天空の城・竹田城址2009年03月30日

 「天空の城」という異名を持ち、「日本のマチュピチュ」とも呼ばれる史跡がある。昨日、知人に案内されて訪ねた但馬の朝来市竹田にある竹田城址がそれである。
 丸山川を左に見ながら312号線を北上していた。車窓越しに眺めていた山並みの平坦な頂きに角ばった構造物が見えてきた。山頂の造作物としては驚くほどの広がりを持っている。標高350m余りの古城山の山頂に築かれた竹田城の初めて目にする城跡だった。近くに山荘を持っている知人は、来客の都度何度も案内しているスポットである。それだけに車で山頂間近に迫れる登頂ルートを知っていた。
 「史蹟・竹田城址」の石碑と来歴を伝える案内看板があった。室町時代中期の1430年頃から13年をかけて但馬国守護大名・山名宗全によて築城されたと伝えられている。その後現存の完成された城郭に整備されたのは戦国時代末期の16世紀後半頃と推定されている。山名氏の家臣だった太田垣氏が長く城主を守り継いだが、信長の命による秀吉の但馬攻めにより落城した。その後、秀吉の弟小一郎・秀長が城代となり、後に秀長の武将桑山重晴が城主となった。その桑山重晴の転封に伴って龍野城主赤松広秀が城主となり、その自刃により廃城を迎える。
 案内看板のすぐ横の城郭に至る石段を登る。近江穴太衆の穴太流石積み技法を用いた野面積みの見事な石垣が間近に展開する。案内看板にはこの城の縄張り(城郭の基本設計)図面があった。それによると天守閣のある本丸を中心に北に北千畳、南に南千畳、西に花屋敷と呼ばれる郭が三方に広がっているようだ。
 石段をのぼった所が北千畳と呼ばれる広場だ。東に雄大な展望が広がっている。東西の山並みを円山川が縫うように走っている。その沿岸に竹田の集落が細長く南北に展開している。地図で調べるとここが丹波と播磨の接点となる但馬の街道の要衝だったことが分かる。その最も狭隘な地点に位置するのがこの古城山であり、その頂きに建つのが竹田城だ。築城の戦略的配置が偲ばれる。西側には南千畳の4本松の老木が印象的な美しい光景が望めた。 
 大手門、三の丸、二の丸と続く遺構を辿り、本丸跡に着いた。西側の一段低い広場が花屋敷と呼ばれた郭のようだ。西側の展望にひと際目を引くコンクリートの長い眼鏡橋がある。播但有料道路の丘陵と丘陵を跨ぐ架橋である。本丸跡の東端に一段高い石垣がある。天守閣の基盤跡だ。立掛けられている木製のハシゴを登り、城跡の最も高い位置から360度を展望する。通常、廃城となった城跡の周囲は木々が覆っている。この城跡にはそれがないため、城跡からは下界を一望でき、山麓や周辺からは見事な石垣の長大な列を展望できる。天主基盤跡から見下ろす講武所(南二の丸)から南千畳にかけての壮大な石積み跡は見事の一語に尽きる。
 本丸跡から南千畳に向う。南に伸ばした翼のような郭の先端に絶景が広がっている。入り組んだ山肌の狭間を蛇行して流れる円山川とその周辺に点在する民家と田畑が遥か彼方まで見晴らせる。振り返ってみると天主閣跡を中心に北千畳にかけての石垣群の迫力のある威容が目前にあった。
 山麓に円山川を抱いた城跡である。冬場の好天の日のよく冷えた朝には円山川からは濃い朝霧が発生し雲海となって古城山を包み込む。その時に城跡から眺める景色はまさしく雲海に浮ぶ「天空の城」なのだろう。ネット上には多くの人が撮影した「天空の城」がある。写真撮影には相当の覚悟と労力が必要だった筈だ。それだけの苦労をいとわせないだけの価値ある絶景を手に入れたに違いない。一度は「生の天空の城」を眺めたいと痛感した。