塩野七生著「海の都の物語4」 ― 2025年06月20日

「海の都の物語4」を再読した。この巻は強国・トルコ帝国との息詰まる攻防を描いた「宿敵トルコ」と、イエルサレムの聖地巡礼の紀行記の2部構成である。
1451年、温厚で古武士的な気質のトルコ帝国のスルタン・ムラ―ドが没した。その後の帝位を継いだのは父親とは正反対の性格の19歳のマホメッド二世だった。この若者はあっという間に帝国を掌握し翌年にはコンスタンティノーブルに進攻する。1453年5月、コンスタンティノーブルは53日に及ぶ攻防戦の末に陥落し、ビザンチン帝国は滅亡する。
トルコ帝国によるビザンチン帝国の滅亡で東地中海の勢力図は一変する。コンスタンティノーブルに首都を移したマホメッド二世は強大な軍事力を背景に勢力を西に拡大する。東地中海の覇権を巡るヴェネツィア共和国とトルコ帝国の攻防は、1470年のエーゲ海に浮かぶ島であるヴェネツィア領ネグロポンテの攻防で最大の山場を迎える。7月のトルコ軍の5回目の総攻撃の前に防衛軍は自国の海軍の支援がないままに遂に陥落する。
ネグロポンテ陥落後のヴェネツィア共和国のトルコ帝国に対する硬軟織り交ぜた様々な対応の試みが行われ、1479年にようやくトルコとの講和条約の締結にこぎつける。それはペロポネソス半島の内陸部やアルバニア一帯の拠点の放棄と莫大な賠償金支払いという代償を伴った。
この巻の後半の聖地巡礼の紀行記は、聖地巡礼というヴェネツィアの新興ビジネスともいえる観光事業の性格を映しだした記録である。個人的にも8泊9日のイタリア旅行「ローマ人の物語紀行」をはじめ数多くの旅行記を執筆しHPに投稿した。その意味でもこの聖地巡礼紀行は興味深く読んだ。
1451年、温厚で古武士的な気質のトルコ帝国のスルタン・ムラ―ドが没した。その後の帝位を継いだのは父親とは正反対の性格の19歳のマホメッド二世だった。この若者はあっという間に帝国を掌握し翌年にはコンスタンティノーブルに進攻する。1453年5月、コンスタンティノーブルは53日に及ぶ攻防戦の末に陥落し、ビザンチン帝国は滅亡する。
トルコ帝国によるビザンチン帝国の滅亡で東地中海の勢力図は一変する。コンスタンティノーブルに首都を移したマホメッド二世は強大な軍事力を背景に勢力を西に拡大する。東地中海の覇権を巡るヴェネツィア共和国とトルコ帝国の攻防は、1470年のエーゲ海に浮かぶ島であるヴェネツィア領ネグロポンテの攻防で最大の山場を迎える。7月のトルコ軍の5回目の総攻撃の前に防衛軍は自国の海軍の支援がないままに遂に陥落する。
ネグロポンテ陥落後のヴェネツィア共和国のトルコ帝国に対する硬軟織り交ぜた様々な対応の試みが行われ、1479年にようやくトルコとの講和条約の締結にこぎつける。それはペロポネソス半島の内陸部やアルバニア一帯の拠点の放棄と莫大な賠償金支払いという代償を伴った。
この巻の後半の聖地巡礼の紀行記は、聖地巡礼というヴェネツィアの新興ビジネスともいえる観光事業の性格を映しだした記録である。個人的にも8泊9日のイタリア旅行「ローマ人の物語紀行」をはじめ数多くの旅行記を執筆しHPに投稿した。その意味でもこの聖地巡礼紀行は興味深く読んだ。
塩野七生著「海の都の物語3」 ― 2025年06月05日

「海の都の物語3」を再読した。ローマ帝国崩壊後の地中海は、ビザンチン帝国のギリシャ人とイスラム教徒のサラセン人が荒らしまわる海となっていた。しかし9世紀になってから西欧勢の巻き返しが始まる。それはイタリアのアマルフィ、ピザ、ジェノヴァ、ヴェネツィアの「四つの海の共和国」による巻き返しだった。第3巻ではこの四つの共和国の攻防と盛衰が語られ、最終的に勝ち残ったジェノヴァ、ヴェネツィアの攻防の詳細が語られる。
国家に対する忠誠心、つまり共同体意識の強かったヴェネツィア共和国に対して、個人主義的で天才型のジェノヴァの船乗りたちの闘いは苛烈を極めた。120年以上もの長きにわたって4次に渡る両国の戦闘が繰り広げられた。最終的に勝利をおさめたのは危機に際して挙国一致体制を築ける共和政体のヴェネツィア共和国だった。
第3巻の後半は「ヴェネツィアの女」と題された女性の日常に焦点を当てた共和国の生活の詳細な解説風の退屈な描写だった。
国家に対する忠誠心、つまり共同体意識の強かったヴェネツィア共和国に対して、個人主義的で天才型のジェノヴァの船乗りたちの闘いは苛烈を極めた。120年以上もの長きにわたって4次に渡る両国の戦闘が繰り広げられた。最終的に勝利をおさめたのは危機に際して挙国一致体制を築ける共和政体のヴェネツィア共和国だった。
第3巻の後半は「ヴェネツィアの女」と題された女性の日常に焦点を当てた共和国の生活の詳細な解説風の退屈な描写だった。
塩野七生著「海の都の物語2」 ― 2025年05月31日

「海の都の物語2」を再読した。第1巻では、ヴェネツィア共和国の誕生から第4次十字軍の主力として従軍しビザンチン帝国滅亡の主役となり、ラテン帝国誕生後の東地中海の商業圏を確立するまでが語られた。
第2巻では東地中海商業の覇権を確立した共和国がいかにしてその後の強大で安定した商業立国を打ち立てたかが語られる。著者はその成功の背景を「ヴェニスの商人」(商業の仕組み)と「政治の技術」(強固な統治能力)という切り口で解説する。
「ヴェニスの商人」というタイトルで描かれる”商業の共和国独自の仕組み”が、交易商人、資金の集め方、交易市場、定期航路の確立、海上法、羅針盤と航海図、船の変化、中世のシティ等の項目で解説される。
経済基盤の確立と並んで注目すべきは共和国の安定した政治基盤の確立である。14世紀の西欧各国が危機の時代にあって僭主制や君主制に向かう中でヴェネツィアは共和制を維持しながら強固な統治の実現を摸索した。ひとつは巧妙に徹底した政教分離を成し遂げたことであり、今ひとつは元首を頂点とした統治能力に優れた共和政体を創り上げたことである。
こうした取組みと改革がヴェネツィア共和国の千年に及ぶ存続をもたらした。
第2巻では東地中海商業の覇権を確立した共和国がいかにしてその後の強大で安定した商業立国を打ち立てたかが語られる。著者はその成功の背景を「ヴェニスの商人」(商業の仕組み)と「政治の技術」(強固な統治能力)という切り口で解説する。
「ヴェニスの商人」というタイトルで描かれる”商業の共和国独自の仕組み”が、交易商人、資金の集め方、交易市場、定期航路の確立、海上法、羅針盤と航海図、船の変化、中世のシティ等の項目で解説される。
経済基盤の確立と並んで注目すべきは共和国の安定した政治基盤の確立である。14世紀の西欧各国が危機の時代にあって僭主制や君主制に向かう中でヴェネツィアは共和制を維持しながら強固な統治の実現を摸索した。ひとつは巧妙に徹底した政教分離を成し遂げたことであり、今ひとつは元首を頂点とした統治能力に優れた共和政体を創り上げたことである。
こうした取組みと改革がヴェネツィア共和国の千年に及ぶ存続をもたらした。
塩野七生著「海の都の物語1」 ― 2025年05月12日

2年6カ月をかけて「ローマ人の物語」全43巻の再読を終えた。再読ながら著者の優れた見識と洞察が多くの共感をもたらした。かくなる上は著者のもうひとつの大作「海の都の物語」全6巻の再読をするほかない。
「海の都の物語1」を再読した。ローマ帝国が滅亡した後のイタリア半島で千年もの間自由と独立を維持して存在感を発揮したのが”ヴェネツィア共和国”である。
第1巻は、その共和国の誕生から第4次十字軍の主力として従軍して、滅亡したビザンチン帝国がラテン帝国に名を変えた東地中海の商業圏を確立するまでの物語である。
ワズカ10万人の民を率いただけの小国・ヴェネツィア共和国がいかにしてそうした覇権を確立できたのか。外交と貿易と軍事力を巧みに駆使して徹底して共同体の利益を追求したリアリスト集団の実態が余すことなく描かれる。
ヴェネツィア共和国の壮大な興亡史が始まった。
「海の都の物語1」を再読した。ローマ帝国が滅亡した後のイタリア半島で千年もの間自由と独立を維持して存在感を発揮したのが”ヴェネツィア共和国”である。
第1巻は、その共和国の誕生から第4次十字軍の主力として従軍して、滅亡したビザンチン帝国がラテン帝国に名を変えた東地中海の商業圏を確立するまでの物語である。
ワズカ10万人の民を率いただけの小国・ヴェネツィア共和国がいかにしてそうした覇権を確立できたのか。外交と貿易と軍事力を巧みに駆使して徹底して共同体の利益を追求したリアリスト集団の実態が余すことなく描かれる。
ヴェネツィア共和国の壮大な興亡史が始まった。
塩野七生著「ローマ人の物語43巻 ― 2025年05月07日

塩野七生の渾身の大作である「ローマ人の物語」の文庫版全43巻を読み終えた。
最終巻の見開きにも次のようなカバー掲載の金貨の変遷についての印象的な記述があった。「時代が過ぎるにつれて鋳造技術のほうも発達する、というものではないことがわかってもらえるだろう。(略)歴史には進化する時代があれば退歩する時代もある。そのすべてに交き合う覚悟がなければ、歴史を味わうことにはならないのではないか」
最終巻は、「帝国以後」と題された47676年の西ローマ帝国滅亡以降のローマ世界の終焉の物語である。それは大きく分ければ、イタリア半島に侵攻した蛮族による支配で実現された「平和」(パクス・バルバリカ)と、その後の東ローマ帝国皇帝・ユスティニアヌスによるイタリア侵攻がイタリアと首都ローマの息の根を止めたという歴史の余りにも皮肉な現実の物語でもあった。
西ローマ帝国の最後の皇帝を退位させ、後継皇帝を立てなかったことによって結果的に帝国の幕引きをしたのが、西ゴート族の族長オドアケルだった。イタリア王となったオドアケルは、少数の勝者の蛮族と多数の敗者ローマ人との共生という巧みな統治を実行する。それは元老院階級とカトリック派キリスト教会という既存の統治階級の温存という形で具体化される。その上で軍事は蛮族が、行政や経済等はローマ人が担当するという棲み分けが行われた。この「パクス・バルバリカ」の第一走者オドアケルによるイタリア支配は17年に及ぶ。
オドアケルの支配を終わらせたのも蛮族・東ゴート族の若き族長テオドリックだった。オドアケルとの闘いに勝利したテオドリックは、オドアケルの政策をそっくりそのまま継承することで493年から33年に渡って東ゴート王国の王としてイタリア半島を支配する。西ローマ帝国滅亡直後から始まった「パクス・バルバリカ」は半世紀にわたって続き、イタリア半島はあらゆる面で生気を取り戻した。農業生産が向上し流通も回復し、減少一方だった人口までも上向くようになった。「平和(パクス)」が、人間社会にとっての窮極のインフラであることの証しだった。
「パクス・バルバリカ」は、テオドリックの死とその後の後継人事を巡る内紛を口実とした東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスによるイタリア侵攻で終焉を迎える。536年、皇帝ユスティニアヌスの命を受けた有能な将軍ベリサリウスがシチリアからイタリア半島に上陸し、18年に及ぶゴート戦役が始まった。この長きにわたる戦争によってイタリアは想像を絶する打撃と被害を受けた。自分たちと同じカトリック・キリスト教を信じるビザンチン帝国が始めたこの戦役の方が、一世紀前の蛮族の来襲以上に深刻な事態をローマ人に与えることになった。ゴート戦役に勝利したビザンチン帝国から送り込まれた皇帝代官の15年に及ぶ圧政によってイタリアと首都ローマは息の根を止められた。
この著作の最初の書評で次のようにコメントした。「研究者からは、『ローマ人の物語』を歴史書とするにはフィクションや著者の想像による断定が多すぎるとして小説として扱われているらしい。読者は、少なくとも私は、この著作に史実の学習を求めてはいない。史上に燦然と輝く「ローマ世界」とも呼ぶべき壮大な一大文明圏が、どのように形成され、長期に渡って維持され、そして消滅していったのかを知りたいと思っている。その点ではこの著作は期待以上に応えてくれている。「ローマ人の物語」からを学ぶべきは、史実ではなく文明観ではないかと思う」。
全43巻を読み終えた今、この著作についての最初の感想は、揺るぎのない確信になったことを告げている。文明観というかけがえのない視点を自分なりに学ぶことができたのだから。
最終巻の見開きにも次のようなカバー掲載の金貨の変遷についての印象的な記述があった。「時代が過ぎるにつれて鋳造技術のほうも発達する、というものではないことがわかってもらえるだろう。(略)歴史には進化する時代があれば退歩する時代もある。そのすべてに交き合う覚悟がなければ、歴史を味わうことにはならないのではないか」
最終巻は、「帝国以後」と題された47676年の西ローマ帝国滅亡以降のローマ世界の終焉の物語である。それは大きく分ければ、イタリア半島に侵攻した蛮族による支配で実現された「平和」(パクス・バルバリカ)と、その後の東ローマ帝国皇帝・ユスティニアヌスによるイタリア侵攻がイタリアと首都ローマの息の根を止めたという歴史の余りにも皮肉な現実の物語でもあった。
西ローマ帝国の最後の皇帝を退位させ、後継皇帝を立てなかったことによって結果的に帝国の幕引きをしたのが、西ゴート族の族長オドアケルだった。イタリア王となったオドアケルは、少数の勝者の蛮族と多数の敗者ローマ人との共生という巧みな統治を実行する。それは元老院階級とカトリック派キリスト教会という既存の統治階級の温存という形で具体化される。その上で軍事は蛮族が、行政や経済等はローマ人が担当するという棲み分けが行われた。この「パクス・バルバリカ」の第一走者オドアケルによるイタリア支配は17年に及ぶ。
オドアケルの支配を終わらせたのも蛮族・東ゴート族の若き族長テオドリックだった。オドアケルとの闘いに勝利したテオドリックは、オドアケルの政策をそっくりそのまま継承することで493年から33年に渡って東ゴート王国の王としてイタリア半島を支配する。西ローマ帝国滅亡直後から始まった「パクス・バルバリカ」は半世紀にわたって続き、イタリア半島はあらゆる面で生気を取り戻した。農業生産が向上し流通も回復し、減少一方だった人口までも上向くようになった。「平和(パクス)」が、人間社会にとっての窮極のインフラであることの証しだった。
「パクス・バルバリカ」は、テオドリックの死とその後の後継人事を巡る内紛を口実とした東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスによるイタリア侵攻で終焉を迎える。536年、皇帝ユスティニアヌスの命を受けた有能な将軍ベリサリウスがシチリアからイタリア半島に上陸し、18年に及ぶゴート戦役が始まった。この長きにわたる戦争によってイタリアは想像を絶する打撃と被害を受けた。自分たちと同じカトリック・キリスト教を信じるビザンチン帝国が始めたこの戦役の方が、一世紀前の蛮族の来襲以上に深刻な事態をローマ人に与えることになった。ゴート戦役に勝利したビザンチン帝国から送り込まれた皇帝代官の15年に及ぶ圧政によってイタリアと首都ローマは息の根を止められた。
この著作の最初の書評で次のようにコメントした。「研究者からは、『ローマ人の物語』を歴史書とするにはフィクションや著者の想像による断定が多すぎるとして小説として扱われているらしい。読者は、少なくとも私は、この著作に史実の学習を求めてはいない。史上に燦然と輝く「ローマ世界」とも呼ぶべき壮大な一大文明圏が、どのように形成され、長期に渡って維持され、そして消滅していったのかを知りたいと思っている。その点ではこの著作は期待以上に応えてくれている。「ローマ人の物語」からを学ぶべきは、史実ではなく文明観ではないかと思う」。
全43巻を読み終えた今、この著作についての最初の感想は、揺るぎのない確信になったことを告げている。文明観というかけがえのない視点を自分なりに学ぶことができたのだから。
塩野七生著「ローマ人の物語40」 ― 2025年04月13日

ローマ人の物語40巻を巻を再読した。かつてのローマ帝国の精神の再興を目指した若き皇帝ユリアヌスが、31歳でその生涯を終えた。ユリアヌス亡き後の僅か7カ月の帝位を継いだヨヴィアヌスは、ユリアヌスが行ったキリスト教勢力の拡大を押し止める法令をことごとく廃棄した。若き皇帝の努力は無に帰した。帝国がユリアヌス以前の状態に戻された時、ヨヴィアヌスは死体となって発見された。
その後の帝位を継いだのは、生粋の北方蛮族出身のキリスト教徒の武人ヴァレンティアヌスだった。ヴァレンティアヌスは皇帝就任後まもなく実弟ヴァレンスを東方担当の共同皇帝に任命する。そして帝国西方の蛮族侵入との闘いに明け暮れたヴァレンティアヌスの10年に及ぶ治世がその病死によって幕を引く。帝国の西半分の帝位はその長男グラティアヌスに継承され、東西に分担統治された帝国はつかの間の平穏期を迎える。
帝国の安定を崩したのは中央アジアの草原を母胎とするフン族だった。フン族の襲撃を逃れて帝国と境を接するドナウ河下流地域に住むゴート族が難民となって帝国領に移り住んだ。この地域は東方担当のヴァレンス帝の管轄下である。共存の道を選んだヴァレンス帝の思惑は蛮族の略奪と都市襲撃の前に崩れ去る。皇帝ヴァレンスは蛮族とのハドリアノポリスの闘いで大敗し戦死する。
この非常事態に西方皇帝グラティアヌスは、無政府状態になった帝国東方の回復を30代の武将テオドシウスに託し、対等の格をもった皇帝に任命する。東方皇帝となったテオドシウスは巧みな用兵で戦闘に勝ち続けゴート族を追い詰めるが、最後には蛮族の帝国領内での移住を公認することで帝国の安定をはかる。
東西の安定化がはかられる中で二人の皇帝に強い影響力を持つ人物によって強力な親キリスト教路線が推進される。その人物とは、後にカトリックと呼ばれることになるキリスト教三位一体派のミラノ司教アンブロシウスだった。首都ローマ出身の優秀な高級官僚だったアンブロシウスは、司教就任後二人の皇帝の顧問役となってカトリック・キリスト教会大飛躍の基盤固めを着実に進める。それはカトリック・キリスト教会による「異教」と「異端」との闘いでもあった。皇帝を通じてのキリスト教以外の異教の多神教のギリシャ・ローマの伝統的宗教をも圧殺する。同時にキリスト教内部のカトリック派以外の宗派をも駆逐していく。
紀元383年、西方皇帝グラティアヌスが反乱を起こした司令官によってブリタニアで殺害される。その結果テオドシウス帝が東西合わせた帝国全体を実質的に統治することになる。唯一の皇帝テオドシウスは30代で洗礼を受ける。それはキリスト教徒という「羊」になったことを意味する。司教という「羊飼い」の導くままに従う羊である。皇帝と司教の関係でいえば皇帝の権威と権力は神が認めたものであり、その神の真意は司教によって伝えられる。すべてはミラノ司教アンブロシウスの考え通りに進行した。テオドシウス帝は司教の導くままに皇帝としての権力を行使して帝国のキリスト教国化を成し遂げた。
その後の帝位を継いだのは、生粋の北方蛮族出身のキリスト教徒の武人ヴァレンティアヌスだった。ヴァレンティアヌスは皇帝就任後まもなく実弟ヴァレンスを東方担当の共同皇帝に任命する。そして帝国西方の蛮族侵入との闘いに明け暮れたヴァレンティアヌスの10年に及ぶ治世がその病死によって幕を引く。帝国の西半分の帝位はその長男グラティアヌスに継承され、東西に分担統治された帝国はつかの間の平穏期を迎える。
帝国の安定を崩したのは中央アジアの草原を母胎とするフン族だった。フン族の襲撃を逃れて帝国と境を接するドナウ河下流地域に住むゴート族が難民となって帝国領に移り住んだ。この地域は東方担当のヴァレンス帝の管轄下である。共存の道を選んだヴァレンス帝の思惑は蛮族の略奪と都市襲撃の前に崩れ去る。皇帝ヴァレンスは蛮族とのハドリアノポリスの闘いで大敗し戦死する。
この非常事態に西方皇帝グラティアヌスは、無政府状態になった帝国東方の回復を30代の武将テオドシウスに託し、対等の格をもった皇帝に任命する。東方皇帝となったテオドシウスは巧みな用兵で戦闘に勝ち続けゴート族を追い詰めるが、最後には蛮族の帝国領内での移住を公認することで帝国の安定をはかる。
東西の安定化がはかられる中で二人の皇帝に強い影響力を持つ人物によって強力な親キリスト教路線が推進される。その人物とは、後にカトリックと呼ばれることになるキリスト教三位一体派のミラノ司教アンブロシウスだった。首都ローマ出身の優秀な高級官僚だったアンブロシウスは、司教就任後二人の皇帝の顧問役となってカトリック・キリスト教会大飛躍の基盤固めを着実に進める。それはカトリック・キリスト教会による「異教」と「異端」との闘いでもあった。皇帝を通じてのキリスト教以外の異教の多神教のギリシャ・ローマの伝統的宗教をも圧殺する。同時にキリスト教内部のカトリック派以外の宗派をも駆逐していく。
紀元383年、西方皇帝グラティアヌスが反乱を起こした司令官によってブリタニアで殺害される。その結果テオドシウス帝が東西合わせた帝国全体を実質的に統治することになる。唯一の皇帝テオドシウスは30代で洗礼を受ける。それはキリスト教徒という「羊」になったことを意味する。司教という「羊飼い」の導くままに従う羊である。皇帝と司教の関係でいえば皇帝の権威と権力は神が認めたものであり、その神の真意は司教によって伝えられる。すべてはミラノ司教アンブロシウスの考え通りに進行した。テオドシウス帝は司教の導くままに皇帝としての権力を行使して帝国のキリスト教国化を成し遂げた。
塩野七生著「ローマ人の物語39」 ― 2025年04月02日

ローマ人の物語39巻を再読した。在位僅か19カ月の皇帝ユリアヌスの治世がこの巻の文庫本一冊分に費やされている。前巻は在位24年の前皇帝コンスタンティウスの物語だったが、その後半部分は副帝時代のユリアヌスの記述が占めている。この記述量の違いこそが著者の二人の皇帝に対する評価と好悪の感情を示している。そして多くの読者にも著者のその気分を受け入れ同感する気分があるに違いない。「ローマ人の物語」は歴史書ではない。塩野七生という作家の描く歴史小説だ。読者は古代ローマの物語を通して古代ローマの歴史の舞台に想いを寄せ、それぞれの受け止め方で独自に「歴史」を学ぶ。
若き副帝ユリアヌスはガリアでの戦闘に勝利しガリア全域の統治に成功する。 そのユリアヌスに正帝コンスタンティウスからペルシャ討伐のための兵士供出の命が下る。ユリアヌスに従ってガリアを平定した蛮族兵士の精鋭たちはこの命に猛反発し、ユリアヌスの正帝推戴の挙に打って出る。逡巡の末ユリアヌスは正帝就任を受諾する。皇帝コンスタンティウスはユリアヌス討伐に向う途上で病死する。
紀元361年、ついに皇帝となったユリアヌスは、先帝たちの定めたキリスト教優遇策を全廃するとともに、かつてのローマ帝国の精神の再興を目指し、伝統的な多神教を擁護する。幼少の頃の幽閉時代に学んだギリシャ文明や青年期の遊学でのギリシャ哲学がユリアヌスに深い影響を与えていた。新皇帝はキリスト教徒を始めとした既得権層からの強硬な反対を押し切って矢継ぎ早に改革を進める。更に皇帝就任1年も経ないで帝都コンスタンティンノープルをl後にし東へ向かう。ペルシャ戦争再開という帝国の最大の問題処理に乗り出したのだ。
ペルシャ王国の首都クテシフォンにまで攻め入り優勢に進めていたペルシャ戦役も第二軍との合流を果たせず苦境に陥る。ローマ軍は首都攻略を断念し第二軍と合流すべく北上する。そのローマ軍を追ってペルシャ軍が波状攻撃を仕掛ける。不意の奇襲の最中に、飛んできた槍がユリアヌスの腹部深くに突き刺さる。ローマ帝国が大きくキリスト教化する流れに一人抗した31歳の若き皇帝が死を迎えた。
著者はこの巻の最後で「皇帝ユリアヌスの生と死」を語る。著者の想いは、次の一文に凝縮されている。「宗教が現世をも支配することに反対の声をあげたユリアヌスは、古代ではおそらく唯一人、一神教のもたらす弊害に気づいた人ではなかったか」。
若き副帝ユリアヌスはガリアでの戦闘に勝利しガリア全域の統治に成功する。 そのユリアヌスに正帝コンスタンティウスからペルシャ討伐のための兵士供出の命が下る。ユリアヌスに従ってガリアを平定した蛮族兵士の精鋭たちはこの命に猛反発し、ユリアヌスの正帝推戴の挙に打って出る。逡巡の末ユリアヌスは正帝就任を受諾する。皇帝コンスタンティウスはユリアヌス討伐に向う途上で病死する。
紀元361年、ついに皇帝となったユリアヌスは、先帝たちの定めたキリスト教優遇策を全廃するとともに、かつてのローマ帝国の精神の再興を目指し、伝統的な多神教を擁護する。幼少の頃の幽閉時代に学んだギリシャ文明や青年期の遊学でのギリシャ哲学がユリアヌスに深い影響を与えていた。新皇帝はキリスト教徒を始めとした既得権層からの強硬な反対を押し切って矢継ぎ早に改革を進める。更に皇帝就任1年も経ないで帝都コンスタンティンノープルをl後にし東へ向かう。ペルシャ戦争再開という帝国の最大の問題処理に乗り出したのだ。
ペルシャ王国の首都クテシフォンにまで攻め入り優勢に進めていたペルシャ戦役も第二軍との合流を果たせず苦境に陥る。ローマ軍は首都攻略を断念し第二軍と合流すべく北上する。そのローマ軍を追ってペルシャ軍が波状攻撃を仕掛ける。不意の奇襲の最中に、飛んできた槍がユリアヌスの腹部深くに突き刺さる。ローマ帝国が大きくキリスト教化する流れに一人抗した31歳の若き皇帝が死を迎えた。
著者はこの巻の最後で「皇帝ユリアヌスの生と死」を語る。著者の想いは、次の一文に凝縮されている。「宗教が現世をも支配することに反対の声をあげたユリアヌスは、古代ではおそらく唯一人、一神教のもたらす弊害に気づいた人ではなかったか」。
塩野七生著「ローマ人の物語38」 ― 2025年03月24日

ローマ人の物語36巻を再読した。この巻は紀元337年の大帝の死から物語の幕が開く。コンスタンティヌスは自らの亡き後の後継人事も周到に準備する。帝国を三人の息子と二人の甥によって分担統治するシステムを死の二年前から導入していたのだ。ところが6月の大帝の葬儀から間もない7月に大量の血の粛清が勃発する。二人の甥とその肉親、亡き大帝の側近だった高官たちがその犠牲者だった。著者は大帝の次男コンスタンティウスを首謀者として暗示する。さらにその後、長男と三男の領土争いが起り、敗れた長男が殺される。次男と三男による帝国の分担統治が10年目を迎えた紀元350年、三男コンスタンスが配下の蛮族出身の将マグネンティススの謀反によってあっけなく殺害される。翌351年、唯一の皇帝となったコンスタンティウスは賊将マグネンティススとの内戦ともいうべき会戦に勝利する。ローマ軍の将兵合わせて5万4千名もの犠牲を代償とした勝利だった。これが帝国の軍事力が決定的に低下させる要因を招くことになる。
唯一の皇帝となったコンスタンティウスは大きな難問を抱えていた。東の大敵ペルシャ王国と西方ガリアの蛮族たちの侵略である。いずれかを任せられる副帝の任命を迫られていた。そして新たに任命されたのが自らがその父親を粛清した年少の従兄であるユリアヌスだった。
物語の後半はガリア担当のローマ軍司令官となったユリアヌスの成功物語である。多分にユリアヌスに好意的な著者はその活躍ぶりを皇帝コンスタンティウスの否定的な見方と好対照で描いている。24歳の若き副帝ユリアヌスはガリアの地での戦闘に積極戦法で見事に勝利する。その後のガリア主要都市の再建を果たしガリア全域の統治に成功する。
物語の核心部分に皇帝コンスタンティウスのキリスト教との関わりが触れられる。コンスタンティウスは帝国で最初にキリスト教を公認した父である大帝の忠実な第二走者だった。キリスト教の公認から更に進めてその優遇策に舵を切り、ローマ伝来の宗教の排撃を明確にした。
唯一の皇帝となったコンスタンティウスは大きな難問を抱えていた。東の大敵ペルシャ王国と西方ガリアの蛮族たちの侵略である。いずれかを任せられる副帝の任命を迫られていた。そして新たに任命されたのが自らがその父親を粛清した年少の従兄であるユリアヌスだった。
物語の後半はガリア担当のローマ軍司令官となったユリアヌスの成功物語である。多分にユリアヌスに好意的な著者はその活躍ぶりを皇帝コンスタンティウスの否定的な見方と好対照で描いている。24歳の若き副帝ユリアヌスはガリアの地での戦闘に積極戦法で見事に勝利する。その後のガリア主要都市の再建を果たしガリア全域の統治に成功する。
物語の核心部分に皇帝コンスタンティウスのキリスト教との関わりが触れられる。コンスタンティウスは帝国で最初にキリスト教を公認した父である大帝の忠実な第二走者だった。キリスト教の公認から更に進めてその優遇策に舵を切り、ローマ伝来の宗教の排撃を明確にした。
塩野七生著「ローマ人の物語37」 ― 2025年03月16日

ローマ帝国の「最後の努力」を描いた上中下3巻の下巻37巻を読んだ。324年に帝国の内戦に勝ち抜いて唯一の権力者となったコンスタンティヌスの治世が描かれている。個人的な感想を述べれば「コンスタンティヌスによって古代ローマの共同体が消滅した」ということになる。
覇権を確立したコンスタンティヌス帝は、絶対専制君主として君臨するべく帝国全体の作り変えに着手する。覇権確立直後の324年には自らの名を冠した新都コンスタンティノポリス(ビザンチン帝国時代のコンスタンティノープルであり現在のイスタンブールである)の建設に着手する。首都ローマにひけをとらない内実と規模で進められた新都建設は、ローマがローマ人の都であったのに対し、その名の示すとおり皇帝コンスタンティヌスの都づくりだった。
コンスタンティヌスの施策の最も重大なものは一神教のキリスト教への肩入れである。皇帝資産のキリスト教会への寄贈であり、一神教のキリスト教にしかない聖職者の公職や軍務に就かない権利の承認である。それはそれまでの弱小宗教のひとつであったキリスト教を世界宗教に飛躍させる道を開くことになる。
紀元330年、新都コンスタンティノポリスの完成を祝う式典が挙行された。一神教のキリスト教ローマ帝国の首都でもあった。帝国再生を新たな政体、新たな首都、新たな宗教で成し遂げようとしたコンスタンティヌスの野望の具体化であった。
この巻を読み終えて痛感した。「古代ローマとは何だったのか」「中世とは何か」。時代を区分するものが単なる年数でないことは言うまでもない。「時代の本質や基盤の転換であり、文明の新たなステージへの移行」なのだろう。「ローマ人の物語」は、単なる歴史でない「文明の変遷」を伝えてくれる。そして読者に文明観を問いかける。
覇権を確立したコンスタンティヌス帝は、絶対専制君主として君臨するべく帝国全体の作り変えに着手する。覇権確立直後の324年には自らの名を冠した新都コンスタンティノポリス(ビザンチン帝国時代のコンスタンティノープルであり現在のイスタンブールである)の建設に着手する。首都ローマにひけをとらない内実と規模で進められた新都建設は、ローマがローマ人の都であったのに対し、その名の示すとおり皇帝コンスタンティヌスの都づくりだった。
コンスタンティヌスの施策の最も重大なものは一神教のキリスト教への肩入れである。皇帝資産のキリスト教会への寄贈であり、一神教のキリスト教にしかない聖職者の公職や軍務に就かない権利の承認である。それはそれまでの弱小宗教のひとつであったキリスト教を世界宗教に飛躍させる道を開くことになる。
紀元330年、新都コンスタンティノポリスの完成を祝う式典が挙行された。一神教のキリスト教ローマ帝国の首都でもあった。帝国再生を新たな政体、新たな首都、新たな宗教で成し遂げようとしたコンスタンティヌスの野望の具体化であった。
この巻を読み終えて痛感した。「古代ローマとは何だったのか」「中世とは何か」。時代を区分するものが単なる年数でないことは言うまでもない。「時代の本質や基盤の転換であり、文明の新たなステージへの移行」なのだろう。「ローマ人の物語」は、単なる歴史でない「文明の変遷」を伝えてくれる。そして読者に文明観を問いかける。
塩野七生著「ローマ人の物語36」 ― 2025年03月10日

ローマ人の物語36巻を再読した。この6巻はディオクレティアヌス退位後の四人の皇帝による第二次四頭政から六人の皇帝乱立へと続く内乱状態、そして最終的にコンスタンティヌスが覇権を握るまでの物語である。
英雄たちが現われては消えるこの時期の帝国内部の攻防は、物語としては面白いがローマ帝国自体の興亡という面では本質的ではない。むしろこの時期の本質的な出来事は、東の正帝リキニウスと西の正帝コンスタンティヌスの連名で313年に公布された「ミラノ勅令」だろう。そこでこの書評はこの巻の巻末40頁の「キリスト教公認」をテーマとした。
ミラノ勅令は「キリスト教の帝国内における公認」を内容とする勅令である。もちろんこの勅令は皇帝のキリスト教への改宗表明でもなければ、他の宗教に比べての優遇措置でもない。帝国内での完全な信教の自由を認め、公にしたに過ぎない。にもかかわらずこの勅令が歴史を画する重大な史実とされるのは、ローマ人が千年以上にわたって持ち続けた宗教に対する伝統的な概念を断ち切った点にある。
それまでのローマは、ローマという「共同体」に属する住民に、個人の信ずる神が何であれ、共同体全体の守護神であるローマ伝統の神々には相応の敬意をもって対するよう求めてきた。ミラノ勅令によってもはやその必要はないということになった。ローマ帝国は後期に入っても尚、多人種、多民族、多宗教、多文化の帝国だった。この大帝国は、「ローマ法」「ローマ皇帝」「ローマの宗教」というゆるやかな輪によってまとまりを保ってきた。ミラノ勅令は、そのうちの「ローマの宗教」という輪をはずしたのだ。「信教の完全な自由」というそれ自体は非難のしようもないくらいに理に適ったものだが現実にはそれ以降の信教の自由が守られなくなってしまう中世社会への扉を開く契機となった。
英雄たちが現われては消えるこの時期の帝国内部の攻防は、物語としては面白いがローマ帝国自体の興亡という面では本質的ではない。むしろこの時期の本質的な出来事は、東の正帝リキニウスと西の正帝コンスタンティヌスの連名で313年に公布された「ミラノ勅令」だろう。そこでこの書評はこの巻の巻末40頁の「キリスト教公認」をテーマとした。
ミラノ勅令は「キリスト教の帝国内における公認」を内容とする勅令である。もちろんこの勅令は皇帝のキリスト教への改宗表明でもなければ、他の宗教に比べての優遇措置でもない。帝国内での完全な信教の自由を認め、公にしたに過ぎない。にもかかわらずこの勅令が歴史を画する重大な史実とされるのは、ローマ人が千年以上にわたって持ち続けた宗教に対する伝統的な概念を断ち切った点にある。
それまでのローマは、ローマという「共同体」に属する住民に、個人の信ずる神が何であれ、共同体全体の守護神であるローマ伝統の神々には相応の敬意をもって対するよう求めてきた。ミラノ勅令によってもはやその必要はないということになった。ローマ帝国は後期に入っても尚、多人種、多民族、多宗教、多文化の帝国だった。この大帝国は、「ローマ法」「ローマ皇帝」「ローマの宗教」というゆるやかな輪によってまとまりを保ってきた。ミラノ勅令は、そのうちの「ローマの宗教」という輪をはずしたのだ。「信教の完全な自由」というそれ自体は非難のしようもないくらいに理に適ったものだが現実にはそれ以降の信教の自由が守られなくなってしまう中世社会への扉を開く契機となった。
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