逆縁の訪れ(1)容体急変と看取り ― 2024年03月13日

「3月10日午前10時34分、お亡くなりになったことを確認いたしました」。若い当直医がそう告げた。明石市内の大久保病院の3階緩和病棟の一室だった。長男は1カ月ほど前にここに入院して過酷な闘病生活を送っていた。その果てに迎えた死の瞬間だった。
その日の朝8時半頃だった。いつものように早朝ウオーキング途中のコンビニでモーニングコーヒーで過ごしていた。突然スマホのコール音が鳴った。家内からの入院中の長男の容体の急を告げる知らせだった。すぐに自宅に戻り、15分後には車で病院に向かった。
9時35分、3階奥の奥さんが見守る個室に入った。ベッドに横たわりる長男のいつもの穏やかな表情が一変していた。想像以上の過酷な現実を思い知らされた。開いた口からハーハーと懸命に呼吸する荒々しい音声が聞こえてくる。大きく見開いた眼が焦点が定まらないまま天井を見つめている。息をするたびに上下する肩の動きが痛々しい。最後のエネルギーを駆使して死との闘いに挑んでいるかのようだ。
「お父さん、お母さんやで~。頑張ってな~」。入院した時から言葉を交わすことはできなくなっていた。それでも答えぬ息子に声をかける以外になすすべはない。25分ばかり続いたその様子が突然停止した。開いた口が塞がり視線が戻り、一瞬口元がほほえんだように見えた。そしてその状態がしばらく固定した時、死が訪れたと思った。呼ばれた看護師さんが医師に連絡した。日曜朝の当直医が少し遅れてやってきて、奥さんと両親が見守る中で冒頭の死亡診断を告げた。
急の知らせを受けて妹である娘が大津から駆け付けたのはその1時間後だった。妹は間にあわなかったものの、私たちが臨終に立ち会えたのも長男の頑張りが叶えてくれた両親への手向けと受止めた。
逆縁という他はない51歳の息子の死だった。看取られる筈の息子を看取ることになった「逆縁の哀しさ」の始まりは4年前に遡る。哀しさを冷静に受け止めながら、その経過を辿りたい。
その日の朝8時半頃だった。いつものように早朝ウオーキング途中のコンビニでモーニングコーヒーで過ごしていた。突然スマホのコール音が鳴った。家内からの入院中の長男の容体の急を告げる知らせだった。すぐに自宅に戻り、15分後には車で病院に向かった。
9時35分、3階奥の奥さんが見守る個室に入った。ベッドに横たわりる長男のいつもの穏やかな表情が一変していた。想像以上の過酷な現実を思い知らされた。開いた口からハーハーと懸命に呼吸する荒々しい音声が聞こえてくる。大きく見開いた眼が焦点が定まらないまま天井を見つめている。息をするたびに上下する肩の動きが痛々しい。最後のエネルギーを駆使して死との闘いに挑んでいるかのようだ。
「お父さん、お母さんやで~。頑張ってな~」。入院した時から言葉を交わすことはできなくなっていた。それでも答えぬ息子に声をかける以外になすすべはない。25分ばかり続いたその様子が突然停止した。開いた口が塞がり視線が戻り、一瞬口元がほほえんだように見えた。そしてその状態がしばらく固定した時、死が訪れたと思った。呼ばれた看護師さんが医師に連絡した。日曜朝の当直医が少し遅れてやってきて、奥さんと両親が見守る中で冒頭の死亡診断を告げた。
急の知らせを受けて妹である娘が大津から駆け付けたのはその1時間後だった。妹は間にあわなかったものの、私たちが臨終に立ち会えたのも長男の頑張りが叶えてくれた両親への手向けと受止めた。
逆縁という他はない51歳の息子の死だった。看取られる筈の息子を看取ることになった「逆縁の哀しさ」の始まりは4年前に遡る。哀しさを冷静に受け止めながら、その経過を辿りたい。
最近のコメント