時代のもたらす軋轢をキャッチする2008年08月01日

 労働委員会の会議で久々に大阪に出かけた。会議を終え昼前には大阪駅に戻った。帰宅路線の快速電車は出た後で停車中の普通電車に乗車した。ぼんやりと窓の向うの隣の線路に停車中の電車を眺めていた。突然その電車がゆっくりと動き出した。徐々に加速し始める。その時だった。停車している筈の乗車中の電車が動き出した。いや、動き出したかのような錯覚が襲ってきた。そして隣の電車はいつの間にか停車しているように見えた。あの誰もが経験した筈の不思議な錯覚である。走り出した電車の最後尾の車両が私の目の前を走り去った時、隣のホームの静止した光景があった。
 
 目にしている時代の風景が目まぐるしく動いている。私自身が動いているわけではない。現役時代は激しい時代の変化の中で私自身も動いているかのような気分があった。リタイヤして停車中の電車にいる自分自身を冷静に見つめていることに気づかされる。
 労働委員会に持込まれる事件は、時代の変化の中で生じた軋轢に起因するものも多い。派遣労働者問題、名ばかり管理職問題、グローバリズムと外国人労働者問題、地方自治体の業務の民営化、合同労組や管理職ユニオンの取組み等々・・・。
 例え停車中の電車に居ようとも時代の変化とそのもたらすものを冷静にキャッチしようと思う。

「えらいことになってますな」耳鼻咽喉科医の一言2008年08月02日

 診察受付終了間際の待合室は、子供たちとその母親たちで混み合っていた。昨晩の19時頃、私は最寄りの耳鼻咽喉科の医院の待合室にいた。
 二三日前から唾を飲んだ時に喉の痛みを覚えていた。風邪を引いた時によく経験するあの痛みである。ところが風邪の自覚症状はまったくない。家内に話すとちゃんと専門の医者に診てもらおうということになった。右手親指爪の黒ずみを永く放置した末、専門医で受診して悪性黒色腫(メラノーマ)という皮膚癌発症の事実を突きつけられた苦い経験がある。手術後1年半が経過し、癌転移の不安にナーバスになっていることは否定しがたい。
 駆け込み受診者である私の診察順が巡ってきたのは8時前だった。問診票を見ながら40代の医師が話しかける。「そうですか。大変だったですね。メラノーマは咽喉部でも時々見つかるんです。じゃあしっかり調べましょう」と、もっとも気にしていたことをこともなげに言う。そして最初に耳を覗きながら声を上げる。「えらことになってますな」(ビクッ)。「耳垢で穴が詰まってますがな」。そして耳掻きで掃除を済ませた成果を見せてくれる。ティッシュペーパーには1センチほどもある黒い耳垢の山が載せられている。「これじゃ耳が聞こえにくかったんじゃないですか」。なるほど思い当たることしきりである。いよいよ喉の検査が始まる。先端が黄色く光るファイバースコープが鼻の穴から挿入される。決して気持ちの良いものではない。鼻の穴に突っ込まれた異物の違和感に耐えながら医師の宣告を待つ。「扁桃腺に炎症が見られますが悪性のものはどこにもありません。風邪の初期症状かもしれません。薬で二三日もすればおさまるでしょう」。ヨカッタ~ッ。ヤッパリ早目に専門医で受診して正解だった。
 帰宅後、抗生物質の錠剤を呑み、一夜明けた。今朝の食事では喉の痛みはかなり治まっている。

水田の稲穂2008年08月03日

 日曜の早朝のウォーキングだった。神戸市北区道場町の水田に囲まれたのお気に入りの農道にさしかかった。ふと50cmばかりに伸びた水田の苗が目に入った。よく見ると苗葉に包まれるように小さな米の粒子をまとった黄色い稲穂が交じっている。つい先日、水田の田植えがあったばかりのような気がしていた。まだ8月に入ったばかりである。
 稲の成長力に驚きながら、季節の移ろいの早さを肌で感じた。

「平和灯ろう流し」という草の根の地域行事2008年08月04日

 昨日、午後から夜にかけて「平和灯ろう流し」という地域の行事に参加した。原爆被爆者の慰霊のため広島で始められた「灯ろう流し」は、その後世界各地に広がったとのことだ。私の住む西宮市山口町でも三つの小学校とひとつの中学校の児童生徒が台紙に平和の願いを絵や文章に描いた灯ろうが流される。地域の二つの青愛協の共催する14回目の灯ろう流しである。青愛協の役員として初めて参加した。
 午後2時過ぎに、町内の中央公園に会場設営のボランティアに参加する。公園内を流れる小川の周辺20mばかりの両岸に飾る提灯のセッティング作業である。ポールを立てコードに電球と提灯をセットする。炎天下のうだるような環境下の作業を終えたのは5時前だった。作業後の差入れのよく冷えた缶ビールは久々の感動ものだった。
 午後6時半からは地区の自治会館でこれも恒例の「戦争体験者の話」があった。終戦当時、国民学校一年生だったという青愛協会長の小型爆弾を身近に体験した怖さが語られた。とはいえ語り継ぐことのできる戦争体験者は年々少なくなっている。今後の在り方が悩みのようだ。
 午後8時前に中央公園に顔を出す。昼間の作業が灯ろう流しのためのいい雰囲気づくりに貢献している。地域の家族連れの参加者を中心に思いのほか多くの参加者が小川の周囲を埋めている。主催者から子供たち向けに簡単な灯ろう流しの意味が語られる。おまけのようなチャチな花火が打ち上げられいよいよ灯ろう流しが始まった。小川の上手から順次手造り灯ろうが流される。
 唯一の被爆国国民の、ともすれば風化しがちな「戦争はイヤだ!」という想いが、こんな形で草の根の地域行事として定着していたことをあらためて知らされた。

安易な惰性の餌食2008年08月05日

 リタイヤ生活では三つの柱を想定していた。ひとつは地域ボランティア活動である。昨年12月に民生委員に就任し、5月に民生委員が兼務する地域の社会福祉協議会と青少年愛護協会の役員に就任した。おかげでにわかにこの分野の活動が広がった。今ひとつは3月に就任した労働委員会労働者委員の仕事である。こちらの方も就任直後は引き継ぎ案件のみであったが5ヶ月を経て新任委員にも新規案件が割振られ現在は6っつの事件を担当している。最後は私にとってのライフワークであり本命ともいうべき分野の地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」の執筆と更新である。ところがこちらの方はリタイヤ後まったく進捗していない。
 人は他者や外部の強制力によって動く動物である。そんな人間の弱さをつくづく味わっている。地域ボランティアも労働委員もその活動やスケジュールは組織や他者との関わりで自動的に決まっていく。ところが我がライフワークは全く私自身の裁量の枠内である。いつどのように執筆・更新するかは私自身の判断に委ねられている。こうなるともう手がつけられない。日常生活の安易な惰性の餌食となるしかない。
 リタイヤ生活も3ヶ月近くになり、ようやく事態の深刻さを自覚した。このままでは二本柱の生活になる。自己表現という老後生活で最も追求したかった分野が抜け落ちてしまう。本日ようやく「風土記」執筆・更新に着手した。

塩野七生著「レパントの海戦」2008年08月06日

 塩野七生著作の「レパントの海戦」の再読を終えた。エーゲ海を舞台に中世の文明の交代期を描いた三部作の最終作である。キリスト教世界とイスラム教世界の「文明の衝突」を題材とした物語でもあると思った。第一作の「コンスタンティノープルの陥落」の舞台であるンスタンティノープルはアジアと接するヨーロッパ大陸の先端に位置する。第二作の「ロードス島攻防記」の舞台であるロードス島はアジア大陸に隣接したエーゲ海の西の端に浮ぶ島である。最終作「レパントの海戦」の舞台は東地中海を東のエーゲ海と西のイオニア海に分けているペロポネソス半島の西側の海域である。
 年代順に大陸、島、海へと変遷する物語の舞台は、そのままイスラム文明のキリスト教文明に対する勢力圏拡大を企図した闘いの舞台を意味していた。レパント海域の闘いはオスマン・トルコ帝国の地中海世界制覇の仕上げの闘いを意味していた。ヴェネツィア共和国が領有する東地中海の唯一のキリスト教徒の基地であるキプロス島の、トルコ帝国による攻略に端を発した闘いであった。それはキリスト教世界にとってはコンスタンティノープル陥落に始まりロードス島明渡しに続く敗退の果ての崖っぷちの闘いであった。
 1571年10月7日、レパント沖の海域で西欧キリスト教連合艦隊とトルコ艦隊が激突した。両軍合わせて500隻の船と17万人が正面からぶつかりあうガレー船同士の海戦としては最大で最後の闘いだった。トルコ艦隊は、イスラム世界の唯一絶対の専制君主スルタン・セリムが任命したアリ・パシャが総司令官である。これに対する西欧連合艦隊は、スペイン王国、ヴェネツィア共和国、ローマ法王庁、その他のイタリア諸国家からなる混成部隊である。ロードス島を追われマルタ島に籠る聖ヨハネ騎士団も参加している。キリスト教という共通の信仰を奉じる神聖同盟軍とはいえ利害が錯綜する同床異夢の艦隊である。その西欧連合艦隊が両軍入り乱れての激突を制して奇跡的な勝利をおさめた。無敵と言われたトルコ帝国の艦隊は壊滅的な敗北を喫した。
 レパントの海戦は、トルコ帝国の不敗神話を西欧キリスト教勢力が初めて打ち破った闘いと言われる。「レパントの海戦」の物語では、連合艦隊の中核をなしたヴェネツィア共和国に対する作者の思い入れの深さが滲んでいる。海洋都市国家ヴェネツィアは、この勝利にもかかわらず国運の下降を食い止めることは叶わなかった。中央集権化された「領土型」のヨーロッパ近代国家が歴史の主導権を握る時代に既に入っていたのである。
 今、新たな「文明の衝突」が懸念されている。グローバリズムで武装した大国アメリカのイスラム原理主義を掲げるアラブ諸国との軋轢が深刻な紛争の火種になっている。エーゲ海を舞台としたかっての「文明の衝突」も、ともに一神教を奉じる勢力間の闘いだった。「レパントの海戦」の作者である塩野七生氏は「ローマ人の物語」で多様な価値観や信仰や文化を容認しながら長期に渡る平和を築きあげたローマ世界の光芒を描いて見せた。人類はもう一度ローマ人の叡智に学べるだろうか。

光のマジック2008年08月07日

 いつもより遅めの早朝ウォーキングだった。有馬川遊歩道沿いに続いている竹やぶが農道で途切れた地点にやってきた。それは突然飛び込んできた。まばゆいばかりの光のシャワーだった。竹やぶの織りなす微妙な間隙を縫って黄色い光が無数の鋭い斜線となって地面を貫いていた。スタートの遅れが、いつもは目にすることのないこの地点での日の出との邂逅を招いたのだろうか。昇り始めた真夏の太陽の放つ清冽で若々しい光線が竹やぶの小道を舞台に光のマジックを描いて見せたのだ。その幻想的で感動的な光景を夢中で携帯内臓のデジカメで切り取った。

中国という商品の壮大なコマーシャル映像2008年08月08日

 北京オリンピックの開会式を見た。地上デジタル放送が液晶大画面テレビを通して最新テクノロジーを駆使した華麗で迫力あるシーンを余すことなく伝えていた。それは中国という商品の壮大なコマーシャル映像にも見えた。それは中国という強大な国家の威信と権威を賭けた政治ショーにも思えた。
 かって敗戦国・日本は東京オリンピックの開催を機に一気に国際的認知を獲得した。五輪開催に向けたインフラ整備のための大規模投資は経済成長の階段を駆け上がる起爆剤になった。今、中国は北京五輪を機に「世界の工場」から国際社会に認知された経済大国に飛躍しようとするかに見える。それにもかかわらず北京五輪を取り巻く環境は矛盾と波瀾に満ちている。3月のチベット暴動を契機とした中国政府のチベット人への人権抑圧に対する国際的な非難が高まり、聖火リレーはしばしば妨害行動に見舞われた。開会式直前には新彊ウイグル自治区カシュガルで分離独立を求める過激派によると見られる警察官襲撃事件が発生し16名が死亡した。マラソンコースを擁する北京の上空を覆う大気汚染は過去のどのオリンピックにもなかったものだ。食品をはじめとする中国製品の安全性に対する不安は世界各地に広がっている。五輪期間中の北京での「食の安全」への不安も大きい。
 中国の今日の急速な経済成長は1978年以降の「改革開放」のスローガンのもとに導入された、「社会主義市場経済」によるところが大きい。共産党による一党独裁の社会主義体制のもとで、市場経済という個人の自由な経済行動を基本とする経済活動による成長をめざしたのである。「社会主義市場経済」とはそれ自体が矛盾を孕んだ概念という他はない。実際、改革開放の進展と経済成長は、沿岸部都市と内陸部農村の著しい貧富の差を生み出した。官僚の汚職や腐敗は看過できないほどに深刻化している。これが北京五輪を取り巻く矛盾と波瀾の背景である。
 13億の世界最大の民を擁する多民族国家である。その舵取りの困難さははかりしれない。グローバル経済のもとで中国経済が世界に及ぼす影響もまた深刻である。今日の資源、エネルギー、農産物等の国際価格の高騰の要因のひとつに13億の民の市場経済への参入があることは否定できない。それだけに矛盾と波瀾に満ちた中国社会の、穏やかなソフトランディングを願わずにはおれない。
 開会式での次々に繰り広げられる国民を大量動員したマスゲームは、北朝鮮の人権抑圧のシンボルを連想させてしまう。豪華絢爛たる開会式に費やされた莫大な国家予算を、内陸部の農民や四川省大地震の被災者たちはどのような想いで見つめたのだろう。開会式翌日のマスメディアは中国国民の声を「国の誇り」と好意的に報道している。その意味では共産党政権が意図したオリンピックという壮大なイベントによる民衆の団結と統制は今のところ成功したかに見える。
 中国もIT化によるネットワークの進展が著しい。一党独裁の情報統制が不可能な時代である。政治キャンペーンに踊らされるだけの国民からの脱皮が中国社会のソフトランディングに不可欠と思われる。経済成長の過程でどれだけ安定した収入に支えられた中産階級が生まれるのだろうか。彼らが自立した勢力として中国社会の中核を構成することが鍵となるのではないか。
 開会式で中国選手団の多くがテレビカメラに向っておどけている姿が印象的だった。かっての社会主義・中国の選手団の入場には見られなかった奔放さと思ったのは私だけだろうか。

ヒロタのシュークリーム2008年08月09日

 息子夫婦が昼過ぎに帰省した。夕方には息子はひとりで旧友たちとの懇親会に出かけてしまった。大阪に出かけていた娘の帰宅を待って私たち夫婦と嫁の4人が夕食の食卓を囲んだ。妻、嫁、娘に囲まれた思いがけない食卓に何かしらバツの悪さを覚えてしまう。夕食を終えて私はそそくさとリビングのテレビ前に席を移した。オリンピック中継を見逃すわけにはいかないといった風情で・・・。残り三名は引続きおしゃべりに夢中である。それにしても我が家の女性陣のおしゃべり好きは驚嘆に値する。食後1時時間以上を経過して尚とどまる気配はない。新たな話しのネタ元の新規参入が会話を弾ませているのだろう。
 いきなり娘の科白が耳に入ったきた。「そういえば私も覚えているわ。珍しくお父さんがヒロタのシュークリームだけはよく買って帰ってたことを思い出したわ」。子供の頃のスイーツの思い出なんぞが話題になっていたのだろう。ネタ元は息子の嫁だったに違いない。息子から聞かされた父親の通勤帰りのお土産のシュークリームのことが話題に供されたのだろう。こんな場面でもなければ聞くこともなかった筈の情報である。息子のオヤジの土産を喜んでいたという20年以上も昔の嬉しい話題だった。「そやろ。お父さんが梅田の阪急三番街でいつもわざわざ買ってたんやで」。ここぞとばかり思わずリビングから声をかけた。私の連れ合いの「そうやたん?私はあんまり覚えてないけど・・・」というつれないコメントは余分だったが、チョッピリ溜飲を下げたひとこまだった。我が家の女性たちのおしゃべりもまんざら捨てたものではない。

お盆のお勤め2008年08月10日

 転勤族の息子も、現在お盆の帰省中である。夕食前に二人の子供たちと一緒に「お勤め」をした。お勤めとは仏前でお経を上げることである。我が家の宗派・浄土真宗の信徒の基本経典ともいうべき「正信偈(しょうしんげ)」を仏壇に向って読経する。盆、正月の息子の帰省中の我が家の恒例の風景である。
 若い頃の私自身も帰省中の実家では欠かしたことがない。結婚し子供ができてからの帰省では、幼かった子供たちもお勤めの一員に加わるようになっていた。ひらかなの正信偈をたどたどしく追っていた子供たちもいつの頃からか滑らかに唱和するようになっていた。
 両親も亡くなり実家に帰省することもなくなって久しい。かっての実家での風景が今我が家で引き継がれている。「家」の「形」のひとつといえなくもない。同じ風景が子供たちの未来の「家」で引き継がれるだろうか。