家族六人の新年2012年01月01日

 昨晩、紅白歌合戦を見ながら、これを見終えて今年こそ新年のカウントダウンを公智神社の境内で迎えようと思っていた。ところが・・・永年の習性は10時半も過ぎれば否応なく眠りを強要する。しばらく頑張ったがあえなくダウン。11時前には床についた。
 一夜明けて5時半、新年の朝を目覚めた。すぐに昨晩の公智神社でのカウントダウン断念を思い出しほぞをかむ。着替えとPCチェックを済ませて朝刊を取りにいく。ポストに入り切らないほどの太った紙束を手にして目を通す。今朝は勝手に朝食を済ますわけにはいかない。三家族揃っての新年のお膳がある。朝食抜きの異例の散歩に出かけた。
 マクドナルドのモーニングコーヒーを済ませて帰路につく頃には元旦の曇り空に晴れ間が見えてきた。天上橋の向うに今は空き家となった黒山羊ハッチャンの小屋が見える。住宅街の背景にある畑山と丸山の狭間から日の出前の光が差してきた。これから何年間この馴染みの光景を眺められるのだろうとフト思ってしまう。
 7時半頃に帰宅した。家内と嫁と娘の女性三人が新春のお膳を準備している。8時過ぎには六人分のお膳が整った。お雑煮、購入おせち、私の手作りの玉子焼き、数の子、いくら等が食卓に並んだ。いつもは私ひとりのお屠蘇も今年は婿殿分が追加された。新年の挨拶を交わして少し遅めの朝食が始まった。
 10時半過ぎには娘夫婦と息子夫婦が相次いで我が家を後にし、それぞれの伴侶の実家に向かった。嵐のようないつにない喧騒が過ぎ、再び老夫婦だけの静けさが訪れた。

丸山稲荷から公智神社へ・・・恒例の初詣で2012年01月02日

 子どもたち夫婦が我が家を後にした昨日の午後、夫婦二人の恒例の初詣でに出かけた。12時半に自宅を出て、1時前には丸山山麓に着いた。景色を眺めながら15分ほどかけてゆっくり参道を登った。
 15倍ズームの威力を試そうと手に入れたばかりのコンデジを持参していた。隣りの畑山頂上のパラボナアンテナの鉄塔が見えてきた。標準レンズで撮影した後、15倍ズームで撮影した。高倍率ズームの威力は絶大である。鉄塔にかけられた梯子の踏み板までもがクッキリ写っていた。山頂の稲荷神社奥社で参拝した後記帳した。
 金仙寺方面の下山道を選んだ。以前は目にしたことのない史跡の表示があった。「五郎左ヱ門・石橋」「戦国見張り台石」などである。昭和三十年建立の「丸山猿丸大明神」と刻まれた石碑もあった。あらためて由緒などを調べようと思った。
 金仙寺観音堂で参拝し、上山口東の住宅街を抜けて公智神社に向った。御旅所横の宮前通りには参拝者が行きかっている。何人かのご近所さんとも顔を合わせ、新年の挨拶を交わす。境内に入ると山口氏寄進の手水鉢前に清めの手洗いの行列ができている。拝殿前の石段にも参拝待ちの行列がある。さすがに山口の氏神にして由緒ある神社である。二礼二拍手一礼で参拝しながら昨年の安息を感謝し新年の安寧を祈った。
 2時間の散策を終え、帰宅したのは2時半頃だった。今年も新年早々の夫婦の恒例行事を無事に終えたことを噛みしめた。

乙川優三郎著「闇の華たち」2012年01月03日

 乙川優三郎の短編集「闇の華たち」を読んだ。平成17年から21年にかけての著作であり、文春文庫の初版本である。乙川優三郎は、時代小説作家としては山本周五郎や藤沢周平亡き後、個人的にはもっとも好きな作家である。40代で文壇デビューした遅咲き作家の上に寡作であり、著書は18冊しかない。それだけに書店の文庫本コーナーで物色しても乙川優三郎の未読の著作を見つけることは稀である。そうした中で久々に見かけて即購入した著作だった。
 著者の作品の多くがそうであるようにこの短編集も武家物6編がおさめられている。それぞれに水準以上の作品であると思うが、藤沢周平の短編ほどには心に沁みるものはない。それでも「花映る」と「悪名」の二作品は面白く読んだ。「花映る」は作者が中学時代に熱中したという剣道の体験が遺憾なく発揮された作品だ。主人公と敵役との道場での試合風景は、かつて読んだことのないリアリティ溢れる描写だった。物語性にも富んだ佳作である。「悪名」は、ミステリー仕立ての物語をベースに、男と女の入り組んだ心の通いあいを描いた作品で、読者の期待通りの結末を巧みに導いていく手法は見事だった。
 それにしても、時代小説の名手が少なくなったと思わずにはおれない。書店の書棚には多くの時代小説の文庫本が並んでいる。読んだことのない時代小説作家も数多くいる。単なる「食わず嫌い」なのかもしれない。

束の間の粉雪2012年01月04日

 どんよりと立ち込めた雲の下の早朝ウォーキングだった。昨晩の天気予報は「曇り時々雪」と告げていた。予報通りのいつ降ってもおかしくない刺すような冷気と時おり襲う強風に身を縮めた。
 ポケットにはしっかり15倍ズームのコンデジが納まっている。こんな日はカワセミが川面に羽根を休めているものだ。カワセミのよく見かける有馬川のポイントにやってきた。日の出には間がある薄明りの河原から一瞬何かが飛び立った。ブルーとだいだい色の残像が網膜に残った。カワセミだった。シャッターチャンスにほど遠いこの冬初めての出合いだった。
 愛宕橋を超えた辺りで白い小さな雪が目の前を横切った。それは見る間に粉雪となって舞い始めた。木製の名来橋に向かってさくらの枯れた並木のシャッターを切った。少しズームにしたら粉雪がキャッチできた。束の間の雪模様だった。土手道の先端を折り返し、愛宕橋近くまで戻った頃にはすっかり止んでいた。明るさを取り戻した空に向かって、タモの樹が枯木の枝をせいいっぱい広げていた。

友人の勇気ある決断と行動2012年01月05日

 今年も多くの友人・知人から賀状をいただいた。年に一度の友人・知人たちの近況を知る機会でもある。中でも注目したのは20代半ば以来の古い友人である三上さんの賀状だった。敢えて固有名詞で書いたのは、彼が静岡県湖西市の現職市長という公職にあるからだ。裏面いっぱいに彼の現在の活動と想いが手書きの文章を印字して綴られていた。テーマは「脱原発」である。
 3.11の原発事故を受けて、10年来の持論だった脱原発を発言していくことを熟慮の上、決心したということだ。4月21日の県の市長会で「浜岡止めるべし」の発言をしたとある。5月には浜岡廃炉訴訟の原告の一人に加わり、以降、ブログを通じて積極的に脱原発の発信を続けている。http://pikagen.hamazo.tv/ 賀状の最後は、「今年も市政に全力を尽くしつつ、脱原発の行動を続けることを誓います!」と結ばれている。
 同年代の彼の決断と行動力に脱帽した。市長に当選したのも還暦直前だった。50代前半で現役の最前線を退き、郷里で様々な地域活動に従事した。そうした実績が市長就任に至ったのだと思う。それにしても現役市長として世論を二分する「脱原発の是非」について明快な立場を明らかにし、浜岡廃炉訴訟の原告の一人に加わるという行動力は鮮やかであり見事である。
 個人的にも「脱原発の是非」について自身の意見を明らかにすべきだと思った。「脱原発に賛成」である。理由は、地球規模の破壊的な危険性をもたらしかねない原発事故を人類の科学技術は抑止できないという点が第1である。脱原発の反対論者は、現実の日常的な豊かさをもたらしている電力需要を原発をなくしてどう実現するかを問う。これについても電力供給の多様化等の反論もさることながら、文明の在り方そのものが問われていると答えたいと思っている。
 行き過ぎた「市場経済主義」があらゆるジャンルでひずみを起こしている。市場経済主義の代表的な超大国・アメリカによる「パックス・アメリカーナ」が終焉を迎えていると思う。かってのパックス・ロマーナやパックス・ブリタニカがその終焉を避けられなかったのと同様である。それはその時々のローマ帝国や大英帝国といった超大国が具現化した文明そのものの終焉でもある。市場経済が実現した「物質的豊かさ」と引き換えに人類は多くのものを失った。自然や環境や伝統や心の豊かさといったものである。
 ポスト「パックス・アメリカーナ」の次に何が来るのかいまだその姿は明確でない。少なくとも失ったものの回復がキーワードになる筈だ。ブータン王国のGDP(国内総生産)に変わるGNH(国民総幸福量)という「物質的豊かさを目指すのではなく、精神的な豊かさ、つまり幸福を目指すべきだ」とする考え方は非常に示唆に富んでいると思う。脱原発の論拠のひとつに、「物質的豊かさを支える電力という血液の価値尺度そのものの見直し」という点がありはしないだろうか。

我が家の食卓が呑み屋になった2012年01月06日

 昨日の夕方だった。昼前に、ご近所のご夫婦と一緒に遠出のウォーキングに出かけた家内が、ようやく帰宅した。ご近所さんお二人も一緒だった。トルコや北京のツアーにもご一緒したもっとも親しいおつき合いのご夫婦である。お酒の好きなご主人とも気心の知れた仲でもある。
 早速、我が家の食卓が呑み屋に早変わりした。正月に婿殿用に調達した上物の吟醸酒の一升瓶がかなり残っていた。アテは家内があり合わせのものをすぐに準備してくれる。いつもは「飲みすぎ注意」のイエローカードを頻発する家内もこうしたつきあいにはことのほか寛容である。
 お互い子どもたち帰省で慌ただしく過ごした正月だった。寛いだ気分の呑み場がなかったこともあって盃を重ねるピッチがあがった。家族のことやご近所さんのことや一緒に行ったツアーのことなど話題に事欠かない。おしゃべりが生きがいのような奥さん二人も同席している。いやむしろ奥さん二人のおしゃべりに同席している亭主二人である。
 二時間ばかりがあっという間に過ぎ、一升瓶も空になったところでお開きとなった。こんなおつきあいや寛ぎもたまにはいいものだと痛感した。

ミュージカル劇団で広がる交遊2012年01月07日

 夕方から、住宅街にある寿司屋さんでミュージカル劇団の関係者と懇談した。劇団代表の高井さんと劇団後援会員で有馬のある神社の宮司さんと三人で3時間ばかり談笑した。昨年11月27日の劇団設立総会の懇親茶話会の席上で「一度ゆっくり懇談しましょう」という約束が実現したものだ。
 主な話題は今後劇団で取り上げたい創作ミュージカルの題材だった。高井さんの創作ミュウージカルには邪馬台国や天日槍(アメノヒボコ)など古代を舞台にした名作がある。地元ゆかりの古代の人物の舞台化が話題になった。真っ先に浮かぶのは孝徳天皇である。個人的にも「大化改新の真相・主役は孝徳天皇だった」と題してその出典である歴史学者・遠山美都男氏著作の「大化改新--六四五年の宮廷革命--」をHPで紹介した。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-rekisi-taikakaisin.htm 歓談した宮司さんの神社も孝徳天皇とゆかりが深いということだ。ところが孝徳天皇の事跡を辿ると、いささか物語性に乏しくなかなか舞台化し難い。そこで注目されたのが孝徳帝の唯一の皇子である有間皇子である。名前がしめすように有馬ともゆかりが深く、その生母・小足媛は山口ともゆかりがある。
 後援会活動についても話題となった。この地域にミュージカルという新たな文化が広がることについては宮司さんの心強い賛同と支援の意向もお聞きした。その幅広い人脈を通じて後援会加入者を紹介していただけそうだ。
 ミュージカル劇団の立上げとその後の後援会活動が新たな交遊の機会を広げつつある。

公智神社の大鳥居は市内最大規模か?2012年01月08日

 今朝9時前に公智神社を訪ねた。約束通り境内には西宮市立郷土資料館のスタッフFさんの姿があった。コンベックス(巻尺)では測れない参道の大鳥居などの高い石造物の道具による計測を行うためだ。
 早速二人で持参してもらった伸縮式の全長3mの棒状の道具で計測にかかった。ところがこの道具をもってしても大鳥居の高さは測れないことがすぐに分かった。やむなく隣接の民家のブロック塀に登り、鳥居の二層の水平材の下側の貫(ぬき)の下面に計測棒の上端をつけ、下端をコンベックスで計測した。その結果、貫の下面から地上までが506cmの実測値が得られた。帰宅後、鳥居の写真をプリントし、実測値の比例按分方式で鳥居の中心部の高さ668cmの計算値を確認した。尚、柱と柱の中心点の実測値(大鳥居の幅)は554cmだった。Fさんの話では「これまでどの鳥居でもこの計測棒で測れないものはなかったので、恐らくこの鳥居は市内で最も大きなものではないか」とのことだった。もうひとつの高い石造物に境内入口に建つ二本の締め柱があった。こちらは何とか二人がかりで計測でき415cmを実測した。
 その後、別の石造物を案内してもらうため禰宜さんにお会いした。鳥居の規模の大きさを話すと、その大きさの理由を教えて頂いた。秋祭りにこの鳥居の下を壇尻が通過するためだった。山口の7基の壇尻の内、最大のものは1895年建造の幅1.8m、長さ3.2mの下山口の壇尻である。高さは3mを優に超える。毎年秋祭りの御旅所からの引き回しでこの鳥居下を通過する。1940年建造のこの鳥居は、当然、下山口大壇尻通過を前提にその規模が決められたにちがいない。禰宜さんの話では以前、西宮神社での引き回しに参加した下山口の大壇尻が、高すぎて赤門をくぐれなかったということだ。赤門を上回る公智神社の大鳥居の大きさを実感した。

公智神社裏山の卵塔場2012年01月09日

 昨日の朝、市立郷土資料館のスタッフFさんと一緒に公智神社の大鳥居の高さの計測を行った。その後、禰宜さんに案内していただいて神社裏山にある卵塔場の石造物調査を行った。
 卵塔場とは、卵塔と呼ばれる僧侶の墓石として使われた卵型の墓石のある墓所のことである。「山口町史」の巻頭の写真集に「神仏習合の時代、公智神社の境内に法楽寺と呼ぶ真言宗の寺があったが、いまは歴代住職の墓所だけが神社の裏山の一角に残っている」というコメントとともにその写真が掲載されている。
 法楽寺については「山口村誌」や「山口町史」の本巻でも要約すれば以下のような内容の記載がある。『江戸期の神仏習合の時代にあって公智神社境内(現在の社務所南側とされる)に宮寺・法楽寺があった。従来、同寺の住職が公智神社の神職を兼ねていた。ところが慶応4年(1868)に明治政府により「神仏分離令」が発令されたため、当時の法楽寺住職であった源恵は名を公地権之輔と改め還俗し神主となった。以降、公智神社の祭祀や運営も日本古来の神道に立ち返り、神仏を整然と区別するものとなった。一方で神仏分離令は廃仏毀釈の運動を全国で展開させるきっかけとなった。また法楽寺は明治初年には壇家の減少により廃寺となったが、わずかにその名残りが公智神社裏山に歴代住職の墓として残されている』。裏山の卵塔場は以上のような歴史的背景を物語るものだった。
 禰宜さんに案内されて公智神社境内の裏道を通り、踏み跡で辛うじて道筋の残る山道を登り、裏山頂上に辿り着いた。案内がなければ到底分らない場所だった。7基の卵塔を中心に14基の石造物が建っていた。卵塔には僧侶の位階を示す法印の文字が刻まれ、歴代住職の墓石であることを窺わせている。石造物に刻まれた年号には「享保」「寛永」などの文字が読み取れる。法楽寺の存在は明治初年までであり、当然ながら歴代住職の墓石はそれ以前の江戸期の建立である。正面右手に直角に並ぶ3基の石造物の真ん中の石仏が気になった。如来菩薩坐像のような石仏には頭部が欠けていた。風雨や倒壊による破損とは思われない切り口だった。Fさんによれば、「廃仏毀釈の運動による破壊の典型」のようだ。歴史のうねりの物証を目の当たりにした。
 14基の石造物の高さ、幅、奥行きのそれぞれをFさんと手分けして計測・記録した。時間の都合で刻まれた銘文の判読は次回に回すことにした。30分ばかりの調査を終え、枯れ草に覆われ滑りやすい下り道を降りた。Fさんの話ではこの卵塔場は郷土資料館でも詳細は把握できていないようだ。地元在住の歴史調査団メンバーとして貴重でやりがいのある調査に少し誇らしさを感じた。

30倍ズームで満月を撮った2012年01月10日

 今朝5時過ぎに目が覚めた。おかげでいつになく早い6時過ぎの早朝ウォーキングの出発になった。玄関の向うはまだ暗闇に包まれていた。いつも通り街路を自宅から西に向かった。いきなり真暗の空に浮かんでいる大きな満丸の月が目に飛び込んだ。
 ひょとした面白い画像になるかもしれない。高台にある住宅街の見晴らしの良い西の端からデジカメの電源を入れズームを15倍にアップした。液晶モニターのぼやけた黄色の丸がシャッターボタンを半押しするとくっきりした画像を浮かび上がらせた。雑誌などに掲載されている月面画像に近い満月がモニターにあった。ボタンを押しこんで切り取った。続けてズームをマックスの30倍までアップした。焦点のブレは大きくなり半押し効果も弱くなる。慎重にタイミングをはかりクッキリした瞬間をとらえてボタンを押しこんだ。
 自宅に戻り、画像をパソコンで再生した。15倍ズームと30倍ズームを比較すると結果的には画像の鮮明さは変わりないようだ。新規購入のコンパクトデジカメ・FinePix F600EXRのズーム機能を検証できた。