長男の闘病記⑨死を待つだけの長男の想いは?2024年04月20日

 長男は3月10日に容体が急変し、両親と配偶者の見守る中で永眠した。2月13日に大久保病院緩和病棟に転院して約1カ月の闘病生活だった。癌の脳への転移が言葉が奪い右半身麻痺を発症させ過酷な闘病生活を強いることになった。それは両親には応答のない声掛けで見守る以外に何の手助けも叶わないという無常の面会をもたらした。
 そんな1カ月のひたすら横たわるだけの長男の姿を通して「息子は今どんな思いでこの絶望的な”今”を過ごしているのだろう」と思わずにはおれなかった。
 長男は大学卒業後の30年近くを製薬会社の営業職で過ごした。それだけに病についての造詣は深い。とりわけ直近の何年かは制癌剤を担当し癌や癌治療についての多くの知識を習得したようだ。その長男が3年前に突然自分自身のステージ4の癌罹患の現実を突きつけられた。直後の悲嘆と葛藤は想像に難くない。それでもその時期を乗り越えて以降は、冷静に病と症状の進行に向き合い、その旨両親にも伝えていた。
 ”死に至る病”という重篤な病ながら、癌の終末期医療は痛みを抑える緩和治療で穏やかに過ごせるものと思っていた。その甘い予測は「癌細胞の脳への転移」という事態が根底から覆った。言語障害と右半身麻痺が長男の心身に襲い掛かった。
 声掛に反応することもなく、視線も合わせてくれない。顔を向けた方向に虚ろな視線が空しく漂っている。それでも意識はある。時折り瞼をしばたくことで意思を伝えてくれている。コミュニケーションはできなくても意識は正常に機能している。声掛けの内容も伝わっている。言葉を返せない、意志を伝えられないということのもどかしさはどれほど絶望的な気分をもたらしていることだろう。
 なすすべもなくひたすら横たわり続け、死を待つだけの時間を持て余すばかりである。辛うじて機能が保たれている左半身で寝返りをうつことだけが与えられた精一杯の動作である。正常に機能する意識で自分の置かれた余りにも残酷な現実を受け止める他はない。息子のそうした想いを忖度した時、思わず涙ぐんでしまった。

長男の闘病記⑧緩和病棟での終末期医療2024年04月18日

 2月13日に長男は明石の大久保病院緩和病棟に転院した。以来、私たち夫婦は自宅から車で45分ばかりの病院に通い10回の面会を重ねた。振り返ればそれは終末期医療と向き合う長男との最後の絆を確認する機会でもあった。面会でのエピソードを記しておこう。
 2月17日、奥さんが自宅から持参したガンダムの2体のフィギュアが収納デスクに飾られて言葉を交わせない話題となった。頷くかかぶりを頭を振るかしか意思表示できない中で、スマホのメモリ画面に機能が残っている左手の指先入力を促すが、かぶりを振るばかりでその意欲はなかった。
 2月19日、容態は安定している模様だが、手首が細くなった印象。
「痩せたようやな」と問いかえると頷く。痩せたという自覚はあるようだ。
 2月21日、前回より目で意思表示することが増えた気がする。家内が足や腕のマッサージすると嫌がる身振り。瞬間的に笑顔を見せたり声を発したような気配もある。癌センターの放射線治療後半月ほど経過し、その効果が少しあったのだろうか。
 2月26日、頭髪の左上の脱毛が目につく。反応が段々鈍くなってきた。
 2月29日、目の焦点が合いにくくなった。虚ろな表情になってきた。時に白目の半眼に。頷いたり首を振ったりする動きが殆どなくなった。辛うじて目をしばたくことで意思表示している様子。
 3月1日 長男の奥さんから以下のLINEメール。「今日、看護師さんから面会制限解除の連絡がありました。今後は土日も平日同様14時から17時の間であれば予約なしで面会可能。面会時間も30分超えても構わないし1日4人以上の面会も構わないが、1回の入室2人までは必ず守ってくださいとの事」。
 病院の面会制限解除の意味を悟った。長男の病状がいつ急変するかわからないほどに深刻化したのだろう。それはく家族の覚悟を迫るメッセージでもあった。
 3月1日、ベッドの長男は相変わらず目を合わせることもなく、虚ろな症状が目につく。声掛けに瞼の開閉で辛うじて意思表示するかのよう。
 3月4日 入室して目にしたのは自力で寝返りをしていたのか左腕を布団越しにベッドの枠に抱え込んだ姿勢で半ばうつ伏せ状態の姿だった。しきりと左手を頭や顔に当てる動作も目にした。
 3月6日 入室したらテレビがついていた。聴覚は維持されているのでテレビの音声を楽しんでいるかと思い慰められた。後で看護師さんからは刺激になるので午前中はよくテレビを付けているとのこと。看護師さんによるテレビ操作と分かった。
 面会後に合流した奥さんと娘と4人で主治医と懇談。主治医は「容体が比較的安定している」との見方。その予想外の安定ぶりに戸惑いの様子も窺えた。「1カ月前の癌センターの放射線治療の効果が出てきたのでは?」という問いに「確かにそれもあるかもしれません」と安定ぶりの根拠を得たように同調。ただ「脳への転移で怖いのはケイレン。これが脳で発症すると予断を許さなくなる」とのコメントも。
 3月8日 前回の安定ぶりは影を潜め、ぐったりと横たわる姿勢だけが目についた。振り返ればこの日が寝たきり状態ながら穏やかな姿を目にした最後の面会だった。

長男の闘病記⑦大久保病院の緩和病棟に転院2024年04月15日

 神戸ポートアイランドの癌センターで入院治療を終えた長男は、2月13日に奥さんの付き添いで介護タクシーで自宅最寄りの明石の大久保病院に転院した。
 私たち夫婦も11時前に病院2階の緩和病棟103号室を訪ねた。18室ある緩和病棟の病室は全室個室でトイレがありゆったりしたスペースの日当たりのよい部屋だった。長男は転院直後のためか疲れた様子だが、問い掛けに頷く頻度は多く安堵した。「花ちゃんにまた来てもらう方が良いか?」という問い掛けに力強く頷いてくれたのが印象深かった。
 面会後に長男の奥さんを交えて主治医と懇談した。「今は安定した症状でも脳に転移しているのでいつ深刻な事態になるかわからないことは理解しておいて下さい。緩和病棟はホスピスの機能もあり病状が進行しても転院する必要はありません」とのこと。
 この緩和病棟でもかなり厳格な面会制限があった。入室は二人までで面会時間は1回15分以内で1日通算30分以内である。緩和病棟とはホスピスも兼ねた終末期医療の病室と言ってよい。そんな機能をもった病棟での厳格な面会制限に違和感を覚えたが如何ともしがたい。

長男の闘病記⑥癌センターでの闘病生活2024年04月14日

 長男が2月2日から13日まで神戸低侵襲がん医療センターに緊急入院した。この間、両親は3回の短時間の面会を通して長男の深刻化する病状と向き合った。面会は二人まで15分以内という制限が課せられていたことも不安を募らせた。
 2月8日に面会した際にはリハビリ中の理学療法士さん同席の面会となった。長男の顔色は前回よりも良くなっている印象で安堵したものの、相変わらず会話は困難である。理学療法士さんから「言語障害は脳神経の障害なので認知機能低下も伴うので会話内容の理解も難しくなってくるのではないか」とのこと。帰り際の両手の握手に左手だけで握り返してくれたことを慰めとするほかなかった。
 2月11日には私たち夫婦と娘を伴った妹が交互に面会した。前回より頷く反応が各段に増え4日間の放射線治療の効果を窺わせた。ベッドの上半身を上げようかとの問いかけに頷いてくれた反応が嬉しい。妹と唯一の姪である花ちゃんとの対面では涙を流したという。両親には決して見せたことのない落涙の報告に感慨深いものがあった。
 同じ日に長男の奥さんから前日の主治医との面談の報告を訊いた。「4日間5回の放射線治療は予定通り完了。効果は1ヶ月程度の観察が必要。免疫の低下があり風邪等で不測の事態を招く懸念があり、予断を許さない」とのこと。
 二日後に自宅最寄りの明石の大久保病院への転院が確定した。

長男の闘病記⑤脳への転移と癌センターに緊急入院2024年04月11日

 2024年1月28日に長男夫婦が来訪した。前日に「会って話したいことがある」と連絡があり、不安を抱えて待ち受けた。10時頃から昼食を挟んで12時半頃までの滞在中に伝えられたのは次のような病状に関わる想定外の深刻な情報だった。
 「1月24日の東京出張の会議中に気分が悪くなり、病院で緊急診断を受けた。癌の脳転移の懸念が告げられ、上司や同僚の助けを借りて何とか帰宅した。翌日明石の大久保病院で検査を受け、癌細胞の脳への4カ所の転移が告げられた。治療についてはポ―トアイランドの神戸低侵襲がん医療センターを紹介された。26日の癌センターでの診断で29日の再検査と2月2日からの放射線治療を予約した」
 以上の経過の多くは長男に代わって奥さんから伝えられた。長男は脳転移のため吐き気や言語障害が症状がありコミュニケーションが困難になっていたためだ。
 2月3日16時に前日から入院している長男の面会のため神戸の癌センターを訪ねた。面会は二人まで15分以内と制限されている。個室のベッドに横たわる長男の姿に愕然とした。右半身麻痺の寝たきり状態である。言語障害で言葉を交わすことも叶わない。6日前に我が家に来訪した時との様変わりした姿に脳への転移の深刻さと過酷さを思い知らされた。帰り際に左手を握りしめた時、握り返してくれたことが唯一の慰めだった。

長男の闘病記④抗癌剤投薬の最後の選択肢2024年04月07日

 長男の癌治療は病状に応じた抗癌剤投与で続けられていた。日常生活は表面的には穏やかに推移していたようだ。
 2023年3月には担当エリアが愛知県エリアから兵庫県エリアに移ったことから住まいも購入済だった明石の戸建て住宅に転居した。念願だった”海の見える我が家”での生活が始まった。その年の6月には社内の成績優秀者の褒賞でドイツへの研修を兼ねた旅行に派遣された。重篤な病を抱えての海外旅行によくぞ会社も認めてくれたものだと感嘆すると同時に、長男の病を抱えながらも表彰されるほどの優秀な業務成績を残したことに感服した。
 2023年の11月に久々に長男が独りで来訪した。近所の三田屋でステーキランチをご馳走してくれた。ランチをしながらあらたまった様子で緊張気味の両親に来意を告げた。現在投薬中の抗癌剤が治療の最後の選択肢であること、そうした状況なので自分なりに遺言書を整理しているが、実家の持ち家処分は長男としての責務なのでその対応は念頭に置いているということだった。
 病状の進行は予測していたとはいえ、あらためて本人から最終段階の病状という深刻な事態を告げられ、少なからず動揺した。今の抗癌剤の効果がなくなれば後は緩和治療という終末期医療に移行するしかないことも知らされた。
 その数日後、長男に以下のメールを送信した。
 「先日は久々に帰省してくれてありがとう。本当に久しぶりの三田屋のステーキランチを美味しく味わいました。ごちそうさま。あなたが自分の苛酷な現実と正面から向き合い、冷静に対応していることがよくわかりました。実家処分の際の長男としての過分の心遣いにも言葉にできないほど有難く受け止めました。本来、父母が子どもたちに伝えるべき遺産問題を息子から伝えられることの哀しさは否定できませんが・・・。現在処方されている投薬が最後の処方薬ということの深刻さに動揺を抑えきれません。残された限られた時間の幾分かでも両親と過ごすことを考えてもらえることを願っています。」

長男の闘病記③発症後の両親との会食2024年04月02日

 長男の直腸癌発症後に、長男夫婦は私たち夫婦を二度会食に誘ってくれた。
 最初は2020年10月の名古屋の熱田神社門前の「ひつまぶし」の昼食だった。当時長男は5月に外資系製薬会社という同じ業界で三度目の転職をして名古屋市内に住んでいた。8月に発症が判明し、9月に手術と入院を終えたばかりだった。退院1カ月後の精神的にも安定した時期の招待だった。
 二度目は2021年12月の明石市内の寿司店での「焼き穴子丼」の昼食だった。当時長男夫婦は、明石の海岸近くに戸建ての新居を購入していた。「海の見える家」を長男のかねてからの念願だった。名古屋市内の自宅から週末のセカンド・ハウスとして訪れていた。昼食後に私たち夫婦も初めて新居に招待された。
 長男との別れから20日余りが経った。今あらためて発病後の長男夫婦との水入らずの楽しかった会食の思い出が蘇る。

長男の闘病記➁手術と治療2024年03月28日

 長男は大学を卒業後、外資系の大手製薬会社に就職した。営業職(MR)の転勤族として全国各地で勤務した。二度の転職を重ね、癌の発症は3度目の会社に転職して3カ月後の名古屋勤務の時だった。
 奇しくも直前の会社での担当は抗癌剤の担当だった。それだけに癌についての知識にも精通していたようだ。発症後はステージに応じた抗癌剤の選択肢がどれだけあるかが生存期間の決め手であることも承知してた。
 2020年8月の発症直後から3週間毎の抗癌剤投与の通院が始まった。コロナ禍で在宅勤務が多くなったことも幸いした。9月半ばから末まで手術のため入院し、人工肛門も受け入れた。
 闘病しながらのビジネスライフという苦難の日常生活を坦々と受入れていたように見えた。親として何の手助けもできないもどかしさが募った。

長男の闘病記①直腸癌の発症判明2024年03月24日

 長男が亡くなって2週間が過ぎた。時折り緩和病棟に見舞った時の長男の過酷な闘病の姿を思い出しては胸を詰まらせている。それでも地区社協の総会を控えた慌ただしさが悲しみを忘れさせてくれている。
 長男の”死に至る病”が判明したのは4年前の2000年8月だった。日頃連絡の少ない長男から突然、携帯に連絡が入った。「突然やけど癌になったことが分かった。ステージ4の直腸癌や!」。とんでもない残酷な知らせを告げる長男の口調は至って冷静だった。両親に告げる迄の過程で思い切り絶望し苦闘したことだろう。過酷な現実を受け止めた果ての両親への坦々とした口調の連絡が、それまでの苦悩を偲ばせた。
 以来、3年8カ月の闘病生活を過ごしてこの世を去った。生存中は「自分の闘病を公にしてほしくない」というのが故人の意向だった。そのためこのブログでも記事にすることはなかった。ただ闘病の節々で父親としての想いを吐露したいことも多々あった。
 2週間を経て、あらためて「長男の闘病記」を綴っておきたいという気持ちが宿った。追憶と祈りを込めて3年8カ月を辿ってみたい。

がん家系?2024年03月19日

 長男の看取りから祭式に至る過程で、家内と娘の会話の機会が多かったようだ。会話の中で「がん家系」ということが話題になったという。我が家は父母と長男長女の4人家族である。その4人の内3人までが癌に罹患した。私の皮膚癌、家内の乳癌、そして長男の直腸癌である。唯一娘だけが罹患していない。
 そんなことから娘はいつ罹患するかもしれないという不安を抱いているようだ。それだけに娘は年一回の乳癌検査を欠かさない。それはそれで良いことだ。
 巷に「がん家系」という言葉がある。家内から娘との前述の話題を訊いて、ネットで調べてみた。、日本人を対象として、がんの家族がいる人のがんの発症リスクを調査した大規模な研究結果が報告されていた。それによると「すべてのタイプのがんの解析で『がん家族歴がある』グループのほうが、『家族歴がない』グループに比べ、がんになるリスクが11%高いという結果があり、『がん家族歴がある』グループはたしかにリスクは増えるが、1割程度というのはそれほど高くないという印象」とのことだ。