塩野七生著 「海の都の物語 3」2009年08月01日

 「海の都の物語」第3巻は、海洋都市国家としての最強のライヴァルだったジェノヴァとの抗争物語の第6話「ライヴァル、ジェノヴァ」とヴェネツィアの風俗を扱った第七話「ヴェネツィアの女」で構成されている。
 ローマ帝国崩壊後の地中海は、ビザンチン帝国のギリシャ人と北アフリカを支配するイスラム教徒のサラセン人が荒らしまわる海になっていた。これに対し9世紀以降、西欧勢の巻き返しの先頭に立ったのがイタリアの「四つの海の共和国」だった。アマルフィー、ピザ、ジェノヴァ、ヴェネツィアである。アマルフィーは南イタリアの支配者となったノルマン人によって征服され、ピザは1284年のジャノヴァとの海戦で大敗を喫して相次いで姿を消した。以後、勝ち残り組のジェノヴァとヴェネツィアによる120年以上にも及ぶライヴァル同士の長い闘いが繰り広げられる。
 国家に対する忠誠心や共同体意識の強かったヴェネツィア共和国に対し、ジェノヴァは個人主義のるつぼのような国家だった。そのジェノヴァ共和国はわずかに四家系によって支配階級が構成され、しかも常に二派に分かれて政争に明けくれていた。恒久的な政体を完成し、個人の横暴も多数の横暴も排して国の一体化を進めたヴェネツィアとの違いは大きい。両国の経済的・軍事的な勢力の伯仲が、相手を完全に撃ちのめさせられない情況を生み出した。また海洋都市国家としての両国の純粋に経済上の利権争いという対立要因が、経済上の損失の大きさで争いを中断させるという良識を働かせた。これが闘いと休戦を繰り返し、抗争を長期化させた要因だった。
 1380年に両国は最終決戦を迎える。ハンガリー軍とパドヴァ軍の陸からの包囲に支援されたジェノヴァ海軍が海からヴェネツィアを包囲する。絶体絶命に陥ったヴェネツィア軍が挙国一致体制を取り戻し、起死回生の総反撃に打って出る。このキオッジアの戦いで最終的な勝利をおさめたヴェネツィアはその後アドリア海の制海権も回復する。1年後に両国はハンガリー王、パドヴァ僭主、オーストリア公も加わった「トリノの講和」を締結する。この講和後の両国の推移は対照的だった。ヴェネツィア共和国は東地中海全域にわたる覇権を回復して再び全盛期を取り戻す。他方ジェノヴァは直後の5年間に10人もの元首交代という政情不安を経てフランス王の支配下に入ってしまう。
 「ヴェネツィアの女」で興味深かったのは、ヴェネツィア政庁の建物についての解説だった。その開放的で優雅な美しさが、イタリア・ルネサンスのもう一つの大輪・フィレンツェのまるで要塞のような政庁との比較で語られる。国内で政争の絶えなかったフィレンツェでは政庁だけでなく建物全般に国内の敵からも身を守れる要塞化が必要だったというのだ。4年前にフィレンツェを訪ねた際に政庁の建物を画像におさめた(貼付画像)。あらためて確認してみて合点した。沼沢の上に成立した都という地形上の制約と政情の安定に意を注いだヴェネツィアの風土が優雅で美しい建物群を生み出した。いつかぜひ訪ねたい街である。

平和灯ろう流し2009年08月02日

 昨晩、山口地区の15回目の「平和灯ろう流し」が行なわれた。山口と北六甲台校区の両青愛協の共催行事である。山口、北六甲台、船坂の各小学校と山口中学校の生徒たちが平和の祈りを書いた紙灯ろうが約300個用意された。昼間のうちに会場の山口中央公園の貯水池の川沿いに、ポールが立てられ盆提灯の列が並んだ。両青愛協の役員やボランティアたちが灯ろうの組み立てと会場設営に汗を流した。
 午後6時半から山口センターの公民館で第1部の講演がある。戦争体験者による語り継ぐ平和の願いの催しである。今回は北六甲台在住の83歳のAさんだった。終戦の年は19歳で西宮の尋常小学校の教師だったという。連日の校舎を襲うB29やグラマン等の米軍戦闘機による絨毯爆撃の模様が、資料片手に生々しく語られる。今でも打ち上げ花火の落下の光が、当時の焼夷弾の光とオーバーラップして怯えることがあるという。体験者ならではの心情が吐露される。
 午後8時頃から会場を中央公園に移し、市販の打ち上げ花火を合図に灯ろう流しが始まる。ボランティアたちの手で上手で灯ろうが次々と小川に浮かべられる。流れの勢いがなかったり逆風が吹いたりして思うように流れない。そのつど棒で流したり板で掻いて流れをつくったりして流すほかはない。1時間ばかりを夕涼みをかねて過ごした後、無事終了した。
 戦後60数年を経て、戦争の悲惨さが風化しがちである。イランや北朝鮮による核実験も公然と行なわれている。平和への願いを子供たちに受け継いでいくこの草の根の取組みの役割の大切さをあらためて実感した。
 古い歴史の街に忽然と生まれた広大な新興住宅街が同居する地域である。既存住民と新興住宅街の住民によるこの共同イベントが、新旧住民の交流にそれなりに貢献してきたことは間違いない。

濁流渦巻く有馬川2009年08月03日

 昨日の早朝の散歩道である。前日夜半からの集中豪雨がようやくおさまっていた。それでもいつ降るか知れない不気味な曇天が空を覆っていた。
 有馬川に近づくに従って激しい水音が耳に響きだす。天上橋のたもとから川面を眺めた。段差のある河川堰を茶色い濁流が轟々と音をたてて流れ落ちていた。白いしぶきが渦巻いている。六甲の山並みに降り注いだ豪雨を溜めた有馬川が、見たことのない凶暴な顔つきを見せて目前で暴れていた。
 川沿いの遊歩道を進んだ。中州を形づくっていた背の高い葦のような草が見事に川下に向ってなぎ倒されている。岸辺のなぎ倒された草間に一羽のシラサギが激流を避けるように佇んでいた。いつもなら流れの真中で水中の餌をついばんでいる筈だ。途方にくれたような今日の姿に思わず笑ってしまった。
 自然の猛威が見慣れた風景を鮮やかに切り替える。その変貌ぶりも散歩道を歩く者に恵みをもたしてくれる。

雉が来る街2009年08月04日

 昨日、ようやく近畿地方に梅雨明け宣言が出された。その朝の散歩道だった。見事に晴れ上がったスカイブルーの下を歩くのは何日ぶりだろうか。
 そんな浮き立つ気分で有馬川沿いを歩いていた時だった。河川敷で何やら黒っぽい物体が動いているような気がした。視線を移すと一羽の野鳥が目に入った。上半身の濃いグリーン、下半身の薄茶色、しま模様の長い尾羽、顔を覆う鮮やかな赤・・・。雉だった。デジカメのズームを最大にして、この珍しいわが街への訪問者を収めた。
 梅雨明けの日の散歩道で目にした嬉しい風景だった。雉が来る街に住む愉しさに感謝した。

和解の勧め2009年08月05日

 先日の労働委員会で和解協議が無事まとまった。不当労働行為で申立てのあった案件だったが、途中から労働委員会の和解協議の勧めに労使双方が応じ、2回の協議で和解に至ったものである。
 不当労働行為の審査は、労使双方の当事者に書類作成や審査出席等の多大の労力負担を強いることでもある。1年前後の審査の末出された命令が労組や労働者への有効な救済に繋がるかどうかも定かでない。できれば和解によって当事者双方が合意に至ることが望ましいのはいうまでもない。
 とはいえ双方の和解の意思が確認され、和解協議のテーブルについたとしても、そこに至るいきさつや面子や想いや感情のこじれが、しばしば合意の妨げになる。そうした障害を越えて和解合意に至るためには双方の気持ちの切り替えが不可欠になる。相手の不当性をいかに明らかにできるかというスタンスから、相手の立場やこだわりを理解した上で自らの守りたいこと実現したいことのギリギリのところを見極めなければならない。面子や建前でない実を確保する決断が必要である。
 雇用継続を争った今回の案件では、命令交付時点では定年退職日を超えるはずの申立人・労働者が、命令によって得られるものは自己満足や面子だけといったことが明らかだった。第1回目の和解協議で労働者委員の立場から和解に向けての気持ちの切り替えや確保すべき「実」の見極めを求めた。2回目の和解協議で申立人側からの大胆な金銭和解案が提示され、使用者側がこれに全面的に同意することで一気に和解が成立した。申立人の和解案提示に当たって「前回の労働者委員の和解に向けた検討姿勢の発言を留意した」旨のコメントがあった。労働者委員としての自分なりの貢献を実感させられたありがたいコメントだった。

訪問者向け・地域紹介サイトの更新2009年08月06日

 在住する街の地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」を立ち上げて3年半が経過した。この間のアクセスカウントは1万弱で到底人気のあるサイトとは言い難い。5月から西宮の地域情報サイト「西宮流」のブログに参加した。このブログのコメントや「西宮流」の記者の方との懇談をとおして、「風土記」が西宮の南部の方などが山口を訪ねる際に活用されていることを知った。
 それまでこの街の自然や風物や史跡について、住民の目から思いつくまま多様なサイトを更新してきた。この街を訪ねたい人たちのアクセスを知って、あらためて訪問者の目線で「風土記」を眺めてみた。使い勝手の悪さが目についた。地域外の訪問者向けの入口サイト(ポータルサイト)の必要を痛感した。そこからごく自然に訪問者が知りたいだろう情報を辿れるサイト構成に着手した。
 トップページに「山口散策」のバナーを設置し、そこから下記URLのビジター向け窓口サイト「樹の里・街道の街 山口散策」にジャンプできる。
 一昨日、ようやく窓口サイトを更新し、昨日はその中の一部を次に飛べるサイトを更新した。
 
http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-sansaku-guide-top.html

2009年08月07日

 散歩道で蝉の抜け殻を見つけた。梅雨明けとともにうだるような暑さがやってきた。一斉に鳴きだした蝉のかしましい鳴き声が暑さに追い討ちをかけている。それはそれで小気味のいい騒音である。
 有馬川の桜並木から一匹のあぶら蝉が飛び出してきた。あの独特の羽音が近づいてきた。・・・と思うまもなくナント私の顔にぶつかって、そして飛び去った。驚いた。目の不自由な蝉だったのだろうか。そんな筈はない。脱皮したばかりの飛行もおぼつかない幼い蝉だったにちがいない。
 季節の移ろいにあわせて、生き物たちの育まれた命もまた健気に移ろっていく。

再び光のマジックを求めて・・・。失敗!2009年08月08日

 2枚のデジタル画像を貼付した。左のデジタル画像の撮影日時は2008年8月7日6時2分だ。そう去年の今頃、散歩道で出会った美しい風景を切り取った画像だ。その日のブログには以下の記事がある。
 http://ahidaka.asablo.jp/blog/2008/08/07/
 以来、折を見つけてはもう一度あの幻想の世界を眺めたいと、散歩道の道すがら、その現場に注意を向けている。残念ながら1年を経過して、出会えたことがない。
 ならば1年後の同じ時間なら太陽の位置も同じ筈でキッと出会えるはずと確信していた。ところが1年後の昨日は生憎の曇り空で断念する他なかった。そして1日遅れの今日、夜明けの空は絶好の快晴だった。今日こそアノ光のマジックの瞬間を捉えられると意気込んだ。
 そしてその成果が右の画像である。2009年8月8日6時3分撮影の画像は、見事に失敗している。環境は全く問題なかった。見比べてみると今日の画像の光の角度が大きい。つまり太陽が去年より高くなっている。同じ時間でありながら日の出が去年より早くなっていると考える他はない。
 明日も天気が良ければ今日より10分ばかり早く現場に行くことにしよう。明日のブログにはどんな画像が貼付できるだろうか。

生活習慣を墨守するオジサンの律儀さ2009年08月09日

 ふと覚めた眠りのぼんやりした意識の中で、物干し場の強化ビニールの屋根を無数の雨足が駆けていた。寝返りを打って置時計の発行ライトを灯した。3時10分のデジタル表示が浮んだ。いつの間にか眠りに落ちた。
 再び目覚めたのは結局いつも通りの5時20分だった。雨足が依然として耳を打っている。光のマジックを求めるための早朝ウォーキングは今日も断念するほかはない。寝静まっている家族を尻目に朝食を済ませ、朝刊にゆっくり目を通す。
 いつもより1時間遅い日曜の朝の散策のスタートだった。梅雨が戻ったかのような雨粒が大型のこうもり傘を叩いていた。雨降りの日曜の朝の散歩道に人通りはない。頑なに生活習慣を墨守するオジサンの律儀さに我ながら自嘲する。光のマジックの現場を恨めしく眺めながら通過する。ぬかるみに浸かって濡れたスニーカーの布地がどんどん色濃くなっていく。国道に出る手前の舗装路に頭を潰された小柄な蛇が横たわっていた。今朝の散策で唯一ざわついた気分をもたらした風景だった。

塩野七生著「海の都の物語4」2009年08月10日

 「海の都の物語」第4巻前半は、「第8話 宿敵トルコ」である。1354年、その半世紀ほど前に誕生したオスマン・トルコ帝国がビザンチン帝国のヨーロッパ側の港町・ガリーポリを占拠した。その100年後の1453年、ビザンチン帝国は、マモメッド二世に率いられたトルコ軍によって首都コンスタンティノープルが陥落させられ滅亡した。以来、コンスタンティノープルを首都に据えたオスマン・トルコの本格的な西進が始まった。1463年、トルコの大軍がエーゲ海周辺のヴェネツィア領の海外基地を攻撃し略奪するに及んで、共和国はトルコとの開戦を決定する。共和国のエーゲ海の拠点ネグロポンテが1470年に無残な敗北を喫し陥落する。以降、共和国は、西のハンガリー、東のペルシャの反トルコ陣営との連携を保ちつつ、密かにトルコとの外交交渉も続けることになる。ところがトルコは、1473年にハンガリーと休戦条約を結び、一気にペルシャ軍を総攻撃し東の敵を一掃する。その後、大軍を今度は西に転じ、共和国はトルコ軍との直接対峙を迫られることになる。1477年、同盟関係にあったハンガリーがナポリ王国と共謀してトルコとの講和交渉に入ったという情報を入手するに至って、共和国はトルコとの本格的講和交渉を決意する。1479年、共和国は莫大な賠償金や通商料の支払いと引換えにエーゲ海周辺の基地の確保とトルコ領内の通商・航行の自由を確保することを骨格とする講和条約を締結する。ここに16年に及ぶトルコとの交戦状態にようやく終止符を打つに至る。
 今年3月にトルコを訪ねた。現地ガイドさんを通じて、トルコ人の親日ぶりを実感した。その背景に19世紀末の大国ロシアの南進に苦しむ落日のオスマントルコ時代の気分が色濃く残されていた。極東の小国・日本が日露戦争で強敵ロシアに勝利した。「敵の敵は味方」の論理がトルコ人たちの拍手喝采と親日感を生み出した。旭日の大国トルコの物語である「第8話 宿敵トルコ」を複雑な想いで読了した。
 「第9話 聖地巡礼パック旅行」は、1480年のミラノ公国のある官吏のイェルサレムの聖地巡礼の旅行記の紹介である。それは言い換えればヴェネツィア共和国の観光事業の実態報告でもある。聖地巡礼という宗教的行事もヴェネツィア人が関与すると見事に組織された営利目的のパック旅行にも等しい観光事業に一変するのである。ミラノ、ヴェネツア、アドリア海東岸の寄港地、ペロポネソス半島先端のモドーネ、クレタ島、キプロス島、イェルサレムと続く当時の巡礼路を実際に辿っているような気分に浸りながら読み繋ぐという楽しい紀行文でもあった。