民生委員研修「悪質業者に強くなる講座」2012年12月01日

 二日前に市の民生委員研修がアミティーホールであった。セレモニーを終えてプロジェクターによる研修が始まった。京都府消費生活安全センターの林美保子相談員を講師とした「悪質業者に強くなる講座」と題した研修だった。
 イントロでは消費者力クイズということで契約に関するいくつかのクイズを出して会場に○×の手ぶり回答を求められた。本題では、催眠商法、振り込め詐欺、貴金属訪問買取(押し買い)商法、屋根・床下等の点検商法、還付金詐欺等の悪質商法の事例と対処法が解説された。
 感想を言えば、不満足だった。例えばクイズにしてもプロジェクターに既に○か×の答が表示されているのに質問の答えを手の動作で求めている。会場からは失笑が漏れている。途中で消費力アップ体操なるものが求められ、「消費力ア~プッ」と声をあげ大きく両手を突き上げる動作が求められる。何ともバカバカしい。悪質商法の解説もいかにもありきたりだ。相談員として体験した生々しい事例を通じた説得力のある報告こそが必要ではないか。
 総じて、いかにも高齢のお年寄り向けの講座スタイルの印象が拭えない。講師がこれまで実施してきたと思えるお年寄り講座の焼き直しの感が強い。講師のそんな安易さの印象が透けて見えてしまった途端に受講の真摯さも薄れてしまった。広い会場に大勢の民生委員を集めての研修がいかにももったいないという感想を抱いたのは私だけだろうか。

同期入社OB会の微妙な空気2012年12月02日

 8月に現役時代の同期たちとのOB会に参加した。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/08/09/ 会場は難波高島屋前の一等地にあるカラオケ店の一室だった。5時間ばかりをカラオケ厳禁でひたすら飲み、しゃべるという会合だった。会費3千円で長時間飲み食いできるという幹事の意表をついたカラオケ店利用の企画に感服したものだ。
 昨日、そのOB会の忘年会が同じ会場で開催され、14人の仲間が集まった。何人かは前回の顔ぶれと入れ替わっており、懐かしい顔とも再会できた。1時間ばかり自由に歓談した後、恒例の近況報告となる。お互いにツッコミを入れながらの報告だったが、4ヶ月前に近況を語ったばかりである。さすがに追加してしゃべるほどの中味は少ない。4時過ぎには全員の報告が終わった。これまた恒例の集合写真を撮った後、所用があったので先に席を立った。
 現役時代に職場生活を共有した同期入社のOB会には微妙な空気が流れるものだ。リタイヤ後の期間が短いほどそれは色濃いものがある。80人ほどいた同期は入社後多くの職場に分散し、以降異動のたびに離合集散したものの仕事上の関わりの濃淡は大きい。リタイヤ直前の肩書の格差もまた大きく、上司部下の関係も珍しくはない。今日のOB会はリタイヤして3~4年のメンバーが中心である。嘱託や顧問という形で尚グループ企業に在籍する者もいる。現役生活の生臭さが残る時期のOB会でもある。現役当時の仕事がらみの昔話は極力避ける配慮が必要かもしれない。むしろ現状の厄介事や今後の抱負こそが共感を呼ぶ筈だ。前回会合でそれぞれの「大病自慢」で大いに盛り上がったのもその証左だろう。
 現役時代の職場生活の昔話はまだ生々しさが鼻につく。それでも枯れた話題として現役生活を懐かしく語り合える日がいつか来るはずだ。

つましい家内の誕生祝い2012年12月03日

 昨日は家内の誕生日だった。現役時代は忙しさにかまけて嫁の誕生日をさほど意識せずに過ごしてきた。リタイヤしパラサイト娘も嫁いだ後、老夫婦二人の生活が訪れた。平坦な日々の節目節目のイベントが自ずと重みを増してきた。
 前日の大阪での昼間の吞み会帰りに「何かケーキでも買うて帰ろか?」と携帯した。亭主のセンスをイマイチ信用していない家内の返事は「ノーサンキュウ」とそっけない。結局、当日の昼食を外食することにした。
 そして昨日昼前に昼食に出かけた。万歩計を携帯するようになって家内ももっぱら歩くことを心掛けだした。二人して出かけた先は歩いて15分ほどの「回転寿司とれとれ屋」だった。回転寿司ながら、亭主おごりの誕生祝いということでいつもの「くら寿司」をランク・アップした。それにしてもつましい誕生祝いにちがいない。こぼれ軍艦三昧、穴子とウナギの三貫盛、焼きほら貝など珍しいメニューを味わった。それでも老夫婦の胃袋のリミットはいかにも早い。たらふく食べたつもりの会計は4千円に満たない。亭主の1回の呑み代である。
 気がひけたので追加で誕生祝いの好きなケーキを自分で立替え払いで調達するよう家内に伝えた。いかにもつましい誕生祝いでお茶を濁した感は拭えないが、60代後半の夫婦ならこんなもんだろう。

カワセミだけじゃない有馬川2012年12月04日

 12月に入り厳しい寒さが続いている。先日のまとまった雨で水量が増した有馬川の流れが早い。流れに逆らうように佇んだセグロセキレイが餌を求めて川面を窺っていた。しばらく行くと今度はキセキレイが堰の上で流れに負けまいと踏ん張っていた。堰の近くは水鳥たちの絶好の餌場なのだろう。
 散歩道のブログ記事では絵になる有馬川のカワセミを取上げることが多い。どっこい代表的な水鳥のでもあるセキレイも無視できない。セグロセキレイ、キセキレイに加えてハクセキレイも見かける。有馬川は三種のセキレイ属の揃い踏みの舞台でもある。

木枯らしの季節2012年12月05日

 12月に入り早朝の散歩道の寒さが身に沁みるようになった。両耳を襲う冷気が刺すような痛みを伴いだした。家内に出してもらったニット帽を被って自宅を出た。いざという時の嫁はん頼みがフト気になった。必要なものがどこにあるのか分からない不安がよぎるのも歳のせいか。
 日の出前の薄暗い有馬川の土手道を時おり木枯らしが舞った。ダウンジャケットの背を丸めて歩きながらニット帽の有難みを想った。前方の愛宕橋たもとのタモの樹が寒そうに立っていた。葉っぱで覆われていた面影はすっかり影をひそめた。剥き出しの骨のような枝ぶりで懸命に寒さを耐えている。タモの樹のニット帽の抜け殻が足元を覆っている。
 名来神社前にやってきて初めて気がついた。参道の階段とその周辺に落葉がうず高く散っていた。鳥居前のさくらの樹だけではない。むしろタモの樹の大木から抜け落ちた葉っぱが多数派のようだ。見上げてみるとタモの枝先が鳥居に迫っていた。
 木枯らしの季節がやってきた。

清盛と頼朝2012年12月06日

 大河ドラマ「平清盛」をやっぱり観ている。出足から不満は多々あったが、我慢して見続けるうちに面白くなってきた。決してイケメンでない松山ケンイチの癖のある顔つきにも慣れてきた。晩年の清盛の老醜を漂わせた演技にも迫力が出てきた。先週の頼朝挙兵を扱った「宿命の敗北」を観てあらためて思ったことがある。「頼朝の鎌倉幕府は清盛がお膳立てした」ということだ。
 公家社会が終焉を迎えようとしていた平安末期に登場した清盛は、まぎれもなく武家社会(武士の世)を切り開いた先駆者だった。衰退期を迎えたとはいえ旧秩序が尚強固に存在した時代に、清盛は新興階層である武士を率いて新たな国づくりを目指した。それは旧秩序が粉々に壊れていた戦国の世に登場し天下をほぼ手中に納めた信長に勝るとも劣らない革命的な挑戦だった。
 現存する旧秩序との葛藤を繰り広げる過程で、清盛は自らも武士であることを徐々に薄れさせることを余儀なくされた。それでも権力の頂きに立った時、乾坤一擲の最後の挑戦を試みる。福原遷都である。旧秩序から脱却し新たな国づくりの仕上げが、旧秩序の牙城からの離脱であることを知っていたのは一族の中で清盛だけだった。
 清盛誕生から30年遅れて頼朝が登場した。頼朝が伊豆に流されていた20年間に、清盛による武士の世が着々と実を結んでいた。その間平家もまた旧秩序との葛藤に疲弊し、最後の挑戦・福原遷都で大きく躓いた。頼朝は旧秩序との本格的な闘いに消耗することを免れた。疲弊した同業のライバルとの武家本来の闘いを制するだけでよかった。その闘いに勝利した後の武家政権の牙城づくりも清盛がお膳立てしたようなものだ。清盛の命で配流された伊豆・鎌倉を実質的な都にすればよかったのだから。そこは伝統的に源氏の拠点でもあった。頼朝の優れた決断のひとつは、清盛が固執した「遷都」に拘らなかった点にある。
 かくして頼朝の鎌倉幕府は、清盛によって切り開かれた旧秩序との闘いの果ての武士の世の第2ラウンドとして安々と開幕した。

熱海の夜(40数年の長い道のり)2012年12月07日

12月5日、この時期に毎年恒例の出身業界労組のOB・現役懇親会に出席した。12時半頃自宅を出て新大阪から熱海に向かった。浜松で「ひかり」から「こだま」に乗り換えてしばらくすると車窓に富士山が見えだした。曇り空ながら山容を遮る雲もなく、頂きから裾野近くまでを真っ白な雪で覆われた堂々たる雄姿だった。
 熱海到着はホテルのシャトルバスが発車直後の16時31分だった。駅前で出身企業の現役二人と遭遇した。30分後のシャトルバスを待つという二人を尻目にひとりで歩いてホテルに向かった。薄暮の時間帯だが日頃のウォーキングとスマホのGPSマップという強い味方がある。海岸線に沿って時おりスマホマップで確認しながらひたすら南を目指した。徐々に暗さの深まる海岸線途中の公園で「お宮の松」らしきものを見たような気がする。右にカーブした海岸線の先に会場である「熱海後楽園ホテル」の灯りに縁どられた高層の威容が見えてきた。右手の山の頂きにはライトアップされた熱海城も浮かんでいる。
 案内された部屋には同室者たちが既に到着していた。大浴場で汗を流した後、6時半からの懇親会に参加した。今年も80名ほどの参加者があった。酔い潰れる前に全員の集合写真を撮ることも恒例になった。 乾杯の音頭は、先月にOBになったばかりの日本最大の産業別労働組合の前会長Oさんである。11月6日に流通業界の全労働団体が40数年の歴史を経てようやく統合されひとつの組織としてスタートした。その結果、この懇親会も全出席者が同じ労働団体に属する仲間として初めて迎える記念すべき会合となった。乾杯の音頭を取ったOさんはその最大の功労者でもある。そしてその新組織発足を機に現役を退いた。
 Oさんと私は40数年前の同じ年に大阪の異なる流通企業に職を得た。入社間もない時期に流通業界に労組結成が相次いだ。二人は結成直後のそれぞれの労組の書記長として関西地区の情報交換の場で知りあった。以来数年間、共通の課題達成に向けて交流を深めた。その後彼は上部組織である産業別組織に籍を移し労働運動に生涯をかけることになった。流通労働団体の統合は共通の願いでもあった。その悲願を彼は一方の当事者として見事に成し遂げた。乾杯前の彼の挨拶を聞きながら長い道のりをしみじみと噛みしめた。その後の懇親の場では久々に邂逅したOさんと思い出話と近況に花を咲かせた。

下田紀行(開国の街と唐人お吉)2012年12月08日

 朝5時半に熱海後楽園ホテルで目覚めた。前夜の深酒の重い頭を抱えて大浴場に向かった。朝食を済ませて出身企業の仲間たち5人で下田観光に出かけた。
 熱海駅からJR伊東線に乗車した電車は、途中の伊東駅から伊豆急線に切り替わり終点・下田駅に至る。伊豆半島の東海岸線を縫って南下し、半島先端の町までの約1時間30分の旅だった。
 下田駅前のロープウェーに乗車し寝姿山の山頂に着いた。山頂一帯は遊歩道が整備され、桜をはじめとした四季折々の草木や花が愉しめる自然公園になっている。遊歩道脇の展望台から眼下に見える下田港とその先の太平洋を眺めた。絶景だった。案内看板に「地球が円く見えませんか」とある。どこまでも広がる水平線を見つめながら、この公園がなぜ国立公園なのかが分かった気がした。最も高い場所には朱塗りのお堂「愛染堂」があり、折り返しの別の遊歩道には復元された幕末期の「黒船見張所」があった。
 下田駅に戻り、下田開国博物館を訪ねた。なまこ壁の二棟の建物で入場料が千円と予想外に高い。幕末期の下田の様子の再現パノラマや開国当時の数々の歴史資料の現物が展示されている。興味深かったのは幕末期にオランダ人に写真術を学び我が国写真術の開祖と言われる下田生れの下岡蓮杖という人物だった。彼の代表作のひとつ「江戸城」が展示され、当時としては命懸けの撮影だったとコメントされていた。
 下田駅に向かう途中に唐人お吉の菩提寺で記念館を併設する宝福寺があった。記念館でお吉の悲劇の生涯をあらためて知った。その美貌ゆえに心ならずもアメリカ総領事ハリスの待妾となり、その後の流浪の果てに世間の罵声と嘲笑を浴びながら川に身を投げて自ら命を絶った女性である。境内の墓地には予想外に立派なお吉の墓があった。他方、宝福寺は土佐藩主・山内容堂が滞在した寺であり、容堂を訪ねた勝海舟が坂本竜馬の脱藩の許しを得た場所でもあるという。記念館内には当時の謁見の間が今もそのまま残されている。
 下田駅前の食堂で昼食をとった。金目鯛の煮物、カマスの焼き物、海鮮丼などの漁港の街ならではの味わいを愉しんだ。下田駅からの帰路は2階建て車両のスーパービュー踊り子号だった。高い位置からの車窓の海原の絶景を満喫した。熱海から乗り換えた新幹線でも息を飲むばかりの見事な富士山を目にできた。かつて目にした富士山でこれほどの美しいの姿は記憶にない。一泊二日の熱海・下田の旅を終えて夜8時前に帰宅した。

榛名由梨さん講演「永遠のオスカルと私」2012年12月09日

 山口ホールで山口地域コミュニティー主催の第4回山口地域フォーラムが開催された。山口在住の元宝塚歌劇団トップスターの榛名由梨さんの「永遠のオスカルと私~住み慣れた北六甲から~」と題した講演だった。
 実は今回の榛名さんの講演には、私も役員のひとりであるミュージカル劇団『希望』後援会との関わりが深い。今年4月に「後援会総会&シンポジュウム」を開催した。そのシンポジュウムのパネラーのひとりとして榛名さんを招いた。榛名さんの宝塚歌劇団時代の歌劇団作曲家が髙井劇団代表だったという繋がりがあった。そのシンポジュウムでの榛名さんの楽しいトークぶりが地域コミュニティーの関係者の間で話題となり、ぜひ今回のフォーラムの講師にお願いしようということになった。講演打診に榛名さんは「在住地域のお役に立てば・・・」と快諾頂いたとのことだ。
 寒風の吹く悪条件を押して百数十名の聴衆が席を占めた。2時から約1時間に渡って、生い立ち、歌劇団入団後の経過、ベルサイユのバラ」のオスカル役の舞台や裏話、「無法松の一生」の公演の苦労話、退団とその後の女優生活、山口転居と暮らしぶりなどがユーモアたっぷりに語られた。
 実は彼女と私は同じ住宅街在住のご近所さんである。ミュージカル劇団の関係で面識もあり、合えば挨拶を交わし合う。先頃も彼女の玄関先に救急車が止まり、ご本人が運ばれたことを目撃した。今日の講演でもそのことが触れられ「めまい病で意識がなくなり1週間入院した」とのことだ。今朝も住宅街の大掃除で家族たちと汗をかいたといった話題も飛び出し、その気さくさに聴衆は一気に引き込まれた。
 スピーチの後、質問が相次いだ。「風と共に去りぬ」のレッドバトラー役での付け髭にまつわる質問もあった。榛名さんは宝塚の二枚目男役として初めて髭をつけた女優である。行きつけの美容院での付け髭やリーゼントヘヤーの試みの苦労話や、公演中に髭がはがれてひらひらしてスカーレット役が笑いを噛み殺していたなどの裏話が語られた。
 終了後には司会者から、大スターの講演料への不安があったが、地元のためということでのコミュニティーの予算枠内の破格の講演料で引受けてもらったという打明け話も飛び出した。
 ※公演中の写真撮影は不可だった。掲載画像は今年4月のシンポジュウムでの風景画像である。

津本 陽著「無量の光(親鸞上人の生涯)・上」2012年12月10日

 2ヶ月ほど前に郷里の姫路で高校時代の親友だったK君と二人だけで50年振りの旧交を温めた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/10/04/6592901 その時、彼に紹介されたのが津本 陽の「無量の光(親鸞上人の生涯)」 だった。親鸞を宗祖とする門徒(浄土真宗の信徒)であることが二人の共通の土壌だったこともある。彼の単行本にはあちこちに付箋が付けられコメントが書き込まれ、愛読ぶりが窺えた。「五木寛之の『親鸞』を読んだ」http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/10/19/6606689 という私の言葉に、「こちらの方がはるかに意味があるからぜひ読んでほしい」と返された。ネットで文春文庫版をすぐに注文した。読みかけの単行本を読み終えてこの作品をようやく読了した。
 文庫本上下2巻、原稿用紙にして約千枚に渡る大作だった。親鸞が比叡山延暦寺の修行僧の頃から始まり90歳の天寿を全うするまでの一代記である。親鸞は鎌倉幕府成立の20年前に誕生し、鎌倉時代の前期から中期を生きた人である。
 上巻は、後に恵信尼と呼ばれる生涯の伴侶との出会いや、専修念仏を説く生涯の師・法然との出会いを軸に展開し、法難を受けて越後に配流され、そこでの信仰と布教の暮らしぶりまでが描かれる。読み進むうちにこの作品が単なる小説ではないと気づかされた。自らが熱心な門徒である著者の親鸞への想いは深い。この作品は親鸞の足跡を辿ること以上に著者自身が想いをこめて分け入った親鸞の教えの小説化に他ならない。それだけに「五木寛之・親鸞」ほどの物語性は希薄である。親鸞の足跡を追いながらそのつど学びとった筈の教義の数々が弟子たちや信徒を前に語られる。そのこと自体に著者の眼目がありそうだ。
 上巻で印象深かったいくつかの教えを記しておこう。「人間はさまざまの要素がつながりあった複雑な関係の中で暮らしている。一つの要素だけでは生きていけず、つながりあって生きている。それが『縁起』である。(略)すなわち、物事には必ず原因があり、その原因のために起こるのだ。決して理由のないことは起こらない」「法然は『選択本願念仏集』で念仏を称える道を選んだ理由を二つ挙げた。一つは、阿弥陀仏の名号は阿弥陀仏のすぐれた徳のすべてを包み込んでいるので、それ以外のどんな行よりもすぐれているためである。これを勝・劣のいわれという。もう一つは、阿弥陀仏の名号を称えることは、それ以外のどんな行に比べても、行いやすいためである。これを難・易のいわれという」。