三人の義太夫・太夫の墓碑・・・その後2009年05月02日

 先月、地元の街の石碑巡りの散策に出かけて、興味深い事実を知った。わずか1.5kmの範囲に「竹本多賀太夫」「竹本増太夫」「竹本加治太夫」という三人の義太夫・太夫の墓碑があったのだ。三つの墓碑は、規模や仕様が驚くほど似通っている。何故、三人もの太夫の墓碑が至近距離で、また共通する形状でこの地に残されているのか?この地域にどんなゆかりの人物たちなのか?
 竹本増太夫塚には天保6年(1836年)の年号が刻まれており、ネット検索でも「竹本増太夫は、延享~宝暦初期(1750年頃)に江戸三座に出演した太夫」との記述があった。このことから三人の太夫たちが江戸中期から後期にかけての人物だったことが窺わせるものの、それ以上のことは不明だった。
 過日、何か手がかりになる資料はないか、山口町郷土資料館に問い合わせた。徳風会理事長を兼ねる館長から、山口町史編集委員で元市会議員の岡本佐久次さんを紹介された。以前私も参加した山口公民館・地域講座で「山口の昔話」というテーマで講師をされた方である。恐らく90歳前後の年配で今やこの地域の大長老ともいうべき方と思われる。電話によるぶしつけな問合せにも関わらず、以下のような貴重なお話しを伺えた。
 「江戸時代、山口では浄瑠璃が非常に盛んだったようだ。それはこの街の古い家の多くに当時の浄瑠璃本が残されていることでも推測される。3人の太夫の墓碑の内、増太夫墓碑は下山口の橋本さん宅が、加治太夫墓碑は上山口の加治さん宅が代々供養をされている。それは両家の過去帳にも記載されている。それらを考え合わせると、三人の太夫が山口の在住者か出身者であったことは十分推測可能ではないか」
 ここに至って、ようやくかねての謎の大枠が解き明かされた。それにしても岡本さんのような高齢の郷土史に詳しいい方にお話しを伺えた僥倖に感謝するばかりである。同時にこの街の伝承を受け継げる環境や仕組みを早急に整備することの大切さも痛感した。