差別用語について考えさせられた2012年09月27日

 昨日、西同協社会教育部会に出席した。今回は「ワークショップ(参加体験型学習)で学ぶ人権教育」ということで、グループに分かれての演習だった。30数名の参加者を対象に今津小学校の女性教諭のレクチャーと指導で2時間余りを過ごした。
 興味深かったのは、差別用語についてのグループ討論だった。「片手落ち」「めくら判」「日本のチベット」「天才とキチガイは紙一重」などの用語について、何が差別なのか、どんな時に使ってしまうか、使った人にどんな風に指摘するかなどについて話し合った。なるほどと思ったのは「アメリカ大陸発見」という言葉だった。最初はこの言葉のどこが差別なのか分からなかった。よく考えると、アメリカ大陸は発見される前から存在したし、そこには先住民も住んでいた。当時の先進国を自負したヨーロッパ人たちにとっての「発見」だった。先住民からすれば馬鹿にされ傷つけられる用語にちがいない。これも「何が差別か」という意識で考えた時に初めて理解できわけで、この点こそが大切なのだろう。
 ことほどさように、自分自身も普段何気なく使っている言葉に誰かを傷つける用語があるかもしれない。グループのあるお母さんの発言は貴重だった。「子供に言われたことだが、ハーフという言い方は良くない、ダブルというべきだと」。なるほど、この違いは二つの民族の半分ずつを受け継いでいるということでなく、両方を受け継いでいるという解釈の違いになる。同じ事象でも表現によってこれほどの差が出る。傷つける表現よりも敬意をこめた表現がはるかに望ましい。
 「人を傷つけないこと、人が人として尊重されること」という人権教育の基本を噛みしめながら、ふと最近の中国や韓国の日本バッシングのことを思った。メディアから流れる過激な映像を目にした時、中国人や韓国人を非難のまなざしで眺めてしまう。良く考えれば、国家という仕組みや国家が行った教育が、一部の国民にああした行動を取らせていることに思い至る。国家やその指導層への非難はありえても、一人一人の国民に対する感情的な非難は筋違いと言える。メディアの表面的な国民感情に迎合した報道ぶりをあらためて危惧した。

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