小学校の教壇に立った2007年02月01日

 地元の小学校で120名余りの小学3年生の子供たちを前にして教壇に立った。私のHP「にしのみや山口風土記」を教材とした地域学習の講師である。この間のいきさつは前回の1月27日のブログで記した。
 大学時代に両親の願いもあって中学校の教職課程を履修し、教育実習で教壇に立った経験がある。はからずも還暦を過ぎての40年ぶりの体験となった。この晴れ舞台(?)を喜んでくれるはずの父母はもういない。
 11時からのスタートだった。校長室での雑談の後、3年生担任の先生に案内されて視聴覚教室に入る。机椅子が取り払われた広い空間に足を踏み入れた。カーペット敷きの床に腰を降ろして待ち受けていた大勢の子供たちの視線が、一斉に浴びせられる。正面の白板にはノートパソコンにつながれたプロジェクターを通して、「にしのみや山口風土記」のトップページが写し出されている。
 先生の講師紹介の後、いよいよ本番である。1800世帯、5500名が暮らす新興住宅街のど真ん中に建つ小学校である。住宅街は有馬温泉に通じる街道沿いの古い歴史を刻む集落「山口」の一角を切り開いて開発された。生徒たちの大多数は、両親とともに他所からこの街に引っ越してきた移住民である。両親たちは子供たちに伝えられるこの地域の歴史や自然の知識を持ち合わせていない。「他の地域からの通勤者である私たちも同様です」とは終了後の先生の述懐。こうした事情が、移住民ながらこの地域に20数年在住し、その自然と歴史に魅せられ地域紹介サイトをアップした私を教壇に立たせることになった。
 与えられた60分の時間の30~40分で説明し、残りで質問を受けるという筋書きだ。なんといっても大勢の児童相手の初めてのスピーチである。最初は静かに聴いていても、少し退屈してくるとそわそわしだしておしゃべりを始める子供もいる。声を大きくして注意を喚起するという手法が役立たないことはすぐに思い知らされた。質問こそが効果的なのだ。プロジェクターが写し出す画像をマウスポインターで示して尋ねる。「この大きな樹はどこにあるか知ってる人、手を上げて!」。途端に子供たちの敏感で元気いっぱいの反応が返ってくる。「知ら~んッ」「知ってる、知ってる」。コツを覚えて少しばかり気持ちにゆとりが出てくる。子供たち自身も見たことのある画像中心の授業であることも幸いした。40分ばかりを経過してどうにか予定の内容を話し終えた。
 先生の司会で質問の受付け。「聞きたいことがある人手を挙げて!」という先生の声にあちこちから一斉に手が挙がる。このあたりは大人の世界のセミナーとはかなり雰囲気が違う。周囲を気にしたり物怖じしたりする気配は全くない。「丸山山頂の神社の前に石の狐が向かい合って建っているのは何故ですか」「パソコンを始めたきっかけは何ですか」「有馬鉄道は今どうなっているんですか」「西宮に古墳はいくつありますか」・・・・。質問はとどまるところを知らない。司会者があと3人と区切って12時過ぎにようやく終了。「それじゃ、3年生代表は前へ」と先生の合図に男女二人の生徒が進み出て折り紙で作ったレイを差し出した。「私たちが作りました。今日はありがとうございました。」気恥ずかしさに照れながら、自分でレイを首にかけてあらためてみんなにお礼の言葉を口にした。
 自分の興味や努力が確かな手ごたえで報われた楽しいひと時だった。老後のライフワークと考えていた「にしのみや山口風土記」を通じた地域への関わりの初めての具体的な実践の機会だった。「風土記」にアクセスし、この機会を与えてもらった担任の先生に心から感謝したい。
 快い満足感に浸りながら校長先生に見送られ校門を後にした。

入院の日2007年02月13日

 いよいよ入院の日がやってきた。朝8時前に自宅を出て、天王寺のの市大病院に向う。梅田以外には地理不案内な妻の道案内も兼ねている。妻はこれから何度往復するのだろうか。10時前に病院に着き、入院手続きを済ませ、13階の病棟ナースステーションで担当者に病室に案内される。
 4人部屋の病室の窓側のベッドだった。北側に解放された広々とした窓からの展望は、少なくとも1カ月以上を過ごす住環境としては満足できるものだった。天王寺動物園、通天閣、OBPのツインタワー等が眼下に広がる。
 12時、いかにも病院食といったポリ容器の昼食が配膳される。ところが意外にもまずまずの味だった。同室の人からも食事はおいしいですヨとの情報。食生活もひとまず合格というところか。
 談話室での食事中に、製薬会社のMRをしている息子がやってきた。職業柄、医療知識は人並み以上にある。今日の主治医による治療方針説明に立ち会ってくれるためだ。
 14時15分、治療方針説明が始まった。明後日の手術では、まず指先患部から1cm程度下で切除し傷口を仮止めしておく。手術後、患部細胞の病理検査を1~2週間かけて行い、その結果次第でさらに下まで切除したり、腋下リンパ節の切除手術の是非判断が必要と告げられる。いずれにせよ2度の手術は避け難いということのようだ。説明中に息子は、私が不安に思っていたことを上手に医師から聞き出してくれた。いずれにしろかくなるかうえは医師に身を委ねるほかはない。
 15時30分頃には家族も帰宅し、いよいよ孤独で退屈な入院生活が始まる。大量の文庫本を持参した。30年程前に読んだ司馬遼太郎の幕末をテーマとした歴史小説だ。パソコンの持ち込みは禁じられているが幸い携帯端末Zaurusが手元にある。メールの送受信やNETのブログの書き込みが可能だ。そんなわけでブログ版「闘病記」の方も頑張って更新を重ねようと思う。

入院生活のイメージが見えてきた2007年02月14日

 入院二日目である。治療の方は、入院直前に再発した眼病の診察を受けた。ポスナーフェロスマン症候群という病である。左目の眼圧が一時的に急上昇し、光を見ると周囲に輪ができてかすんで見えるという自覚症状があらわれる。直前の眼科の診察で45もあった左目眼圧は、この間の眼圧降下剤の点眼薬の効果で13にまで下がっていた。
 内科の診察もあった。PET検査で見つかった大腸の2カ所の集積は、入院前の内視鏡検査で単なる生理的なものと判明したが、念のため腹部のCT検査もしておく方が良いとの内科の医師の判断だった。
 明日の手術に備えて主治医のツベルクリン反応のテストがあったり、術後の点滴の実施等の説明もあり、いよいよ山場がひたひたと迫ってくる。
 生活面では、これからの入院生活の過ごし方のイメージが徐々に明らかになる。18階建の高層ビルにおさまった病院の設備環境のレベルは高い。地下1階には24時間営業のファミリーマートが出店している。入院生活に必要な日常品はほとんど揃っている。私のように食事制限のない外科系の患者にはコンビニ総菜が手軽に入手できるのはありがたい。1階には喫茶室を兼ねたベーカリーショップがあり、更に六階には和風レストランまで設置されている。
 入院中も万歩以上のウォーキングだけは続けようと思っている。入院初日の昨日は自宅周辺で少し歩いたこともあり、クリアできたが、今日は夕方になっても8千歩余りである。18階から地下1階まで階段室を下ったり、病室フロアを回遊して尚この歩数である。こちらの方は1日1万歩はかなり厳しそうだ。

さらば指先!2007年02月15日

 手術の日である。11時過ぎに妻がやってきた。2度目の来訪である。12時20分、看護師さんが押してくれる車椅子に乗せられて4階の手術室に向う。入口で手術担当の看護師さんに引継がれ、手術室に入る。そこは手術室ゾーンともいうべき広大なスペースだった。真ん中に主通路が走り、左右に手術室が20室以上も並んでいる。この病院全体の手術室のようだ。車椅子が一番奥の部屋に入る。サークル状の手術灯の下に置かれた手術台が処刑台のように見えるのは気のせいだろうか。 
 手術前の台の調整や各種の検査や担当者の打ち合わせやらの準備が続く。執刀の主治医と指導教官らしき医師、若手の医師の3人の担当医が揃った。右手と上半身の間のフックに掛けられたバスタオルが、局所麻酔で意識のある患者と手術の残酷な現場を遮断している。「それでは始めます」と主治医が告げる。高まる緊張感は覆い難い。
 親指の付け根に麻酔が注射される。ピンセットで摘ままれた指先の痛みが感じなくなるまで何本も施される。歯医者で経験する筋肉が物体化したようなあの何とも言えない感触が指全体を包む。切除部位の確認やマーキングを打ち合せる会話が耳に入る。メスが入れられた様子だが、痛みは全くなく殆ど感触もない。ガリガリと骨を削るかのような音と感触だけが伝わってくる。かなりの時間が経過した。突然、甲高い機械の回転音が耳に入る。何回かに分けて断続的に回転音が続く。指先の骨が切断され、永遠の別れを迎えた瞬間だった。
 その間、ピッ、ピッ、ピッという心拍音とともにドラマでよく目にするそのモニター画像と、足首につけられた血圧計の5分おきに測定される圧迫感、そしてクラシックのBGMの流れだけが時を刻んでいた。思った以上には平静な気分で時を過ごしたと思う。「終わりました」と告げられた時、手術経過時間を表示したデジタル計器のカウントは57分を表示していた。
 右手を覆っていたカバーが除かれ、初めて右手の親指を眺めた。包帯で何重にも包まれた親指は既に2時間前のものではない。これから関節から先のない右手親指との長い付き合いが始まる。利き手だけに日常生活の不便さは想像以上のものがあるに違いない。切除した患部細胞の病理検査結果によっては更に苛酷な治療があるかもしれない。今は唯、これが与えられた現実として冷静に受け止めるほかはない。初期診断時の命に関わる懸念が払拭され、ようやくここまで病状が確定したのだから。

老後生活の予行演習2007年02月16日

 入院4日目を迎えた。初回の手術を終え大きな山を越えた。患部細胞の病理検査は10日から2週間を要するという。次回の手術の内容はその結果で決まる。その間は、腹部のCT検査を受ける以外には特に治療らしきことはない。病院での長い無為の生活が続くことになる。完全にリタイアした後の老後の生活にオーバーラップしてくる。
 入院生活の1日は長いようで短い。元気な時は思いもよらないテレビや昼寝の贅沢をむさぼることも可能である。意識的にコントロールしなければそうしたイージーさに流されそうだ。ここは老後の生活の予行演習の意味でも最低限の規律を課した生活スタイルが必要と思い至った。
 まず健康上からも1日1万歩のウォーキングは何としても継続しよう。過去の経験則からこれに要する時間はせいぜい1時間30分である。とはいえ限られた建物内での歩行でこれを達成するのは骨である。過去3日間は部屋のあるかなり広いフロアの主通路を回遊してクリアした。
 ブログの闘病記の更新は、頭脳の活性化上も有効な手段ある。携帯端末Zaurusのありがたさをあらためて実感した。唯一の難点はNETのアップ・ダウンの処理速度のおそさであるが、そこまでは贅沢というものだろう。ブログの更新で小一時間は費やされることになる。
 次に、読書がある。30年程前に読み終えた司馬遼太郎の「菜の花の沖」の文庫本全6巻を持参した。当分、材料には事欠かない。
 ウォーキング、ブログ更新、読書を定数とし、それ以外の時間でテレビや昼寝を楽しむことにしよう。果たしてそんなにうまくいくのだろうか。

娘の卵焼き2007年02月17日

 入院5日目の土曜日である。14時半頃、入院後初めての休日を迎える娘をともなって妻が3度目の見舞いにやってきた。
 昨日、娘からは携帯メールで「何かほしいものがあったら買って行から」と連絡があった。休日の夕食には、自分で作った海苔を巻き込んだ卵焼きを添えるのが私の定番メニューだ。悲惨な病院食という予想は外れたものの、自宅での食事の味わいは望むべくもない。我が家の味「海苔入り手作り卵焼き」をオーダーした。やってきた娘は、開口一番「朝寝をやめて卵焼き作ってきたで!」。
 久々の家族のおしゃべりで2時間半ばかりを過ごし、母娘は帰っていった。18時になって夕食が配膳される。魚のムニエルが本日の献立である。私の好みからはほどとおい。が今回ばかりはこれを上回る我が家の味がある。海苔を巻き込んだ卵焼きの見事な渦巻き状が、いやがおうにも食欲をそそる。渦巻きの数の多さの分だけ娘の気持ちがこもっているようにも思える。ほどよい塩加減の久々の手作り感あふれる味を堪能した。食後に娘の携帯に「うまかったメール」を発信した。家族への素直な気持ちを表すことの日頃のてらいを、入院生活が取り払ってくれている。

 家族たちの見舞い中に、担当医の回診があった。今一つ理解できないでいた点を家族にも聞かせるつもりで尋ねた。PETやCT検査と患部細胞の病理検査の違いである。「PETやCT等は画像検査により腫瘍の転移の有無を判断する。この結果ではリンパ節も含め内蔵に転移は見られなかった。患部細胞の病理検査は、患部腫瘍の深さで症状の進行度合いを判断し、指針に基づいた治療方針の材料となる。一定以上の深さであれば今後のリンパ節への転移が予測されるので予防的にリンパ節切除手術が必要になる」。納得。

おだやかな日曜の夕刻2007年02月18日

 入院6日目の日曜である。時折、看護士さんの巡回がある以外はなんの予定もない。術後の化膿止めの朝晩2回の点滴も昨晩で終了した。入院後初めて迎えるのんびりした日曜日のひとこまである。
 午前中の大半は、東京マラソンを満喫した。単調な映像が続く中で、トップランナーたちが繰り広げる一瞬の仕掛けをめぐる駆け引きは、緊張感あふれるドラマといえる。
 午後は、昨日、妻に持参してもらった購読誌「ほんとうの時代」3月号を読むことに費やした。典型的なシニア向け月刊誌である。以前メールのやり取りのあった副編集長の田中さんとは、先月末のさくら会例会で初めてお会いした。購読して2年目を迎えるが、号を重ねるごとに馴染んでくるようだ。今月号の特集は「脳が若返る」である。読者にシニアであることをいやおうなくつきつける紙面構成に、当初は抵抗感がなかったわけではない。最近はこの雑誌を通して、あるがままの現実を素直に受け入れることの大切さを教えられている。以前の購読誌「日経ビジネス」が私だけの読み物だったのに対し、こちらは夫婦共通の読み物であることも見逃せない。
 読書の合間に眺める窓からの展望ほど癒されるものはない。高層ビルの13階からの眺めである。都心のど真ん中とはいえ、大阪の主要な建物が見渡せる贅沢さがある。天王寺動物園、通天閣、道頓堀の楕円形観覧車、ビルの屋上に辛うじて顔を出す大阪城の天守の頂き、四天王寺の森、OBPのビル群等々。部屋の窓のすぐ前のベランダの手摺りに時折はとが羽根を休めにくる。トンビなのだろうか。二羽の黒い鳥が戯れながら悠然と舞っている姿さえも心を和ませる。窓際でないベッドだったらこの素晴らしさは享受できない。1カ月以上もの入院生活を、窓際のこの部屋で過ごせることの幸運にあらためて感謝しよう。

入院生活の肥満効果2007年02月19日

 入院1週間目を迎えた。夜寝る前に談話室に設置されている体重計で体重チェックをすることを日課としている(何か定型化した行動パターンを埋め込まなければ間がもたない)。日を追うごとに増加し、1週間で1kgアップを数えている。食って寝るだけの入院生活の効果はてきめんだ。1日1万歩のノルマをこなして尚この有り様だ。歩数アップしか方策はない。10時のCT検査までに5千歩をこなした。
 10時過ぎに連絡があり地下1階のCT検査室に行く。40分ばかり待たされて検査室に入る。PET検査で見つかった大腸内の影の精密検査である。PET検査後の内視鏡検査では単なる生理的集積と判明したが、念のため上腹部のCTもやっておこうとの内科医の判断だった。検査用の寝台に横になり、造影剤が注射される。何か異常が起きたら押して下さいとボタンを握らされる。造影剤の効果でじわじわと腹部が熱くなってくる。検査が始まり寝台を覆っているドラムが高速回転し輪切り状に腹部を撮影する。検査自体は5分ほどであっと言う間に終了した。
 午後のウォーキングで4千歩程を稼いで汗を流し、3時30分からの入浴に備えた。部屋で看護師さんに右手をナイロンでカバーしてもらい浴室に向かう。入院後2度目の入浴である。入浴中の札を浴室ドアに下げ、鍵は閉めずに入る。左手中心に体を洗い洗髪もする。なんとかなるものだ。新たな身体条件のもとでの日常生活に向けてひとつひとつこなしていくしかない。

初めて見た切除後の指先2007年02月20日

 入院8日目、そして手術後6日目である。手術後初めての傷口のガーゼ交換の日だ。昨日の主治医の回診の際に「術後5日間ほど経過し傷口が安定してから交換する」と告げられていた。15時前に看護師さんから連絡があり、部屋の斜め向かいの処置室に入る。執刀医と若手の担当医のお二人が待ち受けている。
 処置用ベッドに右腕を乗せ、手首の下には据置きクッションが敷かれ、手のひらの下にはステンレストレイが置かれて準備完了。患部に何重にも巻かれた包帯の中心部は滲み出た血を吸って赤黒く染まっている。包帯を解いた後には、糸で縛られたガーゼが、乾いた血糊を含んでカチカチに固まって幾重にも覆っている。固まったガーゼの束をほぐすため消毒水がたっぷりかけられる。ピンセットとハサミを持った担当医が柔らかくなったガーゼを上から丁寧に取り除いていく。傷口にくっついたガーゼが引っ張られる度に鋭い痛みが走る。脂汗が滲んでくる。最後のガーゼが除かれた時、緊張感がピークに達し、一気に脂汗が噴き出たのが自分でもわかった。「気持ちが悪くなるようだったら目はそむけておいて下さい。失神する人もいますから」という担当医の言葉に「大丈夫です。見ておきたいですから」と答えた。
 それは信じ難い光景だった。ホラー映画を見ているような光景だった。関節から先の指先の上半分が見事に抉れている。その赤黒いグロテスクな肉の形に思わず唾を飲み込む。「傷口そのものはキレイな状態で安定しています。もちろんこのままの形でなくだんだん指の形に整えていきます」との医師の言葉に幾分慰められる。
 傷口を消毒し、真新しいガーゼと包帯が患部を包む。今後は2日に1度の頻度で交換するとのこと。2日毎にこの醜悪な肉体の一部にお目にかかれるわけだ。
 ついでながら、昨日の上腹部CT検査の結果も告げられた。「特にどこも問題はありませんでした。後はPETでも検査できなかった脳のCTをしばらくしてやります」
 約15分の包帯交換だった。精神にダメージを与えた刺激的な時間だった。

遺伝子の不思議2007年02月21日

 入院9日目は慌ただしい一日だった。
 午前中、弟夫婦が見舞ってくれた。1階喫茶室での会話の中心が、お互いの病のことになるのはやむを得まい。昨年の暮に私の深刻な病が見つかり、弟に連絡した。励ましの言葉をかけてくれていた弟もまた、その直後に脳梗塞という重大な病に見舞われていた。実は、私と弟とは一卵性双生児である。これ程深刻な病をかって経験しなかった二人が、ほぼ同時期に大病に見舞われたのだ。単なる偶然と片付けられない、想像を越える遺伝子の不思議を思った。それだけに弟の脳梗塞は、同じ体質と同じ食生活の嗜好を持った私の脳梗塞のシグナルと受止めるべきだろう。弟夫婦が語ってくれる脳梗塞の予防と検査の情報を真剣に受け止めた。
 午後一番に担当医の回診があった。早速、弟の脳梗塞の件を伝え、脳のMRI検診を打診した。「何も症状が見られない状態でのMRI検査は保険適用上の問題がある。但し、この後、予定している脳のCT検査の結果少しでも疑問があればMRIも実施する。」とのこと。
 15時過ぎに妻が3度目の見舞にやってきた。2時間近くをかけての来訪に感謝。持参の手作り卵焼きや焼き海苔、インスタントコーヒーが、日に日にウェイトを増してくる食生活の楽しみのカンフル剤となる。1日おきの入浴が16時に割り当てられていた。自宅では何とも思わなかった入浴前後の妻の世話が、入院生活の中でこそ見えてくる。
 17時前に、大阪市大医学部の学生のヒアリングがあった。発病経過、手術後の状況、過去の重大疾患、親族の重大疾患等が尋ねられる。ヒアリングとは言え、こちらの素朴な疑問にも一生懸命答えてくれる。ナースステーションの前に「本院は教育病院です」とのポスターが掲示されている。大学付属病院の特性を好意的に受止めた。