久々の地域の歴史探訪 ― 2009年04月18日

朝の散策を久々に地域の歴史探訪で過ごした。二日前にできたばかりの地元図書館で「西宮歴史散歩・案内マップ」という地図を見つけ借り受けた。マップにはこの地域の史跡だけでなく道標、石碑、供養塔、伝承地などが記載され、知りたかったいくつかの石碑の位置も記されていた。そんなわけで8時前から11時前までの3時間ばかりを探訪した。
最初に訪ねたのは竹本多賀太夫という人物の墓碑である。ネット検索してみると明治初期の浄瑠璃の太夫のようだ。中国自動車道北側の側道から北に入った小道の先に農家の倉庫がある。マップの示す墓碑の位置はその庭先のようだ。着いた時折りよく倉庫から中年のおじさんが出てきた。早速、尋ねると、目の前の何基かの石碑指して、「このどれかの筈だ。この辺りは昔の宿場があった所で、この道が昔の街道だったと聞いている」と西に続く細い農道を指さした。確かにひとつの墓碑には竹本多賀太夫の文字がくっきり刻まれていた。画像を撮った後、教えられた旧街道を辿った。大阪と丹波を結ぶ大坂街道の一部であった平尻街道に違いない。残念ながらすぐ傍に造成されたゴルフ場の工事のためか北に500mほどいった所で行き止まりとなった。
次に訪れたのは地元の氏神・公智神社に隣接する浄土宗の古寺・光明寺である。マップの示す西国巡礼供養塔の位置はここの境内と思われた。境内に入って眺めてみるがよく分からない。ほどなく庫裏から檀家参りに出かける様子の住職と鉢合わせた。来意を告げると山門前と納骨堂前の二つの石碑を教えてもらった。
旧山口村の真中を走る旧街道と明治橋を結ぶ地点に「山口村道路元標」がある。大正8年(1920年)制定の旧・道路法で当時の各市町村に設置が義務づけられたのが道路元標である。今となっては1951年に西宮市と合併して消滅した旧・山口村の貴重な名残りである。
山口中学と芽具実橋の間の道路際の植込みの中に「竹本加治太夫の墓碑」があった。どういう人物だったのかネットでもよく分からない。
マップの位置から明徳寺の境内とおぼしきところに「夜泣き地蔵」が記されている。境内に入り捜してみると本堂南にそれらしき小さなお堂があった。本堂正面で掃除中だった住職に尋ねると、「この辺りでお地蔵さんはあそこしかない。恐らくあれが夜泣き地蔵でしょう」とのこと。しばらく雑談を交わしてお礼を言って辞した。帰宅後、私のHP・にしのみや山口風土記に有馬郡誌からの次の記述を記事にしたことを思い出した。『古、上山口庄屋、永年子なきを悲しみ、祈願せしに、忽ち美事なる男子を授かり、篤信奉祠せしを、明徳寺境内に遷祠せるものにして、夜泣き地蔵とも、道祖神(縁結地蔵)とも、お乳の地蔵ともいう』
最後に訪ねたのが銭塚地蔵横の墓地だった。「竹本増太夫墓碑」と「西国巡礼供養塔」がマップに記されていた。墓地入口の「山口五郎左衛門時角の碑」のすぐ横に「竹本増太夫墓碑」があった。竹本増太夫については、江戸中期の延享、宝暦年間に江戸三座に出演した太夫ということらしい。供養塔はそれらしき碑文がなくどれか分からない。ただすぐ隣りに光明寺で住職から教えられた供養塔とほぼ同じ仕様の墓碑があった。確かめる人とていないがほぼ間違いないと画像に納めた。
土曜の朝の価値ある散策だった。かねて確かめたいと思っていた石碑を一挙に目にして画像に納められた。お二人の住職からの証言も得られた。歴史探訪の達成感に浸りながら自宅に着いた。
最初に訪ねたのは竹本多賀太夫という人物の墓碑である。ネット検索してみると明治初期の浄瑠璃の太夫のようだ。中国自動車道北側の側道から北に入った小道の先に農家の倉庫がある。マップの示す墓碑の位置はその庭先のようだ。着いた時折りよく倉庫から中年のおじさんが出てきた。早速、尋ねると、目の前の何基かの石碑指して、「このどれかの筈だ。この辺りは昔の宿場があった所で、この道が昔の街道だったと聞いている」と西に続く細い農道を指さした。確かにひとつの墓碑には竹本多賀太夫の文字がくっきり刻まれていた。画像を撮った後、教えられた旧街道を辿った。大阪と丹波を結ぶ大坂街道の一部であった平尻街道に違いない。残念ながらすぐ傍に造成されたゴルフ場の工事のためか北に500mほどいった所で行き止まりとなった。
次に訪れたのは地元の氏神・公智神社に隣接する浄土宗の古寺・光明寺である。マップの示す西国巡礼供養塔の位置はここの境内と思われた。境内に入って眺めてみるがよく分からない。ほどなく庫裏から檀家参りに出かける様子の住職と鉢合わせた。来意を告げると山門前と納骨堂前の二つの石碑を教えてもらった。
旧山口村の真中を走る旧街道と明治橋を結ぶ地点に「山口村道路元標」がある。大正8年(1920年)制定の旧・道路法で当時の各市町村に設置が義務づけられたのが道路元標である。今となっては1951年に西宮市と合併して消滅した旧・山口村の貴重な名残りである。
山口中学と芽具実橋の間の道路際の植込みの中に「竹本加治太夫の墓碑」があった。どういう人物だったのかネットでもよく分からない。
マップの位置から明徳寺の境内とおぼしきところに「夜泣き地蔵」が記されている。境内に入り捜してみると本堂南にそれらしき小さなお堂があった。本堂正面で掃除中だった住職に尋ねると、「この辺りでお地蔵さんはあそこしかない。恐らくあれが夜泣き地蔵でしょう」とのこと。しばらく雑談を交わしてお礼を言って辞した。帰宅後、私のHP・にしのみや山口風土記に有馬郡誌からの次の記述を記事にしたことを思い出した。『古、上山口庄屋、永年子なきを悲しみ、祈願せしに、忽ち美事なる男子を授かり、篤信奉祠せしを、明徳寺境内に遷祠せるものにして、夜泣き地蔵とも、道祖神(縁結地蔵)とも、お乳の地蔵ともいう』
最後に訪ねたのが銭塚地蔵横の墓地だった。「竹本増太夫墓碑」と「西国巡礼供養塔」がマップに記されていた。墓地入口の「山口五郎左衛門時角の碑」のすぐ横に「竹本増太夫墓碑」があった。竹本増太夫については、江戸中期の延享、宝暦年間に江戸三座に出演した太夫ということらしい。供養塔はそれらしき碑文がなくどれか分からない。ただすぐ隣りに光明寺で住職から教えられた供養塔とほぼ同じ仕様の墓碑があった。確かめる人とていないがほぼ間違いないと画像に納めた。
土曜の朝の価値ある散策だった。かねて確かめたいと思っていた石碑を一挙に目にして画像に納められた。お二人の住職からの証言も得られた。歴史探訪の達成感に浸りながら自宅に着いた。
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