終わった~ッ!2010年06月01日

 一週間前の大荒れの総会が嘘のようなボランティア組織の臨時総会だった。その直前の6時からは、新役員候補者たちによる初めての顔合わせと総会打合せが行われた。新会長候補の議事進行で8名の役員の実質的な第1回役員会が進められている。既に産婆役としての出番は終わっている。問われれば答えるべくオブザーバーとして同席しているにすぎない。
 7時定刻に始まった臨時総会は33名の代議員の出席で開催された。関係団体代表者で構成された役員選考委員会からの新役員候補者たちの提案がある。拍手承認の後、新会長から挨拶があり、新役員たちの紹介がある。議長による議事進行に移り、新役員による議案提案が粛々と進められる。7時30分には全ての議事が承認され、臨時総会が閉会した。前回総会の閉幕が9時過ぎだったことを思えば余りにもあっけない幕切れだった。
 総会後の事業部会や青少年補導委員の打合せを済ませて8時半には帰宅した。早速、缶ビールを開ける。ウマイッ!長い緊張感から解放された腹に沁みとおる一杯だった。しみじみと呟いた。終わった~ッ!

余波2010年06月02日

 私の生活に大きなウェイトをしめたボランティア組織の在り方を巡って、折にふれてブログでも綴った。極力、感情的にならないよう冷静にコメントしたつもりである。せいぜい1日60アクセス程度のマイナーなブログである。自分自身の一日の出来事や反省を文字通り日記風にLog(記録)しているつもりだった。
 今回の一連の記事について地域の住民らしき方から辛口のコメントをいただいた。誤解もあるものの当事者には見えない視点からのありがたいご指摘であることも否定できない。時間の経過が冷静さをもたらしてくれる。自分自身の反省も含めた悔いも見えてくる。ビールの美味さには、同時に悔いを含んだほろ苦さも同居している。
 渦中にあって一喜一憂していた自分自身の未熟さにも想いを巡らせている。新役員体制の誕生に深くかかわっただけに新執行部への関与は厳に慎もうと思う。新執行部には自由に独自の考え方で活動を進めてもらいたいと願っているからだ。もちろん一メンバーとしてボランティア組織自体の活動や行事には可能な限り参加するつもりだ。
 自分自身を第三者の立場で見つめ直しながら冷静に判断できる自制心を保持したいと思う。ボランティア組織とも今後そうした姿勢で関わりたい。

乙川優三郎著「生きる」2010年06月03日

 乙川優三郎の代表作で直木賞受賞作品「生きる」を再読した。私にとって乙川優三郎との初めての出会いの作品だった。8年前の現役の頃上司だった人に勧められて単行本を購入した。当時の読後感は定かでないが、いい作品だったことだけは記憶に残っていた。
 再読を終えて、あらためて心の襞に沁み込むものがあった。テーマは暗くて重い。舞台は関ヶ原の戦いから60数年後の江戸時代初期の北国の11万石の藩である。主人公の馬廻組五百石の当主・石田又右衛門は、関ヶ原敗軍の浪人だった父親が藩主・飛騨守に召し抱えられてようやく碌を得た二代目の新参者である。物語はその恩顧の藩主の臨終の場面で幕を開ける。主君の死に殉ずる追腹が、忠義の形として称えられる戦国の気風が色濃く残っている時代である。寵臣の一人として又右衛門も追腹の覚悟を固めていた。
 そんな折、又右衛門は同じく藩主寵臣の小野寺郡蔵とともに筆頭家老・梶谷半左衛門から呼び出される。追腹の禁令を考えている筆頭家老はもっとも追腹を切りそうな二人に生きてお家に尽くせと追腹断念を迫る。不意を突かれ切羽詰まった状況で、二人は差し出された誓紙に同意する。腹を切らぬこととそれが藩命であることを他言せぬことを守る限り両家の存続が保証されるという誓紙である。
 藩主の死後、17名もの家臣が相次いで追腹を切る。次は又右衛門か郡蔵かと向けられる周囲の目は日増しに強くなる。更に一人娘の夫である藩主の近習が追腹し、ひとり息子までもが父の汚名をそそごうと腹を切ってしまう。そんな事態になってもなお生き続ける又右衛門への非難の嵐は陰に陽に一層過酷なものになっていく。そんな中でも誓紙がある限り又右衛門は沈黙を守る他はない。
 何という苛烈なテーマ設定だろうか。「生きる」ということの意味を直載に問うている。同時にこの物語は、「理」と「情」の葛藤の物語でもあると思った。追腹という情に勝ち過ぎる非合理な行動と、それを断念することの理に身を置いた者の葛藤である。又右衛門に追腹を迫る周囲の不条理な情の世界が、理を貫こうとする又右衛門から相次いでかけがえのないものを奪っていく。葛藤と逡巡の果てに又右衛門はようやく毅然として生き続けることの境地に至る。理の世界に居直って生きることに腹を固めたと思った。
 晩年を迎えた又右衛門に失脚後復権した筆頭家老・梶谷から詫状と詫びの印が届けられる。印とは家老が手配した長く絶縁となっていた一人娘と若侍に成長したその息子である。庭先に立つ二人を見つめる又右衛門・・・。「又右衛門は、震える唇を噛みしめ、これでもかと凛として二人を見つめながら、やがておろおろと泣き出した」。これが物語の最後の文章である。理に徹して生きた筈の又右衛門が情に身を委ねた瞬間だった。

知人の「米作りを通して子どもたちに伝えたい想い」2010年06月04日

 四季折々の自然を体験するNPO法人「自然塾」を主宰している山口在住の知人がいる。今朝の散歩で彼の自宅横の田圃を目にした。二日前には苗を植える場所を示すロープが張られていた田圃である。120坪ほどの小さな田圃には植えられたばかりの稲の苗が微風にそよいでいた。「自然塾」のブログで苗が昨日の午前中に地元小学校の5年生の子供たちによって植えられたものだと知った。昨日のブログには知人の「米作りを通して子どもたちに伝えたい想い」が綴られている。その興味深く貴重なコメントを紹介しておきたい。

 『今日は、○○小学校5年生の「田植え」。(中略)子どもたちがちゃんと田植えできるようにサポートする中学生達も、いっぱしの百姓らしく見えてくる。的を得た指示を飛ばす中学生達の姿を、きっと子どもたちもきっちり受け止めてくれたことと思います。
 (私の)「米作りのポリシー三箇条」は、①自然にあわせる②昔の知恵を生かす③米づくりは、人づくり
 (私が)中学生達に伝えたことを、中学生達が小学生に伝える。単なるモノづくりにとどまらないダイナミクスが生まれていますが、これが、昔の知恵であり、ムラ共同体の自然な人づくりだったのです。そこに最も身近な食べ物である「米」の誕生に「感動」が生まれ、感性を育てる。それが悟性となる。これが教育の基本なんですが、昔のムラにはそれが自然に行われていたのですね。また、どんなにつらくても、生きるためには絶対にやり遂げなければならない仕事です。そんな生きる迫力を少しでも小学生達が感じてくれたらと願っています。』

乙川優三郎著「安穏河原」2010年06月05日

 乙川優三郎著作の単行本「生きる」には表題作の他2篇の短編が収録されている。そのうちの一篇「安穏河原」を再読した。とことん哀しい物語である。とんでもない状況設定を配した物語である。作家の想像力(創造力)の凄みを感じさせる作品でもある。
 女郎・双枝と親の代からの浪人・織之助との江戸深川の女郎屋での会話で物語の幕が開く。去る小藩の80石取りの郡奉行だった双枝の父親・素平は、武士としての筋を通したため流浪の身となり、妻と一人娘を伴って江戸に流れ着いた。暮らしの術を知らない一家は母親の病臥も重なり瞬く間にどん底生活に陥る。妻の薬礼にも事欠く父親は、遂に娘を身売りさせる決意をする。どん底生活にも武士としての誇りを守り続ける父親は、女衒の前で「これからどんなことがあろうとも人間の誇りだけは失うな」と告げる。
 娘を身売りさせたことを悔い、その身を案じる素平は、織之助に金を渡して女郎となった双枝の様子を知らせて貰うよう頼み込む。父親に厳しく躾けられて育った双枝は、苦界に身を落としてなお志操を維持し気高く生きていた。織之助が注文した鰻をすすめられた双枝は「おなか、いっぱい」と辞退する。それを聞いた素平は、厳しく躾け過ぎたことをあらためて後悔する。食べ物を恵まれたときには、おなかいっぱいと言って断るように躾けたのだ。
 双枝の6年の年季明けが近づくが、あらたに楼主への30両もの借金を返さねばならない。不器用な生き方しかできなかった素平は最後の賭けに出る。かって仕えた藩の江戸屋敷の庭で武士として切腹すると申し入れる。江戸家老は見事に腹を切った素平を称え、介添え人の織之助に30両を与えて弔いをさせる。素平の思惑通りだった。
 ところが双枝の行方がしれなくなる。役人の女郎取り締まりにあって逃げる途中、川に落ちて行方知れずになったという。織之助は古着屋を始め順調に商いを広げる一方、双枝を探し続ける。10年近い年月を経たある日、織之助は商談中にかたわらの団子屋の横に佇む四、五歳の娘を見かける。気になって団子を買い求め「お金はいいんだよ、お食べ」と娘にすすめる。娘は首を振って後退りしながらはっきりと言った。「おなか、いっぱい」。娘は一カ月ほど前に病で死んだ夜鷹の子どもだった。母親の名前も知らない娘は、かかさまは武家の生まれだったと知らされていた出自だけを口にする。織之助は自分自身にも支えとなるものを見つけた。
 あらすじを書くだけの、ブログでもないブログになってしまったことに納得している。過酷な筋書と哀しい結末の物語だった。苦い読後感しか残らない筈の作品がこれほどに心に残るのはなぜだろう。ラスト近くのシーンで娘の「おなか、いっぱい」という文字を読んだ瞬間、おもわず涙した。

かっての自治会活動の配当2010年06月06日

 今日の午後、同じ町のある新興住宅街の自治会長、副会長のお二人の求めに応じて懇談した。用向きはその住宅街のゴミステーションのフェンス設置に関する相談だった。
 5年前に在住住宅街の自治会の防犯・環境担当の副会長に就任した。就任した時の総会で、住民から住宅街の120カ所にものぼるゴミステーションのフェンス設置の要望が出されていた。環境担当副会長としてはもっともな要望と思った。カラスや猫などによるゴミ散乱被害は目に余っていた。ただ既にかなりのステーションで利用者たちの負担によるフェンス設置が済んでいることが、歴代役員の設置に応じられない理由となっていた。
 副会長就任後、本格的に設置に向けた検討を始めた。公共施設であるゴミステーションが自治会管理下にあることからも自治会負担による設置が妥当であることは明らかだった。ネックとなる既設フェンス問題は新設フェンス設置費用相当額を還元することで解決可能と考えた。翌年の総会で自治会負担によるフェンス設置を提案し、可決された。
 フェンス設置の具体化は新役員に委ねられることになった。とはいえ提案者であった私が一切手を引くことの無責任さを思わずにはおれなかった。フェンス設置に限定した担当を前提に引き続き役員の一角に残った。新役員たちの協力を得て、1年間をかけて120台のゴミステーションの70台にフェンスを新設し、既設フェンスの内35台の塗装・補修を完了した。かなりの力仕事で多くの時間を要した課題ではあったが、達成感のある取り組みだったことも否定できない。
 今日の懇談で当時の資料の抜粋を提供し、取り組みのポイントを助言した。これから取り組みを始める上での貴重な資料であり助言であったとの感想を頂いた。それは私自身の達成感の延長線上に連なる配当でもあった。

菅新内閣の脱小沢の布陣2010年06月07日

 明日の正式組閣を前にして、菅新内閣の布陣がほぼ明らかになった。予想以上に脱小沢の流れが鮮明となった。世論調査はこれを歓迎し、20%前後に落ち込んでいた内閣支持率は一気に60%程度にまで回復した。
 政権交代の大きな期待を担って発足した鳩山前政権は、国民の期待を裏切って8か月の短命であっけなく瓦解した。鳩山首相自身のリーダーシップの欠如もさることながら、党を牛耳る小沢幹事長の専横ぶりは目に余った。開かれた政党である筈の民主党に、ボス支配の古い体質のイメージを植え付けた罪ははかりしれない。
 8か月前の政権交代を生み出した総選挙の日に「アンチ・ヒーローの気概」と題してブログを記した。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2009/08/30/ 小沢手法の強引さと不気味さを危惧したものだ。危惧は見事に現実化した。首相を超える権力者・小沢氏の存在という二重権力構造が鳩山政権崩壊の最大の要因と言ってよい。その意味で鳩山首相の小沢幹事長との抱き合い辞任は、乾坤一擲の差し手だった。坊っちゃん政治家・鳩山氏の一世一代の大勝負が、支持率回復の道筋をつけたことの功績は大きい。
 菅新首相は果たしてどこまで脱小沢を貫けるのだろうか。民主党らしさの回復による党再建には、小沢的体質からの脱却が不可欠である。参院選後の政界再編も取りざたされている。党が割れることを恐れるあまり小沢支配の復活を容認する妥協を重ねるなら民主党の明日はないと心すべきではないか。

菅流ドラマの幕開け2010年06月08日

 朝からテレビのワイドシヨーは発足直前の菅新政権の話題でもちきりである。党新役員や新閣僚の布陣が固まり、話題の中心は新メンバー個々の経歴や個性に移っている。
 前政権の党運営の一極集中を意識した党運営の透明化を訴える枝野幹事長、復活政調を全員参加の政策化で党運営の活性化を目指す玄葉政調会長、小沢前幹事長に見込まれた若くて有能な細野幹事長代理は前政権とのパイプ役が期待されるキーマンの一人である。
 新内閣の要にはかっての後藤田名官房長官を彷彿とさせる重厚で切れ者イメージの仙石氏が配された。新閣僚の目玉として42歳で当選1回の蓮舫行政刷新大臣が就任した。彼女の事業仕分けでの活躍ぶりは、その若さや経験不足を微塵も感じさせない。
 菅流ドラマが幕開けした観がある。多彩で個性豊かな役者が舞台をつとめる。主役であり監督でもある菅首相の力量がいよいよ試される。豊富な人材が自由闊達にオープンな議論を闘わせる開かれた党運営こそが民主党の持ち味である。もちろん代表のしっかりしたビジョンや構想力に裏打ちされたリーダーシップが担保されなければならない。当分、菅流ドラマから目が離せない。

乙川優三郎著「屋烏(おくう)」2010年06月09日

 乙川優三郎の短編「屋烏(おくう)」を再読した。いい作品だった。小説が短編であっても読む者に与えるインパクトというものを実感させられた。
 ボランティア組織を巡って緊張感に包まれた二ヶ月近くを過ごした後だった。引きずっていたざらついた気持ちをこの作品が鎮めてくれた。苦難の道のりを歩んだ果ての、なお報われない日々・・・。それを耐えることの意味を考えさせられた。
 勘定奉行だった父親が12年前に藩の政変に巻き込まれて惨殺された時、揺枝は16歳だった。以来、揺枝は、嫁ぐことも叶わず実質的な当主として8歳の弟を育て家を守ることになった。2年前に弟はようやく奉行になり減石されていた家禄を戻した。そして良縁に恵まれ妻を迎えた。家の再興が成ったとき、揺枝は新たな当主夫婦には邪魔な存在になったことを気づかされる。家を守りぬいたものの、婚期をとっくに過ぎた揺枝が失ったものは余りにも大きい。
 家を出て自活するべく始めた写本を書本屋に届けた帰りに、揺枝は茶店前の道端で宮田与四郎と出会い切れた鼻緒をすげかえてもらう。与四郎は12年前に父親とともに切り合った下士で、顔にはその時の刀傷が覆っている。剣の腕はたつが粗暴な振る舞いで悪い噂が絶えない与四郎が、その直後に五人を相手に私闘を行い打ち破った。その罪で与四郎とその父母は家禄を減ぜられ組屋敷を明け渡し城下外れの空家に越した。与四郎に密かに想いを寄せる揺枝は、誰も訪れることのない宮田家を訪ね、不在の与四郎に代わって父母と会う。
 12年前の政争が再び表面化する。現執政の追い落としを画した旧執政派が、筆頭家老暗殺を謀った。筆頭家老宅に潜んで刺客を切ったのは与四郎だった。これを機に一気に政争は現執政派が覇権を確立して終焉する。与四郎が乱暴者を装い城下外れに移り住んでいたのも敵を欺く偽装だった。与四郎は自らを御家の屋烏と化して筆頭家老を守ったのだ。与四郎は百石取りの藩の剣術師範として異例の出世を遂げる。宮田家には断りきれぬほどの縁談が持ち込まれる。
 自活を決意した揺枝が写本を届けた帰りに初めて与四郎と出会った道端にやってきた。茶店の縁台に与四郎がいた。ここで揺枝を待って五日目になるという。父母は宮田の嫁は揺枝を措いてほかにはいないと言い、自分も揺枝が宮田家を訪ねてくれたときから気持ちは決まっていたと告げる。揺枝がこたえる。「父が死んでからというもの、身の不幸ばかり思い悩んでまいりましたが、ほんとうはあなたさまをお待ちすることが、私の宿命だったのですね」。

国立文楽劇場での三人の浄瑠璃大夫の消息調査2010年06月10日

 昨日、「西宮流」のブロガー仲間である知人と大阪日本橋の国立文楽劇場を訪ねた。山口ゆかりの三人の浄瑠璃大夫の消息を調べてみないかという知人のお誘いに喜んで応じたものだ。浄瑠璃の代表的な流派に竹本義太夫創始の義太夫節がある。義太夫節にのせて操り人形で物語を語る伝統芸能が人形浄瑠璃(文楽)である。山口ゆかりの大夫はいずれも竹本姓であり、義太夫の大夫であった可能性が高い。そんな背景から知人が国立文楽劇場の閲覧室に連絡をとり、今日の訪問となった。
 劇場1階ロビーで知人と合流し、裏手に回り楽屋に入る入口で受付を済ませ三階の閲覧室に向かった。三階には小道具室などもあり折しも小道具係の方が発泡スチロールで舞台装置を制作中だった。楽屋や音響室前を通り一番奥の閲覧室のドアを開けた。係の女性に来意を告げると、事前に用意された資料を前にすぐに本題に入ることができた。知人がアポを取る際に告げていた知人が所属する河内厚郎事務所の名前がもたらした効果のようだ。河内厚郎氏は著名な演劇評論家にして「関西・歌舞伎を愛する会」代表世話人である。
 係員の説明を聞きながら一時間余り閲覧室で資料を調べた。「義太夫年鑑」という数冊の書籍の中から事前に検索してもらった索引データをもとに山口の墓碑に刻まれた竹本多賀大夫、竹本増大夫、竹本加治大夫という名前を探した。その結果、竹本加治大夫の名前は見当たらなかったものの、延享2年(1745年)に竹本増大夫の名前を、文化7年(1811)に竹本多賀大夫の名前を見つけた。もちろんこの二人が山口の墓碑の人物であることを裏付けるものは何もない。ただ江戸時代の中期から後期にかけて竹本増大夫と竹本多賀大夫という名前の義太夫大夫が実在したことが確認できたに過ぎない。
 墓碑からその碑銘の人物を辿ることの困難さを思い知らされた。「これ以上の調査はむしろ建立者の周辺の書き付け等を調べる方が早道ではないか」とは係員の方からのアドバイスだった。とはいえ学術的な手法による史跡探訪の初めての体験だった。知人の人脈や後押し抜きにはなしえなかった貴重な体験でもあった。