映画「インビクタス/負けざる者たち」2014年11月05日

 先日、BS-TBSで放映された映画「インビクタス/負けざる者たち」の録画を観た。久々に見応えのある余韻の残る映画だった。27年に及ぶ投獄生活を経て南アフリカ大統領に就任したネルソン・マンデラの就任直後の民族和解の奮闘を描いたものである。
 大統領就任直後、マンデラは初登庁の日に前政権のスタッフだった白人職員を集めて呼びかける。「辞めるのは自由だが、新たな南アフリカを作るために協力してほしい。あなたたちの力が必要だ」。白人政権によるアパルトヘイトで長期に投獄され数々の障害まで負ったマンデラの民族融和の呼びかけである。アパルトヘイト体制下での国際社会からの経済制裁や人種間対立、民族間対立で疲弊しきった国を再生する上で民族融和は何としても成し遂げなければならないテーマだった。高い志を持って困難を乗り越えようとする強い意志に支えられたマンデラの呼掛けに多くの職員が同意する。
 マンデラは側近たちの反対を押し切って、ラグビーというアパルトヘイトの象徴的なスポーツの南アフリカ代表チームを全面的に支援する。自国で開催されたワールドカップで代表チームが見事に決勝戦を制した時、南アフリカは初めて人種や民族を超えた一体感を共有する。
 マンデラが繰り返し口にする詩が印象的だった。「我が運命を決めるのは我なり、我が魂を制するのは我なり」。超越した克己心をもって苛酷な運命を切り開いた不屈の精神の呟きである。「負けざる者たち」の原点というべきか。
 民族対立が激化している。ちまたで、ネット上で、傍若無人なヘイトスピーチが横行し、民族対立を煽っている。そんな状況下でのこの作品の観賞だった。ネルソン・マンデラの崇高な精神を噛み締めた。

榛名由梨主演・ミュージカル「永遠物語」2013年04月05日

 昨日、宝塚大劇場・バウホールで上演されている榛名由梨舞台生活50周年記念ミュージカル「永遠物語」(原作・無法松の一生)を観劇した。市民ミュージカル劇団『希望』後援会の役員お二人が一緒だった。
 昨年4月の後援会主催のシンポジュウムにパネラーのひとりとして榛名由梨さんに無償出演してもらった。その気さくで明るいトークが好評だった。個人的にもご近所にお住まいで顔を合わせれば挨拶を交わし合う。そんな榛名さんの記念すべき今回の公演だった。これは観ないわけにはいかない。
 11時開演のバウホールには中年のご婦人を中心に7割方の観客が席を占めた。高齢おじさん三人組も11列目の正面に着席した。500席のホールは思った以上に舞台との一体感がある。25分間の幕間休憩を挟んで3時間近い舞台だった。
 舞台芸術のレベルの高さに圧倒された。榛名さんが50年に渡る舞台生活で培われた円熟の熱演で松五郎を演じきった。花總(はなふさ)まりさん演じる吉岡夫人の美しさと上品な語り口にしばしば息を呑んだ。大勢の出演者が織りなすダンスシーンもミュージカルのもつスピード感と迫力をいかんなく発揮していた。演劇専用の広さと機能を備えた舞台はさすがだった。多彩な照明装置を駆使した光の造形が舞台演出を盛り上げていた。ホールの音響効果の高さと相俟って音響設備もまた素晴らしいサウンドを提供した。大道具などの舞台造りの凄さは同行者が一致して認めるところだった。剥き出しの2階建の鉄パイプの骨組みが、場面に応じて様々な大道具、小道具を付加して変幻自在にシーンを展開した。あらためて舞台芸術が総合芸術であることを実感した。
 これだけの舞台公演に要する費用の膨大さを想った時、全席指定のチケット料金8千円も納得できた。今回の公演は8日間、12回の舞台である。定員の平均8割の観客としても入場料収入は3840万円である。これで企画・広告費、原作・脚本・作曲費、ホール使用料、舞台製作費、舞台衣装代、音響・照明費用、スタッフ人件費、俳優出演料、その他諸々の費用負担を賄うわけである。
 我が市民ミュージカル劇団『希望』も11月末に、創作ミュージカル「有間皇子物語」の公演を予定している。「永遠物語」を観終えてその素晴らしさを噛みしめながら、他方で「有間皇子物語」の資金調達の厳しさに想いをいたした。

映画「草原の椅子」2013年03月16日

 先日の大阪市大病院の半年ぶりの診察の日のことだ。11時半の診察の後、5時からの労働委員会の定例会までたっぷり空き時間があった。前日にネットで大阪ステーションシネマの12時25分上映の「草原の椅子」を予約した。
 市大病院の受診科待合室には担当医師の診察状況がディスプレイに表示される。到着して確認すると、なんと60分遅れの表示だった。大幅な上映時間遅れを気にしながら待つこと60分、ようやく診察室に呼ばれた。先週の腫瘍マーカー検査の結果を聞いた。問題なしとのことだった。手術後6年を経過し異常は認められず、今後は半年に1回のCT検査だけで良いとのことだった。
 大阪ステーションシネマには1時20分に着いた。2時間20分の上映時間の半ば近くが過ぎていた。最初に目に入ったのは、ともに50歳の遠間(佐藤浩市)と富樫(西村雅彦)とアラフォーの美しい女性・貴志子(吉瀬美智子)がカウンターバーで飲んでいるシーンだった。前半の経過が分からないまま、この三人に4歳の少年・圭輔を中心にストーリーが展開する。三人の大人たちは、それぞれに様々な葛藤を抱え苦悩を背負って生きている。母親に虐待され心に傷を負い正常な言葉を失った圭輔を、それぞれの苦悩を通して理解し見守ろうとする。遠間と富樫の中年過ぎの友情や、遠間と貴志子の大人の控え目な恋を絡めて、4人は世界最後の桃源郷と呼ばれるパキスタン・フンザへ旅立つ。大自然の砂漠に身を置き、現地の長老の言葉を聞きながら、遠間と貴志子は圭輔との新しい家族をつくることを決意する。
 家族や地域や職場での絆の希薄化・崩壊が語られて久しい。東日本大震災で多くの人々の家族が崩壊し、地域の繋がりが寸断した。旧来の日本的な人と人の関わり方の根底が揺らいでいるのだろうか。この作品はそんな時代状況の中で、あらたな関わり方の姿を描いているかにみえる。大自然を媒介にしながら、自分自身に素直になることからしか出発するほかはない。そんな素朴なメッセージが伝わる。
 それにしても女優・吉瀬美智子の美しさと演技力を実感させられた。30代でモデルから転身し今やアラフォーの遅咲き女優である。佐藤浩市や西村雅彦といった実力派俳優たちに伍して見事に清楚で芯の強い役柄をこなしていた。前半を観れなかった不完全燃焼感はあったものの、初めての吉瀬美智子の出演作品に癒された。

映画「マディソン郡の橋」2013年03月10日

 テレビで放映され録画していた映画「マディソン郡の橋」を観た。18年前に封切られた映画である。その2~3年後にテレビで放映されて観た時の好印象が残っていた。最近またBS朝日で放映されたのを知って録画しておいた。大筋のストーリーはほぼ記憶に残っていたが、個々のシーンでは新鮮な受け止め方で共感しながら愉しんだ。
 この作品が取上げたテーマについての評価は大きく分かれている。「単に不倫を美化しただけの作品」という否定的な見方と、「四日間の許されない愛に真摯に向き合った中年男女の大人の恋物語」という肯定的な見方である。観終えて、個人的には後者の立場に立っていた。
 アイオワ州の片田舎の「屋根のある橋」を撮りに来たカメラマン・ロバートは、そこで平凡な農場主の主婦フランチェスカと出会う。世界を股にかけて冒険に富んだ人生を独りで生きるロバートと、イタリアから夢を抱いてアメリカに渡ったものの野良仕事と子育てに明け暮れる現実に鬱屈した日々を過ごすフランチェスカ。その二人が出会い、一気に恋に落ちるのは必然だったかのように物語は展開する。そして別れの四日目を迎えて二人は葛藤する。家や家族を捨ててロバートと出ていくことを、最後にフランチェスカは断念する。
 掟にとらわれない孤独で緊張感に満ちた人生と、日常の様々なルールや倫理観に身をゆだねながら平穏で安定した人生・・・。ロバートとフランチェスカの背負った人生の葛藤は、一人の人間の内にある葛藤でもある。だからこそ人間は興味が尽きないし、人生は奥行きが深くて愉しい。そうしたテーマを観るものに提示し、判断を委ねたこの作品に共感をしたのだ。「不倫を美化した作品」と切って捨てられない人間の奥深い葛藤のドラマとして受け止めた。
 撮影当時、ロバート役のクリント・イーストウッドは今の私と同年代の65歳だったという。かってのマカロニ・ウエスタンのヒーローは初老の魅力的なカメラマンを見事に演じていた。それ以上にフランチェスカ役のメリル・ストリープの肉感的で魅惑的な演技に思わず感情移入してしまった。テーマ性には二分される評価も、二人の演技には誰もが及第点を与えていた。

映画「ALWAYS 三丁目の夕日'64」2013年02月18日

 テレビ放映の映画「ALWAYS 三丁目の夕日'64」を観た。7年前に封切られ、大ヒットした第一作「ALWAYS 三丁目の夕日」の第三作だ。1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催の年を舞台とした作品である。第一作は劇場で大いに共感し、ウルウルしながら愉しんだ。第二作は残念ながら見逃していた。番組表で第三作放映を知って飛びついた。
 やっぱりいい作品だった。もちろん50年前の昭和の良き時代の郷愁もある。個人的にも青春真っ只中の頃の時代風景である。その風景がリアルに再現されて展開する。冒頭の模型飛行機が飛び交うシーンで一気に引き込まれた。竹ヒゴと薄紙で作られたその飛行機は、我々の世代には限りない愛着を思い起こさせるものだ。
 この作品の素晴らしさは、単なる郷愁の世界に浸れることではない。50年後の今の社会が失くしたかけがえのないものを浮かび上がらせてくれることこそ、この作品の真価だ。売れない小説家・茶川竜之介一家と自動車修理工場・鈴木オート一家を中心とした夕日町三丁目の住民たちが織りなす物語である。そこで繰り広げられる様々なシーンは、かっての日本のどこにでもみられた「向こう三軒両隣」の風景だ。近所の世話焼きオバサンやオジサンが何にでもイッチョカミする。何かあるとごご近所総出で絡み合う。互いの家にもずかずかと入り込む。一見何とも煩わしい関わりの根底に、助け合い、寄り添い合うご近所の絆が強固に横たわる。
 格差社会、ワーキングプアー、無縁社会、孤独死・・・。50年後に私たちが手にした社会のなんと殺伐とした現実だろう。それは、昭和40年代の高度成長、バブル経済とその崩壊、失われた10年、グローバリズムと小泉構造改革、政権交代といった変遷の果ての手にした現実でもある。物質的豊かさを求めて経済成長にひた走った果ての現実でもある。
 作中で茶川に向かって妻ヒロミが語りかける言葉が重い。「あなたが、成功して豊かにならなくても、出世して偉くならなくても私は幸せ・・・」。

映画「ライフ・オブ・パイ--トラと漂流した227日--」2013年02月14日

 昨年の夏に、我が家に3D機能付46型液晶テレビとディスクレコーダーが導入された。以来、DVDレンタルやテレビの映画番組や録画を観ることが多くなり映画館から足が遠のいた。ところが昨日の午前中、労働委員会の斡旋を終えてから夕方5時の定例会までポッカリ空白時間ができた。そこで久しぶりに映画館に足を運んだ。どうせなら映画館ならではの作品を観たいということで選択したのが「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」だった。3Dの美しい映像を迫力ある大画面で堪能できるという期待があった。
 結論から言うと「期待外れ」の感が拭えなかった。様々な要因があるが、上映館のTOHOシネマズ梅田のスクリーンが小さかった点が大きい。封切り後20日以上経過し小型スクリーンでの上映に移行していたためだ。最後部の座席だったこともあり、3Dの迫力が減殺された。次にストーリー展開での共感に乏しかった。「トラと漂流した227日」という衝撃的なプロットをどのように映像作品化するかは脚本家の領分なのだろうが、物語性としては単調に過ぎドラマ性に欠けた。テーマ性についても宗教的な問いかけや野生との共存などが提示されるが、いずれも表面的で心の襞に沁みるものは希薄である。とはいえ、映像美だけは文句なしに愉しめた。とりわけさまざまに変化する大海原の映像は3D効果をいかんなく発揮し迫力に満ちたものだった。もうひとりの主人公ともいうべきベンガル虎・リチャード・パーカーの堂々たる媚びない演技(?)もまた秀逸だった。
 結局、この作品を通じてあらためて痛感したのは、映画は総合芸術だという点だった。観客が対面するスクリーンのサイズは映画の作り手には無縁の世界である。それでも観る側はそれすらも作品の評価に込めてしまうものだ。原作、脚本、監督、カメラマン、俳優、CG技術、道具や美術、衣装、上映環境など様々な人々が織りなす総合芸術としての映画作品を鑑賞する自身の総合力もまた試されている。

映画「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」2013年02月09日

 映画「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」の録画を観た。盛り沢山のテーマと美しい田園風景に彩られた心和む作品だった。最近観た映画の中では最も質の高い作品だと思った。
 中井貴一演じる大手家電メーカーの経営企画室長のエリート社員・筒井が主人公である。取締役昇進が内定し順風満帆の49歳の主人公に、ふる里の島根県出雲市で独り暮らしをしている母親が倒れたという一報が入る。そんな時、同期入社の親友が交通事故で亡くなる。リストラで閉鎖された工場長だった彼は、死の直前に「これからは自分の好きな仕事をやりたい」と告げていた。帰郷した主人公は主治医から母親が余命がいくばくもないことを告げられる。これまでの人生を顧みながら、これからの人生の選択を迫られた筒井は、子供の頃の夢だった郷里の一畑電車の運転手になることを決意する。退職し一畑電鉄に採用された筒井は無事に運転手として再出発する。大学生の独り娘も祖母の看病でふる里に同居した。自分の店をもって東京で独り暮らしの別居生活をしている妻はこのままでいいのかと悩んでいる。筒井の活き活きとした運転手姿をみて、「このままの夫婦でいいのね」と告げる。
 「人生の岐路に立った時の選択の在り方」「仕事中心の都会暮らしの果てに訪れるふる里の田舎暮らしという選択肢」「家庭を顧みず仕事一筋の夫と子育てを終えて空白を持てあます妻という夫婦の形」「存続が危ぶまれるローカル電車の実情と再生」「鉄道映画としての娯楽性」等々、この作品にこめられた様々なテーマを思い浮かべた。それぞれにこの作品なりの回答が用意されている。
 この作品の興行成績も好成績だったようだ。いくつかの映画賞も受賞している。舞台となった一畑電車の利用者数も次第に増加し前年比10%増となったという。この波及効果もあって第2弾「「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」も上映された。ぜひ観てみたいという感想こそがこの作品への個人的評価である。

3D映画「ジョン・カーター」DVD版2013年01月04日

 大晦日にレンタルしていた3D映画「ジョン・カーター」DVD版をようやく観た。我が家に3D機能付き46インチ液晶テレビがやってきて初めて迎える正月である。息子夫婦や娘夫婦の自宅には3D機能付きテレビはない。一緒に観ようとレンタルしたが、映画館用3Dメガネではテレビ映像の3D化は無理と分かりあえなく断念した。子どもたちがUターンした後の今日、ひとりでようやく鑑賞したという顛末である。
 昨年春の封切りで夏にはレンタルが開始された作品である。3D映画としては最新作に近いだけに映像技術は素晴らしいものだった。劇場で初めて3D映画アバターを観てその奥行きの深さに感動したものだ。この作品の3D映像もそれに勝るとも劣らない。
 この作品に多くのプレビューが辛口であるように内容はイマイチだった。アメリカの南北戦争の英雄ジョン・カーターが未知の惑星バルスームに迷い込んでしまう。高度な文明をもつこの惑星ではヘリウム王国、ソダンガ王国、サーク族が三つ巴の闘いを繰り広げている。全宇宙の支配を目論むマタイ・シャンに操られたソガンダ王国の王子によって滅亡の危機に瀕したヘリウム王国を、ジョン・カーターが王女デジャー・ソリスとサーク族の王とともに闘い滅亡から救うというのが大まかなストーリーである。
 地球人が未知の惑星に降り立ってそこのネイティブたちと心を通わせたり闘いを繰り広げるストーリーや、異様なメイクのサーク族の登場などはアバターにも共通するものだ。ただこの作品にはアバターにあったテーマ性が感じられない。単なるアクションファンタジーに終始している。その上、筋立てが複雑すぎてファンタジーとしても素直に楽しめない。2時間余りの巨費を投じた大作ながら、観客の心を打つものはない作品という他はない。

映画評「最高の人生の見つけ方」2012年10月09日

 二日前に、テレビ放映された映画「最高の人生の見つけ方」の録画を観た。いい映画だった。もちろん何をもっていい映画と思うかは、人それぞれである。観る人の心にどう響くかによって感動は異なる。普遍的な感動があることを否定しないが、観る人の年齢や境遇や経歴や環境が、その作品のもたらす感動の深さに大いに影響を与えることもまた現実である。
 この作品は、人生の終末の過ごし方をテーマとしている。医者から余命半年を宣告された高齢の男二人が主人公である。全く赤の他人だった二人が偶然同じ病室で同じように余命宣告を受ける。自動車整備工として家族のために46年間ひたすら働き続けた黒人のカーターと、会社を大きくし金を生みだすことを追い求めた大金持ちの白人実業家のエドワードの二人である。
 カーターは大昔の恩師の勧めを思い出し、「棺おけリスト」を書いてみる。棺おけに入る前に、やりたいこと、見たいもの、体験したいことの全てを書きだしたリストだ。二人は棺おけリストをヒントに自分たちに残された時間の大切さを思い、二人で自分たちがやりたかったことを全て叶えることを決意する。二人は分別も医師の指示もかなぐり捨てて冒険の旅に出る。アフリカやインドやエベレストを巡り、スカイダイビングやサファリドライブや最高級レストランの食事を体験する。旅の途中でお互いに触れられたくない部分にお互いの友情から触れてしまう。激高し喧嘩別れで二人の旅はあっけなく幕を引く。それぞれの日常に戻った二人をカーターの最後の発病が引き寄せる。カーターの病床で二人は喧嘩別れした原因である家族について語り合う。そしてそのかけがえのない家族と向き合うことを気づかせる。
 エドワードをジャック・ニコルソンが、カーターをモーガン・フリーマンが演じている。 ともに75歳のアメリカの実力派俳優である。作品の圧倒的な場面は二人の掛け合いが占める。語り合い、助け合い、怒鳴り合い、笑い合い、理解し合って永遠の別れを迎える。こうしたシーンを安定したベテランの演技で見事に演じきっている。経歴も今の環境も真逆の白人と黒人が人生の終末に出会い、無二の親友として絆を深めその幕を引く。この二人の俳優抜きには考えられなかった作品だろう。
 感動をもたらし、考えさせられた作品だった。それは私が人生の終末を意識せざるをえない年代を迎えているという要因が多分にある。リタイヤ後の人生で多くの国内外の旅をした。公民館講座の講師など自分好みの活動にも多くの時間を費やした。人生のエンディングテーマをどのように奏でるかを迫られているのも現実だ。この作品への共感の多くはそうした自分の境遇と無縁でない。

映画評「プロメテウス」2012年08月29日

 昨日、15時に労働委員会の会議を終えて、18時半の昔の仲間たちとの吞み会までの時間を利用して3ヶ月ぶりに映画を観た。選択したのはTOHOシネマズ梅田で上映していた3D字幕版の「プロメテウス」だった。更新切れになっていたシネマイレージを更新し、3Dメガネ代金と合わせて700円を支払った。チケット代金は溜まっていたポイントで清算した。
 テレビの予告編の「エジプトやマヤ、メソポタミアなどの古代遺跡の壁画から、共通するサインが見つかる。人類はどこから来たのか」といったキャッチコピーに誘われて足を運んだ。ストーリーは難解だった。冒頭、太古の地球に降り立った異星人が自身のDNAを地球に拡散させて人類を生み出したという仮説の映像化で物語は始まる。ある大企業のトップが科学者たちを中心に調査チームを編成する。彼らは宇宙船プロメテウスに乗り込み、リーダーの科学者によって発見された星図の示す星を目指して出発する。リーダーはそこに人類誕生の謎を解く鍵を握る異星人がいると信じている。めざす星に降り立った調査隊は構造物に分け入って探索を開始する。そこから蘇った異星人との壮絶なバトルが始まる。その映像化は想像を超えたシーンを次々に登場させ、ハラハラ感とドキドキ感を満喫させる。
 テーマ性を問われればイマイチと答えるしかない。壮大な仮説に対する説明は不十分としか言えない。それでも観客の感性を揺さぶる迫力やインパクトには凄味がある。2時間たっぷりのSF作品を堪能した。ここのところ自宅の大型テレビで3D洋画の2作品を観たが、あらためて映画館の迫力を思い知らされた作品だった。