JR福知山線廃線跡ウォーク2007年11月04日

 かってJR福知山線の生瀬駅から道場駅までは武庫川の渓流に沿って走る絶景の秘境路線であった。1986年(昭和61年)8月以降、新たに長大なトンネルをくりぬいて開通した時間節約型暗闇路線が、この旧線を廃線にしてしまった。以降この廃線跡は渓谷美を満喫できる関西でも有数のハイキングコースとなった。
 深秋の日曜日である。ハイキングコース終着点の武田尾は有名な紅葉の名所でもある。前日、いつもの早朝ウォーキングに代えて廃線跡ウォークを口にしたところ、珍しく連れ合いが同行するという。朝8時30分、JR西宮名塩駅隣接の駐車場に留めたマイカーからウォーキングスタイルに身を包んだ初老のカップルが降り立った。
 廃線跡ハイキングは生瀬駅からスタートするのが一般的なようだが、このコースは車の行き交う国道をしばらく歩かなければならない。西宮名塩駅から東に歩いて、生瀬駅のほぼ中間にある木之元の集落から廃線跡に合流することにした。
 名塩駅のすぐ東の塩瀬中学校南側の旧街道を東に進む。この道は江戸時代には大坂と丹波を結ぶ大坂街道の一部で名塩道と呼ばれていた。しばらく行くと木之元の集落に入る。茅葺屋根の民家や宿場風の民家が昔の面影をとどめている。道が大きく右にカーブする集落の東端とおぼしき地点にきた。美容院があり、その前の小路の急坂を降りると廃線跡に辿り着く。
 8時50分、廃線跡ウォークのスタートである。武庫川の渓流に沿って北に廃線跡が続いている。しばらく歩くと岩の上に立つ渓谷を望む見張り台がある。何を見張っていたのだろうか。この辺りから埋め込まれたような枕木が目につくようになる。前方に派手なハイキングスタイルのグループが見えた。早い時間にもかかわらずハイカーがいたことに何故かホッとする。挨拶を交わしながら年配のグループを追い抜いた。
 トンネルの入口が見えてきた。風雪に煤けた煉瓦造りの入口が歴史の深みを感じさせる。当然ながらトンネル内は暗闇の世界である。持参の大型懐中電灯の灯りなしには進めない。最初のトンネルだが結構長い。武田尾駅までにトンネルは六つあるが後で調べると二番目の長さで300m以上ある。
 トンネルを出てしばらく行くと「人面岩」と記された看板があった。渓谷に散在する岩石が人の顔や動物の姿に見えてくるという。足元は踏み固められた土道やコンクリートの擁壁道や枕木道と様々に様相を変えている。どこまでも平坦な道のりといやでも目に映る渓谷の美しさが快適なハイキングコースとして人気を呼んでいるゆえんなのだろう。
 二番目の全長413mの最長トンネルを抜けた。続いて右にカーブした三番目のトンネルに入り暗闇が続く。突然視界が展けて鮮やかな赤い橋脚が目に飛び込んだ。トンネル出口の真ん前に武庫川第二橋梁の迫力ある鉄橋跡が迫ってくる。鉄橋そのものは閉鎖されているが、鉄橋に沿った保線用通路を伝って武庫川を渡る。このコースでは最もドラマチックな場面だった。鉄橋の向うにはすぐまた四番目のトンネルが待ち受けている。このトンネルの先からは武庫川の渓谷は左手に眺めることになる。渓谷と桜並木の枕木路の美しいコントラストがしばらく続く。桜の季節にはどれほど素晴らしい景観を見せてくれるのだろう。左にカーブするところに何故か五つの岩が点在している。その先でハイカー向けの道しるべを初めて目にした。「桜の園300m」「武田尾駅1600m」とある。
 五番目のトンネルの手前に「桜の園・亦楽(えきらく)山荘」の入口階段が見える。亦楽山荘は「桜博士」と呼ばれた笹部新太郎氏がサクラの品種保存や接ぎ木などの研究に使用した演習林である。水上勉の小説『櫻守』の舞台であり笹部氏がモデルの小説である。階段を上ったところに地図で描かれた案内看板があり、幾つかのコースが提案されている。山荘めぐりコース1.1kmを回ってみることにした。急勾配のつづら折れの山道を吹き出る汗を拭いながら登りきると東屋があり一服する。下り坂を更に進むと笹部氏の研究室でもあった小屋がある。小屋の前の急坂を降り、「もみじの道」を進む。ようやく廃線跡の道に合流した。平坦な廃線跡ばかりを歩んできた身には30分ほどのかなり厳しいコースだった。桜の季節であればこの厳しさを忘れさせるパノラマが展がっているに違いないと想像する他ない。
 短いトンネルが二つ続いた後、左に大きくカーブする武庫川の先に武田尾の集落が見えてきた。舗装道路と川を跨いだ木製の橋を渡る。この辺りが旧武田尾駅の跡地ということだ。武田尾駅に向って武庫川沿いに集落を抜ける小道と広い車道が平行している。民家や土産物店の並ぶ小道を抜けた先に武田尾温泉の看板アーチのかかった橋が武庫川を跨いでいる。橋を渡り温泉街に向う。「←名塩」の看板があった。ここから名塩に抜けるハイキングコースの案内だった。正面を見上げると福知山線の新路線の赤い鉄橋が武庫川を跨いでいる。更にその先には武田尾温泉のシンボルである真っ赤な吊り橋が姿を見せている。台風で崩壊していたがようやく再建された真新しい吊り橋である。温泉街の正面玄関ともいうべき吊り橋の先には、色づき始めた紅葉に包まれた温泉街が目に入る。渓谷に身を乗り出すようなその佇まいは、まさしく秘境の温泉地のイメージをかもしている。
 吊り橋を渡り折り返し武田尾駅に到着したのは11時過ぎだった。廃線跡をスタートしてから2時間余りの道のりだった。途中の桜の園に寄らずに廃線跡だけを歩いたとすれば1時間半程度のコースと思われる。紅葉には少し早いタイミングだったが約13km、歩数にして約1万7千歩のほどよい快適なウォーキングだった。
 武田尾駅に着いた時、家内が驚くべきせりふを口にした。「ついでに歩いて帰ろか」。さすがに私には歩いて折り返す余力は残されていない。不満げな家内とともに11時13分発のJRに乗車した。発車3分後には西宮名塩駅に着いていた。

街道を行く2007年11月08日

 HP「にしのみや山口風土記」の「となり街・風土記」に着手してみて気づいたことがある。古来よりとなり街とは道でつながっていた。それは現在の国道や高速道路とは比ぶべくもない情緒豊かな「街道」だった筈だ。「風土記」を構成する背骨ともいうべきサイト「有馬路の街道」が不可欠だと思った。
 西宮市のHP「一般国道176号のあゆみ」掲載の地図に江戸時代の西宮北部の旧街道の地図があった。そこには私の住む住宅団地のすぐ北側を三田方面に向かって丹波街道の一部があったことが記されていた。その旧街道を辿れないかと思った。
 休日の好天に恵まれた昼過ぎである。自宅を出て地図を片手に旧街道を訪ねた。有馬川沿いに山口町名来の西宮市の北の境界まで歩く。その先に神戸市北区に属する道場町平田の田園風景が展がる。旧街道とおぼしきあぜ道を辿った。丘陵地に向かってあぜ道は徐々にか細くなる。耕されることのなくなった荒れはてたままの棚田が辛うじて昔の面影をとどめている。行き着いた先は薮に覆われた湿地帯だった。これ以上は進めない。やむなく探訪を断念して折り返した。
 あぜ道の向こうから耕運機に乗った同年輩のお百姓らしき人がやってきた。目前に迫ったところで声を掛けた。「この辺りに山口と三田を結ぶ昔の街道が在った筈なんですがご存知ないですか」。知りたかった情報が得られた。今立っている道がその旧街道であり、今は伸び放題の薮が遮って通り抜けはできないとのことだ。耕運機から降りて煙草に火をつけながら「小学校の頃この道を通り鎌倉峡に遠足に行った」などと昔話を始めだした。名来に在住の好人物だった。思いがけず昔の思い出を久々に話せる格好の相手を見つけたという気分なのだろうか。
 街道を行き交う昔の旅人たちも挨拶を交し合い、ふとしたきっかけで話し合い、袖すり合ったのだろう。国道では決して味わえない「街道」の情緒を味わった。

水上 勉「櫻守」2007年11月14日

 水上勉の「櫻守」を読んだ。水上勉作品は私にとって初めての読書体験である。今月初めに福知山線廃線跡をハイキングした時、コース途中の「桜の園・亦楽(えきらく)山荘」に立ち寄った。そこは小説「櫻守」の舞台だった。この広大な演習林を舞台にどんなドラマが展開されたのだろう。小説の舞台を回遊して原作に触れたいと思った。アマゾンで発注した原作が届いた。
 さわやかで感慨深い読後感だった。主人公は日本の土着的な職人を体現した庭師・北弥吉である。作品のモチーフからすれば弥吉の雇主で桜学者の竹部庸太郎を主人公にする方が自然ではなかったか。竹部は、生涯を桜の保護育成に捧げた実在の人物である笹部新太郎氏がモデルである。
 「水上勉は、東大法学部卒の笹部の学識に支えられた学問的で組織的な桜の育成の情熱に敬意を払いながらも、自身の感性には究極のところで馴染まないものがあったのであろう」とは、解説者の福田宏年氏の弁である。「笹部氏の学問的情熱を、一介の庭師の姿を借りて、土着的、感性的なものに差し替えたところに、水上勉の本領がある」という解説者の言は、水上文学の本質を鋭く突いた説得力のあるすぐれた指摘だった。実在の人物の「在りよう」を自らの感性にそって創作の人物に置き換えて表現するという作家の凄みを味わった。
 それにしても「自然を護る」ということの本質的な意味を思い知らされた作品だった。「爺ィは、毎朝、鉈を砥ぎながらわいにいうた。山の自然が美しいのんは、蔦を伐って木挽が木を守ったからや。山は放っておくと、つるがはびこって木は枯れてしまう。」「緑地の荒廃を嘆く識者や役人も、緑を守れ、自然を守れ、と叫んでいるが、その残された山が、それでは真に守られているかといえば、そうではなかった。役人や学者は、山を放っておくことが自然だと考えていた。<そんな自然なんてあるもんか>自然は守られねばジャングルになる」。何もしないで放置することを自然を守ることと考える軽薄な自然保護の理屈を痛罵する。自然と向き合い手間隙かけて折り合いをつけながら守(もり)をしてはじめて自然は守られる。この作品のタイトル「櫻守(もり)」に込められた作者の想いは深い。
  来春のさくらの季節には「櫻守」の読後感を噛み締めてもう一度、亦楽山荘を訪ねよう。

旧友夫人からの喪中挨拶状2007年11月15日

 11月半ばの早々の喪中挨拶状を受け取った。
 「夫○○が四月に六十一歳で永眠しました」という文字が飛び込む。旧友T氏の初めて目にする死亡通知だった。
 T氏は私の30~40代の労組役員時代に親しくお付き合いした同い年の旧友である。同時期の関東の私鉄系のスーパーマーケットチェーンの労組役員であった彼との付き合いは20年近くに及んだ。30歳の時、彼のグループ企業労組の交流活動の一員として一緒にソ連を訪問した。彼の自宅がその時の前泊場所で奥さんとも面識があった。社会主義国ソ連での2週間に渡る視察旅行は今となっては貴重な体験であり、同時に二人にかけがえのない絆をもたらした。
 お互いに職場に戻り、賀状交換が唯一の繋がりとなって久しい。信じていた筈のお互いの絆の強さも、本人が当事者であれば、公的な繋がり以外は訃報連絡先からさえも漏れるものなのだろう。
 とはいえ一言夫人に挨拶したいと思った。同年齢の若すぎる旧友の死の意味合いを承知しておきたかった。電話口の夫人の言葉からは、七ヶ月を経た落ち着きが伝わった。「昨年11月に胃癌の発症が見つかった。進行性のもので4ヵ月後には死を迎えた」。
 彼の発症とほぼ同じ時期に私も「悪性黒色腫」という癌の発症を通知されていた。彼が死亡したその頃に幸いにも私は病棟に別れを告げ自宅での生活に戻った。明暗を分けた符号の不思議と自身の幸運への感謝がよぎる。もう会うことが叶わなくなったT氏の面影を偲んだ。またひとつ静かに迫りつつある老いを感じさせられた。

オイル(老いる)ショック2007年11月21日

 1カ月ほど前からだろうか。左足膝の裏側に違和感を覚えるようになった。単なる筋肉痛で二三日もすれば良くなるだろうとほっておいた。突っ張り感と鈍痛は一向に治まらない。1年前に右手親指爪下の黒ずみを数年間放置した挙句に悪性黒色腫という皮膚癌の発症を告げられたばかりだ。
 意を決して職場近くの行きつけの整形外科医院を訪ねた。この年になると行き付けの医院に事欠かない。いつの間にか「行きつの呑み屋」が「行きつけの医院」になり、財布には殆どのジャンルの診察券が収まっている。
 昼前の比較的空いている待合室でしばらく待ってレントゲン撮影を告げられた。その写真を前に50歳前後の顔馴染みの先生の診察を受ける。触診を済ませて先生のおごそかなお告げがある。「写真で診る限り水も溜っていないようだし、特に心配ありません」。(良かった~ッ)「老化による変形性膝関節症でしょう」(何や!やっぱり問題あるんやないか)「今からストレッチを指導しますから、朝晩二回必ずやって下さい。それと理学療養室でホットパックとウォーターベッドをしてからお帰り下さい」
 整形外科医院の理学療養室(リハビリ室)は、お年寄りの巣窟である。若い頃に怪我でリハビリを受けた時にはひとり浮き上がった気分で馴染まない時間を過したものだ。今、老化による疾患で受けるリハビリ室の空気には、それほどの抵抗感はない。外見的にもこの部屋の空気に溶け込んでいるのだろう。
 「老い」は突然訪れるのではない。日常生活の様々なシーンの中からひとつずつ顔を見せてくる。その顔をそのつど冷静に見つめ、受止めていきながら老いを受入れていくものなのか。自分の中の「老いを否定する気分」とそのようにして折れ合いながら老いに適応していくものなのだろう。京都西陣のわらじ医者・早川一光氏の「オイルショック」発言の私なりの解釈である。

篠田正浩氏の「心をえぐられる文章」2007年11月24日

 人は時に「心をえぐられる文章」に出会うものだ。
 購読誌「ほうんとうの時代12月号」を読んだ。特集記事『阿久悠さん、ありがとう』の中のひとつに映画監督・篠田正浩氏の「阿久悠と瀬戸内少年野球団」と題するエッセイがあった。
 「(昭和6年生まれの皇国少年だった)私にとって戦後は悲劇的な時代だと思った。以来、映画監督になっても、私の作品は暗かった。阿久悠さんの小説『瀬戸内少年野球団』の監督を依頼されたときは当惑したものだ。・・・・『瀬戸内』という文字を目にするだけで、私には盲目の琵琶法師が歌う平家物語の世界である。壇ノ浦に追い詰められた平家滅亡の光景は、そのまま日本の敗戦の日と重なり、戦後の悲惨に繋がっていた。・・・・だから私の映画は、暗い。その闇からの出口に誘う光明は見えなかった。しかし『瀬戸内少年野球団』を読み終えた私に心変わりが起きていた。・・・・阿久少年は小学校の八歳のとき、淡路島で敗戦を目の当たりにした。私は十四歳の中学生だった。学徒動員の飛行場の仕事場で昭和天皇の玉音放送を聴いた。淡路島の少年は占領軍の四輪駆動のジープが悪路をものともせず駆け抜けるのに驚嘆し、米兵から投げ込まれたキャンディーの甘さにパラダイスが出現したのではないかと思った。中学三年の皇国少年は、いつ切腹して天皇陛下にお詫びしなければならないのかと、不安と絶望の闇をさ迷っていた。日本の無条件降伏はたった一つの歴史事件であったが、淡路島少年と皇国少年が目撃した戦後はまるで違っていた。歴史の真実はこの複眼の間に存在するのだ。歴史は様々な他者の眼差しを受入れるべきだと、思い知らされたのだ。私の暗さと阿久悠の明るさが同居することができるかと問うたら、阿久さんはすぐに受入れてくれた。」
 心に沁みる見事な文章だと思った。自身の超えがたい原体験を、六歳年下の阿久悠氏の小説世界によって超えていく深層が、誠実に赤裸々に吐露されている。「歴史の真実はこの複眼の間に存在する」「歴史は様々な他者の眼差しを受入れるべきだ」という言葉が私の心の襞に染みとおる。
 もちろん「心をえぐられる文章」は、誰にとっても共通ではない。受止めた者の原体験やその時々の心情に負っている。それにもかかわらず発せられた言葉を生み出した精神の透明さと誠実さが普遍性を帯びて輝いているように思える。

リタイヤ生活のもうひとつの柱2007年11月27日

 休日の午後、市からの封書が届いた。「民生委員・児童委員委嘱辞令伝達式について」と題する書面が同封されていた。目前に迫った私のリタイヤ生活の柱のひとつとなるだろうボランティア活動の正式な委嘱通知だった。

 二ヶ月ほど前の休日の朝、在住する住宅地区の自治会長と地域の民生委員のお二人の来訪を受けた。前日にアポがあり、「お願いしたいことがある」とのことだった。突然の思いもよらない方たちの訪問に、戸惑いは隠せなかった。
 民生委員である中年のご婦人は、二年前、私が自治会副会長の時に「わんわんパトロール」の懇談会で面識のある同じ町内にお住い方だ。この方から主として来意が告げられた。依頼内容は、なんと民生委員就任の打診だったのだ。
 「1期3年の任期の民生委員を3期9年努めたが、家庭の事情で今期限りで退任することになった。後任は自治会が推薦するのだが、四月に就任したばかりの自治会長は後任者の人選情報に暗いので私に推薦の依頼があった。児童委員を兼ねる民生委員は、お年寄りだけでなく子供たちのお世話もする。後任者は誰でも良いという訳にいかない。以前、自治会での活動ぶりやわんわんパトロールの懇談会の進め方を見て、この人ならと思った。ぜひ引き受けて欲しい」
 「地元名士の名誉職」。これが私の民生委員にたいする正直なイメージだった。それだけにおよそ私の人生に関わる筈のない役職だった。とはいえ私の二年間の自治会での活動ぶりを評価してもらっていたことは、自分でも精一杯やっという想いがあっただけに、素直に嬉しい言葉だった。来年六月以降には完全にリタイヤ後の人生が始まる。ライフワークの「にしのみや山口風土記」の執筆以外に特段のテーマがあるわけではない。何かもうひとつ柱になるボランティアを考えないわけでもなかった。同じ町内の問題を抱えたお年寄りや子供たちのお世話をするのも選択肢のひとつかもしれない。
少し心が動きかけたところで、任期についての説明があった。「できるだけ長くやって欲しいという趣旨から、就任時の年齢が65歳以下という条件がある。また75歳を超えては再任されない。私の前任者も3期9年を勤めた。年齢的には3期9年は可能であり、できればそれ位はやってほしい」。そんなに長期に及ぶものとは思いもよらなかった。また日常の連絡等で妻の協力も必要になる。これは一存では決められない。
 「お話しは分りましたが、家内とも相談しなければなりませんので時間を頂きたい」と伝えたところ「それでは一週間後に再訪させてもらうので返事を聞かせてほしい」と返され、ひとまず第一幕が降りた。

 パート勤務から帰宅した妻にお二人の来意を話し、意見を求める。来訪された民生委員だけでなく前任の民生委員とも面識があり、その大変さも承知している筈の妻は、さすがに驚き、戸惑った様子だった。それでもしばらく話し合った後、彼女なりに出した結論は以下のようなことだった。「お父さんがやってもいいと思うなら、私は構わない。老後に地域のお世話をするのも大事なことやし。私もできる範囲で協力する。」
 その後、古くからの友人が長く民生委員をしていて、その体験をもとにした地域福祉の本を出版していたことを思い出した。本棚から「まちづくりは国づくり」と題する書籍をさがしだし、二日ほどで読み終えた。民生委員の果たすべき役割や今後の在り方が彼の経験や見識を踏まえてよくまとめられていた。民生委員についての私の認識が一新された感がある。読み終えた後、その友人に連絡して相談した。「誰でもできることではないが、心配するほど大変なことでもない。老後の過ごし方としてはやりがいのある良い選択肢だ。ぜひ引き受けるべきではないか」とのことだった。

 約束の日の夕刻、三名の関係者の再訪があり、妻も同席の懇談となった。自治会長以外は初めての方だった。おひとりは年配の男性で地区の民生児童委員協議会会長の名刺を頂いた。もうひとりの方は、同じ住宅街の他の地域の民生委員のご婦人だった。
 お引受する旨伝えた後は、民生・児童委員の仕事内容等の雑談になった。この後の手続は市の推薦会で正式に決定後、あらためて通知があるとのことだった。