五木寛之著「大河の一滴」 ― 2009年05月24日

五木寛之の著作に嵌っている。「仏教への旅(ブータン編)」「さらばモスクワ愚連隊」と読み、今日「大河の一滴」を読み終えた。読了した前二作のを通じてこの作家の精神世界の変遷に限りない共感を覚えたものだ。それは私自身のそれと驚くほどオーバーラップしていた。
「大河の一滴」は著者の66歳の時の作品である。現在の私自身と同年代と言ってよい。読み終えた文庫本は、奥付をみると10年前に購入したものだ。なぜか書棚に「ツン読」されていたものだ。当時は私のビジネス人生で最も責任あるポストで多忙な日々をすごしていた時期だ。今読み終えてみて、この著作が当時の精神構造になじまなかっただろうことを合点した。逆にリタイヤ2年目を迎えた今の私にしみじみと沁みこんでくる作品だった。
文庫本のあちこちの頁の上が三角に折り曲げられている。そのつど心に沁みた内容をもう一度読み返そうと思った印しである。
『現実に生きるとは、そのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことだ。そして「浄土へ往生する」と言う意味は、・・・全ての人は大河の一滴として大きな海に還り、ふたたび蒸発して空に向うという大きな生命の物語を信じることにほかならない』
『美しい人間、美しい魂からしか、美しい音楽は生まれない、と信じたいのですけれども、音楽というもの、歌というもの、そのなかにはひょとしたら不思議な悪魔がひそんでいて、必ずしもそうではないのかもしれない。汚れた手から美しい音楽が紡ぎだされることもある。そういう残酷な真実みたいなものが歌の背後にもひそんでいる・・・』
『私たちは癌とかそういう病気をやたらと恐れます。しかし脳内出血で突然意識不明になったり、くも真っ赤出欠で倒れてそのまま死んだりするよりも、ある程度時間をかけて、ゆっくりと自分の結末を迎えるがんなどという病気は、大変恐ろしいものではありますが、ある意味では幸運な病気だという気もしないでもないのです。そのあいだに人間はふり返って、自分の人生をたしかめたり、あるいは反省したりすることもできる』
『物の考えかたには、相反する二つのことが同時にあって、その両者の間を往還しながら――英語でいうと<スイングする>と言う言葉なのでしょうか――、私たちは真実というものを理解することができるのではないか。片方だけに凝り固まっては駄目だ、という気持ちが、ぼくには心の底にある』
『市場原理と自己責任という美しい幻想に飾られたきょうの世界は、ひと皮むけば人間の草刈り場にすぎない。私たちは最悪の時代を迎えようとしているのだ。資本主義という巨大な恐竜が、いまのたうちまわって断末魔のあがきをはじめようとしている。そのあがきは、ひょとして二十一世紀中つづくかもしれない。つまり私たちは、そんな地獄に一生を託すことになるのである』
著作の中から折り曲げた順に拾い上げた。最後の文章は、3ヶ月前に読了して感銘した著作「資本主義はなぜ自壊したのか」の論点そのものである。五木寛之が同じ論点を10年前に語っていたことにあらためて驚きを隠せなかった。そして私自身の「大河の一滴」に至る出発点が「資本主義はなぜ自壊したのか」であったことの符号の不思議を想った。それは五木寛之の精神世界の変遷への共感の根拠でもあった。
「大河の一滴」は著者の66歳の時の作品である。現在の私自身と同年代と言ってよい。読み終えた文庫本は、奥付をみると10年前に購入したものだ。なぜか書棚に「ツン読」されていたものだ。当時は私のビジネス人生で最も責任あるポストで多忙な日々をすごしていた時期だ。今読み終えてみて、この著作が当時の精神構造になじまなかっただろうことを合点した。逆にリタイヤ2年目を迎えた今の私にしみじみと沁みこんでくる作品だった。
文庫本のあちこちの頁の上が三角に折り曲げられている。そのつど心に沁みた内容をもう一度読み返そうと思った印しである。
『現実に生きるとは、そのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことだ。そして「浄土へ往生する」と言う意味は、・・・全ての人は大河の一滴として大きな海に還り、ふたたび蒸発して空に向うという大きな生命の物語を信じることにほかならない』
『美しい人間、美しい魂からしか、美しい音楽は生まれない、と信じたいのですけれども、音楽というもの、歌というもの、そのなかにはひょとしたら不思議な悪魔がひそんでいて、必ずしもそうではないのかもしれない。汚れた手から美しい音楽が紡ぎだされることもある。そういう残酷な真実みたいなものが歌の背後にもひそんでいる・・・』
『私たちは癌とかそういう病気をやたらと恐れます。しかし脳内出血で突然意識不明になったり、くも真っ赤出欠で倒れてそのまま死んだりするよりも、ある程度時間をかけて、ゆっくりと自分の結末を迎えるがんなどという病気は、大変恐ろしいものではありますが、ある意味では幸運な病気だという気もしないでもないのです。そのあいだに人間はふり返って、自分の人生をたしかめたり、あるいは反省したりすることもできる』
『物の考えかたには、相反する二つのことが同時にあって、その両者の間を往還しながら――英語でいうと<スイングする>と言う言葉なのでしょうか――、私たちは真実というものを理解することができるのではないか。片方だけに凝り固まっては駄目だ、という気持ちが、ぼくには心の底にある』
『市場原理と自己責任という美しい幻想に飾られたきょうの世界は、ひと皮むけば人間の草刈り場にすぎない。私たちは最悪の時代を迎えようとしているのだ。資本主義という巨大な恐竜が、いまのたうちまわって断末魔のあがきをはじめようとしている。そのあがきは、ひょとして二十一世紀中つづくかもしれない。つまり私たちは、そんな地獄に一生を託すことになるのである』
著作の中から折り曲げた順に拾い上げた。最後の文章は、3ヶ月前に読了して感銘した著作「資本主義はなぜ自壊したのか」の論点そのものである。五木寛之が同じ論点を10年前に語っていたことにあらためて驚きを隠せなかった。そして私自身の「大河の一滴」に至る出発点が「資本主義はなぜ自壊したのか」であったことの符号の不思議を想った。それは五木寛之の精神世界の変遷への共感の根拠でもあった。
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