20年前にローマで教皇死去に遭遇した ― 2025年05月09日

4月19日にローマ・カトリック教会のフランシコ教皇が死去された。5月8日にはコンクラーベ(教皇選出の会議)でアメリカ出身のレオ14世が誕生した。
ちょうど20年前の2005年4月2日~9日にかけて私たち夫婦と娘は、イタリア個人旅行を愉しんでいた。4月7日はローマ滞在の日だった。折しも4月2日に当時のヨハネ・パウロ2世が亡くなっており、7日はその葬儀の日だった。葬儀会場は楽しみにしていたミケランジェロの「最後の審判」があるサンピエトロ寺院だった。寺院前の入口ゲートでは証明書らしきものを持参した参列者達がチェックを受けて吸い込まれていく。何も持たない私達の入場は当然ながら阻止された。多数の海外要人の来訪を控えたサン・ピエトロ寺院警護のハードルは、テロの情報もあってか予想以上に高い。ミケランジェロの「最後の審判」を、この目で眺める千載一遇の機会がはかなく消えた瞬間だった。ローマ教皇の葬儀に遭遇した感慨を次のように綴っている。
『私たちの旅にも多くの影響を与えたその出来事は、私にいやおうなくパウロ2世への関心を呼び起こさずにはおれなかった。
世界平和と戦争反対に向けたアクティブな行動、東欧民主化運動への精神的支援、世界の宗教と文化の対話の呼びかけ等、法王の治績は宗教のもつ積極的な役割と可能性を提示した。文明と宗教と民族の共存・・・ローマ世界の知恵が今こそ問われている。』
そんな体験もあって今回のローマ教皇の死去と コンクラーベには懐かしさもあり興味深く見守った。
ちょうど20年前の2005年4月2日~9日にかけて私たち夫婦と娘は、イタリア個人旅行を愉しんでいた。4月7日はローマ滞在の日だった。折しも4月2日に当時のヨハネ・パウロ2世が亡くなっており、7日はその葬儀の日だった。葬儀会場は楽しみにしていたミケランジェロの「最後の審判」があるサンピエトロ寺院だった。寺院前の入口ゲートでは証明書らしきものを持参した参列者達がチェックを受けて吸い込まれていく。何も持たない私達の入場は当然ながら阻止された。多数の海外要人の来訪を控えたサン・ピエトロ寺院警護のハードルは、テロの情報もあってか予想以上に高い。ミケランジェロの「最後の審判」を、この目で眺める千載一遇の機会がはかなく消えた瞬間だった。ローマ教皇の葬儀に遭遇した感慨を次のように綴っている。
『私たちの旅にも多くの影響を与えたその出来事は、私にいやおうなくパウロ2世への関心を呼び起こさずにはおれなかった。
世界平和と戦争反対に向けたアクティブな行動、東欧民主化運動への精神的支援、世界の宗教と文化の対話の呼びかけ等、法王の治績は宗教のもつ積極的な役割と可能性を提示した。文明と宗教と民族の共存・・・ローマ世界の知恵が今こそ問われている。』
そんな体験もあって今回のローマ教皇の死去と コンクラーベには懐かしさもあり興味深く見守った。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。