三家族揃っておせちを囲んだ2013年01月01日

 昨日夜9時過ぎに息子夫婦が帰省した。東京転勤直後で、両国の新居のマンションから新幹線での帰省だった。帰省中の娘夫婦も含めて今年も家族三夫婦が無事に顔を揃えた。
 今朝は6時半頃に目覚めた。リビングにはもちろん一番乗りである。今日ばかりはウォーキングに出かけるわけにはいかない。朝刊を開いていると家内が二階から降りてきた。主婦として三家族6人の雑煮づくりが待っている。息子夫婦、娘夫婦が相次いで起きてきた。
 8時過ぎからは元旦恒例の仏壇前でのお勤めをした。二人の子どもたちと一緒に我が家の宗旨のお経・正信偈を読誦(どくじゅ)する。婿殿も後ろで正座して付き合ってくれている。嫁は家内と一緒に朝餉の準備に余念がない。我が家の元旦朝の穏やかで幸せなひとコマである。
 新年初めてのお雑煮とおせちの朝餉が始まった。私から「明けましておめでとう」と声をかけて皆で箸を取った。おせちはネットで予約し、昨日の昼過ぎに配送された割烹料亭「千賀」の三段重である。63種の品が彩り鮮やかに詰め合わされいる。いかにも日本的な繊細で手間暇かけた料理だ。それぞれの品の素材や調理を話題にしながら味わえるのもおせち料理の愉しさである。
 10時過ぎには娘夫婦が京都の婿殿の実家に帰った。昼食を息子夫婦と外食した後、親夫婦はこれまた恒例の初詣に出かけた。公智神社と丸山山頂の稲荷神社に詣でて4時過ぎに帰宅した。息子の嫁は実家に帰り、息子と三人の元旦の夕食を囲んだ。賑やかだった束の間の三家族の団欒が過ぎ去った。

門戸厄神初詣と西宮ガーデンズ2013年01月02日

 昨日、娘夫婦が婿殿の実家に戻り、息子の嫁も実家に戻った。息子だけが泊っている正月二日の朝を迎えた。朝食を終え、息子の食事の準備だけを済ませた家内と門戸厄神にお参りすることにした。
 8時半過ぎに自宅を出て、さくらやまなみバスに乗車した。門戸厄神から西宮ガーデンズと巡るには駐車場探しが煩わしい。金仙寺経由の最短コースのバスは1時間で西宮北口に到着した。阪急今津線でひと駅の門戸厄神駅ではさすがに初詣で客が大勢下車した。人の流れに沿って歩くこと約10分で「高野山真言宗別格本山・門戸厄神東光寺」に着いた。
 門戸厄神は初めての参拝だった。丘陵地山麓の狭い斜面に多くの伽藍が建つ仏閣である。風格のある表門の奥の階段上に朱塗りの堂々たる中楼門がある。その奥に本堂ともいえる厄神堂が建つ。厄神堂前の境内の大きな線香立てにはもうもうと煙がたちこめている。周囲を大勢の参拝客が囲んで手で煙を掬って身体にかけている。厄除けのおまじないのようだ。厄神堂で参拝を済ませて薬師堂、奥の院、愛染堂、延命魂、太子堂と巡って帰路に着いた。
 11時前に西宮ガーデンズに着いた。阪急百貨店の婦人服売場で家内と別れて紳士服売場に向かった。電車のICカードケースを兼ねた名刺ケースの傷みが酷い。お正月用の福財布のコーナーで好みのケースを見つけた。しばらくしてやってきた家内は「同じブランドの揃いの財布も一緒に買ったら?」と勧めてくれる。渡りに船と即購入。イズミヤの家電売り場では家内が探していた電子レンジが在庫処分のお買得価格で販売していたのでこれも購入。フードコートでようやく席を見つけて食事をとった。夫婦で初めて訪れた西宮ガーデンズでの何かと収穫の多いお買物を終えて、復路もやまなみバスで帰宅した。

やまなみバスの往復をたっぷり読書した2013年01月03日

 昨日、西宮ガーデンズのイズミヤで電子レンジのお買物をした。ただサイズと設置場所のスペースに不安があったので予約だけに留めていた。帰宅後、サイズを確認してあらためて決済のため出向くことになった。二人で行くほどのことはない。帰省した子どもたちの世話で忙しかった家内を見てるだけに「ここは出番」と観念した。
 そんなわけで、今日の午前中、ひとりで再びやまなみバスでガーデンズを訪ねた。開店直後にイズミヤの家電売場に着いた。昨日の担当者は不在だったがキチンと引継ぎがあったようだ。パートらしき中年女性にテキパキと処理してもらい15分ほどで決済と配達手配を終えた。食品売場で好みのおかきなどの買物で時間をつぶし、帰りの11時のバスに乗車した。
 かぶとやま荘、有馬温泉、すみれ台を経由する最長乗車系統のバスだった。家内に電話して30分ばかり短縮できる船坂橋まで出迎えてもらった。往復2時間ほどのバス車内で読みかけの文庫本「藤沢周平のすべて」をたっぷり愉しんだ。
 迎えの車には、息子も同乗していて一緒に回転寿司でランチした。その足で嫁の実家を訪ねるという息子を、神戸電鉄の最寄り駅で見送って帰宅した。
 子どもたちがそれぞれの生活の場に戻り、再びよく喋る家内との静かな?夫婦だけの生活が訪れた。

3D映画「ジョン・カーター」DVD版2013年01月04日

 大晦日にレンタルしていた3D映画「ジョン・カーター」DVD版をようやく観た。我が家に3D機能付き46インチ液晶テレビがやってきて初めて迎える正月である。息子夫婦や娘夫婦の自宅には3D機能付きテレビはない。一緒に観ようとレンタルしたが、映画館用3Dメガネではテレビ映像の3D化は無理と分かりあえなく断念した。子どもたちがUターンした後の今日、ひとりでようやく鑑賞したという顛末である。
 昨年春の封切りで夏にはレンタルが開始された作品である。3D映画としては最新作に近いだけに映像技術は素晴らしいものだった。劇場で初めて3D映画アバターを観てその奥行きの深さに感動したものだ。この作品の3D映像もそれに勝るとも劣らない。
 この作品に多くのプレビューが辛口であるように内容はイマイチだった。アメリカの南北戦争の英雄ジョン・カーターが未知の惑星バルスームに迷い込んでしまう。高度な文明をもつこの惑星ではヘリウム王国、ソダンガ王国、サーク族が三つ巴の闘いを繰り広げている。全宇宙の支配を目論むマタイ・シャンに操られたソガンダ王国の王子によって滅亡の危機に瀕したヘリウム王国を、ジョン・カーターが王女デジャー・ソリスとサーク族の王とともに闘い滅亡から救うというのが大まかなストーリーである。
 地球人が未知の惑星に降り立ってそこのネイティブたちと心を通わせたり闘いを繰り広げるストーリーや、異様なメイクのサーク族の登場などはアバターにも共通するものだ。ただこの作品にはアバターにあったテーマ性が感じられない。単なるアクションファンタジーに終始している。その上、筋立てが複雑すぎてファンタジーとしても素直に楽しめない。2時間余りの巨費を投じた大作ながら、観客の心を打つものはない作品という他はない。

映画・自分史2013年01月05日

 文庫本「藤沢周平のすべて」を読んでいる。後半に掲載されている藤沢周平のいくつかのエッセイの中に「わが青春の映画館」があった。彼の映画遍歴を綴ったものだ。読みながら自分自身の映画遍歴を思いだした。
 私にとっての初めての映画との出会いは、小学校入学前後の頃だったと思う。近所の広場で幕を張って上映された活動写真だった。スイスのマッターホルンを題材にしたもので音声がなく弁士が独特の口調で語っていた。本格的な劇場映画は、大友柳太郎主演の「白鳥の騎士」ではなかったか。NHKラジオドラマの映画化で、家族でそのドラマを聞いていたこともあり、揃って映画館に出かけたという記憶がかすかに残っている。当時は通学していた小学校の周辺に「太陽劇場」と「朝日館」という二つの映画館があった。通学途上で映画館の看板や一杯貼られたスチール写真をガラス越しに覗くのが楽しみだった。
 以降、小学校時代は「笛吹童子」「紅孔雀」「里見八犬伝」などの東映時代劇を夢中だった。中村錦之助、東千代之介、大友柳太郎、高千穂ひずる、千原しのぶといった往年のスターたちの活躍をわくわくしながら眺めていた。里見八犬伝はシリーズでよく観た。恐ろしい化け猫に変身する場面は子ども心に心底怖かった。その後は、高校時代に石原裕次郎、小林旭、吉永小百合などの日活青春映画の記憶があるが、小学時代ほどのインパクトはない。いずれも娯楽作品であり作品自体の感動はあまりなかったと思う。
 名作と言われるような映画を観るようになったのは大学に入ってからだ。映研(映画研究会)の友人の誘いもあっていわゆるアートシアター系の映画をよく観た。記憶に残る作品としてはエロチズムとの出会いというインパクトもあって勅使河原宏監督の「砂の女」がある。洋画では「かくも長き不在」とか「西部戦線異状なし」などが記憶に残っている。
 とりわけ「西部戦線異状なし」のラストシーンは今も鮮やかに思い浮かべることができる感動的な映像だった。敵の襲撃に備えるために塹壕に身を隠している若い兵士。彼の構える銃口の先に一羽の蝶がとまっている。それは緊張感あふれる殺伐とした風景の中のなんとも可憐な姿だった。愛おしさと優しさに駆られた兵士は思わず身を乗り出して手を差し伸べる。その姿に敵塹壕にいた兵士が素早く照準を合わせる。一発の銃声とともに若い兵士が後ろにはじかれあっけなく命を落とす。戦争という過酷な状況下では一瞬の人間らしさが死につながるという現実を見事に映像表現したシーンだった。
 直近では「アバター」が印象深い。初めての3D映画であり、その奥行き感のある映像美に衝撃を受けた。併せて侵略者とネイティブの交流というテーマ性にも感動させられた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2010/01/20/4825060

日溜まりの雀たち2013年01月05日

 遅い朝の散策を終えて、住宅街麓の貸農園付近にやってきた。朝日はとっくに上がっていた。真冬の田圃の固い黒土に寒さで枯れた苗が茂っていた。その厳しい寒さをオブラートで包んだような風情に心和むものがあった。
 突然、道路際の日蔭に震えていた草叢から雀の一群が一斉に飛び立った。そのうちの数羽の雀が草叢と田圃を隔てている垣根の針金に掴まった。絶好の日溜まりを見つけてチュンチュンとかしましい。
 田圃と熊笹とおしゃべり雀たち・・・。真冬の厳しさを忘れさせるのどかな日溜まりの風景を切り取った。

とんど・・・スタンバイ2013年01月07日

 朝7時頃、いつものように有馬川土手道を歩いていた。東側の田圃の中に忽然と立つ竹の束が目に入った。霜に覆われて真っ白な地面に白く縁どりされたモズグリーンの大きな竹の束がひと際存在感を発揮している。山口の正月明けの風物詩である「とんど」の準備風景だ。
 山口町の旧地区では各集落ごとにとんどの風習が今も残されている。北の集落・名来のとんどは、毎年、ここ176号線沿いの有馬川の東側の田圃で行われる。恐らく昨日の日曜日に、集落の役員たちが準備されていた芯になる松の木、笹竹、藁、番線などを使って一気に組み上げたものだろう。組み上げ方にも独自の伝統的な手法があるようだ。次の日曜日の朝9時頃には点火され、持ち寄られたしめ縄や書き初めとともに無病息災の願いを込めて燃やされる。

趣味・自分史2013年01月08日

 作家・藤沢周平氏のエッセイに触発されて自分自身の映画遍歴をブログ「映画・自分史」という形で綴った。綴りながら自分の様々な分野の遍歴が浮かんできた。60代後半を迎え自分の人生をパーツごとに棚卸しをしてみるのも悪くない。それは今の自分の成り立ちに想いを馳せることであり、残された人生をより豊かに過ごすための選択肢を整理してくれるにちがいない。手始めに「趣味」の分野での遍歴を辿ってみよう。
 趣味をキーワードに幼児の思い出をたぐってみると、「絵」と「作文」が真っ先に浮かんでくる。いずれも好きで得意な分野だった。小学生低学年頃から校内の図画コンクールでしばしば金賞を取った記憶がある。当時愛読していたマンガ雑誌公募の鉄腕アトムのイラスト漫画に入選し鉄腕アトムのゴム製模型を貰ったりもした。作文も中学校の修学旅行で初めて見た富士山の感動を綴ったものが賞をもらった。
 中学生の頃には、当時のブームだった小鳥の十姉妹(ジュウシマツ)の飼育にしばらく夢中になった。ところが卵から孵化した数羽の雛鳥を、侵入した青大将が丸呑みして巣箱でとぐろを巻いているというおぞましくて悲しい光景をみて以後飼育を断念した。同じ頃、切手収集や古銭収集にも凝っていた。プラモデルの魅力に初めてとりつかれたのも中学時代だったと思う。
 大学に入って初めて音楽系の趣味と出会った。サークルの誰かに誘われて聴きだしたモダンジャズである。岡山市内のジャズ喫茶に入り浸り、マイルス・ディビス、ジョン・コルトレーン、ハービー・ハンコック、マル・ウォルドロンなどのプレイヤーの演奏に酔いしれた。当時の荒涼とした心の襞に沁み入るようなスイングにリズムをとりながら身を委ねていた。黒人ジャズメンのイラストを手掛けたのもこの頃である。自分の画才と趣味のジャズが結合した「我ながら」の出来栄えの原画が今も我が家のリビングを飾っている。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/jazz.htm
 社会人になり、多少の小遣いを使えるようになった頃から、プラモデルに再び嵌まりだした。子どもたちにガンダムなどのアニメの主人公模型を作ってやるという名分で再開した。その後どんどん本格化し高額な建築模型・薬師寺東塔や木製の帆船模型にまで手を延ばした。娘との思い出に彩られた帆船模型が今もリビングボードの上に鎮座している。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/hune.htm
 40代半ばの頃に福知山市勤務となった。空いた電車での片道2時間の遠距離通勤が、通信教育受講というお勉強サラリーマンに変身させた。それは衛生管理者、消費生活アドバイザー、初級システムアドミニストレータなどの資格取得という成果をもたらした。これも今考えれば趣味の世界と言えなくもない。
 パソコンに出会ったのは40代後半の頃だった。職場のコンピュータに初めて触れた時、その驚愕すべき技術の粋に圧倒された。文字や絵があっという間に表示され瞬時にコピーされてしまうのだ。持ち前の好奇心旺盛な性分からパソコンに嵌まってしまった。50歳の時には初代パソコン・富士通デスクパワーを購入し、現在は5代目を数える。パソコンとの出会いは自分の生活スタイルに大きな変革をもたらした。52歳の時にホームページ「明日香亮の世界」を立ち上げた。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/index.htm 画像や文章で描かれるホームページの世界は、絵と作文という得意分野のIT技術による公開という魅力的な自己表現の発信を実現した。この年から年賀状の漫画イラストの作成がプリントごっこからパソコン画像ソフトに変わった。61歳の時には老後のライフワークともいうべき地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」を立上げた。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-hudoki.htm この営みは、地元の公民館講座で8回に渡って開講する講座テーマとして願ってもない機会をもたらした。このブログ「明日香亮・残日録」を開設したのも同じ年だった。こうしたITスキルは、今も地域ボランティア組織の広報紙担当をはじめ色んな場面で大いに活かされている。
 こうして振り返ってみると、趣味や特技がプライベートな分野だけでなく、仕事面やボランティアといった公の活動でも豊かさや充実感をもたらしたと言えそうだ。

文芸春秋編「藤沢周平のすべて」2013年01月09日

 文芸春秋が編集した「藤沢周平のすべて」を再読した。藤沢周平没後2年を経て刊行された単行本の文庫版である。裏表紙にこの書籍の紹介が端的に記されている。「惜しんであまりある、この作家、その六十九年の生涯と作品の魅力を余すところなく一冊に。(略)”藤沢周平の遺した世界”を堪能し尽くす文芸読本である」。
 530頁に及ぶ内容である。著名人や交流のあった人たちの弔辞をはじめとした故人への哀悼の言葉、同窓生、教え子たち、療養所仲間、職場仲間などによる座談会や証言、藤沢作品への想いの他、故人の生前のインタビュー記事やエッセイの抜粋などが網羅されている。巻末には著作65冊の全リストと69年の生涯を記した詳細な年譜がついている。生前の6点の写真も添えられ、理知的で端正な顔立ちが、その作品の清々しさと気品を偲ばせている。
 読み終えて藤沢周平という魅力的な作家の実像と、こよなく愛したその作品の背景をあらためて知らされた。同時に自分自身にとって故人の歩んだ道のりや、その作品がどのような意味をもっていたのかということにも想いをめぐらせた。そんな気持で以後のブログで気ままに想いを綴ってみたいと思う。

読書・自分史2013年01月10日

 読書と言えるかどうか疑問だが、教科書以外で初めて出合った本が漫画雑誌であることは間違いない。小学校低学年頃の「少年倶楽部」「少年画報」「少年」といった月間漫画雑誌の発行を心待ちにしていた記憶が今も鮮やかに残っている。そこに連載されていた鉄腕アトム、赤胴鈴之助、鉄人28号、月光仮面などの漫画に胸を躍らせていたものだ。近所の貸本屋で漫画単行本を借りて読み耽ったりもした。
 読書と言えるもので記憶に残る最も古いものは、中学時代に読んだ子ども向け単行本シリーズの「三国志」と「水滸伝」だ。厚手のザラ紙ながら3~4cmもの厚さの本で、壮大な歴史絵巻を夢中で読んだ。今にして思えば自分の歴史好きの原点はこの2冊にあるような気がする。
 高校時代は自転車で10数分のところにあった市立図書館でよく読書した。中でも記憶に残るのはやはり歴史書だった。社名は忘れたが同じ出版社が発行した「日本の歴史」と「世界の歴史」の先史時代から近代までのそれぞれ10数巻を読みふけった。この読書体験はその後の自分の思考に結構大きな影響を与えたと思う。
 それまでの読書体験を吹っ飛ばすほどの思考の修羅場に遭遇したのが大学で所属したサークルだった。「弁論部」という名称だったが、実態は現代思想研究会という性格のものだった。思想的にも生活スタイルでも多様な考え方が共存し、毎週の定例会でそれぞれの立場から火花を散らしていた。そんなサークル活動を通して読書の質と量は一気に高まった。日本の純文学と言われる作品や外国文学と本格的に向き合ったのもこの時期だった。ただ当時の読書はどの著作を読むかということより誰の著作を読むかという点が大きな意味をもっていたように思う。吉本隆明、丸山真男、高橋和巳、大江健三郎、柴田翔、三島由紀夫、五木寛之、ニーチェ、マルクス、サルトル、ポール・ニザン、ドストエフスキー、カミュ、キルケゴール、スタンダールなどの作品が印象深いものとして記憶に残っている。この頃の読書体験やサークルでの議論が自身の人格形成に与えた影響ははかりしれない。
 社会人になってからは単行本のビジネス書を読むようになった。ドラッカー、ガルブレイス、ビル・エモット、アルビン・トフラー、トム・ピーターズ、山本七平、堺屋太一、大前研一などの著作である。とりわけドラッカーの「抄訳マネジメント」は自分のビジネスライフの過ごし方に大きなインパクトをもたらした。田中芳樹の「銀河英雄伝説」も外伝を含めて全13巻を読んだ。スケールの大きいそれでいて含蓄のある文句なしに面白い作品だった。
 他方で、通勤電車の往復に文庫本を愛読した。外国小説では、ジェフリー・アーチャー、アーサー・ヘイリー、フレディック・フォーサイス、ケン・フォレット、クライブ・カッスラー、ラドラムなどの作品である。松本清張、城山三郎、森村誠一、清水一行、天藤真、西村寿行などの日本の推理小説もよく読んだ。それでもやはり歴史・時代小説のウェイトが高い。司馬遼太郎、藤沢周平の著作はほぼ全作品を読了したのではないか。山本周五郎、浅田次郎、池宮彰一郎、隆慶一郎、乙川優三郎なども好きだった。定年間近に発刊され10年近くに渡って発刊のつど読み継いだ塩野七生の「ローマ人の物語」全43巻も感銘深い作品で、壮大な歴史ドラマを味わいながら確かな文明観を学ぶことができた。
 30代後半頃、幼い子どもたちに「まんが日本昔ばなし」(全30巻)を買って帰り、毎晩のように読み聞かせた。忙しい現役生活でほとんど構ってやれなかった私の数少ない父親らしいヒトコマだった。漫画の単行本も愛読書があった。その筆頭は家族で愛読した「じゃりん子チエ」だ。「ゴルゴ13」や「あしたのジョー」などもよく読んだ。ちなみに私の短編小説もどきの「日曜朝のマクドナルド物語」http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/tanpen-AsaMac.htmは、有川浩著作「阪急電車」をヒントに「じゃりん子チエ」をモチーフにしたものである。
 リタイヤ後はもっぱら現役時代に読んだ文庫本の再読に余念がない。人生の晩年を迎えて読書傾向の変化を思い知る。現代小説より歴史・時代小説を好むようになり、司馬遼太郎の天下国家をテーマとした物語より、藤沢周平の市井のしみじみとした人情の機微に魅かれている。
 長々と「我が読書遍歴」を綴ってきた。それぞれに思い入れもあり、自分の人格形成や考え方、価値観になにがしかの影響を与えている。そんな中で強いて特筆すべき著作をあげるとすれば、「吉本隆明の政治思想評論集」「ドラッカーの抄訳マネジメント」「塩野七生のローマ人の物語」「藤沢周平の三屋清左衛門残日録」ではないだろうか。