山本周五郎著「小説・日本婦道記」2010年09月21日

 山本周五郎の「小説・日本婦道記」を読んだ。この作品は作者が39歳から43歳までに渡って執筆された読切りの短編連作で、初期の代表作と目されているようだ。実際に読み始めて一気に読まされてしまう魅力ある作品ばかりだ。どちらかといえば長編好みの私にとっても短編の魅力を存分に教えられた作品群だった。
 とりわけ第1作の「松の花」は衝撃的な感動をもたらした。千石取りの大身で御勝手がかりの煩務を勤め上げた紀州の老職・藤右衛門夫人・やす女の物語である。妻の死の直後、藤右衛門は夜具から少しこぼれた妻の手をなおそうと握った時、その手が思いのほか荒れてざらついていたのに気づく。やす女の初七日法会を終えた夜、妻に仕えた女房たちに形見分けが行われる。婢頭が並べたやす女の衣類はどれも着古した木綿物ばかりだった。女房たちに婢頭が告げる。「私たちの祝儀不祝儀に奥さまから頂いたものはどれも新しく買い上げられた高価な品ばかりでした。ところが奥さまがお召しになっていたのはみなこのような質素な品ばかりでした。ここにあるのが、紀州さま御老職、千石のお家の奥さまがお召しになったお品です」。長男が証言する。「お召し物だけではありません。身の回りのことすべてをつましくしておいででした。武家の奥はどのようにつましくとも恥にはならぬが、身分相応の御奉公をするにはつねに千石千両の貯蓄を欠かしてはならぬ」と。藤右衛門は息を引き取ったばかりの妻の手の感触を思い出す。「千石の奥の手ではなかった。あのひどく荒れた手は朝な夕な水を使い針を持ち、厨にはたらく者と同じ手だった」「我が家があんのんにすごしてきたのも、自分がぶじに御奉公ができたのも、蔭にやすの力があったからではないか」「30年もひとつ家に暮らしてどうして気づかなかったのか。なんという迂闊か、なんという愚かな眼か。自分のすぐそばにいる妻がどんな人間であるかさえ己は知らずにいた」。
 藤右衛門と似た環境にある今だからこその共感かもしれない。あらためて家計を守り、家事をこなすために身を粉にしている家内の気持ちを忖度した。10円、20円の価格に敏感すぎる買物を嗤えない。リタイヤ後の家内が求める家事分担への抵抗もほどほどにせねば。
 文庫本わずか20頁余りの短編がかくも人を動かすとは・・・・。

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