ロマンと現実の葛藤ドラマ ― 2009年09月09日

毎月定例開催の異業種交流会の8月例会は、お盆休みで休会だった。昨晩、2ヶ月ぶりの9月例会が開催された。今回の講師は㈱イーハトーヴの社長である西谷尚之氏で、「経営の危機を乗り越えた社長の苦悩と取組み」がテーマだった。開会直後に、紹介者のK代表幹事から「理念経営の大切さと強さを身をもって実践された社長」といった力のこもった講師紹介がある。
講師のスピーチが始まった。現在44歳のベンチャービジネスの代表者である。頂いた経歴・職歴表には、多彩で波乱に満ちた人生が刻まれている。『華道未生正流の3代目家元の息子として誕生。12歳からカメラで宇宙を撮り始める。プロの写真家を目指し15歳からアルバイトを始める。大学入学後、自然を求め放浪の旅に。21歳の時にオーストラリアに遠征し、撮り貯めたハレー彗星や自然の作品が共同通信等のメディアで配信される。大阪芸術大学芸術学部写真学科卒業を機に自然科学啓蒙のための起業を志す。25歳で(有)イーハトーヴを設立し写真撮影とスライド製作業務を開始。28歳からプラネタリュウム番組制作を手がける。その後、株式会社への改組や自然科学教育ソフト開発等の業容を拡大。39歳の時には家業の華道家元を正式に引き継ぐ』
この表面的には順調に見える事業経過の裏側の悲惨な実態が、講師自身の口から語られる。『自然科学を楽しく学んでもらいたいという夢を実現するため、仲間たちと学校向け教育ソフト提供事業に乗り出した。進学授業中心の現実の前で莫大な借金を背負うことになった。パンと牛乳の食事が続き、仲間や従業員が離れていき、離婚という現実も受入れた。赤字経営が続き従業員の給料遅配を前に自身の保険金での精算さえ考えたり鬱病に陥ったりというどん底を味わった。夢ばかり追ってマーケットを見ず足元を固めずに突っ走った報いだった。
厳しい事業再建の取組みを経て、たった一人の事業となってようやく立ち直ることができた。『自然と人間を結びつける仕事をしたい。子供たちに宇宙や星や科学技術への夢を持ってほしい。そのためのお手伝いがしたい』。そんな「私自身の夢」が支えだった。経営再建を通した過酷な経験が、そんな夢をようやく形にできる土台をつくっている。一息ついた今、気がかりなことがある。最近のマスコミがどの機関も余りにも同じような論調で同じ事件ばかりを追っている点だ。偏向報道ではないかとすら感じる。天文学や自然科学は多面的に物事を眺める視点が不可欠だ。その意味では最近のマスコミ報道は自然科学の前提を崩しかねない危険性を感じる』。
30分のスピーチが終った。参加者からの質問が相次ぐ。面白かったのは会場の床の間に飾られた生け花についてコメントを求められた時だ。さすがに華道家元でもある。即座に華道の基本に沿って自身の感想を交えた辛口の論評が返ってきた。イーハトーヴという社名の由来も伺った。講師が尊敬する作家・宮沢賢治の作品に登場する「理想郷」を意味する言葉に由来するという。文学と自然科学と農業と宗教を結びつけた宮沢賢治という人物の側面を教えられた。
宇宙というロマンとベンチャービジネスという現実の赤裸々な葛藤のドラマを味わった9月例会だった。
講師のスピーチが始まった。現在44歳のベンチャービジネスの代表者である。頂いた経歴・職歴表には、多彩で波乱に満ちた人生が刻まれている。『華道未生正流の3代目家元の息子として誕生。12歳からカメラで宇宙を撮り始める。プロの写真家を目指し15歳からアルバイトを始める。大学入学後、自然を求め放浪の旅に。21歳の時にオーストラリアに遠征し、撮り貯めたハレー彗星や自然の作品が共同通信等のメディアで配信される。大阪芸術大学芸術学部写真学科卒業を機に自然科学啓蒙のための起業を志す。25歳で(有)イーハトーヴを設立し写真撮影とスライド製作業務を開始。28歳からプラネタリュウム番組制作を手がける。その後、株式会社への改組や自然科学教育ソフト開発等の業容を拡大。39歳の時には家業の華道家元を正式に引き継ぐ』
この表面的には順調に見える事業経過の裏側の悲惨な実態が、講師自身の口から語られる。『自然科学を楽しく学んでもらいたいという夢を実現するため、仲間たちと学校向け教育ソフト提供事業に乗り出した。進学授業中心の現実の前で莫大な借金を背負うことになった。パンと牛乳の食事が続き、仲間や従業員が離れていき、離婚という現実も受入れた。赤字経営が続き従業員の給料遅配を前に自身の保険金での精算さえ考えたり鬱病に陥ったりというどん底を味わった。夢ばかり追ってマーケットを見ず足元を固めずに突っ走った報いだった。
厳しい事業再建の取組みを経て、たった一人の事業となってようやく立ち直ることができた。『自然と人間を結びつける仕事をしたい。子供たちに宇宙や星や科学技術への夢を持ってほしい。そのためのお手伝いがしたい』。そんな「私自身の夢」が支えだった。経営再建を通した過酷な経験が、そんな夢をようやく形にできる土台をつくっている。一息ついた今、気がかりなことがある。最近のマスコミがどの機関も余りにも同じような論調で同じ事件ばかりを追っている点だ。偏向報道ではないかとすら感じる。天文学や自然科学は多面的に物事を眺める視点が不可欠だ。その意味では最近のマスコミ報道は自然科学の前提を崩しかねない危険性を感じる』。
30分のスピーチが終った。参加者からの質問が相次ぐ。面白かったのは会場の床の間に飾られた生け花についてコメントを求められた時だ。さすがに華道家元でもある。即座に華道の基本に沿って自身の感想を交えた辛口の論評が返ってきた。イーハトーヴという社名の由来も伺った。講師が尊敬する作家・宮沢賢治の作品に登場する「理想郷」を意味する言葉に由来するという。文学と自然科学と農業と宗教を結びつけた宮沢賢治という人物の側面を教えられた。
宇宙というロマンとベンチャービジネスという現実の赤裸々な葛藤のドラマを味わった9月例会だった。
異業種交流会「世界の片隅でオンリーワンを誇る仕事人」 ― 2009年07月14日

異業種交流会の日だった。大阪ビジネスパーク・ギャラリーツイン21の3階「日本料理・月日亭OBP店」が今回の会場だった。講師は、㈱桑田金属製作所社長の桑田康彦氏で、知る人ぞ知る大阪のモノづくりのプロである。例会案内には大阪府シートメタル工業会会長、東成工業会会長の肩書も記されている。紹介者は、先月の小河大阪府副知事に引き続いて幹事のM氏である。桑田氏も小河副知事もM氏の中学時代の級友とのことだ。
7時過ぎから、床の間を背に口髭、顎鬚を蓄えた60過ぎの穏やかな顔つきのオジサンのトツトツとした語りが始まった。「30分もの話しができるか不安です。とりあえず生い立ちを紹介しながら時間稼ぎをさせてもらいます」。こうしたスピーチに不慣れなのか、率直でいかにも職人気質の人柄が滲んだツカミで始まった。以下はスピーチの概要である。
「瀬戸内海の鞆の浦の小島に生まれ小学6年までここで過ごした。文学や音楽に親しんだ母親や版画家の叔父の影響もあり、自分の感性はこの頃に養われたと思う。中学入学の歳に大阪谷町で溶接業を営んでいた父のもとに身を寄せた。上町中学、夕陽丘高校、同志社大学と進んだ。42年前の大学生の時に父親の仕事上の縁で中国を訪問した。北京動物園で初めて見たパンダや北京大学での学生との交流が思い出深い。中国とは次女が中国の江州に嫁いでおり今尚縁が深い。
大学卒業と同時に父親の会社に就職した。新入社員として毎朝工場のシャッターを開けながら目にした窓ガラスを拭いていた娘さんを見初めた。今の家内だ。納品の運転手の仕事も良い経験だった。取引先の様々の苦情や情報を通じて会社の仕事全般を学べたからだ。33歳の時に父が他界し翌年に社長に就任した。以降、酒席が多くなり学生時代は飲めなかった酒を飲めるようになった。この会に呼ばれたのも酒の縁だったように今では酒が取り持つ縁に感謝している。
27年前に大阪市内で初めてアマダのレーザーカットマシンを導入した。1号機はトラブルも多く苦労もあったが、失敗しながら技術を磨くという利点もあった。取引先のマークやロゴをレーザーカットして提供したりした。機械で遊べるようにならなければ技術やノウハウは生まれない。遊びの中に技術がある。そんな気持ちもあってステンレス鋼管を加工して初めて門松の作品を作った。次に作ったのが円筒形の鯉のぼりだった。これがNHKニュースや毎日放送の「テレビのツボ」で取り上げられた。お礼に「テレビのツボ」のキーホルダーを作って届けたところ番組プレゼント用に1000個の注文を頂いた。勢いに任せて大作のティラノザウルスを作ると毎日放送の「あどりぶらんど」などで取り上げられた。その後は干支の十二支を順番に作っている。
最後に自分なりの経営理念である『如是』」という言葉で締めくくりとしたい。自分は『あるがままに』と理解している。」
スピーチが自作のステンレスパイプ製の作品に及んだ時だった。参加者にいくつかの作品が回された。一品一品が時間をかけて製作された見事なオブジェだった。技術者・職人の域を超えた造形作家としての才能を感じさせられるものだった。お母さんや叔父さんから受け継いだ感性の意味が伝わる。そうした過去の出合いを通じて糧を貰った多くの人たちへの感謝の念が告げられる。朴訥な語り口の中に「モノづくり」にこだわって生きてきた人物の自信に満ちた本物の人生を垣間見た。スピーチ後の質問では参加者からかってない多くの質問が相次いだ。質問者の言葉の端々に「モノづくり」の世界への関心と共感の深さが感じられる。
「遊びの中に技術がある」。講師の揺らぎのない確信に満ちた印象深い言葉の余韻を残してスピーチが終了した。
7時過ぎから、床の間を背に口髭、顎鬚を蓄えた60過ぎの穏やかな顔つきのオジサンのトツトツとした語りが始まった。「30分もの話しができるか不安です。とりあえず生い立ちを紹介しながら時間稼ぎをさせてもらいます」。こうしたスピーチに不慣れなのか、率直でいかにも職人気質の人柄が滲んだツカミで始まった。以下はスピーチの概要である。
「瀬戸内海の鞆の浦の小島に生まれ小学6年までここで過ごした。文学や音楽に親しんだ母親や版画家の叔父の影響もあり、自分の感性はこの頃に養われたと思う。中学入学の歳に大阪谷町で溶接業を営んでいた父のもとに身を寄せた。上町中学、夕陽丘高校、同志社大学と進んだ。42年前の大学生の時に父親の仕事上の縁で中国を訪問した。北京動物園で初めて見たパンダや北京大学での学生との交流が思い出深い。中国とは次女が中国の江州に嫁いでおり今尚縁が深い。
大学卒業と同時に父親の会社に就職した。新入社員として毎朝工場のシャッターを開けながら目にした窓ガラスを拭いていた娘さんを見初めた。今の家内だ。納品の運転手の仕事も良い経験だった。取引先の様々の苦情や情報を通じて会社の仕事全般を学べたからだ。33歳の時に父が他界し翌年に社長に就任した。以降、酒席が多くなり学生時代は飲めなかった酒を飲めるようになった。この会に呼ばれたのも酒の縁だったように今では酒が取り持つ縁に感謝している。
27年前に大阪市内で初めてアマダのレーザーカットマシンを導入した。1号機はトラブルも多く苦労もあったが、失敗しながら技術を磨くという利点もあった。取引先のマークやロゴをレーザーカットして提供したりした。機械で遊べるようにならなければ技術やノウハウは生まれない。遊びの中に技術がある。そんな気持ちもあってステンレス鋼管を加工して初めて門松の作品を作った。次に作ったのが円筒形の鯉のぼりだった。これがNHKニュースや毎日放送の「テレビのツボ」で取り上げられた。お礼に「テレビのツボ」のキーホルダーを作って届けたところ番組プレゼント用に1000個の注文を頂いた。勢いに任せて大作のティラノザウルスを作ると毎日放送の「あどりぶらんど」などで取り上げられた。その後は干支の十二支を順番に作っている。
最後に自分なりの経営理念である『如是』」という言葉で締めくくりとしたい。自分は『あるがままに』と理解している。」
スピーチが自作のステンレスパイプ製の作品に及んだ時だった。参加者にいくつかの作品が回された。一品一品が時間をかけて製作された見事なオブジェだった。技術者・職人の域を超えた造形作家としての才能を感じさせられるものだった。お母さんや叔父さんから受け継いだ感性の意味が伝わる。そうした過去の出合いを通じて糧を貰った多くの人たちへの感謝の念が告げられる。朴訥な語り口の中に「モノづくり」にこだわって生きてきた人物の自信に満ちた本物の人生を垣間見た。スピーチ後の質問では参加者からかってない多くの質問が相次いだ。質問者の言葉の端々に「モノづくり」の世界への関心と共感の深さが感じられる。
「遊びの中に技術がある」。講師の揺らぎのない確信に満ちた印象深い言葉の余韻を残してスピーチが終了した。
大阪府副知事を迎えた異業種交流会 ― 2009年06月10日

昨晩の異業種交流会の6月例会は異例尽くめの例会だった。まず講師が現役の大阪府副知事というかってない著名人だった。幹事の一人・M氏の中学時代の同級生という縁で来場頂いた。次に著名人講師ということもあり30名という多数の参加者を得た。会場もまたいつもの料理屋の大部屋が、難波駅前の一等地の「ホテル一栄」の円卓を並べた宴会場が準備された。ついでにいつもの会費がアップしたことも追記せねばなるまい。
7時過ぎスピーチの開会が告げられる。講師紹介ではM氏から「橋下知事をサポートする上での本音の苦労話などもぜひ・・・」という注文が入る。「将来ビジョン・大坂」と題したレジュメと同じタイトルのパワーポイント作成資料、府発行パンフレットが参加者に配られる。小河大阪府副知事の登壇である。還暦を迎えたはずの年齢とは思えない若々しいそして優しさを漂わせた紳士のスピーチが始まった。
「3人の副知事のなかで唯一の前知事時代からの生き残りです」と、いきなり率直な発言がついてでる。「技術屋出身という特性が重宝されているのでしょう」との自己分析だが、その面はあったとしても無論それだけではあるまい。そこの所をじっくりと拝察しよう。「橋下知事との初めての出会いは彼が知事候補者だった時でした。名刺交換の後の彼のスピーチでは、『さっきも副知事さんにお会いしましたので余り大阪府の悪口も言えませんが・・・』と早速話題のネタにされました。テレビ出演の多かった人だけにさすがにツカミの鋭さは一流です。受け狙いの発言が多いのも事実ですが、人一倍勉強家です。勉強の結果、間違いだと判断した場合の撤回の素早さも見事です。他の政治家にない魅力を備えた人です」と、側近でもある副知事からみた橋下観が語られる。若くて異色の型破り知事の女房役の一人である。苦労がないわけではない筈だ。そんな気持ちを微塵も感じさせず、聴衆が知りたいと思っている筈のことを、この人ならでは言い方で媚びることなくサラリと言ってのける。こうして一気に聴衆を引き込むツカミの鋭さは、なかなかどうして大したものだ。
スピーチの本題は、財政再建を中心課題に華々しくもドラスティックに発進した「橋下府政の現状と今後」を、誠実にアナウンスしようということだったと思われる。そのためにまず「橋下改革」のベースでもある「大坂維新プログラム」の現状が述べられ、財政再建、政策創造、府庁改革の三つのミッションが触れられる。興味深かったのは府庁改革での情報公開という点だった。「部長会議ではテレビカメラが入るのが当たり前になった。会議後、モニターを見ていた議員による幹部職員のチェックが入ったりする。おかげで当初は萎縮気味だった会議が積極的な議論の場に変りつつある」。府庁改革の具体的な成果のわかりやすいコメントだった。かつてゴルバチョフが巨大官僚機構と化したソ連を情報公開手法で改革を試みたペレストロイカを想起させられた。
副知事がむしろ訴えたかったのは、スピーチのタイトル「将来ビジョン・大坂」が示すように「改革の先に目指すもの」だったに違いない。橋下改革はともすれば「切り捨て」部分に焦点が当たりがちである。1年3ヶ月を経過し財政再建に一定の道筋をつけた今、あらためて「維新の先の未来像」が問われている。これに答えたものが「将来ビジョン・大坂」である。産業、環境、文化、府民生活、教育の各分野でのビジョンが述べられる。とりわけ自ら所管する環境、都市整備に関わる分野のアナウンスには力がこもる。中でも「大坂ミュージアム」構想は現実的で夢のある構想に思えた。府下の現にある古い街並みなどの資産を発掘・再発見し、活用し楽しむための仕掛けを施し、他の資産とストーリー性を持たせて結びつけ、発信しようというものである。副知事から頂いた「大坂ミュージアム構想」と大書された名刺は裏表が全く同じという不思議なデザインである。ところがスピーチで種明かしがあった。名前の横の西国街道風景の写真の片方には風情を壊す見苦しい電線が走っている。土木出身の技術者の目にはミュージアム構想実現の重要な課題に写るようだ。この構想にかける副知事の想いの深さが伝わってくる。
1時間ほどのスピーチが終った。「府政改革と将来ビジョン」のトップセールスマンとしての見事なトークだった。随所に聴衆を惹きつける子ネタを配し、短時間で効率よくテーマの全体像が語られた。それでいて自身の所管事項や想い入れの深い点はきちんとアピールすることで存在感が示される。前知事から二代に渡る異例の副知事就任は伊達じゃない。「技術屋出身の特性」を越えた有能な行政マンが聴衆の惜しみない拍手の中で降壇した。
7時過ぎスピーチの開会が告げられる。講師紹介ではM氏から「橋下知事をサポートする上での本音の苦労話などもぜひ・・・」という注文が入る。「将来ビジョン・大坂」と題したレジュメと同じタイトルのパワーポイント作成資料、府発行パンフレットが参加者に配られる。小河大阪府副知事の登壇である。還暦を迎えたはずの年齢とは思えない若々しいそして優しさを漂わせた紳士のスピーチが始まった。
「3人の副知事のなかで唯一の前知事時代からの生き残りです」と、いきなり率直な発言がついてでる。「技術屋出身という特性が重宝されているのでしょう」との自己分析だが、その面はあったとしても無論それだけではあるまい。そこの所をじっくりと拝察しよう。「橋下知事との初めての出会いは彼が知事候補者だった時でした。名刺交換の後の彼のスピーチでは、『さっきも副知事さんにお会いしましたので余り大阪府の悪口も言えませんが・・・』と早速話題のネタにされました。テレビ出演の多かった人だけにさすがにツカミの鋭さは一流です。受け狙いの発言が多いのも事実ですが、人一倍勉強家です。勉強の結果、間違いだと判断した場合の撤回の素早さも見事です。他の政治家にない魅力を備えた人です」と、側近でもある副知事からみた橋下観が語られる。若くて異色の型破り知事の女房役の一人である。苦労がないわけではない筈だ。そんな気持ちを微塵も感じさせず、聴衆が知りたいと思っている筈のことを、この人ならでは言い方で媚びることなくサラリと言ってのける。こうして一気に聴衆を引き込むツカミの鋭さは、なかなかどうして大したものだ。
スピーチの本題は、財政再建を中心課題に華々しくもドラスティックに発進した「橋下府政の現状と今後」を、誠実にアナウンスしようということだったと思われる。そのためにまず「橋下改革」のベースでもある「大坂維新プログラム」の現状が述べられ、財政再建、政策創造、府庁改革の三つのミッションが触れられる。興味深かったのは府庁改革での情報公開という点だった。「部長会議ではテレビカメラが入るのが当たり前になった。会議後、モニターを見ていた議員による幹部職員のチェックが入ったりする。おかげで当初は萎縮気味だった会議が積極的な議論の場に変りつつある」。府庁改革の具体的な成果のわかりやすいコメントだった。かつてゴルバチョフが巨大官僚機構と化したソ連を情報公開手法で改革を試みたペレストロイカを想起させられた。
副知事がむしろ訴えたかったのは、スピーチのタイトル「将来ビジョン・大坂」が示すように「改革の先に目指すもの」だったに違いない。橋下改革はともすれば「切り捨て」部分に焦点が当たりがちである。1年3ヶ月を経過し財政再建に一定の道筋をつけた今、あらためて「維新の先の未来像」が問われている。これに答えたものが「将来ビジョン・大坂」である。産業、環境、文化、府民生活、教育の各分野でのビジョンが述べられる。とりわけ自ら所管する環境、都市整備に関わる分野のアナウンスには力がこもる。中でも「大坂ミュージアム」構想は現実的で夢のある構想に思えた。府下の現にある古い街並みなどの資産を発掘・再発見し、活用し楽しむための仕掛けを施し、他の資産とストーリー性を持たせて結びつけ、発信しようというものである。副知事から頂いた「大坂ミュージアム構想」と大書された名刺は裏表が全く同じという不思議なデザインである。ところがスピーチで種明かしがあった。名前の横の西国街道風景の写真の片方には風情を壊す見苦しい電線が走っている。土木出身の技術者の目にはミュージアム構想実現の重要な課題に写るようだ。この構想にかける副知事の想いの深さが伝わってくる。
1時間ほどのスピーチが終った。「府政改革と将来ビジョン」のトップセールスマンとしての見事なトークだった。随所に聴衆を惹きつける子ネタを配し、短時間で効率よくテーマの全体像が語られた。それでいて自身の所管事項や想い入れの深い点はきちんとアピールすることで存在感が示される。前知事から二代に渡る異例の副知事就任は伊達じゃない。「技術屋出身の特性」を越えた有能な行政マンが聴衆の惜しみない拍手の中で降壇した。
異業種交流会「音訳の世界を学ぶ」 ― 2009年05月13日
「音訳」という世界があることを初めて知った。昨晩あった異業種交流会の5月例会は、「音訳の世界を学ぶ」がテーマだった。
茨木市にあるNPO法人リーディングサービスNの理事・中原尚子さんという女性が講師だった。法人の事業内容は、視覚障害者等の情報弱者に「音訳技術」を通じて「読むサービス」を提供することのようだ。
例会開始直後に紹介者の会のメンバーから講師の紹介がある。茨木のNPO法人だけでなく、視覚障害者のリハビリテーション事業を行なう「社会福祉法人日本ライトハウス」の専門音訳英語チームでの活動や、日本唯一の視覚障害者向け放送局である「JBS日本福祉放送」での「今日の新聞(朝刊)」と「JBSニュース」も担当されているとのことだった。民生委員として地域の障害者福祉に関わるそうした活動は、個人的にも守備範囲の筈だったが、音訳という言葉自体今回初めて知った。ましてや視覚障害者のリハビリテーション事業や視覚障害者向け放送局の知識など及びもつかなかった。自らの不明を恥じ入るばかりだ。
講師のスピーチは7時丁度に始まった。冒頭、参加者に「音訳をご存知ですか」と聞かれる。誰もが初めて聞くとの反応だ。視覚障害者が情報を得るための媒体としては一般的には点字が知られている。ところが点字は一定以上の訓練を経なければ読めないし、表現もできない。これに対し音訳は基本的には誰にも可能な情報提供媒体である。
朗読が文学作品などを感情豊かに読むことに対して、音訳は音訳者の主観を排して、書かれた内容をできるだけ忠実に音声化することが求められる。利用者の求めに応じて、図、表、写真なども含めたあらゆる情報を音声で伝えることだ。どちらかといえばイメージとしてはテレビの副音声や通訳に近い。そんな趣旨の話の後、そばにあったメニューを取り上げて実際にどのようにこれを音訳するかを事例紹介風に説明される。「どれくらいの大きさの、どんな紙に何色の文字で書かれています。どんな写真が載っており、どの献立には『店長おすす』と書いてあります」と言った具合だ。単にカレーライスが○円と読むだけではない。いかに視覚障害者である利用者の立場に立って想像力を働かせながら音読できるかが問われる。そのためには日本語のボキャブラリーの豊富さや説明能力が必要となる。要は、利用者の目になりきることだ。
この活動を始めて22年になるという中原さんだ。子供の読み聞かせのための朗読の勉強がきっかけだったようだ。その話しぶりから、今や音訳がライフワークのようになっているようにみえる。「ぜひ音訳という活動を知ってください」という想いをこめたメッセージでスピーチが終った。
茨木市にあるNPO法人リーディングサービスNの理事・中原尚子さんという女性が講師だった。法人の事業内容は、視覚障害者等の情報弱者に「音訳技術」を通じて「読むサービス」を提供することのようだ。
例会開始直後に紹介者の会のメンバーから講師の紹介がある。茨木のNPO法人だけでなく、視覚障害者のリハビリテーション事業を行なう「社会福祉法人日本ライトハウス」の専門音訳英語チームでの活動や、日本唯一の視覚障害者向け放送局である「JBS日本福祉放送」での「今日の新聞(朝刊)」と「JBSニュース」も担当されているとのことだった。民生委員として地域の障害者福祉に関わるそうした活動は、個人的にも守備範囲の筈だったが、音訳という言葉自体今回初めて知った。ましてや視覚障害者のリハビリテーション事業や視覚障害者向け放送局の知識など及びもつかなかった。自らの不明を恥じ入るばかりだ。
講師のスピーチは7時丁度に始まった。冒頭、参加者に「音訳をご存知ですか」と聞かれる。誰もが初めて聞くとの反応だ。視覚障害者が情報を得るための媒体としては一般的には点字が知られている。ところが点字は一定以上の訓練を経なければ読めないし、表現もできない。これに対し音訳は基本的には誰にも可能な情報提供媒体である。
朗読が文学作品などを感情豊かに読むことに対して、音訳は音訳者の主観を排して、書かれた内容をできるだけ忠実に音声化することが求められる。利用者の求めに応じて、図、表、写真なども含めたあらゆる情報を音声で伝えることだ。どちらかといえばイメージとしてはテレビの副音声や通訳に近い。そんな趣旨の話の後、そばにあったメニューを取り上げて実際にどのようにこれを音訳するかを事例紹介風に説明される。「どれくらいの大きさの、どんな紙に何色の文字で書かれています。どんな写真が載っており、どの献立には『店長おすす』と書いてあります」と言った具合だ。単にカレーライスが○円と読むだけではない。いかに視覚障害者である利用者の立場に立って想像力を働かせながら音読できるかが問われる。そのためには日本語のボキャブラリーの豊富さや説明能力が必要となる。要は、利用者の目になりきることだ。
この活動を始めて22年になるという中原さんだ。子供の読み聞かせのための朗読の勉強がきっかけだったようだ。その話しぶりから、今や音訳がライフワークのようになっているようにみえる。「ぜひ音訳という活動を知ってください」という想いをこめたメッセージでスピーチが終った。
異業種交流会「ノダフジ知ってますか」 ― 2009年04月15日

昨晩は異業種交流会の4月例会の日だった。4月例会は通常「お花見会」となる。ところが第2火曜の定例会は4月14日で桜の花見には遅すぎる。代表幹事が見事にこの難問をクリアした。ネット検索の果てに、「ノダフジ」のお花見と相なった。大阪市福島区の下福島公園内の藤の花(ノダフジ)を愛でるという企画である。昔から「吉野の桜、野田の藤、高雄の紅葉」と並び称された知る人ぞ知る藤の名所だったそうだ。知らんかったな~ッ。
18時30分集合の案内である。JR東西線の新福島駅から徒歩数分の下福島公園に到着した。生憎の小雨混じりの中を、公園のぬかるみを伝って南側の藤棚に出た。公園南側すぐの京阪・中之島駅からのアクセスルートもあるようだ。春の夕暮れは尚明るい。公園内には見事な藤棚が左右に設けられている。とはいえ藤の開花にはまだ尚早。白い花弁がちらほら見えるだけである。
18時半頃には今回講師の藤三郎さんがお見えになった。野田藤発祥の地で代々庄屋を務め野田藤を守り伝えてきた藤家の18代目当主である。19時頃、集合した会員9名が藤さんの案内で300mほど西のノダフジ発祥の地・春日神社に向う。道中のあちこちに藤棚や藤の鉢植えが目につく。さすがに発祥の地である。藤家所有のマンションの建つ一角に朱塗りの鳥居と垣根に囲まれたこじんまりした社があった。境内を覆う藤棚には薄紫の藤の花が満開前の控え目な姿を見せていた。境内には「野田の藤跡」の石碑が建っている。藤さんに案内されてすぐ南にある竹矢来で覆われた小さな社に立ち寄る。鳥居前の広場にも藤棚がある。社をバックに集合写真を撮影した。小雨の中のノダフジ見学を終え、藤さんを囲む例会会場に移動する。途中下福島公園を経由した際、藤棚横の和風庭園の石碑に案内された。「野田ふじと藤邸の庭」にまつわる碑文でこの庭が藤さん宅から移築されたものと知った。
JR新福島駅近くの四川料理の店・醤じゃん(じゃんじゃん)が予約の会場である。ここから合流したメンバーも含め総勢14名の例会が始まった。乾杯の後、藤さんから持参のレジュメとラミネート加工の大判資料をもとに野田藤にまつわる多面的で興味深い以下のようなお話しを伺った。
・野田の藤を詠んだ三首の中世・藤の和歌が残されている。鎌倉時代初期の太政大臣・西園寺公経の歌、室町幕府2代将軍・足利義詮(よしあき・尊氏の子)の歌、南北朝時代の後醍醐天皇第5皇子・宗良親王の歌である。
・足利義詮が1364年に住吉詣での途中で野田玉川に立ち寄り藤見物をしたことが野田藤の始まりとされる。
・太閤秀吉が文禄3年(1595年)に藤見物に遊覧した際、藤の庵で御茶を催した。秀吉の死の1年後に春日神社(藤家)に豊臣家から豊公画像が下賜された。
・江戸時代には野田村は藤の名所として知られ、「摂津名所図会」「浪花百景」「藤伝記(野田藤の歴史や伝承の記録)」に記録が残されている。
最後に藤さんから思いがけないプレゼントを頂いた。赤と白の野田ふじワインだ。一同あらためてグラスでワインの乾杯を重ねたのはいうまでもない。玉川春日神社総代、福島区歴史研究会理事でもある地元名士の藤さんに最後までお世話になった4月例会だった。
18時30分集合の案内である。JR東西線の新福島駅から徒歩数分の下福島公園に到着した。生憎の小雨混じりの中を、公園のぬかるみを伝って南側の藤棚に出た。公園南側すぐの京阪・中之島駅からのアクセスルートもあるようだ。春の夕暮れは尚明るい。公園内には見事な藤棚が左右に設けられている。とはいえ藤の開花にはまだ尚早。白い花弁がちらほら見えるだけである。
18時半頃には今回講師の藤三郎さんがお見えになった。野田藤発祥の地で代々庄屋を務め野田藤を守り伝えてきた藤家の18代目当主である。19時頃、集合した会員9名が藤さんの案内で300mほど西のノダフジ発祥の地・春日神社に向う。道中のあちこちに藤棚や藤の鉢植えが目につく。さすがに発祥の地である。藤家所有のマンションの建つ一角に朱塗りの鳥居と垣根に囲まれたこじんまりした社があった。境内を覆う藤棚には薄紫の藤の花が満開前の控え目な姿を見せていた。境内には「野田の藤跡」の石碑が建っている。藤さんに案内されてすぐ南にある竹矢来で覆われた小さな社に立ち寄る。鳥居前の広場にも藤棚がある。社をバックに集合写真を撮影した。小雨の中のノダフジ見学を終え、藤さんを囲む例会会場に移動する。途中下福島公園を経由した際、藤棚横の和風庭園の石碑に案内された。「野田ふじと藤邸の庭」にまつわる碑文でこの庭が藤さん宅から移築されたものと知った。
JR新福島駅近くの四川料理の店・醤じゃん(じゃんじゃん)が予約の会場である。ここから合流したメンバーも含め総勢14名の例会が始まった。乾杯の後、藤さんから持参のレジュメとラミネート加工の大判資料をもとに野田藤にまつわる多面的で興味深い以下のようなお話しを伺った。
・野田の藤を詠んだ三首の中世・藤の和歌が残されている。鎌倉時代初期の太政大臣・西園寺公経の歌、室町幕府2代将軍・足利義詮(よしあき・尊氏の子)の歌、南北朝時代の後醍醐天皇第5皇子・宗良親王の歌である。
・足利義詮が1364年に住吉詣での途中で野田玉川に立ち寄り藤見物をしたことが野田藤の始まりとされる。
・太閤秀吉が文禄3年(1595年)に藤見物に遊覧した際、藤の庵で御茶を催した。秀吉の死の1年後に春日神社(藤家)に豊臣家から豊公画像が下賜された。
・江戸時代には野田村は藤の名所として知られ、「摂津名所図会」「浪花百景」「藤伝記(野田藤の歴史や伝承の記録)」に記録が残されている。
最後に藤さんから思いがけないプレゼントを頂いた。赤と白の野田ふじワインだ。一同あらためてグラスでワインの乾杯を重ねたのはいうまでもない。玉川春日神社総代、福島区歴史研究会理事でもある地元名士の藤さんに最後までお世話になった4月例会だった。
異業種交流会「ウイング・マークへの道」 ― 2009年03月11日

昨晩、異業種交流会の定例会があった。今回の講師は交流会の幹事でもあるM氏である。防衛大学校(航空工学専攻)を卒業後、航空自衛隊でパイロットの訓練を積んだという異色の経歴の持ち主である。案内状によれば、テーマは「ウイング・マークへの道」ということで、自らの体験をもとに航空自衛隊のパイロット教育と防空システムの概要について話してもらえるようだ。ちなみにウイング・マークとは「航空自衛隊において職種がパイロットと判るバッジで制服の左胸に付けるもの」とのことだ。
会場は、1月例会と同じ地下鉄「南森町」駅最寄りの「地酒居酒屋・松留」である。19時丁度に開会した。幹事の一人である私から、会員講師であるM氏のスピーチに寄せる期待を述べて乾杯をした。料理のおいしさと引換えに多少窮屈な会場には18名ものメンバーが顔を揃えた。
M氏のスピ-チが始まった。概略以下のような内容だった。
商売の街・大阪で事業を営む家に生まれ、中学時代には「手形を割る」ということを覚えてしまうような環境で育った。防衛大学のことは高校3年の夏に初めて知った。11月に受験し合格した。他の国立大学も受験したが失敗し、浪人は許されない事情もあり防大に進んだ。初代・槇校長の「自主・自立」の精神のもとなる雰囲気があり、考え方や精神面で縛られることはなかった。2年の時に陸・海・空のいずれのコースかが決まる。航空工学の専攻が叶い、パイロットを志望した。
パイロットの適性は、まず身体上の欠点がないことが問われる。目、耳、鼻等の五感機能がどれも一定の基準内にあることが必要。性格的にはミスに対するシビアさが問われる。ノーミスが何よりも不可欠な要素となる。
飛行操縦訓練はプロペラ機、ジェット機、別種のジェット機の3機種の基本的操縦をマスターできるまで2年強かけて行なわれる。これに合格してようやくウイング・マークが得られる。プロペラ機からジェット機への変更時でのらせん状に降りてくる着陸訓練は、ものすごいスピードでほんとに緊張感を強いられた。ちなみに編隊訓練は、二機の翼間は約3mで行なわれる。計器飛行は目の訓練でもある。多数の計器を瞬時に判断する視認速度と忍耐力が技量の優劣を決める。
現役パイロットだった時、父が脳梗塞で倒れた。父一人でやっていた家業の部品メーカーを最終的に継ぐことを決意した。半年間保留された辞職願いがようやく許可された。
パイロットも軍人出身者と民間出身者では緊急時の対応に明らかな違いが出る。ニューヨークのハドソン川に着水した飛行機の機長は軍人出身だった。 民間出身者なら空港の滑走路にこだわっていたかもしれない。軍人は第三者を巻き添えにしないように川や海や湖など人家のないところに降りようとする。私の同期も飛行機を浜名湖に突っ込ませてパラシュート脱出時の高度が足らず、結果的に死ぬことになったが・・・。
別紙の図が日本の防空識別圏だ。この圏内への不審機の領空侵犯が年間2002大件以上ある。ロシアと中国が半々だ。これに対して2機の自衛隊機でスクランブル発進する。1機が相手の顔が見える位まで接近し退去を求める。相手機が機関銃をこちらに向けても、国内法の正当防衛の概念上はこれを撃墜できない。僚友機が撃たれてこれを助けなければならなくなって初めて攻撃できる。僚友機が撃墜されてしまってからも攻撃できない。過剰防衛の概念から復讐のための武力行使は認められていない。航空自衛隊は、こんな状況の最前線で常に国籍不明機との対峙を余儀なくされている。それに伴うストレスやフラストレーションは相当なものだ。
多様な職種、経験、技能、個性を持ったメンバーが集う交流会である。その中でも戦闘機パイロットというひと際、異彩を放つ職歴のM氏のスピーチだった。経験者ならではの訓練飛行の生々しい体験談に耳をそばだてた。メンバーたちの政治的ポジションはライトウイングからレフトウイングまで幅広いものがある筈である。そうした事情への配慮もあってか、航空自衛隊に籍を置いた者ならではの「想い」を抑制された表現で語ってもらった。スピーチ後にはメンバーからの質問も出され、懇親の場でも個別にM氏と活発な意見交換があったようだ。この交流会が、様々の思想や立場の違いを超えて微妙なテーマについても自由に語り合える場であることをあらためて感じさせられた例会だった。
会場は、1月例会と同じ地下鉄「南森町」駅最寄りの「地酒居酒屋・松留」である。19時丁度に開会した。幹事の一人である私から、会員講師であるM氏のスピーチに寄せる期待を述べて乾杯をした。料理のおいしさと引換えに多少窮屈な会場には18名ものメンバーが顔を揃えた。
M氏のスピ-チが始まった。概略以下のような内容だった。
商売の街・大阪で事業を営む家に生まれ、中学時代には「手形を割る」ということを覚えてしまうような環境で育った。防衛大学のことは高校3年の夏に初めて知った。11月に受験し合格した。他の国立大学も受験したが失敗し、浪人は許されない事情もあり防大に進んだ。初代・槇校長の「自主・自立」の精神のもとなる雰囲気があり、考え方や精神面で縛られることはなかった。2年の時に陸・海・空のいずれのコースかが決まる。航空工学の専攻が叶い、パイロットを志望した。
パイロットの適性は、まず身体上の欠点がないことが問われる。目、耳、鼻等の五感機能がどれも一定の基準内にあることが必要。性格的にはミスに対するシビアさが問われる。ノーミスが何よりも不可欠な要素となる。
飛行操縦訓練はプロペラ機、ジェット機、別種のジェット機の3機種の基本的操縦をマスターできるまで2年強かけて行なわれる。これに合格してようやくウイング・マークが得られる。プロペラ機からジェット機への変更時でのらせん状に降りてくる着陸訓練は、ものすごいスピードでほんとに緊張感を強いられた。ちなみに編隊訓練は、二機の翼間は約3mで行なわれる。計器飛行は目の訓練でもある。多数の計器を瞬時に判断する視認速度と忍耐力が技量の優劣を決める。
現役パイロットだった時、父が脳梗塞で倒れた。父一人でやっていた家業の部品メーカーを最終的に継ぐことを決意した。半年間保留された辞職願いがようやく許可された。
パイロットも軍人出身者と民間出身者では緊急時の対応に明らかな違いが出る。ニューヨークのハドソン川に着水した飛行機の機長は軍人出身だった。 民間出身者なら空港の滑走路にこだわっていたかもしれない。軍人は第三者を巻き添えにしないように川や海や湖など人家のないところに降りようとする。私の同期も飛行機を浜名湖に突っ込ませてパラシュート脱出時の高度が足らず、結果的に死ぬことになったが・・・。
別紙の図が日本の防空識別圏だ。この圏内への不審機の領空侵犯が年間2002大件以上ある。ロシアと中国が半々だ。これに対して2機の自衛隊機でスクランブル発進する。1機が相手の顔が見える位まで接近し退去を求める。相手機が機関銃をこちらに向けても、国内法の正当防衛の概念上はこれを撃墜できない。僚友機が撃たれてこれを助けなければならなくなって初めて攻撃できる。僚友機が撃墜されてしまってからも攻撃できない。過剰防衛の概念から復讐のための武力行使は認められていない。航空自衛隊は、こんな状況の最前線で常に国籍不明機との対峙を余儀なくされている。それに伴うストレスやフラストレーションは相当なものだ。
多様な職種、経験、技能、個性を持ったメンバーが集う交流会である。その中でも戦闘機パイロットというひと際、異彩を放つ職歴のM氏のスピーチだった。経験者ならではの訓練飛行の生々しい体験談に耳をそばだてた。メンバーたちの政治的ポジションはライトウイングからレフトウイングまで幅広いものがある筈である。そうした事情への配慮もあってか、航空自衛隊に籍を置いた者ならではの「想い」を抑制された表現で語ってもらった。スピーチ後にはメンバーからの質問も出され、懇親の場でも個別にM氏と活発な意見交換があったようだ。この交流会が、様々の思想や立場の違いを超えて微妙なテーマについても自由に語り合える場であることをあらためて感じさせられた例会だった。
不測の事態を乗り切る異業種交流会のパワー ― 2009年02月11日

第2火曜日の今日は夜6時半から異業種交流会の定例会の日である。第2水曜夕方の労働委員会定例総会が2月は祝日と重なったため1日繰上り今日になった。労働委員会終了後、委員控室で資料整理をしていたら異業種交流会の事務局のOさんからメールが入った。「今日の講師の大阪府副知事が急遽所用のため欠席となった。会員懇親会に切替えて開催したい」とのことだった。
6時頃、地下鉄「西長堀」駅近くの会場に向った。最寄りの地下出口から僅か3分のところに会場の「酒房・一番亭」があった。1階の店内奥の階段で2階に上がる。二十畳以上もある広々とした部屋だった。六つの鉄板焼きテーブルには24人分の席が準備されている。奥のテーブルに代表幹事のKさんの顔が見えた。先日メールで「資本主義はなぜ自壊したのか(中谷巌著)」を紹介してもらった。半分ばかり読んだところだが、目から鱗の記述に圧倒された。Kさんに早速その旨お礼を述べた。読了後のブログでの書評にはきっと力が入ることだろう。
6時半頃からメンバーたちが次々と姿を現わした。今日の講師の急な欠席が十分伝わっていない筈だ。大物講師のスピーチを楽しみに参加したメンバーの落胆を心配した。ビールと枝豆、フライドポテトでしばらくテーブルごとに懇談する。7時の開会前には事務局のOさんも間にあった。幹事メンバーで進め方を簡単に打合せて、Oさんの進行で開会となる。
乾杯の後、今回の講師の紹介者である幹事のMさんから事情説明と次回以降の講師再依頼の経過が説明された。その後はしばらく自由な懇親の場となる。焼き上がった鉄板焼料理も次々に運ばれてくる。久々に顔を見せてもらったメンバーも多い。あちこちのテーブルで話が弾んでいるようだ。
自由懇親の後は、参加者の近況報告となる。別名、異人種交流会の名に恥じないつわもの達の澱みないスピーチが続く。進行役の「1分程度で」というアナウンスはとっくに忘れ去られている。京都南座の歌舞伎鑑賞教室の案内があったり、「世界旅情報ステーション」からのセミナー紹介があったりとバラエティーに富んでいる。
幹事のKさんの紹介で㈱独立リーグ大阪球団からの飛び入り参加があった。今年4月に開幕する関西独立リーグに所属する球団である。球団社長からの独立リーグと球団紹介、サポーターズクラブへの入会要請があった。関西独立リーグは、関西に球団フランチャイズを置くプロ野球リーグで、和歌山・大阪・神戸・明石の4地域で構成されている。第2シーズンからは滋賀と三重にも球団ができる予定だ。その後の懇親で、球団社長のお父さんは私の現役時代に関わりのあったグループ会社の知人だった。20数名の近況報告が終ったのは10時頃だった。
講師の急な欠席でも、存在感のあるバックグランドを持つメンバーたちの前向きな姿勢で見事に乗り切ってしまった。この会の強みをあらためて噛みしめさせられた例会だった。
6時頃、地下鉄「西長堀」駅近くの会場に向った。最寄りの地下出口から僅か3分のところに会場の「酒房・一番亭」があった。1階の店内奥の階段で2階に上がる。二十畳以上もある広々とした部屋だった。六つの鉄板焼きテーブルには24人分の席が準備されている。奥のテーブルに代表幹事のKさんの顔が見えた。先日メールで「資本主義はなぜ自壊したのか(中谷巌著)」を紹介してもらった。半分ばかり読んだところだが、目から鱗の記述に圧倒された。Kさんに早速その旨お礼を述べた。読了後のブログでの書評にはきっと力が入ることだろう。
6時半頃からメンバーたちが次々と姿を現わした。今日の講師の急な欠席が十分伝わっていない筈だ。大物講師のスピーチを楽しみに参加したメンバーの落胆を心配した。ビールと枝豆、フライドポテトでしばらくテーブルごとに懇談する。7時の開会前には事務局のOさんも間にあった。幹事メンバーで進め方を簡単に打合せて、Oさんの進行で開会となる。
乾杯の後、今回の講師の紹介者である幹事のMさんから事情説明と次回以降の講師再依頼の経過が説明された。その後はしばらく自由な懇親の場となる。焼き上がった鉄板焼料理も次々に運ばれてくる。久々に顔を見せてもらったメンバーも多い。あちこちのテーブルで話が弾んでいるようだ。
自由懇親の後は、参加者の近況報告となる。別名、異人種交流会の名に恥じないつわもの達の澱みないスピーチが続く。進行役の「1分程度で」というアナウンスはとっくに忘れ去られている。京都南座の歌舞伎鑑賞教室の案内があったり、「世界旅情報ステーション」からのセミナー紹介があったりとバラエティーに富んでいる。
幹事のKさんの紹介で㈱独立リーグ大阪球団からの飛び入り参加があった。今年4月に開幕する関西独立リーグに所属する球団である。球団社長からの独立リーグと球団紹介、サポーターズクラブへの入会要請があった。関西独立リーグは、関西に球団フランチャイズを置くプロ野球リーグで、和歌山・大阪・神戸・明石の4地域で構成されている。第2シーズンからは滋賀と三重にも球団ができる予定だ。その後の懇親で、球団社長のお父さんは私の現役時代に関わりのあったグループ会社の知人だった。20数名の近況報告が終ったのは10時頃だった。
講師の急な欠席でも、存在感のあるバックグランドを持つメンバーたちの前向きな姿勢で見事に乗り切ってしまった。この会の強みをあらためて噛みしめさせられた例会だった。
どうなる今年の経済・・・異業種交流会例会 ― 2009年01月14日

昨晩、今年初めての異業種交流会・大坂さくら会の例会があった。例会会場も今回から地下鉄南森町駅最寄りの「地酒居酒屋・松留」に変更された。18時20分頃に南森町駅を下車した。地下鉄4B出口を上って東側のすぐの所に日本一長い商店街である天神橋筋商店街がある。商店街を南に向って2-3分歩くと左手に松留があった。
店内奥の部屋が例会会場だった。奥のテーブルに代表幹事のKさんと講師と思しき人の顔が見える。開会時間の7時には四つのテーブルは満席になった。進行役の代表幹事のIさんの姿がない。急遽開会の進行役が私に回ってきた。所感を交えて開会の辞を述べた後、紹介者のKさんにバトンタッチした。
今日の講師は地元大坂の某証券の証券アドバイザーS氏である。Kさんとは8年前のインド旅行のツアー仲間だという。70歳を超えて尚現役である。とてもその年に見えない若々しい風貌に驚嘆させられる。折りしも未曽有の金融危機と世界同時不況の真っ只中で2009年の年明けを迎えた。「平成21年の経済について」というテーマで講師のスピーチが始まった。
最初にご自分のプロフィール紹介があった。若い頃から証券業界に身を置いた証券一筋の人生だったと述懐される。大阪証券外務員協会会長、日本証券外務員協会連合会副会長を歴任された証券アドバイザーのプロである。今も朝3時には起床し新聞各紙を読み、データ処理を済ませて出社する毎日だという。朝6時30分から夕方4時まで職場のデスクで業務や顧客対応が続いているとのこと。
本題が始まった。昨年の日経平均株価の51%の下落率が話題となる。これでも国際的には11番目の下落率である。世界同時不況といわれる所以である。この不況からの脱皮は「アメリカ経済の立ち直り」「BRICs等の新興国の安定成長」が鍵というエコノミストの見通しが紹介される。また今後の景気回復の牽引役として「環境」「食料・農業関連」「内需関連」等の業界が注目されるとのこと。こうした背景を前提に個別優良銘柄の話題となる。配布された講師作成の優良銘柄株のリストを中心に解説が続く。要は購入株価に対する予想配当額の利回りであり、5%以上の優良株が狙いであるとのこと。株価の大幅な下落は今後の上昇期待の裏返しであり、配当利回り率の上昇でもある。0.5%程度の定期預金利率の今こそ預金から5%以上の高利回り株への投資チャンスではないかというのが結論だった。
定年前後のメンバーを中心に出席者の多くが資産運用に関心を持っていたと思われる。金融危機や世界同時不況は、家計環境の悪化と生活防衛のための自助努力を求めている。大坂さくら会初めての異色の例会テーマが、この問題に株式投資という選択肢を提供した。併せて株式投資に関心を持ったメンバーにとってS氏というプロの人脈を得たのではないか。
店内奥の部屋が例会会場だった。奥のテーブルに代表幹事のKさんと講師と思しき人の顔が見える。開会時間の7時には四つのテーブルは満席になった。進行役の代表幹事のIさんの姿がない。急遽開会の進行役が私に回ってきた。所感を交えて開会の辞を述べた後、紹介者のKさんにバトンタッチした。
今日の講師は地元大坂の某証券の証券アドバイザーS氏である。Kさんとは8年前のインド旅行のツアー仲間だという。70歳を超えて尚現役である。とてもその年に見えない若々しい風貌に驚嘆させられる。折りしも未曽有の金融危機と世界同時不況の真っ只中で2009年の年明けを迎えた。「平成21年の経済について」というテーマで講師のスピーチが始まった。
最初にご自分のプロフィール紹介があった。若い頃から証券業界に身を置いた証券一筋の人生だったと述懐される。大阪証券外務員協会会長、日本証券外務員協会連合会副会長を歴任された証券アドバイザーのプロである。今も朝3時には起床し新聞各紙を読み、データ処理を済ませて出社する毎日だという。朝6時30分から夕方4時まで職場のデスクで業務や顧客対応が続いているとのこと。
本題が始まった。昨年の日経平均株価の51%の下落率が話題となる。これでも国際的には11番目の下落率である。世界同時不況といわれる所以である。この不況からの脱皮は「アメリカ経済の立ち直り」「BRICs等の新興国の安定成長」が鍵というエコノミストの見通しが紹介される。また今後の景気回復の牽引役として「環境」「食料・農業関連」「内需関連」等の業界が注目されるとのこと。こうした背景を前提に個別優良銘柄の話題となる。配布された講師作成の優良銘柄株のリストを中心に解説が続く。要は購入株価に対する予想配当額の利回りであり、5%以上の優良株が狙いであるとのこと。株価の大幅な下落は今後の上昇期待の裏返しであり、配当利回り率の上昇でもある。0.5%程度の定期預金利率の今こそ預金から5%以上の高利回り株への投資チャンスではないかというのが結論だった。
定年前後のメンバーを中心に出席者の多くが資産運用に関心を持っていたと思われる。金融危機や世界同時不況は、家計環境の悪化と生活防衛のための自助努力を求めている。大坂さくら会初めての異色の例会テーマが、この問題に株式投資という選択肢を提供した。併せて株式投資に関心を持ったメンバーにとってS氏というプロの人脈を得たのではないか。
異業種交流会の忘年会 ― 2008年12月09日

夜6時45分から異業種交流会・大阪さくら会の総会兼忘年会があった。夕方5時前のJR最寄り駅行のバスに乗った。考えてみればこんな時間に駅に向うバスに乗るのは初めてである。現役時代は通勤帰りの例会参加だったから、リタイヤ生活ならではのことだろう。さすがに車内の乗客数は少ない。駅に着いたときでもわずか4人だった。
地下鉄・心斎橋駅を下車し、心斎橋通りを歩いた。流行の先端ファッションに身を包んだ若者たちが闊歩する関西有数の商店街である。クリスマスシーズンを迎えアーケードや商店の壁を彩る鮮やかなイルミネーションが、通行客たちの気分を和ませている。駅から徒歩数分の所に会場の「チャットバー・kamakura」があった。大阪さくら会でも二度ばかりライブ演奏してもらったアノ「鎌倉研さんの店」である。定刻前の店内では鎌倉さんご夫婦が準備に余念がない。
6時半頃からさみだれ的に会員の来店が続く。定刻には狭い店内が満席になった。司会役の岡幹事の総会議事が始まる。パワーポイントで作成された議案が配られ、大阪さくら会のコンセプト、行動指針、活動スローガンが再確認される。これまでの104回にも及ぶ例会記録や約60名の会員の今年の出欠状況が報告される。そして来年度の活動テーマを「原点回帰」としキーワードを「美酒美味、個性、地域、文化、交流」とする幹事会提案があった。その後、井上代表幹事の開会挨拶と乾杯発声があり、以降ワイン片手の自由懇親に突入する。
自由懇親の盛り上がりの中で第二部の会員近況報告が始まる。登録会員の半数近い25名もの参加者である。別名「異人種交流会」の名に恥じない一騎当千のつわものたちの個性溢れる報告が続く。第3部はフォークライブである。この店のマスターでフォークシンガーでもある鎌倉研さんの弾き語りが始まった。ところが残念なことに店内スペースと収容人員のミスマッチが大きい。店内奥の壁際に陣取った研さんの歌声は、すし詰めの店内の人いきれとざわめきの中で埋もれてしまっていた。何はともあれ10時過ぎに3時間以上に及ぶ今年の総会兼忘年会が川島代表幹事の締めの言葉で終了した。
地下鉄・心斎橋駅を下車し、心斎橋通りを歩いた。流行の先端ファッションに身を包んだ若者たちが闊歩する関西有数の商店街である。クリスマスシーズンを迎えアーケードや商店の壁を彩る鮮やかなイルミネーションが、通行客たちの気分を和ませている。駅から徒歩数分の所に会場の「チャットバー・kamakura」があった。大阪さくら会でも二度ばかりライブ演奏してもらったアノ「鎌倉研さんの店」である。定刻前の店内では鎌倉さんご夫婦が準備に余念がない。
6時半頃からさみだれ的に会員の来店が続く。定刻には狭い店内が満席になった。司会役の岡幹事の総会議事が始まる。パワーポイントで作成された議案が配られ、大阪さくら会のコンセプト、行動指針、活動スローガンが再確認される。これまでの104回にも及ぶ例会記録や約60名の会員の今年の出欠状況が報告される。そして来年度の活動テーマを「原点回帰」としキーワードを「美酒美味、個性、地域、文化、交流」とする幹事会提案があった。その後、井上代表幹事の開会挨拶と乾杯発声があり、以降ワイン片手の自由懇親に突入する。
自由懇親の盛り上がりの中で第二部の会員近況報告が始まる。登録会員の半数近い25名もの参加者である。別名「異人種交流会」の名に恥じない一騎当千のつわものたちの個性溢れる報告が続く。第3部はフォークライブである。この店のマスターでフォークシンガーでもある鎌倉研さんの弾き語りが始まった。ところが残念なことに店内スペースと収容人員のミスマッチが大きい。店内奥の壁際に陣取った研さんの歌声は、すし詰めの店内の人いきれとざわめきの中で埋もれてしまっていた。何はともあれ10時過ぎに3時間以上に及ぶ今年の総会兼忘年会が川島代表幹事の締めの言葉で終了した。
異業種交流会「『歴史街道』を知った」 ― 2008年11月11日

ギリシャツアーで10月例会を欠席した私にとっては、8ヶ月ぶりの定例会場「やなぎ」での異業種交流会だった。この間の色んな事情でこの会場での例会開催は今日が最後になるようだ。6時半丁度にその「やなぎ」に着いた。3階会場には数人のメンバーと講師の先生らしき顔が見える。スライドを使用しての今日のスピ-チである。映写機とスクリーンのセットにかかる。7時の開会に何とか上映の準備が完了した。
紹介者の代表幹事から今日の講師の経歴を中心に紹介がある。直近の10年間を歴史街道推進協議会・海外広報部長として活躍された玄道文昭氏である。レジュメを中心に豊富な資料、パンフレットを駆使したスピーチだった。柔和な笑顔を浮かべながら穏やかな口調で「歴史街道」に賭けた思いのたけが語られた。
私にとって「歴史街道」とは、道上洋三の独特のナレーションで毎日のように繰り返し放映される朝日テレビの短時間番組のことだった。目に映った途端、思わず見入ってしまう好番組だ。その「歴史街道」が実は、壮大なプロモーションの一部でしかなかったことを初めて知った。
次のような「歴史街道」構想の背景と具体化の経過を教えられた。
『1980年代のバブル経済期の外国人から見た日本人は「拝金主義」といったの負のイメージが突出していた。こうした見方に危機感を持ったのが松下幸之助氏を座長とする「世界を考える京都座会」の有識者たちだった。関西には国宝の6割、重要文化財の半数が残されている。これらの文化遺産を活用して「顔のある日本」を語れないか。日本の歴史や文化を外国人にもわかりやすく表現して世界の人に日本の素顔を知ってもらおうと構想されたのが「歴史街道」である。その後「京都座会」から三つの目標からなる「歴史街道計画」が発表された。』
『1991年、関西の官民による「歴史推進協議会」が計画の推進母体として発足した。協議会は、歴史街道モデル事業を骨子とする「地域づくり」、朝日放送による”歴史街道~ロマンへの扉~”を骨子とする「観光振興」、世界主要都市で関西の魅力を発信する海外キャンペーンを骨子とする「海外広報」を主な活動内容としている。』
そして「歴史街道」が歴史都市と時代を「つなぐ」ルートであるとの次のような興味深い解説に驚ろかされた。
『関西にはたくさんの歴史都市がある。古代からの自然崇拝の信仰を今に伝える「伊勢」、大陸文化を受容し日本文化の揺籃の地となった「飛鳥」、本格的な古代中央集権国家の成立を見た「奈良」、平安時代から室町時代にかけ国風文化の花開いた古都「京都」、江戸時代に町人文化の成熟した「大阪」、幕末の開港と文明開化を先導した「神戸」などである。「京都座会」メンバーは、「伊勢~飛鳥~奈良~京都~大阪~神戸」と一筆書きにつなぐと、日本史を神代・古代から中世、近世、近代と、ほぼ時代順につないだ「歴史街道ができることを”発見”した。』
講師のスピーチが後半の部に移った。持参の160枚ものスライド写真を駆使しての目で見る「新しい旅の楽しみ方」の提案である。関西の歴史街道の各歴史都市のスポット映像だけでなく、ドイツのロマンチック街道、フランスのアルザス街道、イタリアのアグリ・ツーリズム、アメリカの建築ツアー、韓国の世界遺産街道などが解説付きで次々と写される。全て講師自身が足を運んで切り取ったものだ。単なる観光でない歴史と文化を学ぶ旅なのだ。
それにしても講師の豊かなビジネス人生に羨望の念を禁じえなかった。とりわけ還暦目前までの10年間の歴史街道推進協議会・海外広報部長の職務は他に変えがたい魅力的なものに見える。もちろん人に語れない苦労があったに違いない。とはいえそれを上回るロマンとやりがいに満ちたミッションだったのではないか。
久々の例会は、私に新たな視点と楽しみと興奮をもたらした。
紹介者の代表幹事から今日の講師の経歴を中心に紹介がある。直近の10年間を歴史街道推進協議会・海外広報部長として活躍された玄道文昭氏である。レジュメを中心に豊富な資料、パンフレットを駆使したスピーチだった。柔和な笑顔を浮かべながら穏やかな口調で「歴史街道」に賭けた思いのたけが語られた。
私にとって「歴史街道」とは、道上洋三の独特のナレーションで毎日のように繰り返し放映される朝日テレビの短時間番組のことだった。目に映った途端、思わず見入ってしまう好番組だ。その「歴史街道」が実は、壮大なプロモーションの一部でしかなかったことを初めて知った。
次のような「歴史街道」構想の背景と具体化の経過を教えられた。
『1980年代のバブル経済期の外国人から見た日本人は「拝金主義」といったの負のイメージが突出していた。こうした見方に危機感を持ったのが松下幸之助氏を座長とする「世界を考える京都座会」の有識者たちだった。関西には国宝の6割、重要文化財の半数が残されている。これらの文化遺産を活用して「顔のある日本」を語れないか。日本の歴史や文化を外国人にもわかりやすく表現して世界の人に日本の素顔を知ってもらおうと構想されたのが「歴史街道」である。その後「京都座会」から三つの目標からなる「歴史街道計画」が発表された。』
『1991年、関西の官民による「歴史推進協議会」が計画の推進母体として発足した。協議会は、歴史街道モデル事業を骨子とする「地域づくり」、朝日放送による”歴史街道~ロマンへの扉~”を骨子とする「観光振興」、世界主要都市で関西の魅力を発信する海外キャンペーンを骨子とする「海外広報」を主な活動内容としている。』
そして「歴史街道」が歴史都市と時代を「つなぐ」ルートであるとの次のような興味深い解説に驚ろかされた。
『関西にはたくさんの歴史都市がある。古代からの自然崇拝の信仰を今に伝える「伊勢」、大陸文化を受容し日本文化の揺籃の地となった「飛鳥」、本格的な古代中央集権国家の成立を見た「奈良」、平安時代から室町時代にかけ国風文化の花開いた古都「京都」、江戸時代に町人文化の成熟した「大阪」、幕末の開港と文明開化を先導した「神戸」などである。「京都座会」メンバーは、「伊勢~飛鳥~奈良~京都~大阪~神戸」と一筆書きにつなぐと、日本史を神代・古代から中世、近世、近代と、ほぼ時代順につないだ「歴史街道ができることを”発見”した。』
講師のスピーチが後半の部に移った。持参の160枚ものスライド写真を駆使しての目で見る「新しい旅の楽しみ方」の提案である。関西の歴史街道の各歴史都市のスポット映像だけでなく、ドイツのロマンチック街道、フランスのアルザス街道、イタリアのアグリ・ツーリズム、アメリカの建築ツアー、韓国の世界遺産街道などが解説付きで次々と写される。全て講師自身が足を運んで切り取ったものだ。単なる観光でない歴史と文化を学ぶ旅なのだ。
それにしても講師の豊かなビジネス人生に羨望の念を禁じえなかった。とりわけ還暦目前までの10年間の歴史街道推進協議会・海外広報部長の職務は他に変えがたい魅力的なものに見える。もちろん人に語れない苦労があったに違いない。とはいえそれを上回るロマンとやりがいに満ちたミッションだったのではないか。
久々の例会は、私に新たな視点と楽しみと興奮をもたらした。
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