絵図にみる昔の公智神社の姿2012年02月14日

 昨日の朝、前日に禰宜さんにアポを入れ公智神社を訪ねた。市立郷土資料館歴史調査団の公智神社石造物調査の報告書を渡すことと、山口フォトコンテスト展示古写真のコメントで公智神社宮司さんのお名前掲載の了解を得るためだ。合わせて公智神社HPに掲載の昔の神社境内の絵図をお借りできないかと依頼しておいた。
 9時に社務所応接室でお会いした。用向きを終えた後、所蔵の数枚のうちの1枚の印刷された絵図をフォトコンテスト展示用にお借りした。自宅に戻り、縦16.5cm、横24cmの絵図をスキャナーで取り込むと読み取りにくかった由緒書きの文字もかなりよく読めた。この絵図から次のような様々なことが読みとれた。
 まず絵図の標題は「摂津國有馬郡下山口村・式内郷社公智神社境内圖」とある。「山口村誌」によると公智神社の郷社格加列は明治12年(1879)であり、郷社から懸社格への加列は昭和4年(1929)である。従って、この絵図に描かれた境内の様子は昭和初期以前の姿を写しているものと推定される。
 次に今の境内には見られないいくつかの建造物がある。本社南側の旧神輿殿と一対をなす神楽殿の存在、萱葺の本社や長床、瓦葺の拝殿、拝殿南側の「大永松」の高い切り株、拝殿前の木の鳥居の存在などである。大永松については山口町史に大永2年(1522)に社殿が再建されたとあり、この時代の名残りをとどめる老大木と思われる。その他「敵弾」と名付けられた砲弾が拝殿前の左右に描かれている。この違和感のある記念物が軍国ムードの強い昭和10年代の設置物とすれば郷社の標題と矛盾が生じる。これらの現存しない建造物の多くは、昭和49年の本社、拝殿、社務所の大改築により姿を消したようだ。
 由緒書きの記載者は松原嘉平とある。村誌によれば明治22年(1889)に山口村初代村長に選ばれ、その後明治38年(1905)に公智神社宮司となった人物である。由緒書きには「山口荘(名塩、生瀬、船坂、湯山、中野、上山口、下山口、名来、平田、生野)の総社にして」という注目すべき内容が記されていた。当時は上記10ケ村を総称した山口荘の呼称が残されていたとことや公智神社が現在の中野、上山口、下山口、名来だけでなくもっと広範囲なエリアの氏神だったことが推定される。
 1枚の絵図から今は見ることのできない様々の事象を垣間見た。