不当労働行為が認定され救済命令が発せられた。上級審である中労委でも府労委判断の支持が相次いでいる。
 私自身も一連の事件の半数以上を労働者委員として関与した。最初の職員アンケートの実行確保の命令についても意見書でその不当性を訴えた。そんな共通の体験が労働委員会という場を離れても橋下市政の動向についての関心を共有している。労使関係の実態や法的な正当性に照らしても府労委の判断に確信を持っていることでも共有している。それだけに都構想否決という事態にお互いに安堵し合ったことは言うまでもない。

出身労組の顧問という役割2014年09月26日

 7年前に出身企業労組の顧問という立場で大阪府労働委員会労働者委員に就任して以来、労組の定期大会に毎年出席し10分程度の活動報告をしてきた。今年2月末に労働者委員を退任したが、引き続き顧問という立場で大会で報告してもらいたいと労組からの要請があった。そんなわけで昨日の午後、大阪弁天町のホテルで開催た出身労組の大会に出席した。
 130名ほどの代議員を前に、次のような二つの点を述べた。
 ひとつは6年間の労働者委員の任期を終えた感想である。就任中64件の事件を担当した中で橋下大阪市長による職員アンケート事件等の大阪市事件の感想をコメントした。昨今の新自由主義的風潮が労働市場でより自由な取引を求めて規制緩和や労使慣行見直しを迫っている。労働法令順守の砦として労働委員会はそうした流れに毅然たる対応が求められている。一連の大阪市事件で大阪府労働委員会が不当労働行為を認定し救済命令を出したことに応分の役割を担った立場から達成感を覚えている。
 今ひとつはリタイヤ直前から就任した民生委員の役割を通じた7年間に渡る地域活動の報告である。地域の高齢化が加速化し、2025年問題を10年後に控え、見守り、困り事支援、医療、介護等の高齢者ケアの地域での環境づくりが緊急のテーマになっている。出席代議員にも大勢いるはずの40歳過ぎの団塊ジュニアの皆さんの両親の深刻な介護問題でもある。相互扶助の組織という労組の立場からも地域活動や高齢化問題にぜひ目を向けて対応に着手してもらいたい。
 労組執行部から、今後顧問の役割をあらためて検討したいとの意向が伝えられている。課題を媒介として出身労組との関わりが継続されるのであればそれは貴重なパイプとなる。地域活動や高齢者問題という分野は、顧問という立場からの情報提供や提案の主要なテーマと言える。

中労委命令「大阪市の職員アンケートは不当労働行為」2014年06月28日

 今朝の新聞で注目すべき記事を読んだ。「中央労働委員会が27日、大阪市が橋下徹市長の意向で実施した組合活動に関する職員アンケートを不当労働行為と認定し、労使関係の改善を市に命令した」というものだ。
 2012年2月に橋下市長の業務命令で職員を対象に政治活動や労働組合へのかかわりを問うアンケートが実施された。このアンケートについての労組の大阪府労委への不当労働行為の申立ては、昨年3月に不当労働行為と認定された。これに対し大阪市が中労委に再審査を申し立てていたが、このほど上記の中労委判断が下された。 
 2008年から6年間、大阪府労働委員会の労働者委員を委嘱された。上記の職員アンケート事件は3期目(5年目)の再任直後に発生し関与した。労働者委員を退任した今も、思い出深い印象的な事件である。今回、大阪府労委の判断が中労委でも支持され、「市には組合を弱体化する意図があったと推認できる」と府労委命令よりも踏み込んだ判断が示されたという。労働者委員OBにもたらされた朗報を喜んだ。

位打ち2014年05月31日

 先日、2カ月振りに労働委員会委員OBの現役委員との懇親会に参加した。受付を済ませた後、労働委員会事務局スタッフから大きな紙バックが渡された。中には長さ50cm近い丸筒と10cm足らずの四角い箱が入っていた。「労働委員会委員退任に伴って厚労省から送ってきた感謝状と記念品です」との口上だった。
 帰宅して開封した。新聞紙1頁ほどの大きな感謝状には、厚生労働大臣名で「6年間の労働委員会委員在任による労働委員会制度の発展への貢献とねぎらい」の言葉が記されていた。記念品は桐の箱に入った直径6cmの銀杯だった。
 いかにもお役所風の大仰で形式ばったものだった。ねぎらいの根拠は労働委員会委員という公職の在任でありその期間だった。貢献の中身や活動の評価とは無縁である。おそらく在任期間の長さに応じて記念品も異なるのだろう。6年間の労働者委員の在任の証に違いない。その感謝状と記念品を醒めた気分で眺めながら、自分が過ごした委員生活の実感とどこかこ違うような気がした。
 公職の在任や期間を目安に褒賞制度が組み立てられているようだ。それは煎じ詰めれば公職者であるお役人たちの価値観に彩られた仕組みのようにも思える。ふと「位打ち」という言葉が浮かんだ。中世に財力も武力も持たない朝廷が駆使した手法のひとつに「位打ち」というものがあったそうな。分不相応な位を与えて自滅を誘うという手法である。

労働委員会の現役・OB懇親会2014年05月29日

 2カ月振りの大阪だった。JR大阪駅南口前の広場には初夏の解放感が溢れていた。夕方5時過ぎながら汗ばむ陽気の中で闊歩する若い女性たちの剥き出しの素肌がまぶしかった。山口町の街並では決して見ることのないその光景に久々の大阪を思い知らされた。
 大阪府労働委員会の現役委員とOBの年1回の懇親会「なにわ会」の日だった。労働委員会事務局のある府立労働センター10階広間が恒例の会場である。過去6回、現役委員として参加したが、今回はOBとなって初めての参加だった。
 早目に到着し受付で会費を払って、渡された参加者名簿を見ながら6時の開会を待った。現役委員24名、OB15名の参加のようだ。OBの参加の少なさが気になった。
 挨拶、乾杯の後、小皿に取り分けたバイキング料理を味わいながら任期中に懇意にしていた参加者たちと杯を酌み交わした。歓談しながら気がついた。現役委員の半数以上は今期就任したばかりの馴染みのない委員である。退任時期が経過に応じて面識のある参加者は少なくなる。参加しているOBたちも直近の退任者が大半である。懇意な参加者との旧交を温められるからこそ参加する。
 現役時代も歓談の対象は日頃話せる機会の少ない公益委員や使用者委員がメインだった。現役としての委員活動の円滑な人間関係づくりを意図していたことは否めない。OBになった今、そうした動機も薄れている。
 こうした気分もOBになってはじめて実感するものだ。次回参加のためらいを抱きながら会場を後にした。

ユニトピアささやまの最後の歓送迎会2014年03月30日

 一昨日の夕方から昨日朝まで、労働委員会労働者委員の新旧委員の歓送迎会があった。任期満了のつど2年に一回ユニトピアささやまで開催される。懇親を兼ねて一泊で開催されるのが恒例である。今回も、午後6時の開宴に間に合うようJR篠山駅口に向かった。篠山駅からユニトピアの送迎バスに4人の同僚たちと乗車した。
 開宴となった。料理はいつものように篠山名物の牡丹鍋である。今回は11人の委員の内、私も含めて6名が退任した。乾杯の後、退任役員から順番に自己紹介を兼ねた全員のスピーチがある。2番目に話をした。労働委員会の歓送迎会で指名されて挨拶した時は、時間の制約や会の雰囲気を考えて短時間の受け狙いも含めた挨拶をしたが、この場では新人6名の皆さんに率直に想いを伝えておきたいと思い、次のような話をした。
 「退任に当たり直球を投げさせてもらいます。6年間やってみて結局これがポイントだったという点があります。それは審査事件の命令交付に向けて意見書は出すべきであるということです。私自身は担当した全事件について提出しました。おかげで労働委員会の役割、機能、労働者委員の立場や任務が整理され、理解が深まったと思います。意見書とは何か。この事件をどう捉えたか。この事件での命令はどうあるべきか。そもそも労働者委員は審査事件でどんな役割を果たすのか。労働委員会の機能や役割とは何か。そんなことが意見書と向き合い、考えることで次々に問題意識にのぼります。ぜひ意見書は書いてください」。以降、比較的まじめで硬派なスピーチが続いた。
 8時半頃からカラオケルームに席を移した。冒頭に、労働委員会歓送迎会でのスピーチで「心残りだったのは、替え歌を披露できなかったこと」と喋ったのを覚えていた同僚たちから、早速替え歌を披露するよう求められた。素直にお受けして一番バッターで唄い、心残りを帳消しした。カラオケの伴奏を耳にしながら新人の皆さんとも打ち解けて懇談した。
 翌朝5時には目が覚めた。6時に大浴場の朝風呂に浸かった後、本館前の矢代湖を周回する遊歩道を散策した。7時の朝食ビュッフェを堪能して、8時の送迎バスに送られておそらく最後になるだろうユニトピアささやまを後にした。

労働委員会歓送迎会2014年03月27日

 昨日の夜、大阪府労働委員会の歓送迎会があった。いつものように地下鉄の東梅田駅から谷町線に乗り込んだ。6年間、月6~7回は利用した路線である。もうしばらくは乗ることもないな~と、少しばかり感傷に耽りながら電車の揺れに身を任せた。谷町四丁目駅で下車し、会場のシティープラザ大阪に向かった。
 ゆとりをもって出た筈だが、会場に到着したのは開会5分前だった。既に会場にはほとんどの出席者の姿があった。開会を兼ねて新任の府労委会長の多少緊張気味の挨拶があった。続いて退任委員の挨拶である。公労使合わせて33名の委員の内、半数近くが退任した。労働者委員も11名中6名もの退任である。退任挨拶は公労使それぞれの代表1名ずつが指名された。公益委員代表で前会長が挨拶した後、労働者委員代表で登壇した。
 事前に打診されていたこともあり、あらかじめ内容を想定しておいた。前半と後半に分けて、前半は労働者委員として貴重な経験だった大阪市事件についての所感を述べ、後半は労働者委員をテーマにした自作の替え歌を披露できなかったことが唯一の心残りだと、ウケ狙いで次のように結んだ。「替え歌は、労働者委員としての悲哀と喜びを詩情豊かに切々と謳い上げた会心作です。河島英五の『酒と涙と男と女』の替え歌で、題して『調査と審問と和解と斡旋』です」。ちなみにこの替え歌のことはこのブログで2年前に記事にした。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/06/12/6477191
 挨拶が終わり、知事名のありがたい?感謝状が退任者に贈られた後、懇親会に移った。6年間で54件もの事件を担当した。事件ごとに公労使の3人がチームを組んで審査や調整を行う。入れ替わりはあるものの立場の違いを超えて多くの委員との交流が生まれた。立食形式の懇親会はそうした方々との思い出を語り、想いを述べ合う場でもあった。1時間半の懇親会を終えて、しばらくは乗ることのない谷町線最寄り駅に向かった。

労働委員会最後の日2014年02月28日

 昨日、労働委員会の担当事件の調査に出かけた。3期6年を務めた労働者委員としての最後の日だった。
 担当事件の公益委員と使用者委員は、ある事件で共に汗を掻き合ったメンバーである。事件そのものはどう見ても和解可能な事案だった。ところがボタンの掛け違いが多く、当事者間の感情的なもつれもあり、中々和解の環境が整わない。労使の参与委員は、それぞれの立場から委員会以外の場でもそれぞれの調整に努めた。結果的に、タイムリミット直前に和解にこぎつけた。就任6年間で担当した審査事件の中でも印象深い事件のひとつだった。これぞ労働委員会ならではの解決という達成感のある事件だった。
 昨日、そんなメンバーだった公労使の三人で雑談した。お互いに印象深いやりがいのある事件だったという想いも共有した。労働委員会最後の日の担当事件が奇しくもその時のメンバーだったことを嬉しく受け止めた。

労働委員会6年間の活動実績2014年02月16日

 先日、労働委員会の定例会に出席した際に、事務局に依頼して私が担当した事件の全データを頂いた。自分なりに6年間の活動実績を整理しておきたいと思ったからだ。
 担当した事件の総数は54件である。年間平均担当数は9件となる。その内、不当労働行為か否かを調査し判断する審査事件は41件である。審査事件の内、終結した事件が35件、命令交付準備中が1件、調査中が5件であり、この5件が積み残されて後任委員に引き継がれる。終結した35件の内、17件が命令公布され、11件が審査中に和解に至り、7件が取り下げられた。命令公布された事件の内、全部ないし一部救済されたのが10件、棄却ないし却下されたのが7件である。終結事件の内、労働者委員として深く関わり、和解に至った事件が31%を占める。命令交付された事件の内、何らかの形で救済された事件が59%を占める。
 労働者委員として深く関与して事件を斡旋・調整し和解を目指す調整事件を13件担当した。内、11件が労組と使用者間の集団紛争であり、2件が労働者個人と使用者間の個別紛争である。13件中10件が和解に至り、3件が斡旋打切りになった。77%の解決率はまずまずの結果と思えた。
 以上、今回は6年間のまとめをデータ中心に試みた。あらためて労働者委員としての6年間の個人的な想いを含めた総括を試みたい。