シラサギとカワウ ― 2025年05月01日

朝6時頃の名来神社手前の有馬川土手道だった。有馬川の堰の上に気になる景色が目に留まった。
堰の向こう側に真っ白のシラサギが川面に向かって佇んでいた。堰の手前には真っ黒なカワウが羽を広げてシラサギを見詰めていた。まるでシラサギに求婚しているようだった。
白と黒の二羽の野鳥のコントラストと風情のある振る舞いを興味深く眺めた。
堰の向こう側に真っ白のシラサギが川面に向かって佇んでいた。堰の手前には真っ黒なカワウが羽を広げてシラサギを見詰めていた。まるでシラサギに求婚しているようだった。
白と黒の二羽の野鳥のコントラストと風情のある振る舞いを興味深く眺めた。
丹波市散策①白毫寺の藤棚 ― 2025年05月02日
ゴールデンウイークの狭間の平日である。家内と一緒にマイカーでプチ旅行に出かけた。かねてから観たいと思っていた丹波市の白毫寺の藤棚が目的地だった。9時15分頃に自宅を出て10時過ぎに白毫寺の駐車場に到着した。
数分ばかリ歩いて石門に着いた。参道に入ると藤色の花弁をまとった房を垂らした藤の老木に迎えられた。傍のゲージには何故か二羽の孔雀が徘徊していた。本堂の前を抜けると広場のニ方を囲むように長い藤棚が広がっていた。持参のデジカメの出番だった。圧巻の藤の房の下で何度もシャッターを切った。広場の端の坂道を伝って広場を見下ろす小道に出た。本堂や広場の藤棚を一望できる景観を味わった。広場の東には趣きのある紅葉に包まれた薬師堂が建っていた。薬師堂の階段を下りた先には堂宇に囲まれた太鼓橋があった。
旅の楽しみのひとつに食事がある。事前にチェックしていたお店”穂のヴァンネ”向かった。狭い田舎道を辿ってお店に着いた。オーダーをしようと店員さんに声を掛けると申し訳なさそうに「今からだと1時間ほどお待ちいただきますが・・・」とのこと。やむなく次のチョイスの店”グルメリア但馬市島店”に向かった。閉ざされた玄関ドアには「定休日」の看板がぶら下がり退散するほかなかった。
結局、春日インターチェンジ近くの”道の駅・おばあちゃんの里”で昼食を摂ることにした。食堂のありきたりのメニューを敬遠して売店のお弁当を屋外のテーブルで頂いた。その後、二つ目の訪問スポット”歴史の街・柏原”に向かった。
数分ばかリ歩いて石門に着いた。参道に入ると藤色の花弁をまとった房を垂らした藤の老木に迎えられた。傍のゲージには何故か二羽の孔雀が徘徊していた。本堂の前を抜けると広場のニ方を囲むように長い藤棚が広がっていた。持参のデジカメの出番だった。圧巻の藤の房の下で何度もシャッターを切った。広場の端の坂道を伝って広場を見下ろす小道に出た。本堂や広場の藤棚を一望できる景観を味わった。広場の東には趣きのある紅葉に包まれた薬師堂が建っていた。薬師堂の階段を下りた先には堂宇に囲まれた太鼓橋があった。
旅の楽しみのひとつに食事がある。事前にチェックしていたお店”穂のヴァンネ”向かった。狭い田舎道を辿ってお店に着いた。オーダーをしようと店員さんに声を掛けると申し訳なさそうに「今からだと1時間ほどお待ちいただきますが・・・」とのこと。やむなく次のチョイスの店”グルメリア但馬市島店”に向かった。閉ざされた玄関ドアには「定休日」の看板がぶら下がり退散するほかなかった。
結局、春日インターチェンジ近くの”道の駅・おばあちゃんの里”で昼食を摂ることにした。食堂のありきたりのメニューを敬遠して売店のお弁当を屋外のテーブルで頂いた。その後、二つ目の訪問スポット”歴史の街・柏原”に向かった。
丹波市散策➁歴史の街・柏原 ― 2025年05月03日
35年ほど前に4年間ばかリJRで福知山に通勤していた。沿線には多くの町が点在していたが訪れる機会はなかった。その中で特に気になる町が城下町・柏原だった。白毫寺の帰路、一般道を駆って柏原を訪ねた。
カーナビに登録した”かいばら観光案内所”に到着した。2~3台ある駐車場に車を留めて、案内所で散策マップを貰った。常駐のボランティアガイドの方から散策ポイントを訊いた。すぐ北側の柏原八幡宮は国の重要文化財指定の由緒ある神社である。ただ小高い丘に建つ神社の参拝には長い石段を上るため断念した。南側に隣接して県の天然記念物”木の根橋”がある。樹齢千年とも推定される大ケヤキの太い根が自然の橋を造っている。
案内所から南に向かって大通りを散策した。柏原は織田信長の実弟・信包を初代とする三代続いた柏原藩の城下町である。その面影を残した昔ながらの街の中に、今はレストランやカフェなどの新しいお店が散見できる街並みだった。
大通りの一筋西側の通りに市の指定文化財「太鼓やぐら」があった。江戸時代に建てられた3階建ての建物は隣接の神社と相まって風情ある景観を漂わせている。
大通りから東に向かう大手通りの突き当りに「柏原藩陣屋跡」があった。風情のある長門門をくぐると広大な敷地の奥に柏原藩2万石の居館として造営された表御殿の一部が威風を放っていた。
歴史の町・柏原を1時間ばかり散策して帰路に就いた。
カーナビに登録した”かいばら観光案内所”に到着した。2~3台ある駐車場に車を留めて、案内所で散策マップを貰った。常駐のボランティアガイドの方から散策ポイントを訊いた。すぐ北側の柏原八幡宮は国の重要文化財指定の由緒ある神社である。ただ小高い丘に建つ神社の参拝には長い石段を上るため断念した。南側に隣接して県の天然記念物”木の根橋”がある。樹齢千年とも推定される大ケヤキの太い根が自然の橋を造っている。
案内所から南に向かって大通りを散策した。柏原は織田信長の実弟・信包を初代とする三代続いた柏原藩の城下町である。その面影を残した昔ながらの街の中に、今はレストランやカフェなどの新しいお店が散見できる街並みだった。
大通りの一筋西側の通りに市の指定文化財「太鼓やぐら」があった。江戸時代に建てられた3階建ての建物は隣接の神社と相まって風情ある景観を漂わせている。
大通りから東に向かう大手通りの突き当りに「柏原藩陣屋跡」があった。風情のある長門門をくぐると広大な敷地の奥に柏原藩2万石の居館として造営された表御殿の一部が威風を放っていた。
歴史の町・柏原を1時間ばかり散策して帰路に就いた。
GWにやってきた花ちゃんたちと穴子料理 ― 2025年05月04日
ゴールデンウイークの後半、三泊四日で花ちゃん一家がやってきた。3日の祝日に祖父母と一緒にお出かけした。どこへいっても多い人出を避けて行先は比較的空いていそうな水族館のある遊べるスポットということで娘が姫路の手柄山中央公園を選択した。昼食は当日電話で姫路市網干区の「あなご飯・津田」を1時に予約した。
ところが10時過ぎに到着した手柄山公園のいっぱいある駐車場の空がどこにもない。やむなく急遽昼食の予約の繰上げを連絡したところ11時半の予約ができた。空き時間を利用して近くの名古山霊園にお参りすることにした。25年前に母親が亡くなり名古山霊園に眠っている。初めてお参りした花ちゃんの曾ばあちゃんである。思いがけない墓参に母親は初めての曾孫のお参りを喜んでくれているだろう。
名古山から30分で予約通りの11時半にあなご飯・津田に到着した。閑静な住宅街の一角に建つ大きな民家の店だった。個室中心の店内だが廊下側にカウンター席があり枯山水風の庭を眺めながら食事ができる。個室のテーブル席に案内された。イチオシの「津田御膳」は温、冷選択の茶そば、茶碗蒸し、香物にメイン料理のあなご飯、あなご天丼、あなご釜飯の三種類から選択する。津田御膳4人分を注文した。注文してからら調理するため時間がかかったが、配膳された”あなご飯”は、ふっくらしたあなごと炊き立てのご飯の相性が良い。あなご専門店が手掛けるあなごの上品な味わいだった。
1時間ばかりの昼食を終えて、手柄山中央公園に向かった。時間をずらしたので駐車場も空いているだろうというもくろみだった。
ところが10時過ぎに到着した手柄山公園のいっぱいある駐車場の空がどこにもない。やむなく急遽昼食の予約の繰上げを連絡したところ11時半の予約ができた。空き時間を利用して近くの名古山霊園にお参りすることにした。25年前に母親が亡くなり名古山霊園に眠っている。初めてお参りした花ちゃんの曾ばあちゃんである。思いがけない墓参に母親は初めての曾孫のお参りを喜んでくれているだろう。
名古山から30分で予約通りの11時半にあなご飯・津田に到着した。閑静な住宅街の一角に建つ大きな民家の店だった。個室中心の店内だが廊下側にカウンター席があり枯山水風の庭を眺めながら食事ができる。個室のテーブル席に案内された。イチオシの「津田御膳」は温、冷選択の茶そば、茶碗蒸し、香物にメイン料理のあなご飯、あなご天丼、あなご釜飯の三種類から選択する。津田御膳4人分を注文した。注文してからら調理するため時間がかかったが、配膳された”あなご飯”は、ふっくらしたあなごと炊き立てのご飯の相性が良い。あなご専門店が手掛けるあなごの上品な味わいだった。
1時間ばかりの昼食を終えて、手柄山中央公園に向かった。時間をずらしたので駐車場も空いているだろうというもくろみだった。
花ちゃんたちと姫路手柄山中央公園で遊んだ ― 2025年05月05日
昼食を終えて1時頃に手柄山中央公園を再訪した。幸い公園の一角にある野球場の駐車場に「空」の看板を見つけた。めざす「水族館」はかなり離れているがやむを得ない。15分ばかり歩いて手柄山頂上に着いた。
大地に突き立てた刀を模した独特の形の「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」が建っている。手柄山は幼い頃を過ごした実家から徒歩30分ばかりのところにある。当時出来上がっていた”慰霊塔”は幼い頃に何度も目にしたが、塔の前に設置された巨大な石造の日本地図に懐かしさがこみ上げる。花ちゃんも大きな日本地図を興味深げだ。
慰霊塔の北側にはロックガーデンと古城風の建造物が配置されている。これには花ちゃんも大喜びだ。石の塔の壁の突起を伝って得意のボルダリングを試みている。
すぐ近くの水族館に入場(大人600円)した。本巻、新館、屋上ビオトープと三つに分かれた館内を順次見て回る。魚をはじめ様々な生き物たちと出合える。本格的な水族館には程遠いが4年生の花ちゃんにはやっぱり楽しい施設のようだ。屋上ビオトープではヒトデや子どものサメやエイに触れることができる。
水族館に隣接してモノレール展示室がある。60年ほど前に手柄山と姫路駅を結ぶモノレールが開業した。ところが僅か8年後に業績不振で廃止となった。当時の手柄山駅が今は資料館として二機の車両とともに残されている。係員に聞けば当時の車両整備工場跡が今の水族館になっているとのこと。
2時間ばかり手柄山で遊んだ。植物園もあるようだが体力的に限界だった。長い道のりを歩いて駐車場に辿り着き岐路に着いた。この日の歩数計は1.6万歩を超えていた。
大地に突き立てた刀を模した独特の形の「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」が建っている。手柄山は幼い頃を過ごした実家から徒歩30分ばかりのところにある。当時出来上がっていた”慰霊塔”は幼い頃に何度も目にしたが、塔の前に設置された巨大な石造の日本地図に懐かしさがこみ上げる。花ちゃんも大きな日本地図を興味深げだ。
慰霊塔の北側にはロックガーデンと古城風の建造物が配置されている。これには花ちゃんも大喜びだ。石の塔の壁の突起を伝って得意のボルダリングを試みている。
すぐ近くの水族館に入場(大人600円)した。本巻、新館、屋上ビオトープと三つに分かれた館内を順次見て回る。魚をはじめ様々な生き物たちと出合える。本格的な水族館には程遠いが4年生の花ちゃんにはやっぱり楽しい施設のようだ。屋上ビオトープではヒトデや子どものサメやエイに触れることができる。
水族館に隣接してモノレール展示室がある。60年ほど前に手柄山と姫路駅を結ぶモノレールが開業した。ところが僅か8年後に業績不振で廃止となった。当時の手柄山駅が今は資料館として二機の車両とともに残されている。係員に聞けば当時の車両整備工場跡が今の水族館になっているとのこと。
2時間ばかり手柄山で遊んだ。植物園もあるようだが体力的に限界だった。長い道のりを歩いて駐車場に辿り着き岐路に着いた。この日の歩数計は1.6万歩を超えていた。
スシローで昼食した後、花ちゃん一家が帰宅した ― 2025年05月06日

GWの後半、三泊四日で帰省していた花ちゃん一家が帰宅した。最終日の昼食は恒例の回転寿司に出かけた。いつもは「くら寿司」が定番だったが、今回のリクエストは珍しく「スシロー」だった。
スシローの11時半のネット予約が取れた。GW中のこうした便利な予約システムはありがたい。予約時間の店内は予想外に空席もみられた。この店の注文はくら寿司に比べて少し不自由だ。回転レーンは注文品しか利用できないのでまとめてパネルで注文しなければならない。
そんな不便さをカバーするためかスシローの「デジロー」の導入が進んでいるようだ。デジローは各テーブル席に大型モニターを設置し、そのモニター上のレーンを寿司が流れ、この大型モニター上のメニュー画面を選択し商品をタッチして検索・注文できるる。行きつけの店の導入はまだ先のようだがぜひ試してみたい。
途中でスマホでアプリを呼び出して注文できることに気がついた。存分に好きな商品を注文した。花ちゃんも大好きな”数の子のバラ子軍艦”を3皿も平らげていた。
自宅に戻り、花ちゃん一家が1時頃に帰宅した。三泊四日の束の間の孫とのふれあいのひと時が終わった。
スシローの11時半のネット予約が取れた。GW中のこうした便利な予約システムはありがたい。予約時間の店内は予想外に空席もみられた。この店の注文はくら寿司に比べて少し不自由だ。回転レーンは注文品しか利用できないのでまとめてパネルで注文しなければならない。
そんな不便さをカバーするためかスシローの「デジロー」の導入が進んでいるようだ。デジローは各テーブル席に大型モニターを設置し、そのモニター上のレーンを寿司が流れ、この大型モニター上のメニュー画面を選択し商品をタッチして検索・注文できるる。行きつけの店の導入はまだ先のようだがぜひ試してみたい。
途中でスマホでアプリを呼び出して注文できることに気がついた。存分に好きな商品を注文した。花ちゃんも大好きな”数の子のバラ子軍艦”を3皿も平らげていた。
自宅に戻り、花ちゃん一家が1時頃に帰宅した。三泊四日の束の間の孫とのふれあいのひと時が終わった。
塩野七生著「ローマ人の物語43巻 ― 2025年05月07日

塩野七生の渾身の大作である「ローマ人の物語」の文庫版全43巻を読み終えた。
最終巻の見開きにも次のようなカバー掲載の金貨の変遷についての印象的な記述があった。「時代が過ぎるにつれて鋳造技術のほうも発達する、というものではないことがわかってもらえるだろう。(略)歴史には進化する時代があれば退歩する時代もある。そのすべてに交き合う覚悟がなければ、歴史を味わうことにはならないのではないか」
最終巻は、「帝国以後」と題された47676年の西ローマ帝国滅亡以降のローマ世界の終焉の物語である。それは大きく分ければ、イタリア半島に侵攻した蛮族による支配で実現された「平和」(パクス・バルバリカ)と、その後の東ローマ帝国皇帝・ユスティニアヌスによるイタリア侵攻がイタリアと首都ローマの息の根を止めたという歴史の余りにも皮肉な現実の物語でもあった。
西ローマ帝国の最後の皇帝を退位させ、後継皇帝を立てなかったことによって結果的に帝国の幕引きをしたのが、西ゴート族の族長オドアケルだった。イタリア王となったオドアケルは、少数の勝者の蛮族と多数の敗者ローマ人との共生という巧みな統治を実行する。それは元老院階級とカトリック派キリスト教会という既存の統治階級の温存という形で具体化される。その上で軍事は蛮族が、行政や経済等はローマ人が担当するという棲み分けが行われた。この「パクス・バルバリカ」の第一走者オドアケルによるイタリア支配は17年に及ぶ。
オドアケルの支配を終わらせたのも蛮族・東ゴート族の若き族長テオドリックだった。オドアケルとの闘いに勝利したテオドリックは、オドアケルの政策をそっくりそのまま継承することで493年から33年に渡って東ゴート王国の王としてイタリア半島を支配する。西ローマ帝国滅亡直後から始まった「パクス・バルバリカ」は半世紀にわたって続き、イタリア半島はあらゆる面で生気を取り戻した。農業生産が向上し流通も回復し、減少一方だった人口までも上向くようになった。「平和(パクス)」が、人間社会にとっての窮極のインフラであることの証しだった。
「パクス・バルバリカ」は、テオドリックの死とその後の後継人事を巡る内紛を口実とした東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスによるイタリア侵攻で終焉を迎える。536年、皇帝ユスティニアヌスの命を受けた有能な将軍ベリサリウスがシチリアからイタリア半島に上陸し、18年に及ぶゴート戦役が始まった。この長きにわたる戦争によってイタリアは想像を絶する打撃と被害を受けた。自分たちと同じカトリック・キリスト教を信じるビザンチン帝国が始めたこの戦役の方が、一世紀前の蛮族の来襲以上に深刻な事態をローマ人に与えることになった。ゴート戦役に勝利したビザンチン帝国から送り込まれた皇帝代官の15年に及ぶ圧政によってイタリアと首都ローマは息の根を止められた。
この著作の最初の書評で次のようにコメントした。「研究者からは、『ローマ人の物語』を歴史書とするにはフィクションや著者の想像による断定が多すぎるとして小説として扱われているらしい。読者は、少なくとも私は、この著作に史実の学習を求めてはいない。史上に燦然と輝く「ローマ世界」とも呼ぶべき壮大な一大文明圏が、どのように形成され、長期に渡って維持され、そして消滅していったのかを知りたいと思っている。その点ではこの著作は期待以上に応えてくれている。「ローマ人の物語」からを学ぶべきは、史実ではなく文明観ではないかと思う」。
全43巻を読み終えた今、この著作についての最初の感想は、揺るぎのない確信になったことを告げている。文明観というかけがえのない視点を自分なりに学ぶことができたのだから。
最終巻の見開きにも次のようなカバー掲載の金貨の変遷についての印象的な記述があった。「時代が過ぎるにつれて鋳造技術のほうも発達する、というものではないことがわかってもらえるだろう。(略)歴史には進化する時代があれば退歩する時代もある。そのすべてに交き合う覚悟がなければ、歴史を味わうことにはならないのではないか」
最終巻は、「帝国以後」と題された47676年の西ローマ帝国滅亡以降のローマ世界の終焉の物語である。それは大きく分ければ、イタリア半島に侵攻した蛮族による支配で実現された「平和」(パクス・バルバリカ)と、その後の東ローマ帝国皇帝・ユスティニアヌスによるイタリア侵攻がイタリアと首都ローマの息の根を止めたという歴史の余りにも皮肉な現実の物語でもあった。
西ローマ帝国の最後の皇帝を退位させ、後継皇帝を立てなかったことによって結果的に帝国の幕引きをしたのが、西ゴート族の族長オドアケルだった。イタリア王となったオドアケルは、少数の勝者の蛮族と多数の敗者ローマ人との共生という巧みな統治を実行する。それは元老院階級とカトリック派キリスト教会という既存の統治階級の温存という形で具体化される。その上で軍事は蛮族が、行政や経済等はローマ人が担当するという棲み分けが行われた。この「パクス・バルバリカ」の第一走者オドアケルによるイタリア支配は17年に及ぶ。
オドアケルの支配を終わらせたのも蛮族・東ゴート族の若き族長テオドリックだった。オドアケルとの闘いに勝利したテオドリックは、オドアケルの政策をそっくりそのまま継承することで493年から33年に渡って東ゴート王国の王としてイタリア半島を支配する。西ローマ帝国滅亡直後から始まった「パクス・バルバリカ」は半世紀にわたって続き、イタリア半島はあらゆる面で生気を取り戻した。農業生産が向上し流通も回復し、減少一方だった人口までも上向くようになった。「平和(パクス)」が、人間社会にとっての窮極のインフラであることの証しだった。
「パクス・バルバリカ」は、テオドリックの死とその後の後継人事を巡る内紛を口実とした東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスによるイタリア侵攻で終焉を迎える。536年、皇帝ユスティニアヌスの命を受けた有能な将軍ベリサリウスがシチリアからイタリア半島に上陸し、18年に及ぶゴート戦役が始まった。この長きにわたる戦争によってイタリアは想像を絶する打撃と被害を受けた。自分たちと同じカトリック・キリスト教を信じるビザンチン帝国が始めたこの戦役の方が、一世紀前の蛮族の来襲以上に深刻な事態をローマ人に与えることになった。ゴート戦役に勝利したビザンチン帝国から送り込まれた皇帝代官の15年に及ぶ圧政によってイタリアと首都ローマは息の根を止められた。
この著作の最初の書評で次のようにコメントした。「研究者からは、『ローマ人の物語』を歴史書とするにはフィクションや著者の想像による断定が多すぎるとして小説として扱われているらしい。読者は、少なくとも私は、この著作に史実の学習を求めてはいない。史上に燦然と輝く「ローマ世界」とも呼ぶべき壮大な一大文明圏が、どのように形成され、長期に渡って維持され、そして消滅していったのかを知りたいと思っている。その点ではこの著作は期待以上に応えてくれている。「ローマ人の物語」からを学ぶべきは、史実ではなく文明観ではないかと思う」。
全43巻を読み終えた今、この著作についての最初の感想は、揺るぎのない確信になったことを告げている。文明観というかけがえのない視点を自分なりに学ぶことができたのだから。
関西TV「引き裂かれる家族~検証・揺さぶられっ子症候群~」 ― 2025年05月08日

関西テレビの再放送番組「引き裂かれる家族~検証・揺さぶられっ子症候群~」を観た。児童虐待を巡る考えさせられるドキュメンタリー番組だった。
2017年、夫婦と子供二人の平穏な家族に襲った理不尽な現実が生々しく伝えられる。父親が生後2か月の長男をあやしていた時、突然長男の容態が急変する。救急搬送された病院で硬膜下出血や眼底出血が見つかる。長男は退院予定日に児童相談所に一時保護される。父親による激しく揺さぶって発症する「揺さぶられっ子症候群(SBS)」が疑われ、1年後には逮捕起訴される。家族は長男と4年以上の引き裂かれた生活を強いられる。相次ぐSBS事件を受けて弁護士たちによる「SBS検証プロジェクト」が立ち上げられ、「揺さぶり」を否定する無罪判決が続出する。その過程で「虐待ありき」の厚労省のガイドライン、児童相談所の過剰で理不尽な対応、日本の「人質司法」を思わせる刑事司法の問題等が明らかとなる。
児童虐待に対する声高な世論を背景に厚労省や児童相談所等の行政の過剰な関与が取りざたされている。児童虐待一辺倒の対応でない保護者のまっとうな意向を受止めるバランスが必要だ。
民生・児童委員だった数年前に、「不当に子どもを児童相談所に連れ去られた」という母親の訴えを受けたことがある。その時初めて児童虐待の一方で児童相談所の過剰な関与を感じさせられた。
番組では2023年に最終的に父親の無罪判決が確定し、一方的な「虐待ありき」の厚労省ガイドラインも削除されたというコメントで終了した。
2017年、夫婦と子供二人の平穏な家族に襲った理不尽な現実が生々しく伝えられる。父親が生後2か月の長男をあやしていた時、突然長男の容態が急変する。救急搬送された病院で硬膜下出血や眼底出血が見つかる。長男は退院予定日に児童相談所に一時保護される。父親による激しく揺さぶって発症する「揺さぶられっ子症候群(SBS)」が疑われ、1年後には逮捕起訴される。家族は長男と4年以上の引き裂かれた生活を強いられる。相次ぐSBS事件を受けて弁護士たちによる「SBS検証プロジェクト」が立ち上げられ、「揺さぶり」を否定する無罪判決が続出する。その過程で「虐待ありき」の厚労省のガイドライン、児童相談所の過剰で理不尽な対応、日本の「人質司法」を思わせる刑事司法の問題等が明らかとなる。
児童虐待に対する声高な世論を背景に厚労省や児童相談所等の行政の過剰な関与が取りざたされている。児童虐待一辺倒の対応でない保護者のまっとうな意向を受止めるバランスが必要だ。
民生・児童委員だった数年前に、「不当に子どもを児童相談所に連れ去られた」という母親の訴えを受けたことがある。その時初めて児童虐待の一方で児童相談所の過剰な関与を感じさせられた。
番組では2023年に最終的に父親の無罪判決が確定し、一方的な「虐待ありき」の厚労省ガイドラインも削除されたというコメントで終了した。
20年前にローマで教皇死去に遭遇した ― 2025年05月09日

4月19日にローマ・カトリック教会のフランシコ教皇が死去された。5月8日にはコンクラーベ(教皇選出の会議)でアメリカ出身のレオ14世が誕生した。
ちょうど20年前の2005年4月2日~9日にかけて私たち夫婦と娘は、イタリア個人旅行を愉しんでいた。4月7日はローマ滞在の日だった。折しも4月2日に当時のヨハネ・パウロ2世が亡くなっており、7日はその葬儀の日だった。葬儀会場は楽しみにしていたミケランジェロの「最後の審判」があるサンピエトロ寺院だった。寺院前の入口ゲートでは証明書らしきものを持参した参列者達がチェックを受けて吸い込まれていく。何も持たない私達の入場は当然ながら阻止された。多数の海外要人の来訪を控えたサン・ピエトロ寺院警護のハードルは、テロの情報もあってか予想以上に高い。ミケランジェロの「最後の審判」を、この目で眺める千載一遇の機会がはかなく消えた瞬間だった。ローマ教皇の葬儀に遭遇した感慨を次のように綴っている。
『私たちの旅にも多くの影響を与えたその出来事は、私にいやおうなくパウロ2世への関心を呼び起こさずにはおれなかった。
世界平和と戦争反対に向けたアクティブな行動、東欧民主化運動への精神的支援、世界の宗教と文化の対話の呼びかけ等、法王の治績は宗教のもつ積極的な役割と可能性を提示した。文明と宗教と民族の共存・・・ローマ世界の知恵が今こそ問われている。』
そんな体験もあって今回のローマ教皇の死去と コンクラーベには懐かしさもあり興味深く見守った。
ちょうど20年前の2005年4月2日~9日にかけて私たち夫婦と娘は、イタリア個人旅行を愉しんでいた。4月7日はローマ滞在の日だった。折しも4月2日に当時のヨハネ・パウロ2世が亡くなっており、7日はその葬儀の日だった。葬儀会場は楽しみにしていたミケランジェロの「最後の審判」があるサンピエトロ寺院だった。寺院前の入口ゲートでは証明書らしきものを持参した参列者達がチェックを受けて吸い込まれていく。何も持たない私達の入場は当然ながら阻止された。多数の海外要人の来訪を控えたサン・ピエトロ寺院警護のハードルは、テロの情報もあってか予想以上に高い。ミケランジェロの「最後の審判」を、この目で眺める千載一遇の機会がはかなく消えた瞬間だった。ローマ教皇の葬儀に遭遇した感慨を次のように綴っている。
『私たちの旅にも多くの影響を与えたその出来事は、私にいやおうなくパウロ2世への関心を呼び起こさずにはおれなかった。
世界平和と戦争反対に向けたアクティブな行動、東欧民主化運動への精神的支援、世界の宗教と文化の対話の呼びかけ等、法王の治績は宗教のもつ積極的な役割と可能性を提示した。文明と宗教と民族の共存・・・ローマ世界の知恵が今こそ問われている。』
そんな体験もあって今回のローマ教皇の死去と コンクラーベには懐かしさもあり興味深く見守った。
花ちゃんのデッサン力 ― 2025年05月10日

GWに帰省した孫娘・花ちゃんにたくさんのデッサン画を見せてもらった。花ちゃんが目下熱中しているのは父ちゃんと一緒にやれるボルダリングだが、デッサンと習字も習っている。
デッサンは先生の描いたものを見ながら模写するスタイルのようだ。クリアファイルに納められた先生と花ちゃんのたくさんの作品を見せてくれた。その中で「メトロノーム」と「園芸バサミと手袋」のデッサンをスマホに収めた。じいちゃんの遺伝子を受け継いだのかデッサン力はまずまずと思えたが、まだまだじいちゃんには及ばない。いつかじいちゃんの腕を超える日が来るのだろうか。
デッサンは先生の描いたものを見ながら模写するスタイルのようだ。クリアファイルに納められた先生と花ちゃんのたくさんの作品を見せてくれた。その中で「メトロノーム」と「園芸バサミと手袋」のデッサンをスマホに収めた。じいちゃんの遺伝子を受け継いだのかデッサン力はまずまずと思えたが、まだまだじいちゃんには及ばない。いつかじいちゃんの腕を超える日が来るのだろうか。
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