堺屋太一著「豊臣秀長(ある補佐役の生涯)」2008年12月01日

 書棚にあった堺屋太一著「豊臣秀長」を20年ぶりに読み終えた。豊臣秀長という知っているようで知らなかった人物の物語という以上に、「ある補佐役の生涯」というサブタイトルに惹かれて購入した記憶が残っている。もちろん「巨いなる企て」の著者である才人・堺屋太一の作品であることも主要な動機だった。
 優秀な経済官僚として20年近いビジネス経験を踏んだ堺屋太一は、ビジネス社会の在り様、生態、本質を独自の鋭い視点で把握しているかに見える。その資質をもって歴史小説を描いたらどうなるかを初めて世に問うたのが「巨いなる企て」だった。それは石田三成という人物のそれまでの「小ざかしい才子」といった通説を見事に覆した秀作だった。三成が仕掛けた「関が原合戦」を、企業の中堅幹部が実質的な創造者とする日本的プロジェクト・メイキングの原形と断じた視点と企画性に度肝を抜かれたものだ。
 「豊臣秀長」もビジネス社会に不可欠な機能でありながら、極めて希少な「補佐役」という存在に焦点を合わせて描かれた作品である。、稀代の英雄である秀吉というトップに仕えた実弟・秀長の「名補佐役」としての生涯を描き切っている。読者をして補佐役の重要性とその役割に引き込ませてしまう。
 この作品の秀吉と並ぶ準主人公は信長である。信長の持つ時代を見据えた洞察力、自らの政権に対する構想力、構想を実現していく戦略性と実行力との対比で秀吉兄弟の在り様が描かれている。そして信長の人を機能としか見ない苛烈さに対峙する兄・秀吉の過酷さを秀長は補佐役として見事にカバーする。信長亡き後の天下取り競争での秀吉の勝因をこの補佐役の有無にあったとまで言及している。
 私がこの作品を初めて読んだのは、労組役員を辞して現場復帰した直後だった。自らが補佐役となるのか補佐される側に回れるのかは別にしても、補佐役の機能を新鮮な気持ちで受止めた記憶がある。今回リタイヤ直後の読後感も爽やかで説得力のある作品だった。

近江八幡・・・途中下車2008年12月02日

 毎年この時期にチェーンストア労組のOBと現役の懇親会がある。今回の会場は新幹線掛川駅が最寄駅の静岡県の袋井市のホテルである。いつも当日朝から出掛けて途中下車してどこかを観光することにしている。同じ会議に出席予定の三田在住の友人を誘った。
 懇親会当日の今日、友人とJR車内で合流して、今回の途中下車観光の目的地・近江八幡駅に昼前に到着した。駅の北口観光案内所で千円の「近江八幡・観光パスポート」を購入し、ぶーめらん通りと名付けられた大通りを観光の中心スポットを目指して北に向う。
 晴れ渡った初冬の穏やかな日差しの中を30分ばかり歩くと、白い板壁の昔ながらの校舎の風情を残した建物が見えた。正門の石柱には「近江八幡市立八幡小学校」の看板が掛けられている。すぐ近くの通りには「池田町洋風住宅街」があり、テレビカメラを抱えた撮影クルーが住民らしき人をインタビューしていた。この地に住みついた米国人・ヴォーリズが大正年間に米国式モデル住宅として設計した赤レンガ塀の街並みである。その西方の広大な敷地に建つ本願寺八幡別院の表門前を通り、東に折り返す。郷土資料館横は南北に情緒豊かな見事な通りが走っている。近江商人発祥の地の面影を今にとどめる商家や白壁土蔵の残る「新町通り」である。その一角の江戸期の商家である「旧西川家住宅」を見学する。
 新町通りが八幡堀で途切れた右側に昼食を予定していた「郷土料理店・喜兵衛」があった。昔の商家をそのまま使った店内の客間に案内される。おすすめの「喜兵衛御膳」(2,625円)を注文する。味の沁み込んだ「鯉の煮付け」の後、地元の食材が満載の「御膳」が運ばれる。しゃぶしゃぶ風近江牛、赤コンニャク、丁字麩、でっち羊羹などが赤い塗り箱に色鮮やかに盛り付けられている。ちなみに観光パスポート持参者は5%割引である。
 テレビや映画の時代劇の舞台としてしばしば登場する八幡掘の風情を楽しみながら次のスポットに向う。時間さえあれば手こぎ船での水郷めぐりを体験したいところだが今回はパス。千年以上の歴史を誇る日牟禮八幡宮を参拝し、すぐ北のロープウェー乗場に行く。15分おきに出発するロープウェーで標高270mほどの八幡山山頂に約4分で一気に運ばれる。山頂には豊臣秀次が築いた八幡山城の遺構があり、奥には遥か琵琶湖の絶景を遠望できる西の丸祉と北の丸祉がある。石垣跡をめぐりながら正面に出ると、本丸跡に建立された秀次の母を開基とする尼寺・瑞龍寺がある。参拝を済ませロープウェー駅に向う。途中の展望台から東の彼方に安土城祉のある小山が見えた。
 ロープウェーを降りた時、時刻は14時30分近くになっていた。ヤバイ!近江八幡駅を15時2分発の新快速電車に乗車しなければならない。駆け足で「かわらミュージアム」を見てまわり駅に急いだ。途中でどうにも間にあいそうもないとあせりだした。ぶーめらん通りに出てようやくタクシーを掴まえ、何とか予定の電車に乗車した。
 米原で新幹線に乗換え、掛川駅に17時に到着。改札口を出た所で懇親会の幹事役の現役労組の役員と合流。遅参の参加者を待って送迎車で会場ホテル「葛城・北の丸」に着いたのは18時過ぎだった。日本庭園に囲まれた武家屋敷を思わせる純和風の格調高い建物である。ゆっくりと大浴場で汗を流した後、19時から懇親会が始まった。年1回の懐かしい顔ぶれとの再会の場である。時を忘れテーブルをめぐりながら旧交を温める。カラオケと酒席に分かれての二次会を終え、ベッドに入った頃には日付はとうに変っていた。

寸又峡温泉と大井川鉄道SL列車の旅2008年12月03日

 寛ぎの宿「葛城・北の丸」の部屋の6時30分のモーニングコールで目覚めた。5時間ほどの睡眠ながら前後不覚の快眠だった。和洋取り揃えた朝食バイキングが二日酔い気味の胃袋に心地よく納まっていく。
 出身労組の仲間たち四人で7時半に宿を出て、現地周辺の観光に出かけた。行先は大井川鉄道とバスを乗り継いでの秘境・寸又峡である。東海道本線の掛川駅から上り二駅先の金谷駅まで行く。金谷駅から大井川に沿って大井川鉄道が千頭駅まで運行している。9時16分、旧国鉄の払い下げとおぼしき思い切り古びた車両が金谷駅を出発した。冬場で水量の少ない大井川を右に左に眺めながらの1時間15分の列車旅だった。各駅停車の古びた車内が子供の頃の郷愁を誘う。駅ですれ違う車両を見て驚いた。これまた古びた近鉄特急の車両ではないか。ローカル私鉄線の存亡をかけた涙ぐましい努力に頭が下がる。案内パンフレットにはこのほか京阪、南海の旧型車両も今尚現役で運行されていることが誇らしげに掲載されている。この健気さと図太さがあればこの路線は間違いなく存続するに違いない。
 終点・千頭駅で接続の路線バスに乗り換える。渓谷を見下ろしながらカーブの多い狭い山道を中型バスは約40分走り続ける。途中、古いダムや発電所等のビュースポットでは一時停車してドライバー自らガイドに早変りする。ここでもサービス精神溢れた従業員たちのガンバリに感動したりする。
 寸又峡温泉に11時20分に到着。バス停すぐ傍の予約のホテル「翠紅苑」の玄関前の石畳を踏む。とりあえず温泉に浸かることにする。タオルを貰って奥まった浴場に案内される。真昼間の露天風呂の贅沢を噛みしめる。木漏れ日の斜線が湯けむりを縫っている。入浴を済ませ食堂に戻ると「日帰り入浴プラン」の松花堂弁当が用意されている。食後は「夢の吊り橋」をゴールとするウォーキングコースに出かける。出発してすぐのところに見ておきたいと思っていたスポットがあった。アノ「金嬉老事件」の篭城の舞台となった「ふじみや旅館」である。つい先日、テレビ朝日でこの事件のドキュメント番組を見てブログにコメントしたたばかりである。 
 「衝撃事件の40年の落差」http://ahidaka.asablo.jp/blog/2008/11/24/ 
 温泉旅館の並んだ通りを抜けると、車両通行禁止のプロムナードに入る。左右を山に囲まれた渓谷沿いの山道を大自然一杯の空気を味わいながら進む。トンネルを抜けるとまもなく吊り橋が見えてくる。鉄製の急な階段を降り、細い脇道を下っていく。人造湖の鮮やかなエメラルドグリーンの湖上に白い吊り橋がゆらゆらとゆれている。「11人以上の通行は危険です」という注意書きが怖さを煽っている。高所恐怖症で通行を嫌がる仲間の一人を間に挟むように拉致して先頭を歩く。かなり前を歩く若いバカップルが面白がって揺らしている。その度にくだんのオジさんの引きつった嬌声が上る。全長90mのスリルがようやく終点となる。少し待って再び折り返す。もと来た道を辿ってプロムナードを出た。その先の土産物屋で各自お土産を求め14時25分発のバスに乗車した。 
 千頭駅では最後の愉しみが待っていた。金谷駅までの約80分をSLで帰るのだ。駅のホームには既にSL「C10 8」が入線している。往路には見られなかった団体客を含めた多くの乗客たちがホームを埋めている。にわかカメラ小僧に変身したオジサンやオバサンたちが夢中で先頭車両のヘッドや運転室をカメラにおさめている。千頭駅を出発したSL車内には車掌服に身を包んだ年配のオバサンが乗車している。ハンドマイク片手に沿線ガイドをしてくれる。ガイドだけではない。小型ハーモニカで懐かしのメロディーを演奏したかと思えばSL音頭らしき唄も歌っている。大井川鉄道のなんとも多才な名物ガイドさんのようだ。
 金谷駅から掛川駅と乗り継いで新大阪駅には20時頃に到着した。秘境温泉とSLの旅が終着駅に着いた。

二日遅れの家内の誕生日の出来事2008年12月04日

 一泊二日の懇親会旅行に 出かけた二日前は家内の誕生日だった。娘もその夜は友人との食事で遅くなるといっていた。ひとりぼっちの誕生日を過ごす羽目になった家内は、結局近所の仲の良い友人とのお買物と食事で過ごしたようだ。
 とはいえ、長年の連れ合いとしてはそれで済ますわけにはいかない。二日遅れの誕生日をフランス料理のレストランの昼食で祝うことにした。ところが三田の評判の高い小さなその店は、オバサン族で満席だった。やむなく近くの寿司店の日本料理に切替えた。差額料金分を誕生ケーキで埋め合わせるため「三田阪急」内のケーキ屋さんに向った。
 「チョコレートのお祝いメッセージはどうしましょう?」と聞かれた家内は、一瞬の間を置いて「お願いします」。(エ~その歳で!)「お名前は?」「○○子で・・・」と自分の名前を告げる家内。(まさか)「○○ちゃんですネ」「・・・・」(きっちり孫娘用のケーキと思われてる)「ローソクは何本おつけしますか?」「6本お願いします」「小さいローソクですネ?」「・・・」(この間が問題。意を決したかのように)「大きいローソクで・・・」(ア~アッ、本人用ケーキがバレバレ)
 二日遅れの家内の誕生日の、ケーキ屋さんでの家内の意表をついた振る舞いに意外な一面を発見した。

歯が痛い~ッ・続エピローグ2008年12月05日

 歯神経を取った後の痛みと炎症は徐々に治まるはずだった。あれから10日が経つ。私の歯の痛みと炎症は依然として続いている。というわけでやっぱり「歯が痛い~ッ・続エピローグ」をコメントする羽目になった。
 治まるはずの痛みや炎症が引かず地元歯科医院への不信感が募った。結局5日前に途中で診察してもらった総合病院で再診を受けた。歯神経を取った後の炎症を抑える独自の治療が施された。そして今日はその後の経過を診るための再診日だった。歯神経を取った歯と隣りの歯がグラグラになっている。その周辺の歯ぐきの腫れも酷くなっている。「この二本の歯を残したままでは治療は難しいですネ」と宣告される。ぐらぐらの歯を抱えて食事もままならなかったので「二本とも抜いて下さい」と即座に返事する。
 「歯が痛い。今の私にとって世の中がどんなになろうと、この事の方が大問題なのだ」。学生時代に読んだドストエフスキーの「地下生活者の手記」で主人公が確かこんな意味のことを呟いた記憶がある。実存主義の真髄を突いたともいわれるこの言葉を、痛切に実感させられる日々が続いている。

初めてのエアロビクス2008年12月06日

 11時から15時まで地元小学校の体育館で汗を流した。地区の意青少年愛護協議会主催の「家族ふれあい塾」のお手伝いをした。11時に体育館に集合し、備品の準備をした後、昼食の「ほか弁」をいただいた。
 開会の12時半にはお母さんに連れられた子供たち20数名が、体育館を走り回っている。数名のお父さんも参加し、20数名の保護者たちに私たちお手伝い組、それに地元中学校二年生のボランティア8名の総勢60数名が整列した。青愛協会長の挨拶の後、第1部のゲーム大会が始まる。じゃんけん列車で参加者どうしの顔合わせをし、紙ひこうき飛ばし競争では5人一組で飛行距離を競う。私も子供の頃の記憶を頼りに一機作成し、競技に加わる。私が覚えていた方法は、残念ながら滞空時間を重視したもので飛距離を競うこの競技では3回戦であえなく敗退。最後のゲームはパン喰い競争ならぬ駄菓子取り競争だ。
 休憩の後、第二部の親子体操&エアロビクスが始まった。西宮市のリーダーバンクから派遣された二名の女性講師が指導する。参加者全員でグループ別のフラフープリレーなどで汗を流す。その後はエアロビクスダンスの指導である。この歳までおよそ縁のなかった初めて体験するエアロビクスである。フリの間違いやついていけないリズム感は如何ともしがたい。 
 15時から所用があって途中リタイヤとなったが、無邪気で人なつこい子供たちとのスキンシップや若いお母さんたちとの交流は、地域ボランティアへの参加を通して広がっている。

福岡国際マラソンにみるアフリカ勢のパワー2008年12月07日

 福岡国際マラソンを観た。11月の東京国際女子マラソンでの渋井の無残な失速のドラマが記憶に新しい。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2008/11/16/
 期待していたドラマは起こらなかった。優勝こそ逃したが2位から4位までを日本人招待選手が占めるという結果だけを見ればよく頑張ったのかもしれない。ただ記録面から見れば日本の男子マラソンの復活はほど遠い。優勝したエチオピアのケベデは大会記録を塗り替える2時間6分10秒という好タイムである。ゴールテープを切った後も余裕しゃくしゃくで笑顔すら浮かべている。それでもこの記録は世界記録の2時間3分59秒に2分11秒も下回っている。2位の入船は2時間9分23秒とケベデから遅れること3分13秒である。
 男子マラソンの歴代記録のベストテンをケニア7名、モロッコ2名(1名は現在アメリカ国籍)、エチオピア1名とアフリカ勢が独占している。過酷な熱帯地域の環境で育まれた長距離走に適合するDNAが近代的なトレーニングを施された途端一気に記録を塗り替えてしまう。今回の福岡国際マラソンの優勝者とそれ以外の記録差は、今後のアフリカ勢とそれ以外の諸国の決定的な違いを物語っているように思える。  
 ところで女子マラソンの歴代記録のベストテンは、日本の野口、渋井、高橋を含めアジア勢5名、欧米人3名、アフリカ勢2名である。マラソン界へのアフリカ人女性の参入の遅れが辛うじて日本の面目を保っている。

霜景色の散歩道2008年12月08日

 早朝ウォーキングの時間が遅くなった。秋頃までは6時過ぎに出かけていたが、今や7時45分スタートである。朝の連続テレビ小説までに終えていたウォーキングが見終えてから出かけるようになった。6時過ぎの暗さと寒さはウォーキングに耐え切れない。
 今日も家を出た途端、真冬並みの寒さが身を包む。住宅街周辺の貸し農園の稲の切り株には白い霜が覆っている。水溜りを覆う氷の鋭い冷たさが冬の到来を告げている。田園地帯の畦道をシャリシャリと霜を鳴らしながら進む。霜の下の凍った土が靴に押しつぶされて呻き声をあげている。
 霜が織りなす見渡す限りの淡い白さに、ちょっとした感動を覚えてしまう。

異業種交流会の忘年会2008年12月09日

 夜6時45分から異業種交流会・大阪さくら会の総会兼忘年会があった。夕方5時前のJR最寄り駅行のバスに乗った。考えてみればこんな時間に駅に向うバスに乗るのは初めてである。現役時代は通勤帰りの例会参加だったから、リタイヤ生活ならではのことだろう。さすがに車内の乗客数は少ない。駅に着いたときでもわずか4人だった。
 地下鉄・心斎橋駅を下車し、心斎橋通りを歩いた。流行の先端ファッションに身を包んだ若者たちが闊歩する関西有数の商店街である。クリスマスシーズンを迎えアーケードや商店の壁を彩る鮮やかなイルミネーションが、通行客たちの気分を和ませている。駅から徒歩数分の所に会場の「チャットバー・kamakura」があった。大阪さくら会でも二度ばかりライブ演奏してもらったアノ「鎌倉研さんの店」である。定刻前の店内では鎌倉さんご夫婦が準備に余念がない。
 6時半頃からさみだれ的に会員の来店が続く。定刻には狭い店内が満席になった。司会役の岡幹事の総会議事が始まる。パワーポイントで作成された議案が配られ、大阪さくら会のコンセプト、行動指針、活動スローガンが再確認される。これまでの104回にも及ぶ例会記録や約60名の会員の今年の出欠状況が報告される。そして来年度の活動テーマを「原点回帰」としキーワードを「美酒美味、個性、地域、文化、交流」とする幹事会提案があった。その後、井上代表幹事の開会挨拶と乾杯発声があり、以降ワイン片手の自由懇親に突入する。
 自由懇親の盛り上がりの中で第二部の会員近況報告が始まる。登録会員の半数近い25名もの参加者である。別名「異人種交流会」の名に恥じない一騎当千のつわものたちの個性溢れる報告が続く。第3部はフォークライブである。この店のマスターでフォークシンガーでもある鎌倉研さんの弾き語りが始まった。ところが残念なことに店内スペースと収容人員のミスマッチが大きい。店内奥の壁際に陣取った研さんの歌声は、すし詰めの店内の人いきれとざわめきの中で埋もれてしまっていた。何はともあれ10時過ぎに3時間以上に及ぶ今年の総会兼忘年会が川島代表幹事の締めの言葉で終了した。

オヤジ二人のカウンター席2008年12月10日

 3ヶ月前に奥さんを亡くしたばかりの友人と久々に二人で呑んだ。誘いを受けて日程を労働委員会の定例会の今日に合わせてもらった。夜6時に地下鉄御堂筋線・本町駅を上った所で待ち合わせて、以前行ったことのある「囲炉裏料理・西海」という店に案内した。
 前回は四人だったので囲炉裏のある個室だったが、二人連れの今回はカンター席に案内された。真っ赤な炭火の入ったコンロの上でオーダーした素材を自分たちで網焼きするという趣向である。ホッケ、ウルメ、シシャモ、イカなどの一夜干しや地鶏串を網に載せながらジョッキを傾けた。カウンター席はオヤジ二人がしみじみ語り合いながら杯を重ねるのに格好の舞台だった。
 葬儀後初めての懇親の機会だった。私が友人夫妻の媒酌人を務めた間柄でもある。自ずと話題は亡き奥さんとの晩年の思い出から始まる。4年半に及ぶ闘病生活の果ての53歳という若すぎる死だった。家庭生活を犠牲にしても責任あるポストの激職を仕事一筋でこなしてきた友人だった。奥さんからすれば決して良い夫とは言い難かったかもしれない。その彼が3月に激職から一歩離れたポストに移り、ようやく一息つける立場になった。その頃から夫婦揃っての海外旅行などが話題になりだした。その3ヶ月後の奥さんの病魔の再発だったという。友人の欠かすことのない朝のひと時の病室訪問の日々が始まった。恐らくそれまでの夫婦生活で交わした会話を超える質と量の会話が、死の直前まで交わされたに違いない。その3ヶ月間を友人は良き夫のラストチャンスとして生かし切った筈だ。とはいえ定年を目前にしてパートナーを失ったことの痛手は余りにも大きい。彼が描いていた老後スタイルは根底から覆されたのではないか。
 「同居の子供たちの帰りが遅い時など、ひとりで呑みに行くことがある。これまで考えたこともないことだ。誰もいない家でひとりで食事をする気になれないから」。失ったものの大きさと哀しさがこめられた彼の呟きだった。