さらば!異業種交流会・・・ありがとう ― 2014年12月09日
昨晩、1年9ケ月ぶりに異業種交流会「大阪さくら会」の個人的には最後の例会に出席した。例年12月は忘年会を兼ねた総会という区切りの例会である。リタイヤ後、例会参加も稀になりこの総会をもって退会する旨、幹事会に伝えていた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2014/10/30/7478098
地下鉄御堂筋線「動物園前」駅改札口に18時半集合の案内だった。合流した10人ほどのメンバーと一緒に会場の「鯛よし百番」に向かった。旧赤線(遊郭)の名残りを今尚とどめる飛田新地のど真ん中を歩く。会場に着いた。開会の19時には10数人の会員が顔を揃えた。寄せ鍋を囲んでの懇親が始まった。ほどなく参加者ひとりひとりの近況報告になる。退会の意向を伝えていたためだろうか。真っ先に指名されて口火を切った。
リタイヤ後の地域活動での問題意識の高まりを語るとともに、例会参加の意欲の後退を吐露し退会の意向を伝えた。創成期から関わってきた立場から大阪さくら会の原点にもふれた。異業種交流会ではあるが多彩な人材が集い語り合う異人種交流会の性格が強いこと。「大阪」というローカリズムへのこだわり。「さくら」に象徴される文化や自然を愛するスタンスなどがこの会の持ち味である。そうしたコンセプトを今後も引き継いでほしいと結んだ。
全員の近況報告の後、しばらく懇親を重ね、お開きになったのは22時過ぎだったろうか。久々の大阪での深酒に酔いしれて帰宅したのは11時半だった。
17年間のこの異業種交流会での例会を通じて多くの経験と知識を得た。交流できた知人・友人も数知れない。思想的にも右から左まで多彩な顔ぶれだった。それらはこの会でなければ味わえなかっただろう貴重なものだった。50代前半から60代後半までの私の人生を彩ってくれたこの交流会にあらためて感謝をしたい。同時に人生の晩年を迎えて身辺整理に向けたひとつの「始末」を終えた。
地下鉄御堂筋線「動物園前」駅改札口に18時半集合の案内だった。合流した10人ほどのメンバーと一緒に会場の「鯛よし百番」に向かった。旧赤線(遊郭)の名残りを今尚とどめる飛田新地のど真ん中を歩く。会場に着いた。開会の19時には10数人の会員が顔を揃えた。寄せ鍋を囲んでの懇親が始まった。ほどなく参加者ひとりひとりの近況報告になる。退会の意向を伝えていたためだろうか。真っ先に指名されて口火を切った。
リタイヤ後の地域活動での問題意識の高まりを語るとともに、例会参加の意欲の後退を吐露し退会の意向を伝えた。創成期から関わってきた立場から大阪さくら会の原点にもふれた。異業種交流会ではあるが多彩な人材が集い語り合う異人種交流会の性格が強いこと。「大阪」というローカリズムへのこだわり。「さくら」に象徴される文化や自然を愛するスタンスなどがこの会の持ち味である。そうしたコンセプトを今後も引き継いでほしいと結んだ。
全員の近況報告の後、しばらく懇親を重ね、お開きになったのは22時過ぎだったろうか。久々の大阪での深酒に酔いしれて帰宅したのは11時半だった。
17年間のこの異業種交流会での例会を通じて多くの経験と知識を得た。交流できた知人・友人も数知れない。思想的にも右から左まで多彩な顔ぶれだった。それらはこの会でなければ味わえなかっただろう貴重なものだった。50代前半から60代後半までの私の人生を彩ってくれたこの交流会にあらためて感謝をしたい。同時に人生の晩年を迎えて身辺整理に向けたひとつの「始末」を終えた。
異業種交流会の退会 ― 2014年10月30日
現役時代、異業種交流会に参加していた。50過ぎの頃から幹事の一人として発足時から運営に関わってきた会である。以来、広報担当として会のHPを立上げ、毎月一回の例会には欠かさず参加し、例会報告を更新してきた。ところがリタイヤ後3年近くが経過した頃から会への参加が徐々に億劫になってきた。そこで3年前に申し出て幹事を辞任し、顧問という肩書で参加できる時に参加するという気楽な立場になった。それ以降、例会参加はわずか4回である。日常生活の重点が地域にシフトし、そのウェイトは年々高まっている。それに従いビジネスライフの性格の強い異業種交流会への参加が重荷になってきた。
毎年12月に会の忘年会を兼ねた総会が開催される。いつまでも会員実態の希薄なままズルズルと顧問という肩書だけを残しておくわけにもいかない。先日、事務局にそうした気持ちとともに退会の意向を伝えた。キチンとけじめをつけるためにも総会には出席する旨も添えた。人生の晩年を迎え、舞う舞台も移ろっている。合わなくなった衣装をいつまでも着たままでいるわけにはいかない。移ろうステージに応じた身の処し方は老いを受入れるために欠かせない。
毎年12月に会の忘年会を兼ねた総会が開催される。いつまでも会員実態の希薄なままズルズルと顧問という肩書だけを残しておくわけにもいかない。先日、事務局にそうした気持ちとともに退会の意向を伝えた。キチンとけじめをつけるためにも総会には出席する旨も添えた。人生の晩年を迎え、舞う舞台も移ろっている。合わなくなった衣装をいつまでも着たままでいるわけにはいかない。移ろうステージに応じた身の処し方は老いを受入れるために欠かせない。
日銀大阪支店の見学(異業種交流会) ― 2013年03月20日
昨日の夕方、久々に異業種交流会「大阪さくら会」に参加した。今回は、1月定例会で講師をして頂いた日本銀行大阪支店の副支店長の紹介で、日銀大阪支店の見学会だった。
午後4時前に大阪市役所の御堂筋を挟んで西隣りの日銀大阪支店玄関前に集合した。係の女性に明治36年建設の格式ある旧館2階の記念室に案内された。記念室は建物中央のドームの真下の部屋である。室内のドーム天井の東西南北にはステンドグラスや由緒あるレリーフが嵌め込まれている。20名のメンバーが重厚なテーブルに向い100年以上前に造られたという椅子に着席した。
副支店長の挨拶の後、係の女性の説明を聞き、旧館正面玄関だった階段室や資料展示コーナーに案内された。興味深かったのは、各自で千円札を手にしながら偽造防止技術の説明を受けたことだ。現行の千円札には様々な技術が施されている。真ん中の野口英世のすき入れ(添付画像①)は一目で分かるが、肖像画右側の縦棒のすき入れ(②)は初めて知った。左下にも潜像パール模様(③)という角度を変えると「千円」と「1000」の文字が浮かび上がる加工がある。お札の左右の余白部は傾けるとピンク色の半透明の模様(④)が浮かび上がる。右上部には肉眼では見にくいが「NIPPON GINKO」のマイクロ文字(⑤)が印刷されている。更に左右の下部には触って識別できるようにざらつきのあるマーク(⑥)が印刷されている。驚いたのは真ん中すかしの左下の赤い印章(⑦)である。設置された紫外線照射装置を当てるとオレンジ色に光って浮かび上がった。
1時間ほどの見学会を終えて、交流会の会場に向かった。会場は日銀大阪支店の川を挟んで対岸の住友ビル12Fレストラン「スカイガーデン」だった。料理たっぷりの2時間飲み放題コースで交流会を愉しんだ。席を隣り合わせた大学時代の先輩お二人とも久々に口角泡を飛ばす激論を交わした。深酒に眠りを誘われたJR車内の帰路だった。発車寸前の最寄駅で辛うじて下車し、バスに乗り換えて10時前に無事自宅に辿り着いた。
午後4時前に大阪市役所の御堂筋を挟んで西隣りの日銀大阪支店玄関前に集合した。係の女性に明治36年建設の格式ある旧館2階の記念室に案内された。記念室は建物中央のドームの真下の部屋である。室内のドーム天井の東西南北にはステンドグラスや由緒あるレリーフが嵌め込まれている。20名のメンバーが重厚なテーブルに向い100年以上前に造られたという椅子に着席した。
副支店長の挨拶の後、係の女性の説明を聞き、旧館正面玄関だった階段室や資料展示コーナーに案内された。興味深かったのは、各自で千円札を手にしながら偽造防止技術の説明を受けたことだ。現行の千円札には様々な技術が施されている。真ん中の野口英世のすき入れ(添付画像①)は一目で分かるが、肖像画右側の縦棒のすき入れ(②)は初めて知った。左下にも潜像パール模様(③)という角度を変えると「千円」と「1000」の文字が浮かび上がる加工がある。お札の左右の余白部は傾けるとピンク色の半透明の模様(④)が浮かび上がる。右上部には肉眼では見にくいが「NIPPON GINKO」のマイクロ文字(⑤)が印刷されている。更に左右の下部には触って識別できるようにざらつきのあるマーク(⑥)が印刷されている。驚いたのは真ん中すかしの左下の赤い印章(⑦)である。設置された紫外線照射装置を当てるとオレンジ色に光って浮かび上がった。
1時間ほどの見学会を終えて、交流会の会場に向かった。会場は日銀大阪支店の川を挟んで対岸の住友ビル12Fレストラン「スカイガーデン」だった。料理たっぷりの2時間飲み放題コースで交流会を愉しんだ。席を隣り合わせた大学時代の先輩お二人とも久々に口角泡を飛ばす激論を交わした。深酒に眠りを誘われたJR車内の帰路だった。発車寸前の最寄駅で辛うじて下車し、バスに乗り換えて10時前に無事自宅に辿り着いた。
スーパードライ梅田のオクーバフェストで異業種交流会 ― 2012年10月17日
昨晩、現役時代に参加していた異業種交流会に9カ月ぶりに参加した。ミュンヘンの世界一のビール祭り「オクトーバフェスト」の日本版をアサヒスーパードライ梅田で開催している。そのスーパードライ梅田が今回の会場だったこともある。
集合時間に十分間に合う予定で出かけたが、最寄駅までのバスが大渋滞に巻き込まれ、結局会場に辿り着いたのは20分遅れの6時50分だった。梅田新道交差点一角のビル地下1階が会場である。入口で異業種交流会の名前を告げるとテーブルに案内された。既に広大なビヤホールを立錐の余地がないほどにビールファンたちがつめかけていた。テーブル席では9名のメンバーたちが賑やかに歓談していた。テーブルにはドイツビールの入ったジョッキや唐揚げ、ウインナー、ハムなどの皿が溢れていた。正面の一段高い舞台では「エーデルワイス・カペレ」という男女5人の楽団が華やかで陽気な演奏を繰り広げている。
席に着くとすぐにジョッキを渡され乾杯となる。久々のメンバーたちと旧交を温めようとしたが大音量の演奏で会話にならない。ぎゅうぎゅう詰めテーブル配置で席替えもままならない。あきらめて会場イベントの流れに身を委ねた。
お祭りの演出はなかなかのものだ。エーデルワイスなどのアルプス風満載の演奏もさることながら、合間合間に出演者たち自らジョッキを掲げて「アイン、プロジット!アイン、プロジット!」と乾杯する。客席も総立ちしてこれに応える。かと思えば若いコックたちが蒸し焼きの丸ごと一匹の子豚を担いで練り歩いたり(これはチョット悪趣味だった)、観客総出でジェンカ風のムカデ大行進を演じたりした。会場からの飛び入りを募った「5リットルジョッキの廻し飲み」といった趣向もあった。酔いを巧みに吸収した巧みな演出で会場はいやが上にも盛り上がる。
残念ながら明日の朝の地区の集団健康診断が控えていた。それだけに出がけには、今回の交流会参加で家内とひと悶着あったばかりだ。「老いては嫁に従え」である。参加できただけで良しとするかと、8時30分過ぎには、お先に会場を後にした。ちなみにフェスト開催中のチケットは、呑み放題食べ放題でホール席前売料金5500円だった。
集合時間に十分間に合う予定で出かけたが、最寄駅までのバスが大渋滞に巻き込まれ、結局会場に辿り着いたのは20分遅れの6時50分だった。梅田新道交差点一角のビル地下1階が会場である。入口で異業種交流会の名前を告げるとテーブルに案内された。既に広大なビヤホールを立錐の余地がないほどにビールファンたちがつめかけていた。テーブル席では9名のメンバーたちが賑やかに歓談していた。テーブルにはドイツビールの入ったジョッキや唐揚げ、ウインナー、ハムなどの皿が溢れていた。正面の一段高い舞台では「エーデルワイス・カペレ」という男女5人の楽団が華やかで陽気な演奏を繰り広げている。
席に着くとすぐにジョッキを渡され乾杯となる。久々のメンバーたちと旧交を温めようとしたが大音量の演奏で会話にならない。ぎゅうぎゅう詰めテーブル配置で席替えもままならない。あきらめて会場イベントの流れに身を委ねた。
お祭りの演出はなかなかのものだ。エーデルワイスなどのアルプス風満載の演奏もさることながら、合間合間に出演者たち自らジョッキを掲げて「アイン、プロジット!アイン、プロジット!」と乾杯する。客席も総立ちしてこれに応える。かと思えば若いコックたちが蒸し焼きの丸ごと一匹の子豚を担いで練り歩いたり(これはチョット悪趣味だった)、観客総出でジェンカ風のムカデ大行進を演じたりした。会場からの飛び入りを募った「5リットルジョッキの廻し飲み」といった趣向もあった。酔いを巧みに吸収した巧みな演出で会場はいやが上にも盛り上がる。
残念ながら明日の朝の地区の集団健康診断が控えていた。それだけに出がけには、今回の交流会参加で家内とひと悶着あったばかりだ。「老いては嫁に従え」である。参加できただけで良しとするかと、8時30分過ぎには、お先に会場を後にした。ちなみにフェスト開催中のチケットは、呑み放題食べ放題でホール席前売料金5500円だった。
異業種交流会で「原発問題」を考えた ― 2012年01月27日

昨晩、久々に異業種交流会「大阪さくら会」の例会に出席した。昨年8月以来の5カ月ぶりの出席だった。会場はJR環状線福島駅最寄りの「賀茂姫」という路地裏の長屋のお店だった。路地裏だけに参加者は辿り着くのにかなりてこずった。午後6時半頃に庶民的な風情のあるお店の格子戸を開けて会場の二階に上がった。10畳ばかりの細長い部屋にはプロジェクターとスクリーンがセットされ、既に講師やら数人の参加者の姿があった。
今回の講師は私の学生時代からの友人でさくら会のメンバーでもある竹内賢樹さんである。リタイヤ後、郷里で農業を営む傍ら、現役の頃からの関心事だった環境問題に取組み、福島原発事故以降は原発問題への関心と研究に深く関わっている。そんな経歴もあって今回の「今一度考えてみよう原子力発電と我々の暮らし」と題したスピーチとなった。以下は、講師のスピーチに当たってのメッセージである。
『チェルノブイリ原発事故以来、漠然と原発は危険なものではないかと言う認識は持っていましたが、それでもソ連の原発と違い日本の優秀な技術で作られた原発は絶対安全であると言う政府や学者、電力会社の言葉をこれまで信じてきました。また、地球温暖化を防止するためにはCO2を出さない原発は必要だと思ってきました。
しかし、福島第一原発の事故があってはじめて原発は絶対安全とは言えないし、一旦事故が発生すればその被害は計り知れないことに驚かされました。そして、日本が世界第2の原発大国になっていて、関西電力が日本で一番原発の依存度が高く5割も占めていることも分かりました。
我々の快適な暮らしを維持するためには電気は欠かせないものですが、これを機会に原発に支えられた我々の暮らしそのものを見つめ直す必要があるのではと思い始めました』。
我々の原発についての素直な気持ちと認識を端的に表現されていた。そして例会スピーチでは、プロジェクターで豊富なデータを示しながら原発を巡る問題点が丁寧に解説された。
特にあらためて認識させられたのは次の点だった。原発の問題点が「原発コストは安くない」「核廃棄物は処分自体が困難だ」「再処理(核燃料サイクル)の危険性」「一旦事故が発生した際のその被害の甚大性」「地震国日本での原発の危険性」などが整理された。また「脱原発は可能なのか」との懸念についても「現状でも原発なしでも電力不足はおきない」ことを指摘し、「脱原発の世界の動き」を紹介しながら省エネ・節電と自然エネルギーの普及がを訴えられる。最後に我々自身の暮らしの見直しが言及された。「地球環境の危機的現状」に触れられ、「壊滅的なリスクを抱えながら尚、経済を優先すべきか」を問いかけ、「エネルギー消費社会からの転換」が必要であり、そのためのライフスタイルそのものの見直しが訴えられた。
原発に対する疑問点と漠然とした不安が見事に整理できたスピーチだった。私自身も先にこのブログで「脱原発」を表明した。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/01/04/6277262 この表明を具体的に実証的に裏付けてもらったスピーチだった。
今回の講師は私の学生時代からの友人でさくら会のメンバーでもある竹内賢樹さんである。リタイヤ後、郷里で農業を営む傍ら、現役の頃からの関心事だった環境問題に取組み、福島原発事故以降は原発問題への関心と研究に深く関わっている。そんな経歴もあって今回の「今一度考えてみよう原子力発電と我々の暮らし」と題したスピーチとなった。以下は、講師のスピーチに当たってのメッセージである。
『チェルノブイリ原発事故以来、漠然と原発は危険なものではないかと言う認識は持っていましたが、それでもソ連の原発と違い日本の優秀な技術で作られた原発は絶対安全であると言う政府や学者、電力会社の言葉をこれまで信じてきました。また、地球温暖化を防止するためにはCO2を出さない原発は必要だと思ってきました。
しかし、福島第一原発の事故があってはじめて原発は絶対安全とは言えないし、一旦事故が発生すればその被害は計り知れないことに驚かされました。そして、日本が世界第2の原発大国になっていて、関西電力が日本で一番原発の依存度が高く5割も占めていることも分かりました。
我々の快適な暮らしを維持するためには電気は欠かせないものですが、これを機会に原発に支えられた我々の暮らしそのものを見つめ直す必要があるのではと思い始めました』。
我々の原発についての素直な気持ちと認識を端的に表現されていた。そして例会スピーチでは、プロジェクターで豊富なデータを示しながら原発を巡る問題点が丁寧に解説された。
特にあらためて認識させられたのは次の点だった。原発の問題点が「原発コストは安くない」「核廃棄物は処分自体が困難だ」「再処理(核燃料サイクル)の危険性」「一旦事故が発生した際のその被害の甚大性」「地震国日本での原発の危険性」などが整理された。また「脱原発は可能なのか」との懸念についても「現状でも原発なしでも電力不足はおきない」ことを指摘し、「脱原発の世界の動き」を紹介しながら省エネ・節電と自然エネルギーの普及がを訴えられる。最後に我々自身の暮らしの見直しが言及された。「地球環境の危機的現状」に触れられ、「壊滅的なリスクを抱えながら尚、経済を優先すべきか」を問いかけ、「エネルギー消費社会からの転換」が必要であり、そのためのライフスタイルそのものの見直しが訴えられた。
原発に対する疑問点と漠然とした不安が見事に整理できたスピーチだった。私自身も先にこのブログで「脱原発」を表明した。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/01/04/6277262 この表明を具体的に実証的に裏付けてもらったスピーチだった。
竜馬が頻繁に訪れた大阪 ― 2011年08月06日
昨晩、7カ月ぶりに異業種交流会の例会に出席した。今回の講師は「大阪龍馬会」の幹事・長谷(おさたに)吉治さんだった。例会では自身の著作「大坂の史跡探訪~龍馬の足跡~」をベースに龍馬が残した大阪の史跡の紹介と解説をして頂いた。
ホームページによると「大阪竜馬会」は1985年に高知、東京についで全国3番目に結成された龍馬会ということだ。現在100名の会員を擁し年4回の機関紙発行や年数回の史跡探訪や親睦会などのイベントを開催しているという。
講師のスピーチの骨子は「龍馬の最も訪問回数が多いのが大坂だった」という点である。その訪問先の場所として北鍋屋町(現在の淡路町)の「浄土真宗・専稱寺」と東横堀川思案橋西詰の船宿「河内屋与次兵衛」があげられた。
専稱寺は幕府の軍艦奉行並に就任した勝海舟の大坂での寓居先であり私塾の海軍塾を開いた場所でもある。当時、海舟の門弟でもあり海軍塾の幹部でもあった龍馬が頻繁に出入りしたことは想像に難くない。
もう一方の船宿船宿・河内屋与次兵衛は京都・大坂を結ぶ淀川の三十石船の大坂の船宿のひとつである。龍馬の伏見の滞在先が船宿・日野屋孫兵衛であることは姉・乙女に宛てた手紙で明らかだが、その大坂側の提携先の船宿が河内屋与次兵衛である。実際、この宿から大坂海軍塾・専稱寺まではわずか400m程の距離であった。
スピーチ終了後には参加者からの質問が相次いだ。ユニークだったのは「龍馬ブームがこれほどまでに根強いのは何故だと思いますか」という質問に、講師は「司馬遼太郎の『「竜馬がゆく』の影響が極めて大きいと思います」と返された。簡潔明瞭で説得力のある回答だった。
講演後に、持参頂いた著作「大坂の史跡探訪~龍馬の足跡~」を購入した。龍馬の大坂での足跡が写真、絵図、地図などをふんだんに織り交ぜて解説されている。労働委員会事務局のある天満橋周辺の史跡も多い。時間を見つけたての街歩きの楽しみを手にした。
ホームページによると「大阪竜馬会」は1985年に高知、東京についで全国3番目に結成された龍馬会ということだ。現在100名の会員を擁し年4回の機関紙発行や年数回の史跡探訪や親睦会などのイベントを開催しているという。
講師のスピーチの骨子は「龍馬の最も訪問回数が多いのが大坂だった」という点である。その訪問先の場所として北鍋屋町(現在の淡路町)の「浄土真宗・専稱寺」と東横堀川思案橋西詰の船宿「河内屋与次兵衛」があげられた。
専稱寺は幕府の軍艦奉行並に就任した勝海舟の大坂での寓居先であり私塾の海軍塾を開いた場所でもある。当時、海舟の門弟でもあり海軍塾の幹部でもあった龍馬が頻繁に出入りしたことは想像に難くない。
もう一方の船宿船宿・河内屋与次兵衛は京都・大坂を結ぶ淀川の三十石船の大坂の船宿のひとつである。龍馬の伏見の滞在先が船宿・日野屋孫兵衛であることは姉・乙女に宛てた手紙で明らかだが、その大坂側の提携先の船宿が河内屋与次兵衛である。実際、この宿から大坂海軍塾・専稱寺まではわずか400m程の距離であった。
スピーチ終了後には参加者からの質問が相次いだ。ユニークだったのは「龍馬ブームがこれほどまでに根強いのは何故だと思いますか」という質問に、講師は「司馬遼太郎の『「竜馬がゆく』の影響が極めて大きいと思います」と返された。簡潔明瞭で説得力のある回答だった。
講演後に、持参頂いた著作「大坂の史跡探訪~龍馬の足跡~」を購入した。龍馬の大坂での足跡が写真、絵図、地図などをふんだんに織り交ぜて解説されている。労働委員会事務局のある天満橋周辺の史跡も多い。時間を見つけたての街歩きの楽しみを手にした。
始末 ― 2010年12月29日

異業種交流会の忘年会を兼ねた総会の日だった。総会前に幹事会があった。発足以来15年近くが経過する会だった。例会開催回数は116回にも及ぶ。それだけに最近は、マンネリ化、参加者の減少、メンバーの固定化など例会運営の行き詰まり感が否定できない。再出発に向けて運営の在り方を打ち合わせるための幹事会だった。
私自身も幹事の一人として発足時から会の運営に関わってきた。広報担当として会のHPを立上げ例会報告を更新してきた。異業種交流会とはいえビジネス上の実利を求めるスタンスはない。個性豊かなメンバーたちがフランクに交流し合う異人種交流会といった性格が強い。それだけに愛着のある会でもあった。
それでもリタイヤ後3年近くが経過し会への参加が徐々に億劫になってきた。日常の過ごし方や興味の対象は明らかに地域にシフトしている。地域中心のライフスタイルが異業種交流会参加のモチベーションを萎えさせてきている。リタイヤ生活の充実は現役時代の拘束感からの脱皮の裏返しでもあると思う。会への参加が重荷に感じ始めた時は、関わり方をそのものを問い直す時だと判断した。リタイヤメンバーが会の運営に関わっていることが会の運営の妨げになっているかもしれない。幹事会で幹事辞任を申し出た。一会員の立場で気が向いたときに参加したいという今後の関わり方も述べ、了承された。
人生の晩年を迎えている。徐々に担いでいる荷物を整理し身軽になる時期でもある。そうした「始末」には一抹の淋しさも伴うものだ。それでも心安らかなゴールを目指すには欠かせない営みである。
私自身も幹事の一人として発足時から会の運営に関わってきた。広報担当として会のHPを立上げ例会報告を更新してきた。異業種交流会とはいえビジネス上の実利を求めるスタンスはない。個性豊かなメンバーたちがフランクに交流し合う異人種交流会といった性格が強い。それだけに愛着のある会でもあった。
それでもリタイヤ後3年近くが経過し会への参加が徐々に億劫になってきた。日常の過ごし方や興味の対象は明らかに地域にシフトしている。地域中心のライフスタイルが異業種交流会参加のモチベーションを萎えさせてきている。リタイヤ生活の充実は現役時代の拘束感からの脱皮の裏返しでもあると思う。会への参加が重荷に感じ始めた時は、関わり方をそのものを問い直す時だと判断した。リタイヤメンバーが会の運営に関わっていることが会の運営の妨げになっているかもしれない。幹事会で幹事辞任を申し出た。一会員の立場で気が向いたときに参加したいという今後の関わり方も述べ、了承された。
人生の晩年を迎えている。徐々に担いでいる荷物を整理し身軽になる時期でもある。そうした「始末」には一抹の淋しさも伴うものだ。それでも心安らかなゴールを目指すには欠かせない営みである。
加齢なるシングルの華麗な人生 ― 2010年03月13日

四日前に異業種交流会があった。今回は会員であるHさんの「海外ボランティア活動記(パプアニューギニア)」がテーマだった。
最初に自己紹介がある。1941年生まれの68歳で福岡県飯塚市出身である。麻生前総理と同郷で、実家の本屋さんに「太郎ちゃんが漫画を買いに来ていた」とのこと。Hさんは元来はIT技術者で情報媒体の専門家である。三洋電機中央研究所に入社以降、定年までを磁気ヘッドの研究開発事業一筋の現役生活を送られたようだ。定年後もストレージ(デジタル情報の記憶装置)業界のアナリストとして講演・執筆活動に携わる一方、日本磁気学会、映像情報メディア学会等の学会にも所属されている。同時に大阪南太平洋協会(ASPA)、国立民族学博物館(MMP)という二つのボランティア組織にも参加し、多忙な日々を送られている。
続いてプロジェクターによる報告となる。パプアニューギニアの支援活動を行っているASPAの紹介があった。「南太平洋の豊かな自然とそこに住む人々とふれあい、環境保全の大切さをお互いに学び合う」社団法人である。これまでパプアニューギニアに8次にわたって訪問支援活動を行っている。Hさんは5次派遣から参加しているとのことだ。
パプアニューギニアはオーストラリア北方の赤道付近に位置し、本島とよばれるニューギニア島の東半分とその周辺の島々からなる国である。常夏の国で雨季でも30℃位で乾季になると40℃近くになる。500もの部族が800もの言語を使用し言語学の宝庫といわれる。他方で治安は悪く強盗が頻発しているという。1957年にオーストラリアの統治から独立した若い国家である。
昨年の第8次の支援活動の報告となる。看護師さん、高校を卒業したばかりの若者、大工さんなど10人のボランティア・スタッフが自費で参加した。首都モレスビーの空港到着後、四輪駆動車を駆って道なき道を進み、目的地ソアムの村をめざす。電気のない村ソアムの暮らしぶりや支援活動が紹介される。医療支援や電気のない村のソーラー発電普及などの活動が画像中心にビジュアルに説明される。海辺の灼熱の浜に遊ぶ素っ裸の子供たち、長老たちの思索に満ちた風貌、ボランティアスタッフたちとの交流風景など、個人的にも参加したいと思わせられる画像が次々と映し出される。
45分ほどのスピーチが終わり、例会参加者からの質問が相次ぐ。やりがいのある活動とはいえ、治安の悪さやマラリア罹患の恐れなど危険も多い活動でもある。「ご家族の反対はなかったんですか」と思わず尋ねてみた。「独りですから・・・」と簡潔な答えが返された。
それにしても60代後半の年齢で過酷な環境のパプアニューギニアでのボランティアに毎年自費で出かけるエネルギーは驚くほかはない。いただいた経歴書には、テニス、ヨット、山歩き、読書・絵画・音楽鑑賞、茶道など文武の多彩な趣味が記されている。そうした生活を支えているのはストレージの世界でのプロフェッショナルなスキルである筈だ。その拠点を根拠地に、多方面にエネルギッシュにうって出る元気な老後生活が羨ましい。「加齢なるシングルの華麗なる人生」を見た。
最初に自己紹介がある。1941年生まれの68歳で福岡県飯塚市出身である。麻生前総理と同郷で、実家の本屋さんに「太郎ちゃんが漫画を買いに来ていた」とのこと。Hさんは元来はIT技術者で情報媒体の専門家である。三洋電機中央研究所に入社以降、定年までを磁気ヘッドの研究開発事業一筋の現役生活を送られたようだ。定年後もストレージ(デジタル情報の記憶装置)業界のアナリストとして講演・執筆活動に携わる一方、日本磁気学会、映像情報メディア学会等の学会にも所属されている。同時に大阪南太平洋協会(ASPA)、国立民族学博物館(MMP)という二つのボランティア組織にも参加し、多忙な日々を送られている。
続いてプロジェクターによる報告となる。パプアニューギニアの支援活動を行っているASPAの紹介があった。「南太平洋の豊かな自然とそこに住む人々とふれあい、環境保全の大切さをお互いに学び合う」社団法人である。これまでパプアニューギニアに8次にわたって訪問支援活動を行っている。Hさんは5次派遣から参加しているとのことだ。
パプアニューギニアはオーストラリア北方の赤道付近に位置し、本島とよばれるニューギニア島の東半分とその周辺の島々からなる国である。常夏の国で雨季でも30℃位で乾季になると40℃近くになる。500もの部族が800もの言語を使用し言語学の宝庫といわれる。他方で治安は悪く強盗が頻発しているという。1957年にオーストラリアの統治から独立した若い国家である。
昨年の第8次の支援活動の報告となる。看護師さん、高校を卒業したばかりの若者、大工さんなど10人のボランティア・スタッフが自費で参加した。首都モレスビーの空港到着後、四輪駆動車を駆って道なき道を進み、目的地ソアムの村をめざす。電気のない村ソアムの暮らしぶりや支援活動が紹介される。医療支援や電気のない村のソーラー発電普及などの活動が画像中心にビジュアルに説明される。海辺の灼熱の浜に遊ぶ素っ裸の子供たち、長老たちの思索に満ちた風貌、ボランティアスタッフたちとの交流風景など、個人的にも参加したいと思わせられる画像が次々と映し出される。
45分ほどのスピーチが終わり、例会参加者からの質問が相次ぐ。やりがいのある活動とはいえ、治安の悪さやマラリア罹患の恐れなど危険も多い活動でもある。「ご家族の反対はなかったんですか」と思わず尋ねてみた。「独りですから・・・」と簡潔な答えが返された。
それにしても60代後半の年齢で過酷な環境のパプアニューギニアでのボランティアに毎年自費で出かけるエネルギーは驚くほかはない。いただいた経歴書には、テニス、ヨット、山歩き、読書・絵画・音楽鑑賞、茶道など文武の多彩な趣味が記されている。そうした生活を支えているのはストレージの世界でのプロフェッショナルなスキルである筈だ。その拠点を根拠地に、多方面にエネルギッシュにうって出る元気な老後生活が羨ましい。「加齢なるシングルの華麗なる人生」を見た。
異業種交流会「ドイツ・ロマンチック街道サイクリング二人旅」 ― 2010年02月10日

昨晩、4か月ぶりに異業種交流会の例会に出席した。講師は会員のOさんとその中学時代の友人Iさんである。昨年9月にドイツのロマンチック街道をレンタサイクルで走破した、その16日間の体験ツアーの報告会だった。最初にOさんからツアー報告資料をもとに20分ほどのスピーチがある。
「定年退職を目前にして老後の趣味を模索していた時、『ドイツロマンチック街道サイクリング一人旅』」という本に出会った。これだ!と思った。それからロマンチック街道サイクリングツアーの挑戦を夢見て準備を始めた。自転車を購入し、琵琶湖一周などのサイクリングツアーで訓練を積む。ロマンチック街道自転車道の地図や資料を入手する。準備は整ったものの一人旅の不安がつのる。友人の『一緒に行こう』の言葉に背中を押され、5年がかりの夢実現に踏み出した。」
コースはフュッセンからヴュルツブルグに至るアルプス山麓からマイン河畔までのコースである。通常の観光ルートとは逆のコースのようだが、サイクリング走破のため高低差600mの下りコースを選択したとのこと。なるほど、逆ならばエライ目にあってた筈。続いて旅の印象や感想が述べられる。
「利用航空機がエアーチャイナだったため、ドイツでは中国人と思われ厳しい対応を受けた。パスポートの赤い色で日本人と分かり急に親切になった。ドイツ人の日本人への親近感を感じた。宿泊は主にGh(ガストホーフ)という小規模で比較的安価な宿を利用した。家族経営が多く、宿の年配の女主人との楽しい交流があったり、夕食で隣り合わせた7人連れのファミリーと意気投合して盛り上がったりした。ローデンブルグで知り合ったご夫婦のお宅に泊めて頂いたりもした。個人旅行ならではの愉しくて貴重な体験だった。」
そのほかOさんの感じたドイツやドイツ人の印象などが披露された。自己責任意識の強さ、環境対策の熱心さ、平坦な国土でのアウトバーンの普及、物づくりでの頑丈さへのこだわりなどである。日本にあってドイツにないものを挙げながら日独の文化の違いなども語られた。
続いて、現地でIさんが撮影したビデオの30分ほどのDVD編集版がプロジェクターで流された。BGMも流れる本格的な編集だった。随所でIさんの解説が入る。
「480Kmを10日で走破しなければならなかった。完走第一で観光するゆとりはない。スケジュールをめぐって二人で口論する場面もあった。」
ツアーコンダクターの資格を持ち観光への関心の強いOさんに対し、小学校教諭の現役生活の長かったIさんは修学旅行での生徒たちの無事第一の引率体験が重い。二人の想いの違いが口論につながったという。道に迷ったこともしばしばあったようだ。愉しいだけでない体験も多々あったと思う。それでも一人では乗り切れない困難も、二人だからこそ乗り越えられたたという実感がコメントににじんでいる。自転車に乗りながらの風景撮影や現地の人たちとの交流場面などDVDから流れる動画が生々しくツアーの模様を伝えてくれる。
思えば幼い頃、男の子たちはまだ豊かな自然の残る故郷で、ガキ大将たちと山野を駆けめぐる冒険に出かけたものである。今再び団塊世代のお二人は、還暦を過ぎての無謀とも思える冒険旅行に出かけた。長かったビジネスライフを終えた時、荒野をめざした青年の心に戻って、リタイヤ生活のスタートを切った。言葉の通じない異国での480kmにわたる街道を、二人きりで走破する。男のロマンを感じさせる魅力的で羨ましい体験というほかはない。「自分の健康や家族との関係など、周囲の状況を考えれば今しかないと思った」。冒険旅行を決断させたOさんの言葉を噛みしめた。
「定年退職を目前にして老後の趣味を模索していた時、『ドイツロマンチック街道サイクリング一人旅』」という本に出会った。これだ!と思った。それからロマンチック街道サイクリングツアーの挑戦を夢見て準備を始めた。自転車を購入し、琵琶湖一周などのサイクリングツアーで訓練を積む。ロマンチック街道自転車道の地図や資料を入手する。準備は整ったものの一人旅の不安がつのる。友人の『一緒に行こう』の言葉に背中を押され、5年がかりの夢実現に踏み出した。」
コースはフュッセンからヴュルツブルグに至るアルプス山麓からマイン河畔までのコースである。通常の観光ルートとは逆のコースのようだが、サイクリング走破のため高低差600mの下りコースを選択したとのこと。なるほど、逆ならばエライ目にあってた筈。続いて旅の印象や感想が述べられる。
「利用航空機がエアーチャイナだったため、ドイツでは中国人と思われ厳しい対応を受けた。パスポートの赤い色で日本人と分かり急に親切になった。ドイツ人の日本人への親近感を感じた。宿泊は主にGh(ガストホーフ)という小規模で比較的安価な宿を利用した。家族経営が多く、宿の年配の女主人との楽しい交流があったり、夕食で隣り合わせた7人連れのファミリーと意気投合して盛り上がったりした。ローデンブルグで知り合ったご夫婦のお宅に泊めて頂いたりもした。個人旅行ならではの愉しくて貴重な体験だった。」
そのほかOさんの感じたドイツやドイツ人の印象などが披露された。自己責任意識の強さ、環境対策の熱心さ、平坦な国土でのアウトバーンの普及、物づくりでの頑丈さへのこだわりなどである。日本にあってドイツにないものを挙げながら日独の文化の違いなども語られた。
続いて、現地でIさんが撮影したビデオの30分ほどのDVD編集版がプロジェクターで流された。BGMも流れる本格的な編集だった。随所でIさんの解説が入る。
「480Kmを10日で走破しなければならなかった。完走第一で観光するゆとりはない。スケジュールをめぐって二人で口論する場面もあった。」
ツアーコンダクターの資格を持ち観光への関心の強いOさんに対し、小学校教諭の現役生活の長かったIさんは修学旅行での生徒たちの無事第一の引率体験が重い。二人の想いの違いが口論につながったという。道に迷ったこともしばしばあったようだ。愉しいだけでない体験も多々あったと思う。それでも一人では乗り切れない困難も、二人だからこそ乗り越えられたたという実感がコメントににじんでいる。自転車に乗りながらの風景撮影や現地の人たちとの交流場面などDVDから流れる動画が生々しくツアーの模様を伝えてくれる。
思えば幼い頃、男の子たちはまだ豊かな自然の残る故郷で、ガキ大将たちと山野を駆けめぐる冒険に出かけたものである。今再び団塊世代のお二人は、還暦を過ぎての無謀とも思える冒険旅行に出かけた。長かったビジネスライフを終えた時、荒野をめざした青年の心に戻って、リタイヤ生活のスタートを切った。言葉の通じない異国での480kmにわたる街道を、二人きりで走破する。男のロマンを感じさせる魅力的で羨ましい体験というほかはない。「自分の健康や家族との関係など、周囲の状況を考えれば今しかないと思った」。冒険旅行を決断させたOさんの言葉を噛みしめた。
52歳での転身先は「民藝」の世界 ― 2009年10月14日

昨晩、異業種交流会の10月例会があった。千里・万博公園内にある「大阪日本民芸館」の長井常務理事が講師だった。「大阪日本民芸館の活動と取組み」をテーマに1時間のスピーチを聴いた。
スピーチは一風変わった講師の略歴紹介から始まった。「富山県高岡市の『狼村』というおどろおどろしい名前の村の出身である。慶応大学卒業後、日本生命に入社しサラリーマン人生をスタートさせた。平成4年に不動産鑑定士の資格を取得したが、当時の受験仲間を中心に異業種交流会『関西の今後を考える会』をつくった。会は現在も続いており例会開催は170回を数える。2年前に日本生命の出資先である『財団法人・大阪日本民芸館』に出向し、民藝の世界でのゼロからのスタートとなった。直後から京都造形芸術大学通信教育学部に入学し、今年4月に博物館学芸員資格も取得した。出身の富山県は、柳宗悦や棟方志功ゆかりの地でもあり、複数の民芸館がある民芸の盛んな県だとあらためて知った。富山県人の粘り強さというDNAを自分でも引き継いでいると思う。富山のこうした縁をバネに民芸運動に人生の仕切り直しのつもりで取り組みたい」
ところで「民芸」については、私自身も知っているようでよく分かっていない漠然としたジャンルである。その辺りも心得たかのように講師から「民芸とは何か」の解説がある。「民衆的工芸の略語である。宗教哲学者にして民藝運動の提唱者である柳宗悦は次のように定義している。①実用性②無銘性③多量性と廉価性④地方性⑤協業性の5点である。また柳宗悦は日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など無名の工人の作になる日用雑器を発掘し、世に紹介することに努め、日本民芸館を開設した人物である」
話は大阪日本民芸館の紹介に移る。「1970年の大阪万博のパピリオンとして建設され、翌年に大阪日本民芸館として開館した。モノレールの万博公園東口駅から徒歩8分の所にある。駐車料金も必要で入館料も700円と高額なこともあり、来館者の絶対数が少なく厳しい環境にある。それでも着実に入館者は増えており昨年は1万人を数えた。展示方法は一切の解説を排し生の作品を見てもらうという、見方によっては傲慢な手法を採っている。宗悦の言葉である『見た後で知れ、知ってみるな』の実践でもある。ミュージアムショップでは質の高い民芸品をリーズナブルな価格で販売し、宗悦の思想の実践を心掛けている。友の会を中心としたイベント運営や絞り染め、お茶、写真の同好会を通じて質の高い文化活動を実践している。現在、『民藝の巨匠たち』の秋季特別展を開催している。自分自身この仕事について初めて民藝の世界を知った。奥深くて面白いというのが率直な実感である。ぜひ一度来館して特別展で民藝に触れてほしい」と結ばれた。
参加者に配られた資料には特別展の招待券と割引券が添えられていた。来館者数を倍増させたという財団法人経営でも有能な営業マンでもある。「民藝」の伝道者としての自負がその裏づけなのだろう。ビジネスの世界からかけ離れた舞台への52歳にしての転身である。そこに生涯をかけられる魅力とやりがいを見出し、学芸員の資格まで取得してしまうほどの情熱を傾ける。恵まれた羨ましいビジネス人生を手に入れた講師の情熱と努力を感じさせられたスピーチだった。
スピーチは一風変わった講師の略歴紹介から始まった。「富山県高岡市の『狼村』というおどろおどろしい名前の村の出身である。慶応大学卒業後、日本生命に入社しサラリーマン人生をスタートさせた。平成4年に不動産鑑定士の資格を取得したが、当時の受験仲間を中心に異業種交流会『関西の今後を考える会』をつくった。会は現在も続いており例会開催は170回を数える。2年前に日本生命の出資先である『財団法人・大阪日本民芸館』に出向し、民藝の世界でのゼロからのスタートとなった。直後から京都造形芸術大学通信教育学部に入学し、今年4月に博物館学芸員資格も取得した。出身の富山県は、柳宗悦や棟方志功ゆかりの地でもあり、複数の民芸館がある民芸の盛んな県だとあらためて知った。富山県人の粘り強さというDNAを自分でも引き継いでいると思う。富山のこうした縁をバネに民芸運動に人生の仕切り直しのつもりで取り組みたい」
ところで「民芸」については、私自身も知っているようでよく分かっていない漠然としたジャンルである。その辺りも心得たかのように講師から「民芸とは何か」の解説がある。「民衆的工芸の略語である。宗教哲学者にして民藝運動の提唱者である柳宗悦は次のように定義している。①実用性②無銘性③多量性と廉価性④地方性⑤協業性の5点である。また柳宗悦は日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など無名の工人の作になる日用雑器を発掘し、世に紹介することに努め、日本民芸館を開設した人物である」
話は大阪日本民芸館の紹介に移る。「1970年の大阪万博のパピリオンとして建設され、翌年に大阪日本民芸館として開館した。モノレールの万博公園東口駅から徒歩8分の所にある。駐車料金も必要で入館料も700円と高額なこともあり、来館者の絶対数が少なく厳しい環境にある。それでも着実に入館者は増えており昨年は1万人を数えた。展示方法は一切の解説を排し生の作品を見てもらうという、見方によっては傲慢な手法を採っている。宗悦の言葉である『見た後で知れ、知ってみるな』の実践でもある。ミュージアムショップでは質の高い民芸品をリーズナブルな価格で販売し、宗悦の思想の実践を心掛けている。友の会を中心としたイベント運営や絞り染め、お茶、写真の同好会を通じて質の高い文化活動を実践している。現在、『民藝の巨匠たち』の秋季特別展を開催している。自分自身この仕事について初めて民藝の世界を知った。奥深くて面白いというのが率直な実感である。ぜひ一度来館して特別展で民藝に触れてほしい」と結ばれた。
参加者に配られた資料には特別展の招待券と割引券が添えられていた。来館者数を倍増させたという財団法人経営でも有能な営業マンでもある。「民藝」の伝道者としての自負がその裏づけなのだろう。ビジネスの世界からかけ離れた舞台への52歳にしての転身である。そこに生涯をかけられる魅力とやりがいを見出し、学芸員の資格まで取得してしまうほどの情熱を傾ける。恵まれた羨ましいビジネス人生を手に入れた講師の情熱と努力を感じさせられたスピーチだった。
最近のコメント